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万葉集コミュの万葉集巻三(235〜483)247・248

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247;雑歌,作者:石川大夫(宮麻呂:君子),長田


[題詞]石川大夫和歌一首 [名闕](石川大夫の和する歌一首)

奥浪  邊波雖立  和我世故我  三船乃登麻里  瀾立目八方

沖つ波 辺波立つとも 我が背子が 御船の泊り 波立ためやも

おきつなみ へなみたつとも わがせこが みふねのとまり なみたためやも
・・・・・・・・・・・・・・・・
沖に 岸辺に

波立つことがあっても

あなたの御船の泊まりには

波が立つことはありますまい
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

248;雑歌,作者:長田王,羈旅,黒瀬戸,鹿児嶋

[題詞]又長田王作歌一首

隼人乃  薩麻乃迫門乎  雲居奈須  遠毛吾者  今日見鶴鴨

隼人の 薩摩の瀬戸を 雲居なす 遠くも我れは 今日見つるかも

はやひとの さつまのせとを くもゐなす とほくもわれは けふみつるかも

◇隼人の薩摩の瀬戸;天草諸島の長島と九州本島阿久根市黒之浜の間の海峡。
◇雲居なす 雲のように、遥か彼方に。
・・・・・・・・・・・・・
隼人が住む薩摩の瀬戸を

雲と見まがうほど彼方に

今日は見晴しもよく

眺められるものだなあ
・・・・・・・・・・・・・
<流刑>か?
この長田王。普通の人ではない。王というから皇族。
王は伊勢の<斎宮>に派遣された時、詠んだ歌も「万葉集」にある。

山の辺(へ)に 御井(みゐ)を見がてり 神風の 伊勢少女(をとめ)ども 相見つるかも(長田王・巻1-81)

<山の辺(へ)の御井>というから<斎宮>の井戸ではない。だがその後、伊勢の少女に会った。そして<九州派遣>―――。不思議な話だ。だがそれを<斎宮><侵犯>ととれば<謎>は<氷解>する。<神聖>にして<犯せざる>美少女に、思わず<手>を出してしまった?。

薩摩は<大宰府>すら越えた<僻遠>の地。当時、南辺は必ずしも平穏ではなかった。養老年間(717〜724)には大伴旅人が征隼人持説大将軍として派遣されたほど。長田王の薩摩派遣もその頃。ことによると旅人と同行したかもしれない。

南辺はまだ完全には朝廷に帰属しておらず、その意味では<異郷>だった。一方、日向に聳える高千穂の峰は<天孫>が<降臨>した山。<神話>に属する世界だった。薩摩の笠紗(かささ)はこの天孫が土地の娘と<聖婚>を遂げた地でもあった。
・・・・・・・・・・・・・・・
<転載記事>『旅人』より。
http://blogs.yahoo.co.jp/chiyokokkk/2568788.html
長田王(ながたのおほきみ)は、和銅4年(711)正五位下。その後順調に昇進しつづけ、霊亀2年(716)10月、近江守、天平 1年(729) 9月、衛門督、天平 4年(732) 10月、摂津大夫などを歴任。天平9年(737) 6月、散位正四位下で卒。風流侍従と称せられ、天平6年2月、天皇臨席のもとに行われた朱雀門の歌垣において、五品以上の風流者の随一として門部王らと参加した。
 cf. 大夫(だいぶ)→四位・五位の官人に対する敬称。
天武天皇の第4子、長皇子の子。赤人と同時代。

♪隼人の 薩摩の瀬戸を 雲居なす 遠くも我は 今日見つるかも   (万葉集・巻3・248)
 (隼人らの住む薩摩の瀬戸を 遠い雲のように 遥かに私は 今日見たことよ)
 cf. 隼人→ハヤヒトは日向・大隈・薩摩に住む部族で勇猛果敢、行動が敏捷なところからその名があろ。大和政権に服属せずしばしば反乱し、そのたびに朝廷から征隼人将軍が派遣された。一部は中央に移住させられ、隼人司に属し宮廷の警固に当てられた。「隼人が宮廷の警備にあたって、犬の吠える声に似た吠声を発した。」(『延喜式』)
 隼人は、都に連れて来られて宮廷で屈辱的行為を強いられたのです。
 隼人は土着性の強い文化を築いた。全国的には方形住居が主流になる古墳時代以降も、弥生時代以来の円形住居も営まれ、奈良・平安時代まで引き継がれた。
♪隼人の名に負う夜声 いちしろく わが名は告りつ 妻とたのませ
          (万葉集・巻10・2497)
(隼人の名だたる夜蕃警戒のさいの声がはっきり聞こえるように)中世以降ハヤトとも呼ばれる。
 cf. 隼人→ホデリは隼人の祖。火中出産で産まれた三つ子の一人。
第一子の火照命(ホデリ・海幸彦)。第三子の火遠理命(ホオリ・山幸彦)
 今でも隼人はホオリが溺れた時の仕草を演じて仕えているのである(『記』)
 大嘗祭などの際に、服属した異族として隼人が緋の領布を身に付ける。
 cf. 大嘗祭→古代国家のもとで、原始宗教は天つ国・国つ神(天神地祇)を祀る古代神道に発展する。大和朝廷の神々は土着の神々より上位の神とされた。
 天皇が行うニイナメ(農耕の喜び・秋の収穫祭)は、やがてアマテラスオオミカミにイネの稔りを感謝し新穀を神とともに食べて天皇が皇祖神と一体になる祭りとなる。7c末天武天皇時代から新しい天皇が即位すると、一代一度の大掛かりな新嘗祭を行う。これが大嘗祭。
   瀬戸→海峡
   雲居→雲のたなびく遠方
旅人は、元正天皇の時代、養老4年(720)2月に 九州南部の隼人が大隈の国の守を 殺害する事件が起こり、 3月に征隼人持節大将軍として鎮圧に向かった。( 8月に召還)
この時、もしかしたら、長田王と戦友だったかも、、、
旅人は、筑紫時代、望郷の念にかられ、遥かに吉野離宮を思ってうたった。
♪隼人の 湍門の磐も 年魚走る 吉野の滝に なほ及かずけり (万葉集・巻6・960)
 (はやひとの せとのいはほも あゆはしる よしののたきに なほいかずけり)
 (隼人の瀬戸の巨岩も、鮎の走る吉野の激流には やはり及ばない)
隼人の瀬戸は「隼人の薩摩の瀬戸」(巻3・248)と 同じ場所で、阿久根市黒之浜と長島
(出水郡)との間の「黒之瀬戸」である。旅人は薩摩まで軍を指揮して行った時、この瀬戸の激流を見た。その体験を思い出したのである。
長田王は、筑紫にも来てる。歌は、
♪聞くがごと まこと貴く 奇(くす)しくも 神さびをるか これの水島(巻3・245)
 (噂の通り 実に貴く 不可思議にも 神々しくあることか この水島は)
 cf. 聞くがごと→九州滞在中の、第12代景行天皇(ヤマトタケルの父)が肥後国葦北(あしきた)の小島で食事をしようとした時、冷水を望まれたが島中に水なく、窮した従者が天神地祗にいのったところたちまち冷泉が湧き出たのでこの島を水島という   「景行紀、18年条」
♪葦北の 野坂の浦ゆ 船出して 水島に行かむ 波立つなゆめ     (巻3・246)
 (葦北の 野坂の浦から 船出して 水島に行こう 波よ立ってくれるな)


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