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万葉集コミュの万葉集巻三(235〜483)261・262

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261;雑歌,作者:柿本人麻呂,新田部皇子,献呈歌,飛鳥

[題詞]柿本朝臣人麻呂獻新田部皇子歌一首[并短歌]
(柿本人麻呂、新田部皇子に奉った歌。)

[原文]ー[訓読]ー[仮名]ー 
八隅知之ー[やすみしし] 
吾大王ー我が大君ーわがおほきみー  
高輝ー高照らすー[たかてらす] 
日之皇子ー日の御子ーひのみこー 
茂座ー敷きいますー[しきいます]  
大殿於ー大殿の上にーおほとののうへにー 
久方ー[ひさかたの]  
天傳来ー天伝ひ来るーあまづたひくるー 
<白>雪仕物ー雪じものー[ゆきじもの] 
徃来乍ー行き通ひつつーゆきかよひつつー 
益及常世ーいや常世までーいやとこよまでー
・・・・・・・・・・・・・・ 
あまねく統治なさるわが大君

高く輝く太陽の御子が君臨なさる御殿の上に

遥か天空を伝って降り来る雪のように

わたしも往き来して

通い続け お仕え申しあげよう 

永遠の後までも
・・・・・・・・・・・・・・

262;雑歌,作者:柿本人麻呂,新田部皇子,献呈歌,飛鳥

[題詞](柿本朝臣人麻呂獻新田部皇子歌一首[并短歌])反歌一首

矢釣山  木立不見  落乱  雪驪  朝樂毛

矢釣山 木立も見えず 降りまがふ 雪に騒ける 朝楽しも

やつりやま こだちもみえず ふりまがふ ゆきにさわける あしたたのしも
・・・・・・・・・・・
矢釣山の

木立も見えぬほど

降り乱れる雪の朝は

そのねも楽しいことだよ
・・・・・・・・・・・
新田部親王(にいたべしんのう 、生年不詳 - 天平7年9月30日(735年10月24日))は日本の飛鳥時代から奈良時代にかけての皇族。位階は一品、官職は大惣管。新田部皇子(にいたべのみこ)とも呼ばれる。
天武天皇の子。母は藤原五百重娘(藤原鎌足の娘)。
文武天皇4年(700年)1月、浄広弐の冠位を授けられる。慶雲3(706年)年1月、封戸100戸の増封に与った際の位階は三品、慶雲4年(707年)10月、文武天皇の葬儀に際し造御竈司とされた際には二品であった。
養老3年(719年)10月、ときの元正天皇は、舎人・新田部の両親王に皇太子首親王(のちの聖武天皇)の補佐を命じるとともに、宗室の年長者であり天皇にとっても重要な人物であるとして、これを褒賞し、それぞれ内舎人・大舎人・衛士を与え、封戸を加増している。このとき新田部が与えられたのは内舎人2人・大舎人4人・衛士20人・封戸500戸(あわせて1,500戸)であった。
養老4年(720年)4月に右大臣藤原不比等が死去すると、舎人の知太政官事任命と並行して、知五衛及授刀舎人事に任命され、朝廷直轄の軍事力(五衛府・授刀舎人寮[1])の統括者となった。神亀元年(724年)2月、聖武天皇が即位すると、二品から一品に昇叙された。なお『続日本紀』神亀5年(728年)7月21日条には「三品大将軍新田部親王に勅して明一品を授く」とあるが、このときすでに新田部は一品であり「明」は大宝令施行とともに廃止された親王のための最高位の冠位である。この記事の意味は判然としないが、新田部が「大将軍」の称号を有していたことが判明する。
神亀6年(729年)2月、長屋王が謀反の疑いをかけられた際には、六衛府の軍隊が屋敷を包囲するなか、舎人・藤原武智麻呂・多治比池守らとともに派遣されてその罪の糾問に当たっている。天平3年(731年)6月、畿内に惣管、諸道に鎮撫使が設置された際には、大惣管に任じられた。
天平7年(735年)9月、死去。同年11月には舎人も死去している。
新田部の邸宅のあった地は、道祖と塩焼の横死によりいったん収公され、その後鑑真に与えられ唐招提寺となった。
(出典・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

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