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万葉集コミュの万葉集 662 ・663・664・665・大津皇子は和歌を詠んだか

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4 662;相聞,作者:市原王、恋情,三重県,夢、序詞
[題詞]市原王歌一首

[原文]網兒之山 五百重隠有 佐堤乃埼 左手蝿師子之 夢二四所見

網児の山 五百重隠せる 佐堤の崎 さで延へし子が 夢にし見ゆる 

[あごのやま いほへかくせる さでのさき] さではへしこが いめにしみゆる

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網児の山が幾重にも隠している佐堤の崎で

さで網を広げて漁をしていた

あの海人の娘が夢に見えるよ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

* 「網児の山」「佐堤の崎」いずれも所在未詳(三重県志摩半島の地名か)* 「小網はえし子」は、網をのばして漁業をする海女。
* 第三句までは「小網(さで)」を導く序とも。


市原王 いちはらのおおきみ 生没年未詳

天智天皇五世の孫。安貴王の子。志貴皇子または川島皇子の曾孫。春日王の孫。光仁天皇の皇女、能登内親王(733〜781)を妻とし、五百井女王・五百枝王の二人の子をもうけた。

大伴家持とは私的な宴で二度にわたり同席しており、親しい友人だったと推測される。

初め写経舎人として出仕し、
天平十一年(739)頃には写経舎人らの監督官的立場にあったかと思われる。間もなく造金光明寺造仏長官(後の造東大寺司長官)に任ぜられ、大仏造営の最高監督官を務めた。
同二十年、造東大寺司が設置されると、知事に就任する。
天平感宝に改元後の同年四月十四日、聖武天皇の東大寺行幸に際し従五位上に昇叙される。
天平勝宝二年十二月九日、孝謙天皇は藤原仲麻呂を派遣して造東大寺司官人に叙位を行ったが、この時市原王(玄蕃頭兼造東大寺司長官)は正五位下に昇叙された。
天平勝宝八年(756)、治部大輔に就任し、正四位下に昇叙される。
天平宝字七年(763)年正月、摂津大夫。
同年四月、恵美押勝暗殺未遂事件で解任された佐伯今毛人の後任として造東大寺長官に再任される。
同年五月、御執経所長官(造東大寺長官に同じか。大日本古文書)。以後は史料に見えず、
翌天平宝字八年正月には吉備真備が造東大寺司長官となっていることから、これ以前に引退または死去したかと推測される。
しかし年齢はおそらく四十代だったことを考えれば、何らかの科により官界から追放されたのではないかとも疑われる。
恵美押勝の乱に連座したかとも考えられる。
万葉集に八首の歌を残す。佳作が多く、万葉後期の代表的歌人の一人に数えられる。以下には八首全てを掲載する。
(千人万首)
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663;相聞,作者:安都年足(あとのとしたり)、恋情,序詞

[題詞]安<都>宿祢年足歌一首

佐穂度  吾家之上二  鳴鳥之 音夏可思吉 愛妻之兒

佐保渡り 我家の上に 鳴く鳥の 声なつかしき はしき妻の子
 
[さほわたり わぎへのうへに なくとりの] こゑなつかしき はしきつまのこ
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佐保のみ空に鳥鳴けば

心をみたす妻の面影
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* 佐保は、現在の奈良市法蓮町〜法華寺町あたりとか。
* 「なつかしき」は、心ひかれる意。
・・・・・・・・・・・

4 664;相聞,作者:大伴像見、枕詞,恋情

[題詞]大伴宿祢像見(かたみ)歌一首

石上  零十方雨二  将關哉  妹似相武登  言義之鬼尾

石上 降るとも雨に つつまめや 妹に逢はむと 言ひてしものを
 
[いそのかみ] ふるともあめに つつまめや いもにあはむと いひてしものを

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どんな雨にも妨げられようか 

あの子に会うと 約束したのだから
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石上(いそのかみ)は、奈良県天理市の石上神宮(いそのかみじんぐう)周辺から西の広い地域をさし、布留(ふる)は、石上の中でも、石上神宮周辺を言う。現在は、天理市布留町となっている。
石上(いそのかみ)神社が鎮座する大和国布留(ふる)一帯(奈良県天理市石上)の地名で、地名の「ふる」(3-422。ーふるの山なる杉群の思ひすぐべき君ならなくに)、同音の「降る・振る・旧る」(4-664。ー降るとも雨につつまめや妹にあはむと言ひてしものを)にかかる枕詞とされる。
 この「いそのかみ」、 「イト・ノ・カミ」は「征服した・(敵から分捕ったもの)の・戦利品(戦利品を所蔵している倉庫。その倉庫がある神社。その神社がある地域)」 の転訛と解される。
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4 665;相聞,作者:安倍蟲麻呂

[題詞]安倍朝臣蟲麻呂歌一首

向座而  雖見不飽  吾妹子二  立離徃六  田付不知毛

向ひ居て 見れども飽かぬ 我妹子に 立ち別れ行かむ たづき知らずも
 
むかひゐて みれどもあかぬ わぎもこに たちわかれゆかむ たづきしらずも

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いつまで見つめ合っても

飽きることはない愛しい人 

生きながら別れるなんて

もうどうしていいか分りません
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☆ 生木を裂くみたい。

み空行く 雲も使と 人は言へど 家づと(土産)遣らむ たづき知らずも  大伴家持   

世間の 繁き假廬に 住み住みて 至らむ國の たづき知らずも  作者未詳  
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とぼけた万葉集 大津皇子は和歌を詠んだか

 突然ですが、大津皇子に直接に関係する万葉集の歌は、次の九首です。(大伯皇女の別の二首については、都合により省いています。)
 今回は、歌が詠われた場面に立ち戻り、歌の詞書や左注が無かったことにして、とぼけた視線からこれらの歌を見て行きたいと思います。

大津皇子竊下於伊勢神宮上来時、大伯皇女御作謌二首
集歌105 吾勢枯乎 倭邊遺登 佐夜深而 鷄鳴露尓 吾立所霑之
 吾が背子を大和へ遣(や)るとさ夜更けて暁露(あかときつゆ)に吾(わ)れ立ち濡れし

集歌106 二人行杼 去過難寸 秋山乎 如何君之 獨越武
 二人行けど去(い)き過ぎ難(かた)き秋山を如何(いか)にか君が独り越ゆらむ

大津皇子贈石川郎女御謌一首
集歌107 足日木乃 山之四付二 妹待跡 吾立所沾 山之四附二
 あしひきの山の雌伏(しふく)に妹待つと吾れ立ち沾(ぬ)れぬ山の雫(しづく)に

石川郎女奉和謌一首
集歌108 吾乎待跡 君之沾計武 足日木能 山之四附二 成益物乎
 吾(わ)を待つと君が沾(ぬ)れけむあしひきの山の雫(しづく)にならましものを

大津皇子竊婚石川女郎時、津守連通占露其事、皇子御作謌一首 未詳
集歌109 大船之 津守之占尓 将告登波 益為尓知而 我二人宿之
 大船の津守(つもり)が占(うら)に告(の)らむとはまさしに知りて我が二人宿(ね)し

移葬大津皇子屍於葛城二上山之時、大来皇女哀傷御作謌二首
集歌165 宇都曽見乃 人尓有吾哉 従明日者 二上山乎 汝背登吾将見
 現世(うつそみ)の人にある吾(わ)れや明日よりは二上山を汝背(なせ)と吾(あ)が見む

集歌166 礒之於尓 生流馬酔木乎 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓
 磯の上に生(お)ふる馬酔木(あしび)を手折(たを)らめど見すべき君が在(あ)りと言はなくに
右一首今案、不似移葬之歌。盖疑、従伊勢神宮還京之時、路上見花感傷哀咽作此歌乎。

大津皇子被死之時、磐余池陂流涕御作謌一首
集歌416 百傳 磐余池尓 鳴鴨乎 今日耳見哉 雲隠去牟
 百伝(ももづた)ふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠(くもかく)りなむ
右藤原宮朱鳥元年冬十月

大津皇子御謌一首
集歌1512 經毛無 緯毛不定 未通女等之 織黄葉尓 霜莫零
経(たて)もなく緯(ぬき)も定めず未通女(をとめ)らが織る黄葉(もみち)に霜な降りそね


 最初に条件を示したように、これらの歌に詞書や左注が無かったことにして、とぼけた視線で歌の内容に合わせてグループ分けした上で、恣意的に歌の順番を入れ替えると、次のようになります。そして、この感覚で、とぼけた意訳を付けてみました。

群‐壱
集歌416 百傳 磐余池尓 鳴鴨乎 今日耳見哉 雲隠去牟
訓読: 百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
意訳: 百年後にもあるだろう、この磐余の池に鳴く鴨を見るのは今日限りとして、私は雲の彼方の天に帰っていくのだろうか。


群‐弐
集歌1512 經毛無 緯毛不定 未通女等之 織黄葉尓 霜莫零
訓読: 経もなく緯も定めず未通女らが織る黄葉に霜な降りそね
意訳: どれが縦糸、どれが横糸ということを定めずに天の乙女たちが織り成す色取り取りの黄葉の葉を白く一色に染め上げる霜よ降らないでくれ


群‐参
集歌107 足日木乃 山之四付二 妹待跡 吾立所沾 山之四附二
訓読: あしひきの山の雌伏に妹待つと吾れ立ち沾れぬ山の雫に
意訳: 葦や檜の茂る山の裾野で愛しい貴女をじっと待っていると、私は立ち濡れてしまった。山の草葉の露の雫に。(そして、貴女の露にも。)

集歌108 吾乎待跡 君之沾計武 足日木能 山之四附二 成益物乎
訓読: 吾を待つと君が沾れけむあしひきの山の雫にならましものを
意訳: 私をじっと待っていたら貴方が山の草葉の露の雫に足元が濡れてしまったという、そのような貴方を濡らす、そんな私になれたらいいのに。(あなたを濡らす露の雫がしとどにでるように、もっと、私を愛撫してください。)

集歌109 大船之 津守之占尓 将告登波 益為尓知而 我二人宿之
訓読: 大船の津守が占に告らむとはまさしに知りて我が二人宿し
意訳: 大船が泊まるという難波の湊の住吉神社の津守の神のお告げに出て人が知るように、貴女の周囲の人が噂することを確信して、私は愛しい貴女と同衾しました。

集歌105 吾勢枯乎 倭邊遺登 佐夜深而 鷄鳴露尓 吾立所霑之
訓読: 吾が背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁露に吾れ立ち濡れし
意訳: 私の愛しい貴方を大和に送ろうと思うと、二人の夜はいつしか深けていき、その早朝に去って往く貴方を見送る私は夜露にも立ち濡れてしまった。

集歌106 二人行杼 去過難寸 秋山乎 如何君之 獨越武
訓読: 二人行けど去き過ぎ難き秋山を如何にか君が独り越ゆらむ
意訳: 二人で行っても思いが募って往き過ぎるのが難しい秋の二上山を、どのように貴方は私を置いて一人で越えて往くのでしょうか。

集歌166 礒之於尓 生流馬酔木乎 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓
訓読: 磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに
意訳: 貴方が住む大和から流れてくる大和川の岸の上に生える馬酔木の白い花を手折って見せたいと思う。以前のように見せる貴方はもうここにはいないのだけど。

集歌165 宇都曽見乃 人尓有吾哉 従明日者 二上山乎 汝背登吾将見
訓読: 現世の人にある吾れや明日よりは二上山を汝背と吾が見む
意訳: もう二度と会えないならば、今を生きている私は明日からは毎日見ることが出来るあの二上山を愛しい大和に住む貴方と思って私は見ましょう。

 群‐壱と群‐弐は、それぞれ一首のみで構成され、とぼけた万葉集の読み方でも伝統的な意訳に従っています。ただし、群‐壱の集歌416の歌を、大津皇子本人が詠ったかどうかは、不明です。
 ここで、懐風藻に大津皇子が処刑される寸前に詠ったとされる漢詩があります。残念ながら、この漢詩は、白川静氏が指摘する「此夕誰家向」(「今夕向誰家」のはずですが? 和語?)の句が示すように、上三句と結句とのバランスからみて推敲が十分ではありませんので、時間切れの様相を示しています。他方、漢詩は夕刻の情景を示しますが、和歌ではその時刻を特定できませんが日中の風景でしょう。ここで、池に泳ぐ鴨の鳴き声に対して「今日耳見哉」で「耳見」の用字を使用するなど、和歌については、歌の専門家のように、十分に推敲を行なっています。なぜか、時間帯で、皇子の心の持ち方が違うのです。本当に、大津皇子本人のものなのでしょうか。

五言 臨終 一絶   終ひに臨む
金烏臨西舍     金烏 西舍に臨み
鼓聲催短命     鼓聲 短命を催す
泉路無賓主     泉路 賓主は無し
此夕誰家向     此夕 誰家か向ふ  (「此の夕べ 誰か家にか向ふ」が一般)

 さて、肝心な「群‐参」ですが、最初に確認します。集歌109の歌が詠われた場所は、河内平野の大和川流域の可能性が高いのです。歌の初句に「大船之 津守之占尓」とあります。これは、大船が着く湊であり、「津守」氏の氏族の人物を示す言葉です。すると、古来、「津守」氏は難波の住吉神社の関係者で伊勢大社の関係者ではないことになっていますから、集歌109の歌は難波津やそれに流れ込む大和川のイメージはあっても、伊勢湾や度会川のイメージはないことになります。「津守」氏は、歴代、住吉神社の神主ですから、職務上、神託や占いを行なうことはありうると思います。これを、「占」の漢字から道教由来の陰陽道まで持ち出す必要はないと思っています。
 このとぼけた視線から、「群‐参」の歌の舞台は、なぜか、河内の羽曳野市の古市付近の竹内街道の話になってしまいます。下手をすると、日本書紀の允恭天皇紀にある允恭天皇と茅渟宮の衣通郎姫の説話になってしまいます。古事記と違い日本書紀の允恭天皇紀の衣通郎姫は、允恭天皇の愛人です。説話では、衣通郎姫は皇后の忍坂大中姫命の妹ですが、美人で有名であったために天皇は皇后に対し、宮中儀式に託して、妹の衣通郎姫を妃に差し出せます。そして、天皇は、皇后の妊娠中に衣通郎姫の許に入れ浸り愛欲に耽ります。このときに、皇后の立場を踏みにじる天皇の振る舞いに対しての皇后の怒りに接した天皇は、反省し、衣通郎姫を皇后の目に付きにくい河内の茅渟宮へ移し、そこへ遠飛鳥宮から通う様になります。その後、天皇の妻問いが頻繁なため人民に負担が掛かるとの皇后の忠告を受け入れ、稀にしか通わなくなったとしています。この允恭天皇紀の衣通郎姫の説話に対して、群‐参の歌の舞台が、なぜか、私にはぴったり来るのです。
 まったく、挽歌のような感覚は無く、男女の恋愛歌物語の歌と感じます。ここが、歌に素人の自由奔放なのでしょう。歌の感覚的に、大津皇子は集歌1512の歌では天女に仮託して秋の色取り取りの黄葉の美しさを詠っていますが、このような皇子に群‐参の歌のような「性の営み」が透けて見える歌物語的な歌は似合わないような気がします。群‐参の歌は、口唱の伝承された説話を、改めて、飛鳥時代に文字に採歌したような感覚です。(実際、そのようなつもりで、順番変更と意訳をしているわけですが、)

蛇足として、日本書紀で衣通郎姫は近江国坂田の出身で、(宇治)葛原宮、茅渟宮と住んでいますから、この允恭天皇紀の衣通郎姫の説話は、中臣氏・秦氏系の人々に伝わった話と思われます。ここから、群‐参の歌が歌物語のものであるならば、中臣氏・秦氏系の内部ものになるのですが、ある疑問が生じてしまいます。なぜ、これらの歌が大津皇子の挽歌や相聞になったのでしょう。
 とぼけた人間の妄想からの憶測ですが、草壁皇子は河内・淀川の蘇我系の地盤を本拠にする皇族です。一方、大津皇子は宇治・木津川の蘇我系の地盤を本拠にする皇族です。その応援団は、草壁皇子には丹比嶋、中臣大嶋ですが、大津皇子は中臣意美麻呂、中臣史ぐらいでしょうか。大津皇子の刑死以降は、持統天皇の下に中臣氏は集合しますが、文武・元明天皇時代に中臣史系の中臣氏は皇室との姻戚と内臣(天皇の私設秘書官)の地位を手がかりとして有力になり、藤原(葛原)氏として土地の名を取って中臣一族から正式に独立します。本来、藤原氏系の中臣氏は大津皇子の応援団ですから、同情的感情があってもおかしくないと思います。この感情と衣通郎姫伝説からの歌物語が結びつき、擬似挽歌の誕生と妄想しています。そのために、大津皇子と大来皇女とは実の姉弟としながらも、色っぽい歌になっているのではないでしょうか。

 結局、大津皇子が歌を詠ったのは集歌1512だけなのでしょうか。参考までに、

万葉集の歌
集歌1512 經毛無 緯毛不定 未通女等之 織黄葉尓 霜莫零

懐風藻の歌
七言 述志     志を述ぶ
天紙風筆畫雲鶴       天紙風筆 雲鶴(うんかく)を画(ゑが)き
山機霜杼織葉錦       山機(さんき)霜杼(さうちょ) 葉錦(えふきん)を織る

 尻切れトンボのとぼけた万葉集の読みになりました。本当の歌は、まったく違いますので宜しくお願いします。

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