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万葉集コミュの万葉集巻三(235〜483)410・411・412・413

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410;譬喩歌,作者:坂上郎女

[題詞]大伴坂上郎女橘歌一首

橘乎  屋前尓殖生  立而居而  後雖悔  驗将有八方

橘を 宿に植ゑ生ほし 立ちて居て 後に悔ゆとも 験あらめやも

たちばなを やどにうゑおほし たちてゐて のちにくゆとも しるしあらめやも
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橘を家の庭に植えて丹精して育てたものを

油断して台無しにしてしまったら

どんなに後悔しても取り返しがつかないでしょう

育ててきた愛娘が、いやな男性にとられたりしないかと心配。
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411;譬喩歌,

[題詞]和する歌一首

吾妹兒之  屋前之橘  甚近  殖而師故二  不成者不止

我妹子が やどの橘 いと近く 植ゑてし故に ならずはやまじ

わぎもこが やどのたちばな いとちかく うゑてしゆゑに ならずはやまじ
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あなたの家の橘は

わが家のすぐ近くに植えたのですから

立派に実らせないではおきませんよ
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3 412;譬喩歌,作者:市原王

[題詞]市原王歌一首

伊奈太吉尓  伎須賣流玉者  無二  此方彼方毛  君之随意

いなだきに きすめる玉は 二つなし かにもかくにも 君がまにまに

* 「いなだきにきすめる玉」は『法華経』安楽行品の「髻中明珠」
  髻(もとどり)の中に秘蔵する宝玉の意。

いなだきに きすめるたまは ふたつなし かにもかくにもきみがまにまに
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私の髻(もとどり)の中に秘めてきた

二つとかけがえのない宝珠ですが

差し上げましょう

最早こうなってはあなたの思うがままになさって下さい
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大切な娘を宝珠に譬えたもの、娘を嫁がせる親の思いか。
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市原王 いちはらのおおきみ 生没年未詳

天智天皇五世の孫。安貴王の子。志貴皇子または川島皇子の曾孫。春日王の孫。
光仁天皇の皇女、能登内親王(733〜781)を妻とし、五百井女王・五百枝王の二人の子をもうけた。 
初め写経舎人として出仕し、
天平十一年(739)頃には写経舎人らの監督官的立場にあったかと思われる。
同十六年六月頃、写一切経長官の地位にあった。
同十八年、玄蕃頭兼備中国守。
同年十一月頃、造金光明寺造仏長官(後の造東大寺司長官)を兼ね、大仏造営の最高監督官を務めたと知れる。
同二十年、造東大寺司が設置され、知事に就任(次官は佐伯今毛人)。
同二十一年、写経司長官兼玄蕃頭兼備中守。
天平感宝に改元後の同年四月十四日、聖武天皇の東大寺行幸に際し従五位上に昇叙される。
天平勝宝二年十二月九日、孝謙天皇は藤原仲麻呂を派遣して造東大寺司官人に叙位を行ったが、この時市原王(玄蕃頭兼造東大寺司長官)は正五位下に昇叙された。
天平勝宝八年(756)、治部大輔に就任し、正四位下に昇叙される。
天平宝字七年(763)年正月、摂津大夫。
同年四月、恵美押勝暗殺未遂事件で解任された佐伯今毛人の後任として造東大寺長官に再任される。
同年五月、御執経所長官(造東大寺長官に同じか。大日本古文書)。以後は史料に見えず、
翌天平宝字八年正月には吉備真備が造東大寺司長官となっていることから、これ以前に引退または死去したかと推測される。しかし年齢はおそらく四十代だったことを考えれば、何らかの科により官界から追放されたのではないかとも疑われる。恵美押勝の乱に連座したかとも考えられる。

万葉集に8首の歌を残す。佳作が多く、万葉後期の代表的歌人の一人に数えられる。
大伴家持とは私的な宴で二度にわたり同席しており、親しい友人だったと推測される。


 愛発関と恵美押勝の乱
 越前の愛発山に置かれた関である愛発関は、美濃国不破関・伊勢国鈴鹿関と並んで、三関の1つとして最も重視された関です。関は主要な国境に置かれ、浮浪・逃亡という不法な交通を取り締まったり、治安の維持にあたりました。なかでも三関は最重要な関と位置づけられていたのです。それらは天皇の死去や乱のおこった時には閉じられ(これを固関という)、交通を制限し内乱の拡大を防止しました。愛発関がその威力を最も発揮したのが、奈良時代の764年(天平宝字8)9月におきた恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱の時です。
 淳仁天皇と親密で、当時正一位大師(太政大臣)という最高の地位にあった押勝ですが、天変地異が相次いでおこり社会不安が深まり、さらに孝謙太政天皇と結んだ僧道鏡がしだいに台頭し政権基盤がゆらいでくると、危機感をいだき、ついにクーデターをおこします。そして天皇の権力を象徴する駅鈴・内印を奪おうとしますが失敗し、近江をめざして都を離れました。政府はさっそく、三関を閉じる三関固守という措置を取りました。近江は古くから藤原氏との関係が深かった国です。ところが政府軍に先回りされ、勢多橋を焼かれたため、押勝は瀬田川の東にあった国府に行けなくなり、仕方なく湖西を越前に向けて北上することになったのです。当時、越前の国守は押勝の息子の辛加知でした。越前はにわかに緊張してきました。 しかし政府軍は再び先回りし、辛加知を殺し愛発関を押さえました。おそらく湖東を走ったのでしょう。そうとは知らずに愛発関に来た押勝軍は行く手を阻まれ、あわてて退却を余儀なくされます。再度体勢を立て直して愛発関をめざしますが、多くの犠牲を出し、さらに近江の三尾崎(高島町明神崎)での戦闘でも敗れます。進退窮まった押勝は船で湖上に逃げますが、結局捕えられ高島町勝野の乙女ケ池のあたりで、妻子従者ともども斬首されました。わずか1週間の出来事でした。 
(「 図説 福井県史」より)
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413;譬喩歌,作者:大網公人、兵庫県神戸市須磨区あたり、


[題詞]大網公人主宴吟歌一首

須麻乃海人之  塩焼衣乃  藤服  間遠之有者  未著穢

須磨の海女の 塩焼き衣の 藤衣 間遠にしあれば いまだ着なれず

* 「間(ま)遠(とほ)にし」は、その衣の織目が粗い意。塩焼衣の織目が粗いは間遠い、
  つまり会う機会がすくないと嘆いている。また、塩焼衣のように、よれよれになるまで、
  恋人となれ親しくなりたいという気持ちも秘めている。
* 「塩焼き」は「藻塩焼き」と言われ、海藻に海水を注いで干したものを焼いて水に溶かし、
  その上澄みを煮詰めて塩を作った。
* 万葉集では藤は、藤波と表現されることが多い。
  また、「海女の藤衣」と表現されているものは、つるの繊維で織った粗末な衣のこと。

すまのあまの しほやききぬの ふぢころも まどほにしあれば いまだきなれず
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須磨の海女の塩焼きに着る藤衣(ふじころも)は

織目が粗いのでなかなか着慣れないよ

しっくり着古して下さいな
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