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万葉集コミュの万葉集760・761・762・763・764・765・766・767・768

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760;相聞,作者:坂上郎女,大伴坂上大嬢、桜井,恋情,序詞

[題詞]大伴坂上郎女従竹田庄<贈>女子大嬢歌二首
(大伴坂上郎女が、竹田庄より女子大嬢に贈った歌二首)

打渡 竹田之原尓 鳴鶴之 間無時無 吾戀良久波

うち渡す 武田の原に 鳴く鶴の 間なく時なし 我が恋ふらくは 

[うちわたす たけたのはらに なくたづの] まなくときなし あがこふらくは
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
はるかに見渡す竹田の原に

絶え間なく鶴が鳴く

あなたを案ずる私の気持ちのように
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
* 「うち渡す竹田の原に鳴く鶴の」は、「間無く」を導く序詞。



761;相聞,作者:坂上郎女,大伴坂上大嬢、序詞,恋情,贈答

[題詞](大伴坂上郎女従竹田庄<贈>女子大嬢歌二首)

早河之  湍尓居鳥之  縁乎奈弥  念而有師  吾兒羽裳○怜

早川の 瀬に居る鳥の よしをなみ 思ひてありし 我が子はもあはれ
 
[はやかはの せにゐるとりの] よしをなみ おもひてありし あがこはもあはれ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
急流の瀬に立つ鳥のように

拠所なく思っていたわが子よ

哀しかろうおまえがなんともいとしいことだ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
* 「よし」 由・葦・世旨・・・
* 上二句は「よしをなみ」を導く序詞。
* 「はも」 〔係助詞「は」に係助詞「も」の付いたもの〕
文中の種々の語に付いて、詠嘆の意を表す。…はまあ…
* 家刀自であった以上、坂上郎女は大伴の各荘園の視察もしなければならなかった。
旅先から気にかかる娘へ歌を詠み、娘もまた詠みかえしている。これらは恋歌であろう。
また母系社会の名残の一面を見ることも出来る。




4 762;相聞,作者:紀女郎,大伴家持、贈答,恋愛

[題詞]紀女郎贈大伴宿祢家持歌二首 [女郎名曰小鹿也]
  (紀郎女、大伴家持に贈る歌二首 郎女、名を小鹿という)

神左夫跡  不欲者不有  八<多也八多>  如是為而後二  佐夫之家牟可聞

神さぶと いなにはあらず はたやはた かくして後に 寂しけむかも 

かむさぶと いなにはあらず はたやはた かくしてのちに さぶしけむかも
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
もう歳だから嫌だというわけではないけれど

後々寂しい思いをするかもしれないと思うと・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・* 男は老いることを「翁さぶ」と、女は「嫗さぶ」とは言わず「神さぶ」といったそうな。
もう恋する年ではない、いや、と言っているのではなく、若いあなたはまもなく去るから、さみしい思いをするのではないのかしらと言う・・・?



4 763;相聞,作者:紀女郎,大伴家持、恋愛

[題詞](紀女郎贈大伴宿祢家持歌二首 [女郎名曰小鹿也])


玉緒乎  沫緒二搓而  結有者  在手後二毛  不相在目八方

玉の緒を 沫緒に搓りて 結べらば ありて後にも 逢はざらめやも 

たまのをを あわをによりて むすべらば ありてのちにも あはざらめやも
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
命の紐をやわらかく結んでおけば

時が経った後でもなつかしく逢えますわね
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


4 764;相聞,紀女郎,作者:大伴家持、老,恋情

[題詞](紀女郎贈大伴宿祢家持歌二首 [女郎名曰小鹿也])大伴宿祢家持和歌一首(大伴家持の和する歌一首)

百年尓  老舌出而  与余牟友  吾者不Q  戀者益友

百年に 老舌出でて よよむとも 我れはいとはじ 恋ひは増すとも
 
ももとせに おいしたいでて よよむとも われはいとはじ こひはますとも
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
百年たって歯が欠けて舌がでて腰が曲がっても

厭いません 恋心が増すことがあっても
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
☆ そろそろおしまいにしましょうの合図のような。




765;相聞,作者:大伴家持,坂上大嬢、


一隔山  重成物乎  月夜好見  門尓出立  妹可将待

一重山 へなれるものを 月夜よみ 門に出で立ち 妹か待つらむ
 
ひとへやま へなれるものを つくよよみ かどにいでたち いもかまつらむ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
山が隔てる遠い道だけれど

今夜は月が良いのでもしかしてと

門に出てあなたはきっと待っているのでしょうね
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


4 766;作者:藤原郎女、相聞,大伴家持,坂上大嬢,久邇京

[題詞](在久邇京思留寧樂宅坂上大嬢大伴宿祢家持作歌一首)藤原郎女聞之即和歌一首(藤原郎女、これを聞いて和する歌一首)

路遠 不来常波知有  物可良尓  然曽将待  君之目乎保利

道遠み 来じとは知れる ものからに しかぞ待つらむ 君が目を欲り
 
みちとほみ こじとはしれる ものからに しかぞまつらむ きみがめをほり
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
道が遠
いので来れないと分っていても

きっと待っているでしょうわが君に会いたくて
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

* 久邇京
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤原広嗣の乱の後、天平12年(740年)12月15日聖武天皇によって、平城京から遷都された。相楽が選ばれた理由として太政大臣・橘諸兄の本拠地であったことが指摘されている。

741年の9月に左京右京が定められ、11月には大養徳恭仁大宮という正式名称が決定され、宮殿が造られた。都としては完成しないまま743年の末にはこの京の造営は中止されて聖武天皇は紫香楽宮に移り、744年に難波京に遷都、さらに745年、都は平城京に戻された。

わずか3年余りの都であったが、日本の文化史上の重要事項である「国分寺・国文尼寺建立の詔」と、「大仏建立の詔」はこの都で出され、実行に移された。
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4 767;相聞,作者:大伴家持,坂上大嬢、夢,贈答

[題詞]大伴宿祢家持更贈大嬢歌二首
「更に」は最初大嬢に贈った「春霞 たなびく山の 隔ねれば 妹に逢はずて 月そ経にける(08/1464)春霞の棚引いている山が隔たっているので、愛しいあなたに会えないまま、もう何カ月も過ぎてしまいました。)」に追加。(右、久迩京より寧樂の宅に贈れるなり)という、題詞と歌を一体のものとして扱い、作歌事情を示す原典の題詞のすがたを尊重するという、万葉編纂の基本方針に基づく処置。

都路乎  遠哉妹之  比来者  得飼飯而雖宿  夢尓不所見来

都路を 遠みか妹が このころは うけひて寝れど 夢に見え来ぬ 

みやこぢを とほみかいもが このころは うけひてぬれど いめにみえこぬ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
都恭仁京までの道が遠いからでしょうか

この頃は神に祈ってから眠りに就いても

一向にあなたが夢に見えて来ません
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4 768;相聞,作者:大伴家持,坂上大嬢、久邇京,贈答

[題詞](大伴宿祢家持更贈大嬢歌二首)

今所知  久邇乃京尓  妹二不相  久成  行而早見奈

今知らす 久迩の都に 妹に逢はず 久しくなりぬ 行きて早見な
 
いましらす くにのみやこに いもにあはず ひさしくなりぬ ゆきてはやみな
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今上の天皇陛下がお治めになる久迩の都にいて

あなたと逢わぬこと久しくなりました

早く帰ってあなたの優しい眼差しが見たい
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<ブログ[万葉集 柿本人麻呂と高市皇子]より転載。

万葉雑記 難訓歌の周辺
http://blogs.yahoo.co.jp/dokatakayo/folder/1147375.html
万葉集「奈弖之故(なでしこ)」で説明したように、万葉集の最初期に位置する歌は、その編者である丹比真人国人の手によって補足されてます。すると、私の推測では、原型を留める歌と伝承歌からの丹比国人の手による修正歌との二種類に分かれることになります。
 では、どのような歌が原型を留める歌でしょうか。一つには、借名字表記の難訓歌があると思います。丹比国人は、万葉集「奈弖之故」の編纂で短歌形式の整ったものについては、そのまま修正せずに載せたと思ってます。それで、統一された万葉仮名に慣れた私達にとって難訓なのでしょう。

一方、後年の作ではないかと疑われる、これらの歌と同時代とされている歌を取り上げると、次のような歌々があります。これらは歌の用字から、ほぼ、確実に伝承歌からの丹比国人の手による採録・添削と私は思っています。これらの歌で使われている万葉仮名一つ一つが、意味を持つように十分推敲されているとおもわれますので、集歌9や集歌156の歌の用字とは明らかに違います。

ここで、集歌9や集歌156の歌に戻りますと、これらの歌は舒明天皇の御製や高市皇子尊の御歌とされてますから、私は、この天皇や準天皇の御製の伝承により、丹比国人は表記法や語調の変更を一切行わなかったと思ってます。つまり、現在まで伝わる短歌の古風です。
 すると、現在に伝わる大和歌の短歌の表現方法は、舒明天皇期から天武天皇期初期の時代にはあったことになります。人麻呂の略体歌から非略体歌、さらに常体への展開で、短歌の形式が整えられたとの説がありますが、やはり、一人の人間に帰する問題ではないようです。



書紀歌謡119
耶麻古曳底 于瀰倭施留騰母 於母之楼枳 伊麻紀能禹知播 倭須羅臾麻旨珥
訓読 山越えて 海渡るとも おもしろき 今城(いまき)の中(うち)は 忘らゆましじ
意訳 このように山を越え海を渡り面白い旅をしても建王のいたあの今城の中のことはわすれないだろう

別訓 山越えて 海渡るとも おもしろき 今城の宇智(うち)は 忘らゆましじ
別訳 この度は独りで山を越え海を渡ってやってきた紀伊の国ですが、舒明天皇と二人で行った宇智の野での狩りも忘れられません
注意 万葉集では、吉野の今城は現在の大淀町付近の地名で、宇智の野は五条市付近の野原とされ、舒明天皇と斉明天皇は御狩りでこの地を訪れている

書紀歌謡120
瀰儺度能 于之褒能矩娜利 于那倶娜梨 于之廬母倶例尼 飫岐底舸臾舸武
訓読 水門(みなと)の 潮のくだり 海くだり 後も暗(くれ)に 置きてか行(ゆ)かむ
意訳 水門の潮の激流の中を舟で紀伊へ下って行くが、建王のことを暗い気持ちで後に残していくことであろうか

別訓 水門(みなと)の 潮のくだり 海くだり 領路(うしろ)も蔭(くれ)に 置きてか行(ゆ)かむ
別訳 加太の瀬戸の潮流や和歌の浦の海を越えて、紀伊の熊野への長い旅路の道を和泉山地の山陰に置いて行きましょう
注意 万葉集では「後」を「うしろ」とは読みませんし、、「後」の「うしろ」の読みを使った歌はありません。「後」は「のち」、「あと」と詠うのが万葉時代です。

書紀歌謡121
于都倶之枳 阿餓倭柯枳古弘 飯岐底舸臾舸武
訓読 愛(うつく)しき 吾が若き子を 置きてか行かむ
意訳 かわいい私の幼い子を後に残して行くことであろうか

○○○○○ ○○○○○○○ 于都倶之枳 阿餓倭柯枳古弘 飯岐底舸臾舸武
別訓 ○○○○○ ○○○○○○○ 愛(うつく)しき 吾が若き子を 置きてか行かむ
別訳 ○○○○○ ○○○○○○○ 愛しい私の若い恋人をここに残して帰って行くことでしょう


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