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万葉集コミュの万葉集巻三(235〜483)415

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3 415;挽歌,作者:聖徳太子

[題詞]上宮聖徳皇子出遊竹原井之時見龍田山死人悲傷御作歌一首 [小墾田宮御宇天皇代墾田宮御宇者豊御食炊屋姫天皇也諱額田謚推古]
上宮聖徳太子、竹原の井に出遊しし(いでましし)時、龍田山の死れる(みまかれる)人を見て悲傷(かなし)びて作りましし御歌

★「万葉集」巻三の「挽歌」は、この時の聖徳太子の歌ではじまる。
路傍の死者に近づき、その霊魂に触れることで穢れを受ける。その穢れは死者の霊魂を慰める「挽歌」を捧げることで祓いをしなければならない。

家有者  妹之手将纒  草枕  客尓臥有  此旅人A怜

家にあらば 妹が手まかむ 草枕 旅に臥やせる この旅人あはれ

* 「臥す(こやす)」は横たわること、 「こやせる」は「こゆ」の敬語。死者には警護を用いた。

* 「まかむ」は「枕とする」意の「まく」に、推量の「む」がついたもの。
  
いへにあらば いもがてまかむ [くさまくら] たびにこやせる このたびとあはれ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
自分の家にいるときならば

愛する人の手を枕に臥せったであろうに

草を枕の旅の途中でそのまま亡くなった

この旅人があわれであることだ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
行動する太子から、慈悲の太子へ
歌われた地名が「日本書紀」では「片岡」(今の奈良県北葛城郡)で有るのに対して「万葉集」では竹原井(東大阪市高井戸)と異なる。また「日本書紀」の歌謡が、瀕死の「飢者」に呼びかける歌であるのに対し、「万葉集」の歌は死者を見ての感想として詠まれている。また前者が、民を慈しみ扶養すべき存在としてとらえている視点をもつのに対して、後者は夫婦の愛情の視点だけでとらえている違いがある。

★「万葉集」の歌詞は人麻呂の、香具山の屍を詠んだ歌や狭岑島の死者を詠んだ歌に類似している。
人麻呂の歌があって、その歌いぶりをもって、聖徳太子伝承歌が制作されたと考えることもできる。

日本書紀
(推古二一年の)十二月の庚午の朔に、皇太子、片岡に遊行(い)でます。時に飢者(うえたるひと)、道の辺に臥(こや)せり。よりて姓名を問ひたまふ。而るに、言さず。皇太子、視して(みそなはして)飲食(おしもの)与へたまふ。即ち衣装(みけし)を脱ぎたまひて、飢者に覆ひて言はく、「安らに臥せれ」とのたまふ。則ち歌ひて曰く、

  [しなてる] 片岡山に 
  飯(いひ)に飢て 臥(こや)せる 
      その旅人あはれ
  親無しに 汝生りけめや
  [さす竹の] 君はや無き
  飯に飢て 臥せる 
      その旅人あはれ とのたまふ。

なぜ、「飢者」は太子の問に「而るに言さず(まうさず)」なのか。「日本書紀」の話の後半では、この「飢者」は「遊行」する太子のまえに現るべき存在であったことがかたられる。

★宮に帰った太子は、翌日使いをやって「飢者」の様子を問わせると「飢者」は既に死去していた。大いに悲しんだ太子は、死者をその場に丁重に葬り、墓を築かせる。

★そのものの存在の意味を考えつづけた太子は後日、近臣に語る。「先の日に道に臥せる飢者、其れ凡人(ただびと)に非じ。必ず真人(ひじり)ならむ」と語って再び使者に墓を見に行かせる。

★使者の報告は驚くべき事を告げた。墓は封じられたままであったのに、開けてみると棺の中に死者の屍はなく、棺の上には、太子が覆ってやった衣服がきちんと畳んであったと。それを聞いた太子は再び使いに衣服を取りに行かせると、何事もなかったように、その服をまた身につけた。

★世の人はその太子の行動に大いなる不思議を感じて、「聖の聖を知ること、其れ実なるかな。」と語り合っていよいよ畏まる。
(甲斐の黒駒の世界より)
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<転載記事>

聖徳太子 (574〜622)

用明天皇の皇子。別名に厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよとみみのみこ)など。
蘇我馬子とともに物部守屋を討ち、推古天皇即位とともに皇太子となり、摂政に就任。冠位十二階制定、遣隋使派遣などの施策をとり、仏法興隆を進め、法隆寺などを建立したと伝わる。

「本来の中大兄は中津王・聖徳太子」
http://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara/39093422.html

地名と地理関係を復元すると、古代「豊日の国」だった豊島郡の南端に突き出た豊崎半島の様子が、ほぼ昔どおりよみがえってくる。
 それは明治30年の地図でわかるように都市化が遅れたお陰である。
 その豊崎の西隣りに「中津」がある。
 ここは今、新淀川ぞいの街の中にあるが、7世紀当時は大阪湾に面して開けた大きな港で、「中津」は単なる地名ではなく、実際に重要な「津=港」であった。
 そこは「摂津(せつつ)の国」に入っている。
 「摂津」は和鋼六年(713)の官命で、一字の地名を二字にするために、「摂」の字を加えたのであって、もともと「津の国」だったのである。
 だから「摂津」は確かに港の多い国である。
 波静かな大阪湾のいちばん奥にあって、しかも瀬戸内海の交通の要所にある。
 今も昔も大阪から神戸のあいだには良港がずらりと並んで、文字どおり「津が摂(整(ととの))った」国であった。
 その中でも北河内がまだ河内湖だった時代には、この「中津」が中央にある。
 だから名前の意味も、古くから開けた港だったこともわかる。
 天萬豊日天皇のもとで「中大兄皇子」と呼ばれた人物が、この中津の支配者という名乗りをもっていた。
 その時期が倭国が滅んで日本国になった直前であり、遣隋・遣唐使が中国へ盛んに往来した時代であったことを考えると、なぜこんな湾岸に都が置かれたか、その理由もまたよくわかるのである。
 また中大兄は、北九州の港湾都市「長津=福岡」へも斉明天皇と共に遷都したという記事がある。
 当時、日本=新羅人だった「金春秋=天命開別」と対立した倭国政府の関係から考えて、その前の時代に「天命開別」が中津の支配者だったとは考えられない。
 これは中大兄が別にもう一人いた証拠である。
 そのもう一人は王子ウマシマジの位置にいるから聖徳太子でもある。
 すると、その太子に絡む恵比寿(えびす)神社が、摂津の西宮(にしのみや)にある謎がこれで解ける。
 中津に東宮があったから、皇太子の御所を「東宮」という意味が、これでよくわかると思う。
 これで神武東征の長髄彦退治の古戦場には、どの角度からみても、どうしても中津という港がなければならないことが確認できた。
 全然、港も津もない山国の奈良県と「神武天皇」とは、何の関係もなかったことが、さらにこの点でも多くの証拠で再確認できるのである。

 ※出典:加治木義博・言語復原史学会
≪真説≫日本誕生・虚構の大化改新と日本政権誕生:194〜195頁」


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