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6 954;雑歌,作者:膳王、羈旅,望郷

[題詞]膳王歌一首
膳王(かしはでのおほきみ)の歌一首

朝波  海邊尓安左里為  暮去者  倭部越  鴈四乏母

朝は 海辺にあさりし 夕されば 大和へ越ゆる 雁し羨しも 

あしたは うみへにあさりし ゆふされば やまとへこゆる かりしともしも

[左注]右作歌之年不審<也> 但以歌類便載此次
(954番・八田皇女(やたのひめみこ)の歌)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
朝は海辺で餌をあさり 夕べには大和へ越えてゆく
雁が 羨ましい
ふるさと大和へ夜毎帰る
雁が 羨ましい
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


6 955;雑歌,作者:石川足人、望郷,太宰府,枕詞

[題詞]<大>宰少貳石<川>朝臣足人歌一首

刺竹之  大宮人乃  家跡住  佐保能山乎者  思哉毛君

さす竹の 大宮人の 家と住む 佐保の山をば 思ふやも君 

[さすたけの] おほみやひとの いへとすむ さほのやまをば おもふやもきみ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宮人が住んでいる佐保の山のことを想い起こしませんか あなた
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

* 枕詞[さすたけの] ; 「さす」は伸びて行く意味。竹が、勢いよく成長する様子をいい、都や人などが栄えるように祈る言葉として使われてた。
以下のような言葉を導く。
 大宮人(おほみやひと)、皇子(みこ)の宮人、舎人(とねり)男
「世(よ)」:竹の節(ふし)の意味から

* 「やも」;已然形に付いて、詠嘆を込めた疑問、反語の意を表す。…だろうか(いや、そうではない)。

* 大宰府政庁・国分天満宮・水城周辺の万葉歌碑
http://www.kyuhaku-db.jp/dazaifu/historic/78_01.html
・・・・・・・・・・・・・


6 956;雑歌,作者:大伴旅人、太宰府,大夫,王権,枕詞

[題詞]帥大伴卿和歌一首

八隅知之  吾大王乃  御食國者  日本毛此間毛  同登曽念

やすみしし 我が大君の 食す国は 大和もここも 同じとぞ思ふ
 
[やすみしし] わがおほきみの をすくには やまともここも おなじとぞおもふ
・・・・・・・・・・・・・・・・・
わが天皇が治めていらっしゃる国は

大和もここ大宰府も同じだと思う
・・・・・・・・・・・・・・・・・
* 「遠の朝廷」と言われた大宰府の帥(長官)に六十歳を過ぎて任ぜられた大伴旅人の心境は複雑なものであっただろう。この歌は旅人が官人としての立場を詠んだものである。

* [枕][やすみしし]は、国のすみずみまで知らす(治める)意、または安らかに知ろしめす意から、「わが大君」「わご大君」にかかる。

* 「食す国は」;[動サ四]1 「治める」の尊敬語。統治なさる。しろしめす。
・・・・・・・・・


6 957;雑歌,作者:大伴旅人、太宰府
[題詞]冬十一月大宰官人等奉拜香椎廟訖退歸之時馬駐于香椎浦各述作懐歌 / 帥大伴卿歌一首
(冬十一月、大宰の官人等、香椎の廟(みや)を拝(をろが)み奉り、訖(をは)へて退(まか)り帰る時、馬を香椎の浦に駐めて、各(おのもおのも)懐(おもひ)を述べて作る歌/帥大伴卿の歌一首)


去来兒等  香椎乃滷尓  白妙之  袖左倍所沾而  朝菜採手六

いざ子ども 香椎の潟に 白栲の 袖さへ濡れて 朝菜摘みてむ 

いざこども かしひのかたに しろたへの そでさへぬれて あさなつみてむ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さあ皆の者よ この香椎の干潟で

袖までも濡らして朝餉(あさげ)の海藻を摘みましょう
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
* 菜(な)は、茎・葉・根が食べられる植物のことで、万葉集では、春菜、若菜、朝菜、青菜、浜菜などと出てきます。
ちなみに、浜菜は、海苔などの海藻(かいそう)のことと考えられます。
* 「さへ」添加、・・・までも
・・・・・・・・・


6 958;雑歌,作者:小野老、香椎,太宰府

[題詞](冬十一月大宰官人等奉拜香椎廟訖退歸之時馬駐于香椎浦各述作懐歌)大貳小野老朝臣歌一首
(冬十一月、大宰の官人等、香椎の廟を拝(をろが)み奉り、訖(を)へて退帰(まか)れる時、馬を香椎の浦に駐(とど)めて、各(おのもおのも)懐(おもひ)を述べて作る歌)

時風  應吹成奴  香椎滷  潮干b尓  玉藻苅而名

時つ風 吹くべくなりぬ 香椎潟 潮干の浦に 玉藻刈りてな
 
ときつかぜ ふくべくなりぬ かしひがた しほひのうらに たまもかりてな
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・満潮の風が吹きそうな香椎潟の潮干の浦

潮の引いている今のうちに玉藻を刈りたい(ましょう)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
夕さらば潮満ち来なむ住吉の 浅香の浦に玉藻刈りてな   紀皇女



6 959;雑歌,作者:宇努男人、香椎,太宰府

[題詞](冬十一月大宰官人等奉拜香椎廟訖退歸之時馬駐于香椎浦各述作懐歌)豊前守宇努首男人歌一首

徃還  常尓我見之  香椎滷  従明日後尓波  見縁母奈思

行き帰り 常に我が見し 香椎潟 明日ゆ後には 見むよしもなし 

ゆきかへり つねにわがみし かしひがた あすゆのちには みむよしもなし
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
太宰府の往き帰りに見馴れた香椎潟よ

明日からのちはもう見るすべもない
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
☆ 「香椎」地名の由来
「香椎」地名「かしひ」は仲哀天皇の首都 ?
貝原益軒の「筑前国続風土記」には社家の言い伝えとして「仲哀天皇この行宮(香椎)にて崩じ給いぬ。天皇の御屍をおさめし御棺を、しばらく椎の木にかけおかれしに異香四方に薫ず。これによって、所の名も香椎というといえり」とある。椎の木にかけられた仲哀天皇の御棺から香りが四方に漂ったことから香りの椎"香椎"という地名が起こったという。
http://k-yanase.sakura.ne.jp/kashiigu.htm

☆ 養老三年(七一九)八月元正天皇の時代、大隅日向の隼人族が大陸(新羅)からの援助を得て数万の軍兵となり大和朝廷に叛いた。この時朝廷は宇佐八幡宮へ勅使を遣わし御神託を仰いだので、豊前国司宇努男人は八幡宮の神輿を奉じて、賊軍の征討に赴きこれを平定し、養老七年(七二三)無事還幸された。
・・・・・・・・・・・・


6 960;雑歌,作者:大伴旅人、吉野,比較,鹿児島,黒瀬戸,関門海峡

[題詞]帥大伴卿遥思芳野離宮作歌一首
(帥大伴の卿の芳野の離宮(とつみや)を遥思(しぬ)ひてよみたまへる歌一首)

隼人乃  湍門乃磐母  年魚走  芳野之瀧<尓>  尚不及家里

隼人の 瀬戸の巌も 鮎走る 吉野の瀧に なほしかずけり 

はやひとの せとのいはほも [あゆはしる] よしののたきに なほしかずけり
・・・・・・・・・・・・・・・
隼人の住む黒之瀬戸の急流も 

鮎走る 吉野の宮滝の激流には 

なおおよばない
・・・・・・・・・・・・・・・
隼人の 薩摩の瀬戸を 雲居なす 遠くも吾は今 日みつるかも 
 (万葉集 巻三 長田王)

*「隼人の瀬戸」は阿久根と長島を分かつ急潮、黒之瀬戸。

* 720年(養老4年)にハヤト族の大規模な反乱が起こった。
時の朝廷は大伴旅人を将軍に役1万人の大群を送って制圧した。
そのときに斬首、捕虜にされた者が千四百余人と言われている。近くには止上神社がありハヤト族の古来の神社とも言われています。
ハヤトがその戦いの最後に立て篭もったのが曽於岩城(そのいわき)と比売乃城(ひめのき)と言われ、姫城という地名が今も残っている。
姫城の岩山は、いかにも古の兵たちが立て篭もった感じの岩山で、重久の隼人塚に立ち、止上神社を背に田圃を隔てた姫城の岩山を望むと、その昔、このあたりを闊歩していたであろう隼人の兵(つわもの)たちの姿、何処の感あり。
・・・・・・・・・・・


6 961;雑歌,作者:大伴旅人,太宰府,二日市温泉,妻

[題詞]帥大伴卿宿次田温泉聞鶴喧作歌一首
帥(そち)大伴卿(おほとものまへつきみ)、次(すき)田(た)の温泉(ゆ)に宿(やど)り、鶴(たづ)の声を聞きて作る歌一首

湯原尓  鳴蘆多頭者  如吾  妹尓戀哉  時不定鳴

湯の原に 鳴く葦鶴は 我がごとく 妹に恋ふれや 時わかず鳴く
 
ゆのはらに なくあしたづは あがごとく いもにこふれや ときわかずなく
・・・・・・・・・・・・・・・・・
湯の原で鳴いている葦鶴は

私が激しく妻を恋うかのように 

時も定めずにあのように鳴いている
・・・・・・・・・・・・・・・・・

大伴旅人が亡き妻を偲び、鶴の声に自分と同じ妻を偲ぶ心を聞いて歌っていますが、鶴は夫婦仲が良いことから、鳴き声を聞いて妻を偲んだのでしょうか。
 
* 「葦」は池や沼などに生えるイネ科の多年草。かなり大きくなり、3メートル近くまでにもなる。茎は硬く、中空で節がある。
葦(あし)という呼び名は、「悪(あ)し」を思い起こさせるので、後にヨシ(良し)に変えられた。植物分類学では「ヨシ」を標準和名としている。

* 「ごとく(ごと)」は比況の助動詞。活用語の連体形、助詞「が」「の」に付く。他のものごとと同一であることを示す。「〜と同じだ」。「〜の通りだ」。

* 葦原で鳴く鶴は、姿が見えない。万葉の鶴は、一般に広々とした潟・海原・平野・河口などで歌われ、その飛翔の姿が詠まれている。
尾花や萩とは違って、うち続く葦原、風にそよぐ葦の中で、鳴く鶴は、美観とはおよそ遠いものである。蝉噪林逾静 鳥鳴山更幽ではないが(岩にしみいるせみの声)にみる寂寥を感じる。声高に鳴く鶴群の中で、静寂に包まれた孤独を浮き彫りにしている。

* 万葉仮名では、現在の「鶴」を多津、多豆と当て字している。
・・・・・・・・・・


6 962;雑歌,作者:葛井広成,大伴道足、太宰府,宴席,序詞

[題詞]天平二年庚午勅遣<擢>駿馬使大伴道足宿祢時歌一首

奥山之  磐尓蘿生  恐毛  問賜鴨  念不堪國

奥山の 岩に苔生し 畏くも 問ひたまふかも 思ひあへなくに 

[おくやまの いはにこけむし かしこくも] とひたまふかも おもひあへなくに

[左注]右 勅使大伴道足宿祢饗于帥家 此日會集衆諸相誘驛使葛井連廣成言須作歌詞 登時廣成應聲即吟此歌
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
奥山の岩に苔が生えているのは恐れ多いことです

そのように恐れ多い歌を詠めとおおせられますか

そう仰せられても困ってしまいます
(歌才、修練およばず、どうしようもないのに)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

天平二年(西暦730年)に大伴道足(おおとものみちたり)を大伴旅人の邸宅に招いたときのことです。集まった人々が、駅使(駅に用意された馬を乗り継いでゆく使者のこと)である葛井広成(ふじいのひろなり)に歌を作れといいました。これに応えて、葛井広成(ふじいのひろなり)が詠んだ歌です。


* 「苔生す」は時間の長さを表現。
・・・・・・・・・・・


6 963;雑歌,作者:坂上郎女、羈旅,福岡

[題詞]冬十一月大伴坂上郎女發帥家上道超筑前國宗形郡名兒山之時作歌一首
(冬の十一月に、大伴坂上郎女(おほとものさかのうへのいらつめ)、帥(そち)の家を発(た)ちて道に上(のぼ)り、筑前(つくしのみちのくち)の国の宗像(むなかた)の郡(こほり)の名(な)児(ご)の山(やま)を越ゆる時に作る歌)

大汝  小彦名能  神社者  名著始鷄目  名耳乎  名兒山跡負而  吾戀之  干重之一重裳  奈具<佐>米七國

大汝  少彦名の  神こそば  名付けそめけめ  名のみを  名児山と負ひて  我が恋の  千重の一重も  慰めなくに
 
おほなむち すくなひこなの かみこそば なづけそめけめ なのみを なごやまとおひて あがこひの ちへのひとへも なぐさめなくに
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大国主と少彦名の神々が名付けたという
その名は名児山(ナゴム)
といっても私の恋のつらさの千分の一もナグさめてくれないのに
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

* 名児の山 ナチゴ山;
http://www2.odn.ne.jp/cbm54970/40nagonoyama.html
この歌は、大伴旅人の異母妹である坂上郎女が、旅人の妻の没後、大宰府に下っていたが、旅人の大納言遷任にともない、一足先に帰京したときの歌とされる。
一般的に長歌は、公的儀礼的な歌。
この歌も、「名児山の山の名は、神代の昔、国造りをした大国主命と少彦名命がはじめて名付けられた」
と、儀礼的に権威づけがなされている。
要は名門大伴一族の家刀自(いえとじての、道中の安全祈願であろう。
・・・・・・・・・・・


6 964;雑歌,作者:坂上郎女、羈旅,福岡

[題詞]同坂上郎女向京海路見濱<貝>作歌一首

吾背子尓  戀者苦  暇有者  拾而将去  戀忘貝

我が背子に 恋ふれば苦し 暇あらば 拾ひて行かむ 恋忘貝 

わがせこに こふればくるし いとまあらば ひりひてゆかむ こひわすれがひ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
あの方に心引かれて苦しい

旅の暇に浜で拾って行こう

恋のつらさを忘れさせてくれるという忘れ貝を
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ * 恋妻を失って呆然自失のあの人に拾ってあげたい恋忘貝。
・・・・・・・・・


6 965;雑歌,作者:児島,遊行女婦,大伴旅人、太宰府,別離

[題詞]冬十二月<大>宰帥大伴卿上京<時>娘子作歌二首

凡有者  左毛右毛将為乎  恐跡  振痛袖乎  忍而有香聞

おほならば かもかもせむを 畏みと 振りたき袖を 忍びてあるかも 

おほならば かもかもせむを かしこみと ふりたきそでを しのびてあるかも

[左注](右大宰帥<大>伴卿兼任大納言向京上道 此日馬駐水城顧望府家 于時送卿府吏之中有遊行女婦 其字曰兒嶋也 於是娘子傷此易別嘆彼難會 拭涕自吟振袖之歌)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
旅人が大宰府から京に帰る出立の朝
見送る人々の中に 
遊女の娘子、児島がいた
別れを悲しんで涙を拭きつつ
堪えきれずに 歌を口ずさんだ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
普通(凡)のお方ならば
思いのままに別れを惜しんでお見せしたいのに
身分高き あなた様に
恐れ多く振りたい袖をじっとこらえております
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
* 「凡(おほ)」は、ふつう。
* 「かもかも」は、かもかくも。ああもこうも、どうにでも。
* 「たき}願望、動詞・助動詞の連用形に付く「たし」の連体形。



6 966;雑歌,作者:児島,大伴旅人、遊行女婦,太宰府,別離,餞別

[題詞](冬十二月<大>宰帥大伴卿上京<時>娘子作歌二首)

倭道者  雲隠有  雖然  余振袖乎  無礼登母布奈

大和道は 雲隠りたり しかれども 我が振る袖を なめしと思ふな 

やまとぢは くもがくりたり しかれども わがふるそでを なめしともふな

[左注](右大宰帥<大>伴卿兼任大納言向京上道 此日馬駐水城顧望府家 于時送卿府吏之中有遊行女婦 其字曰兒嶋也 於是娘子傷此易別嘆彼難會 拭涕自吟振袖之歌)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大和への路は はるか遠く
お姿が道の彼方雲にかくれて見えなくなったら
わたくしは 袖を振りましょう
どうぞ失礼なやつだと お思いにならないでくださいませ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
* 「無礼し(なめし)」は、無礼だ、不作法だ、失礼だ。

妻を亡くし傷心の老いた旅人を 
よくよく愛していたのだろうか
遊女と旅人の心の交流がしのばれる。
・・・・・・・・


6 967;雑歌,作者:大伴旅人,児島、

[題詞]大納言大伴卿和歌二首

日本道乃  吉備乃兒嶋乎  過而行者  筑紫乃子嶋  所念香聞

大和道の 吉備の児島を 過ぎて行かば 筑紫の児島 思ほえむかも
 
やまとぢの きびのこしまを すぎてゆかば つくしのこしま おもほえむかも
・・・・・・・・・・・・・・・・・
吉備路で児島を過ぎるときには

筑紫に住む児島よ

必ず君を思い出しているだろう
・・・・・・・・・・・・・・・・・
* 「かも」 は、終助詞「か」に終助詞「も」のついたもので、詠嘆感動を表わす。 ・・・デアロウヨ・

* 「児島」は、岡山市の南。



6 968;雑歌,作者:大伴旅人,児島、太宰府,別離,遊行女婦

[題詞](大納言大伴卿和歌二首)

大夫跡  念在吾哉  水莖之  水城之上尓  泣将拭

ますらをと 思へる我れや 水茎の 水城の上に 涙拭はむ
 
ますらをと おもへるわれや みづくきの みづきのうへに なみたのごはむ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
おれは男の中の男だと思っていたが

そうじゃないらしいな

水城の上に立って

別れを惜しんで涙を拭っているのだから
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
太宰府は九州に置かた出先朝廷といった規模と権限があって、外交・軍事の最前線だった。大伴旅人は60代になってから太宰府長官に就任した。それから4年後の天平2年(730)冬、大納言に兼任されて帰京した。

* 水城について

663年、百済救援のため朝鮮半島に遠征した大和政権は、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した。このすぐあと、逆襲されるのではと恐怖感にかられて、天智天皇(称制)は北九州から山口県にかけて城をつくり、防人を配置した。

 そのひとつが水城である。
水城は太宰府政庁を守るための堤防だが、城壁といったほうがよい。
鉄道と道路で一部分が切断されているが、1300年前のまま今も残っている。
水城は高さ10メートル、幅50メートル、延長1キロと大規模である。
発掘によって、堤防前面には幅60メートル、深さ4メートル以上の壕があったと確認されている。

鎌倉時代の元寇のとき、いまの福岡市に築かれた土塁でさえ、高さはせいぜい1メートルほどだった。

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