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万葉集コミュの巻第三(みまきにあたるまき)雑歌(くさぐさのうた)326・327・328・329・330

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326;雑歌,作者:門部王,難波

[題詞]門部王在難波見漁父燭光作歌一首 [後賜姓大原真人氏也]

見渡者  明石之浦尓  焼火乃  保尓曽出流  妹尓戀久

見わたせば 明石の浦に 燭す火の 穂にぞ出でぬる 妹に恋ふらく

みわたせば あかしのうらに ともすひの ほにぞいでぬる いもにこふらく
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見渡すと

明石の浦に漁火が見える

その炎のようにはっきりとあらわれ出てしまった

妻への恋しさが
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明石の浦(兵庫県明石市・淡路市) 「万葉の故地」より
http://www2.odn.ne.jp/cbm54970/28akasinoto.html

明石と淡路島との間にある明石海峡、「明石の門」あるいは「明石大門」と詠まれる。
約4?の海峡で、潮流早く九州に向うあるいはその帰路、万葉の旅人には脅威の船旅であったようだ。
それ以上に、西に向う旅人にとってはここ明石の門を越えれば大和が姿を消し、いよいよ離郷の思いを味わったであろうし、帰路の旅人はようやく家族に会えるといった望郷の念にかられたことであろう。
仲哀天皇・斉明天皇は片道切符しかもらえなかった。
大海人皇子の妻、大田姫皇女は帰路には二人の子どもを抱いていた、大伯皇女と大津皇子である。多くの防人がこの海峡を過ぎていった。
鬼室集斯ら百済から多くの渡来者がやってきた。
打ちひしがれた遣新羅使人が還って来た。
現在、柿本人麻呂が見れば気絶しそうな大きな明石大橋が架かる。
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天離る 鄙の長道ゆ 恋ひ来れば 明石の門より 大和島見ゆ  巻3−255 柿本朝臣人麻呂

燈火の 明石大門に 入らむ日や 漕ぎ別れなむ 家のあたり見ず  巻3−254 柿本朝臣人麻呂
 
明石潟 潮干の道を 明日よりは 下笑(ゑ)ましけむ 家近づけば  巻6−941 山部宿禰赤人

荒栲の 藤江の浦に 鱸釣る 海人とか見らむ 旅行く我れを  巻3−252 柿本朝臣人麻呂
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門部王 かどべのおおきみ 生年未詳〜天平十七(745)

父母等は未詳。『新撰姓氏録』によれば敏達天皇の孫である百済王の後裔
和銅三年(710)正月、無位より従五位下。
養老元年(717)正月、従五位上。養老三年七月、伊勢守に伊賀・志摩按察使を兼ねる。
養老五年正月、正五位下。神亀元年(724)二月、正五位上。
神亀五年(728)五月、従四位下。この頃、「風流侍従」として長田王・佐為王・桜井王ら十余人と共に聖武天皇に仕える(『藤氏家伝』武智麻呂伝)。
天平六年(734)二月、朱雀門で歌垣が催された際、長田王・栗栖王らと共に頭をつとめる。
天平九年一月、橘少卿(佐為)らを家に招き宴(万葉6-1013・1014)。この時弾正尹。同年十二月、右京大夫。
天平十一年四月、高安王と共に大原真人を賜姓される。
天平十四(742)四月、従四位上。
天平十七年(745)四月二十三日、卒。

大蔵卿従四位上。万葉には五首。歌からは養老末年頃出雲守として赴任していたことが知られる。
(千人万首)
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327;雑歌,作者:娘子

[題詞]或娘子等<贈>L乾鰒戯請通觀僧之咒願時通觀作歌一首
《ある娘子らが干し鮑を贈って、戯れに通観僧に(鮑の甦る)祈願を頼んだとき、
通観の作る歌一首》

海若之  奥尓持行而  雖放  宇礼牟曽此之  将死還生

海神の 沖に持ち行きて 放つとも うれむぞこれが よみがへりなむ

わたつみの おきにもちゆきて はなつとも うれむぞこれが よみがへりなむ

* 「よみがえりなむ」は、黄泉から還るを「甦る」に掛けた。
* {うれむ そ」は辞書に語義未詳とある、どうしての意と解す。
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不老不死のな

常世がある沖の沖の海まで

漕いで行って放しても

どうしてこれが黄泉から還るだろうかね

あかんと思うよ
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328;雑歌,作者:小野老,奈良都

[題詞]<大>宰少貳小野老(おののおゆ)朝臣歌一首

青丹吉  寧樂乃京師者  咲花乃  薫如  今盛有

あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり

[あをによし] ならのみやこは さくはなの にほふがごとく いまさかりなり
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わが京(みやこ)平城の京は

たとえば満開の花が華やぐごとく

まさに今 まっ盛りであることだ
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* 「あをによし」奈良にかかる枕詞。「あをに」は建築物の装飾に使う青土(あおに)のこと。奈良がその名産地だった。青土と書いて「青」(土)と丹(水銀朱)が美しい国の意もある。

* 小野老は、大伴旅人の帰京と前後して大宰府から平城京に戻ったらしい。ひなびた田舎から、いく年ぶりに見る京、「咲く花のにほうがごとく」と実感として讃えたのだろう。
この後、恭仁(くに)の京への遷都や政情の不安定が続いたことを考えれば、この頃が平城の京の絶頂期だったのかもしれない。

* 小野老; 生年不詳〜737年
  遣隋使小野妹子の孫、遣新羅使の小野毛人(おののえみし)の子、遣唐使小野石根(おののいわね)の父。大伴旅人の配下で、太宰大弐(だざいのだいに)(大宰府の次官)を務めた。
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329;雑歌,作者:大伴四綱,太宰府

[題詞]防人司佑大伴四綱歌二首

安見知之  吾王乃  敷座在  國中者  京師所念

やすみしし 我が大君の 敷きませる 国の中には 都し思ほゆ

[やすみしし] わがおほきみの しきませる くにのうちには みやこしおもほゆ
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大君の

御統治されている国々の中では 

やはり都が思われます
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330;雑歌,作者:大伴四綱,太宰府

[題詞](防人司佑大伴四綱歌二首)

藤浪之  花者盛尓  成来  平城京乎  御念八君

藤波の 花は盛りに なりにけり 奈良の都を 思ほすや君

ふぢなみの はなはさかりに なりにけり ならのみやこを おもほすやきみ
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藤の花が盛りですね 

奈良の都を思われますか 

貴方は
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大伴四綱 おおとものよつな 生没年未詳

天平初年頃、防人司佑として大宰府に仕えていた(万葉集)。
天平十年(738)四月、大和少掾。同十七年十月、雅楽助正六位上行助勲九等。
万葉集巻三に二首、巻四に二首、巻八に一首入集。名は四縄ともある。


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