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万葉集コミュの万葉集巻三(235〜483)441・442

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3 441;挽歌,作者:倉橋部女王,長屋王

[題詞]神龜六年己巳左大臣長屋王賜死之後倉橋部女王作歌一首

大皇之  命恐  大荒城乃  時尓波不有跡  雲隠座

大君の 命畏み 大殯の 時にはあらねど 雲隠ります

おほきみの みことかしこみ おほあらきの ときにはあらねど くもがくります

* 「大殯(おほあらき)」は「あらき」の尊敬語。「あらき」は古代、貴人の死後、葬儀のおこなわれるまで、遺体をしばらく安置しておくこと、またその場所。
・・・・・・・・・・・・・・・
天皇のご命令を畏み 

お亡くなりになる時ではないのに

雲の彼方にお隠れになった
・・・・・・・・・・・・・・・
 謀叛の罪を着せられ、一家もろとも滅ぼされた長屋王の死を悼む歌。
倉橋部女王(くらはしべのおおきみ)は長屋王の妻か、娘ではないかと言われているが不明。


長屋王
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

長屋王(ながやのおおきみ、天武天皇13年?(684年?)〜神亀6年2月12日(729年3月20日)は奈良時代の皇族、公卿。皇親勢力の巨頭として政界の重鎮となったが、対立する藤原氏の陰謀といわれる長屋王の変で自害した。

(出自)
天武13年(684年)誕生説が有力であるが、懐風藻の記事にもとづき天武5年(676年)とする説もある。父は天武天皇皇子の高市皇子、母は天智天皇の皇女の御名部皇女(元明天皇の同母姉)であり、皇親として嫡流に非常に近い存在であった。

長屋王の正妃は草壁皇子と元明天皇の娘吉備内親王で、文武天皇・元正天皇と同母姉弟であった。夫婦の間には膳夫王(かしわでおう)、葛木王(かつらきおう)、鉤取王(かぎとりおう)らがいる。

また藤原不比等の娘・藤原長娥子との間に安宿王(あすかべおう)、山背王(やましろおう)、黄文王(きぶみおう)らをもうけたほか、円方女王(まどかたじょおう)(母は智努女王か)らの子女があった。

( 長屋王政権)
長屋王は慶雲元年(704年)正四位上に直叙され、和銅2年(709)従三位宮内卿、同3年式部卿、霊亀2年(716年)には正三位に叙せられている。平城京遷都後、右大臣藤原不比等が政界の中心となり、舎人親王や長屋王ら皇親勢力がこれに対する形であった。ただし、長屋王が不比等の娘を妻としていた関係で、不比等の生存中はむしろ王の立場は親藤原氏的存在であったとみる説もある。

霊亀3年(717年)左大臣石上麻呂が死去すると、翌年長屋王は非参議から一挙に大納言に任ぜられ、太政官で右大臣藤原不比等に次ぐ地位を占める。さらに、藤原不比等が養老4年(720年)に没すると、その子である藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)はまだ若く、議政官になっていなかったため、長屋王は皇親の代表として政界の主導者となった。その後長屋王は養老5年(721年)に従二位右大臣、さらに神亀元年(724年)聖武天皇の即位と同日、正二位左大臣に進み、また、元正天皇も自分の妹である吉備内親王とその夫の長屋王に厚い信任を寄せていたといわれている。

当時の施策としては、養老7年(723年)に発令された三世一身の法がある。また養老3年(720年)には新羅からの使者を長屋王邸に迎えて盛大な宴会が催され、長屋王自身の作になる詩や、時の文人らが作った詩が『懐風藻』に収録されている。なお『懐風藻』にはこのときの詩を含め、長屋王の漢詩が計3首収められている。

(長屋王の変)
このような長屋王の権勢は藤原四兄弟にとっては面白くないものであった。不比等の生前こそ、舅と娘婿の関係であって関係も決して悪いわけではなかったが、不比等の死後に不比等の娘で聖武天皇の生母藤原宮子の称号を巡って長屋王と四兄弟が対立すると、その対立が露になってきた。

神亀6年(729年)2月、漆部造君足(ぬりべのみやつこきみたり)と中臣宮処連東人(なかとみのみやこのむらじあずまひと)が「長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す。」と密告があり、それをうけて藤原宇合(ふじわらのうまかい)らの率いる六衛府の軍勢が長屋王の邸宅を包囲し、舎人親王などによる糾問の結果、長屋王は自刃、その妃吉備内親王と子の膳夫王らは自殺した。これが長屋王の変である。讒言であったとする説が強い。聖武天皇は病弱で事件当時には非藤原氏系の安積親王しか男子がいなかった。政治的な対立もさることながら、天皇と安積親王に何かがあった場合には天皇の叔母・吉備内親王の生んだ男子(当然、長屋王の息子でもある)である膳夫王ら三王が男系皇族での皇位継承の最有力者となる筈であったことも「長屋王排除」の理由として注目すべき点である。

王の没後、藤原四兄弟は妹で聖武天皇の夫人であった光明子を皇后に立て、藤原四子政権を樹立する。しかし、天然痘により天平9年(737年)4人とも死没してしまったが、これは王を自殺に追い込んだ祟りではないかと噂されたらしい。なお、『続日本紀』によると、翌10年(738年)の7月10日、王のことを誣告した人物の一人である中臣宮処東人が大伴子虫により斬殺されてしまう。子虫は長屋王に恩遇されていた人物の一人で、囲碁のときに話が王のことに及んだため憤激して殺したとなっている。なお、この事件に関して大伴子虫は罪に問われていない。『続日本紀』に「誣告」と記載されていることから、同書が成立した平安時代初期の朝廷内では、長屋王が無実の罪を着せられたことが公然の事実となっていたと想定されている。

(長屋親王説)
長屋王の邸宅跡から発掘された木簡に「長屋親王宮鮑大贄十編」の文字があったこと、『日本霊異記』の長屋王の変に関する説話では「長屋親王」と称されていることなどから、在世時には長屋親王と称されていたとする学説もある。長屋王と吉備内親王の間の子供達が外祖母にあたる元明天皇によって二世王の待遇(元来は天武天皇の三世王)を受けていることなどから長屋王に対しても特別待遇がされていた可能性もある。通常の律令解釈によれば本来親王は天皇の息子または孫に天皇から直接「親王宣下」されない限り名乗れなかったとされる。

ともあれ、前述の5万点に及ぶ出土木簡の、「長屋親王宮」や「大命」の記載は、王家の生活や経営の実態とともに、皇親としての謎にせまるものとして、解明が待たれる。
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3 442;挽歌,膳部王

[題詞]悲傷膳部王歌一首

世間者  空物跡  将有登曽  此照月者  満闕為家流

世間は 空しきものと あらむとぞ この照る月は 満ち欠けしける

よのなかは むなしきものと あらむとぞ このてるつきは みちかけしける
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世の中は空しいものだと

輝く月も無常に満ち欠けするのだろう
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謀叛罪で一家もろとも滅ぼされた長屋王家の死を悼む歌。
題詞には、長屋王の息子・膳部王に対する悲しみの歌とある。


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