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万葉集コミュの巻第三(みまきにあたるまき)雑歌(くさぐさのうた)351・352・353・354・355

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351;雑歌,作者:沙弥満誓,無常,太宰府

[題詞]沙弥満誓歌一首

世間乎 何物尓将譬 <旦>開 榜去師船之 跡無如

世間を何に譬へむ朝開き漕ぎ去にし船の跡なきごとし

よのなかを なににたとへむ あさびらき こぎいにしふねの あとなきごとし
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世の中を何に譬えよう 

朝に漕ぎ出した船の

航跡はなにも残らないようなものだ
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<旅人 > http://blogs.yahoo.co.jp/chiyokokkk/1483802.html
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336;沙彌満誓(まんぜい)、綿を詠む歌一首

白縫  筑紫乃綿者  身箸而  未者<伎>袮杼  暖所見

しらぬひ 筑紫の綿は 身に付けて いまだは着ねど 暖けく見ゆ
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この[しらぬひの]筑紫の綿は

身に付けてまだ着たことはないが

暖かそうに見えることだ
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「筑紫の綿」に、筑紫の女を寓意したと見る説がある。
「しらぬひ」は「白日」が国名で、筑紫の別名という説がある。
「自奴日」・・・「不知火」
当て字は固定するまでに長い時代を遍歴する。
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(千人万首)

拾遺集には次の形で載る。
世の中を 何にたとへん 朝ぼらけ 漕ぎゆく舟の 跡のしら浪

【主な派生歌】

世の中を 何にたとへん 秋の田を ほのかにてらす 宵の稲妻  (*源順[後拾遺])

世の中を 何にたとへん 風ふけば ゆくへもしらぬ 峯のしら雲  (〃[続古今])

にほ照るや 凪ぎたる朝に 見わたせば 漕ぎゆく跡の 波だにもなし  (西行)

跡もなく こぎ行く船の みゆるかな すぎぬる事は これにたとへん  (慈円)

これも又 なににたとへむ 朝ぼらけ 花ふく風の あとのしらなみ  (鴨長明)

とほざかる 人の心は うなばらの 奥行くふねの 跡のしら浪  (藤原定家)

花さそふ 比良の山風 吹きにけり こぎゆく舟の 跡みゆるまで  (*宮内卿[新古今])

朝ぼらけ 沖行く舟の ほのぼのと 霞にのこる あとのしら浪   (正徹)

行く舟の あとの白浪 かすむ日は この世の中を なににたとへん  (〃)

春のはて 花の湊や 尋ぬとも むなしき舟の 跡のしらなみ  (心敬)

浪の上を こぎ行く舟の 跡もなき 人を見ぬめの うらぞ悲しき  (賀茂真淵)

何事か おもひのこさん 朝びらき こぎゆく舟の 真帆のおひかぜ  (加納諸平)

世の中は 何にたとへむ 弥彦に たゆたふ雲の 風のまにまに  (良寛)
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沙弥満誓 さみのまんぜい 生没年未詳
笠氏の出身。父母等は未詳。俗名は麻呂。

大宝四年(704)正月、正六位下より従五位下に越階昇叙される。
慶雲三年(706)七月、美濃守に任ぜられると有能な国司として活躍し、
和銅二年(709)には業績を賞され、同四年に正五位上、同六年に従四位下と急速に昇進。同七年閏二月には木曽路を開通させた功により封戸・功田を賜わる。
霊亀二年(716)六月、美濃守に尾張守を兼任する。
養老元年(717)十二月、元正天皇が美濃国に行幸した際には従四位上に昇叙された。

養老三年(719)七月、尾張・参河・信濃の三国を管する按察使を兼ねる。同四年十月、右大弁として中央に復帰するが、翌年五月、元明太上天皇の病を理由に出家入道を請い、勅許された。

以後、満誓と号す。

養老七年(723)二月、造筑紫観世音寺別当となり、大宰府に下向。翌年大伴旅人が大宰帥として府に赴任すると、いわゆる筑紫歌壇の一員となり、万葉集に七首の短歌を残した。
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352;雑歌,作者:若湯座王,津乎

[題詞]若湯座王歌一首
若湯座王(わかゆゑのおほきみ)の歌一首

葦邊波  鶴之哭鳴而  湖風  寒吹良武  津乎能埼羽毛

葦辺には 鶴がね鳴きて 港風 寒く吹くらむ 津乎の崎はも

あしへには たづがねなきて みなとかぜ さむくふくらむ つをのさきはも

* 「はも」は終助詞「は」に終助詞「も」がついたもの。文末について、強い詠嘆の意を表す。
* 津乎の崎(琵琶湖の北部は山裾が湖水に迫り、景観はとても美しい。
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今ごろ葦辺には

鶴たちが鳴いて

寒い港風が吹いていることだろう

ああ美しかったな 津乎の崎よ
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琵琶湖の「葦」は有名。
昔“あし”と呼ばれていたものが、
“あし”は“悪し”に通じるため、反対の“良し”=“葦よし蘆”と呼ばれるようになったが同じもの。
ただし近江八幡や安土では、茎の中が空洞でヨシ製品の材料に成るものを“よし”、茎の中に綿状のものが詰まっているものを“あし”と呼ぶこともある。とのこと。
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353;雑歌,作者:釈通観,吉野

[題詞]釋通觀(しゃくつうくわん)歌一首

見吉野之  高城乃山尓  白雲者  行憚而  棚引所見

み吉野の 高城の山に 白雲は 行きはばかりて たなびけり見ゆ

みよしのの たかきのやまに しらくもは ゆきはばかりて たなびけりみゆ
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美しい吉野の高城の山に 

白雲も流れを憚り

棚引いているのが見えるよ
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高城の山;
標高702メートルの高城山はつつじが丘とも鉢伏山ともいって、鉢を伏せたような形をしている。
後世 1333年(元弘3)には、後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良親王が吉野城にたてこもり、攻め寄せる北条幕府の大軍を相手に激しい戦いを繰り広げたが、そのときの奥の詰城になったところが、この山といわれている。
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354;雑歌,作者:日置少老,縄の浦

[題詞]日置少老(へきのをおゆ)歌一首

縄乃浦尓  塩焼火氣  夕去者  行過不得而  山尓棚引

縄の浦に 塩焼く煙 夕されば 行き過ぎかねて 山にたなびく

なはのうらに しほやくけぶり ゆふされば ゆきすぎかねて やまにたなびく
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縄の浦の塩焼く煙りは

夕方になれば

消え去らず山へと棚引く

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縄の浦 (相生市・歴史街道)

相生湾を抱え込むように伸びる金ケ崎と釜崎のふたつの岬。
東側の岬、金ケ崎は万葉の岬と呼ばれ、瀬戸内海へ向かって180度の視界が開け、沖合いにかすむ淡路島、家島群島、本土側は明石海峡から岡山県の牛窓までを望むことができる。

岬の眼前には辛荷の島、室の浦など1200年前の昔、山部赤人らが船旅の途次に眺め、歌に詠んだ景観を目の当たりにすることができる。

 その山部赤人が詠んだ歌

縄の浦ゆ 背向(そがひ)に見ゆる奥(おき)つ島 漕ぎ廻(み)る舟は 釣しすらしも(万葉集巻3)「縄の浦にたどりついて振り返ると、はるか沖合に見える島、あの島あたりを漕いでいる舟は、まだ釣りのまっ最中らしい」

縄の浦とは相生湾、奥つ島は沖つ島で鬘(かずら)島のことである。
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355;雑歌,作者:生石真人,静の岩屋,島根

[題詞]生石村主真人(おいしのすぐりのまひと)歌一首

大汝  小彦名乃  将座  志都乃石室者  幾代将經

大汝 少彦名の いましけむ 志都の石屋は 幾代経にけむ

おほなむち すくなひこなの いましけむ しつのいはやは いくよへにけむ

* 「大汝」は大国主命(おおくにぬしのみこと)のことです。
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むかし大汝 少彦名の神様がたが居られたという

この志都の石窟は幾世経ているのだろう
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