ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

万葉集コミュの万葉集巻三(235〜483)242・243

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
242;雑歌,作者:弓削皇子,吉野

[題詞]弓削皇子遊吉野時御歌一首(弓削皇子(ゆげのみこ)、吉野に遊しし時の御歌一首)

瀧上之  三船乃山尓  居雲乃  常将有等  和我不念久尓

滝の上の 三船の山に 居る雲の 常にあらむと 我が思はなくに

たきのうへの みふねのやまに ゐるくもの つねにあらむと わがおもはなくに
・・・・・・・・・・・・・・・
吉野川の激流の上に聳える三船山にかかる

あの雲のようにいつまでもこの世に生き長らえようとは

わたしには思われないのだ
・・・・・・・・・・・・・・・
<飛沫をあげ轟きながら瞬時に流れ去る激流と、霊魂とも見られる悠然たる雲。
皇子は何か不安にかられておられたのではないだろうか。>

【主な派生歌】

月かげに みがきておつる 滝のうへの みふねの山は 雲もかからず (伏見院)

五月雨に にごりておつる 滝の上の 御船の山は 雲ぞかかれる (洞院公泰[新葉])
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

243;雑歌,作者:春日王,弓削皇子,吉野

[題詞](弓削皇子遊吉野時御歌一首)春日王奉和歌一首
(春日王<志貴皇子の御子>(かすがのおほきみ)の和せ奉る歌一首)

王者  千歳<二>麻佐武  白雲毛  三船乃山尓  絶日安良米也

大君は 千年に座さむ 白雲も 三船の山に 絶ゆる日あらめや

おほきみは ちとせにまさむ しらくもも みふねのやまに たゆるひあらめや
・・・・・・・・・・・・・
大王(おほきみ)は

きっと長寿されることでしょう

白雲が三船山から絶えることなど

ありえましょうか
・・・・・・・・・・・・・
244 242の異歌。
・・・・・・・・・・・・・
<転載記事>『万葉集 柿本人麻呂と高市皇子 』
http://blogs.yahoo.co.jp/dokatakayo/19521454.html
とぼけた万葉集 弓削皇子と万葉集

 弓削皇子の歌に、持統四年(690)前後の持統天皇の吉野遊覧の時の歌と思われる歌があります。ちょうど、年代的には紀皇女への歌四首が詠まれたときと、ほぼ、同時代となるようです。学問が面白くなったときと、異性を恋の対象として強く思うようになった時代が重なりますので、多感な十八歳前後の青春だったようです。
 最初に、霍公鳥に関わる歌二首を次に載せます。

幸于吉野宮時、弓削皇子贈与額田王謌一首
集歌111 古尓 戀流鳥鴨 弓絃葉乃 三井能上従 鳴濟遊久
 古(いにしへ)に恋ふる鳥かも弓絃葉(ゆづるは)の御井(みゐ)の上より鳴き渡り行く

額田王奉和謌一首  従倭京進入
集歌112 古尓 戀良武鳥者 霍公鳥 盖哉鳴之 吾念流碁騰
 古(いにしへ)に恋ふらむ鳥は霍公鳥けだしや鳴きし吾(わ)が念(おも)へるごと

 昔からこの二首は、「蜀魂伝説の望帝杜宇」の故事を下書きにしているとされています。また、額田王は宮廷女流歌人ですから、学問や歌の勉強に励む青年とその歌の女先生の関係も忘れてはいけないようです。

 最初に、とぼけた万葉集の視線から、二人の間での歌の遣り取りの風景を確認します。

 まず、弓削皇子から最初の謎懸け歌が、吉野の皇子から飛鳥御浄原宮に居る額田王の許に贈られたようです。それが、集歌111です。その歌に対する額田王の返歌が集歌112ですが、これも含みを持たせています。私は、この返歌に対する答えが、歌ではなく弓削皇子が贈った「折取蘿生松柯(苔生す松の枝)」だったと思っています。この皇子の答えに額田王は満足したようです。その時の皇子を誉めた歌が次の歌です。

従吉野折取蘿生松柯遣時、額田王奉入謌一首
集歌113 三吉野乃 玉松之枝者 波思吉香聞 君之御言乎 持而加欲波久
 み吉野の玉松(たままつ)が枝(え)は愛(は)しきかも君が御言(みこと)を持ちて通はく

 歌の遣り取りの風景を殊更に説明するのも興ざめかも知れませんが、確認のために少し触れます。これらの遣り取りは、集歌111の歌の中から初夏に鳴き渡る鳥の季節感と「古尓 戀流鳥鴨(古に恋ふる鳥かも)」から、霍公鳥を導き出すところから始まります。この謎懸け歌での下句はおまけと思っています。無理に御井伝説や常緑の弓絃葉から永遠の命を引き出す必要はないと思います。吉野の自然の風景を歌ったもので、普通の人では気付かない謎を隠しているだけと思っています。
 次に、額田王の返歌の「盖哉鳴之 吾念流碁騰(けだしや鳴きし吾が念へるごと)」が難しいのです。霍公鳥は歌の世界では「不如帰去(帰り去くに如かず:帰りたい)」と鳴くのですが、それだけでは額田王の謎に答えたことになりません。さて、額田王は、どこに帰るのでしょうか。そして、「吾念流碁騰(吾が念へるごと)」とは何を希望したのでしょうか。ここに、額田王は含みを持たしているのです。額田王は、弓削皇子の歌の初句の「古尓」を繰り返すことで、謎をかけているのです。つまり、「若かった、昔の私に戻りたい。」の謎を隠しているのです。それで、額田王へ再度の返歌の代わりに、弓削皇子は長寿を祝う「折取蘿生松柯(苔生す松の枝)」を、何の文も付けずに贈ったのです。
 だから、額田王は集歌113で弓削皇子を誉めたのです。歌の生徒の成長に、目を見張るものがあったでしょうし、老女に長寿を願う言葉を、周囲が分かるような短歌の形で直接に贈るような不風流ではありません。教養ある額田王が見れば分かるとして、何も云わずに「折取蘿生松柯(苔生す松の枝)」を贈るのが風流です。その皇子の配慮が愛しいのですし、言わずとも「松の枝」が「君之御言乎 持而加欲波久(君が御言を持ちて通はく)」のです。親子ぐらい年の離れた男女ですが、同じ価値観での歌の世界に生きています。紀貫之が云う、「身をあはせたりといふなるべし」の風景です。

 およそ、とぼけた万葉集ぐらいでしょうか。こんな発想で歌を読むのは。さて、私は風流でしょうか? とぼけ過ぎているでしょうか? 
 普通では、私はとぼけ過ぎているようです。本当の風流人は、「不如帰去」で天智天皇を、「折取蘿生松柯(苔生す松の枝)」の贈り主を持統天皇としてください。それが、常識です。
 これらの歌の遣り取りは、弓削皇子が十八歳ぐらいのときのことのようです。助言をする御付の人が居るとはいえ、学問の才能に対して、少し恐ろしい感じがします。秀才過ぎたような一面を、垣間見たような気がします。

弓削皇子遊吉野時、御謌一首
集歌242 瀧上之 三船乃山尓 居雲乃 常将有等 和我不念久尓
 滝の上の三船の山に居(ゐ)る雲の常にあらむと吾(わ)が念(おも)はなくに

或本謌一首
集歌244 三吉野之 御船乃山尓 立雲之 常将在跡 我思莫苦二
 み吉野の御船の山に立つ雲の常にあらむと我が思はなくに
右一首柿本朝臣人麿之謌集出

 また、集歌242は、仏教の無常観が背景にあるような歌です。人は山とは違い、流れる雲のように無限には生きられないことを詠っているようです。これに対して、春日王は言直しの歌を詠って、皇子の長寿を願った形を取っています。

春日王奉和謌一首
集歌243 王者 千歳[二]麻佐武 白雲毛 三船乃山尓 絶日安良米也
 王(おほきみ)は千歳(ちとせ)に坐(ま)さむ白雲も三船の山に絶ゆる日あらめや

 ここで、これらの歌を鑑賞するときに、弓削皇子の額田王との歌の遣り取りの情景に戻ってください。そして、十八歳前後の若者の歌であることを、想像してください。これらは、中年の男性の歌ではないのです。これらの情景から、私にとって弓削皇子は秀才の匂いがぷんぷんするような人物に思えてなりません。書物の世界を引き取って、そのまま詠ったかのような気がします。
 それでいて、弓削皇子は紀皇女への歌からすると恋愛には非常に臆病なのです。最初から、答えが見つからない恋愛に対する歌と、額田王への贈答歌とのギャップがとても大きいような気がします。それが、十八歳位の優秀すぎる青年の気持ちなのでしょうか。

 さて、次の歌は文武三年に弓削皇子がおよそ二十六歳の若さで亡くなられたときの、挽歌です。集歌204と205は良いとしても、集歌206は少し不思議な歌です。

弓削皇子薨時置始東人作謌一首并短謌
集歌204 安見知之 吾王 高光 日之皇子 久堅乃 天宮尓 神随 神等座者 其乎霜 文尓恐美 晝波毛 日之盡 夜羽毛 夜之盡 臥居雖嘆 飽不足香裳
 やすみしし 吾(わ)が王(おほきみ) 高光る 日の皇子 ひさかたの 天つ宮に 神ながら 神と座(い)ませば そこをしも あやに恐(かしこ)み 昼はも 日のことごと 夜(よる)はも 夜(よ)のことごと 臥(ふ)し居(ゐ)嘆(なげ)けど 飽き足らぬかも

反謌一首
集歌205 王者 神西座者 天雲之 五百重之下尓 隠賜奴
 王(おほきみ)は神にしませば天雲の五百重(いほへ)が下に隠(かく)り賜ひぬ

又短謌一首
集歌206 神樂[浪]之 志賀左射礼浪 敷布尓 常丹跡君之 所念有計類
 楽浪(さざなみ)の志賀さざれ波しくしくに常にと君が念(おも)ほせりける

 集歌204や集歌205は、草壁皇子の挽歌以降の天皇や皇子級の皇族の挽歌の踏襲的歌です。さて、集歌206の歌が難しいのです。なぜ、志賀に関わるこの歌が弓削皇子の挽歌として詠われたのでしょうか。それも、「志賀左射礼浪 敷布尓(志賀さざれ波しくしくに)」とありますから、「小さなうねりのような柔らかな波が次々と打ち寄せるようもの」とは、何でしょうか。それが、今後も変わらずにあってほしいとは、何を示すのでしょうか? さて、弓削皇子は、志賀で何を生前に望んでいたのでしょうか? この歌は挽歌ですから、謎懸けの歌ではないので、葬儀の参列者が共感できなければいけません。何かがあるはずです。まず、楽浪(さざなみ)の志賀は、滋賀県高島市の延喜式内神社である弓削神社に関係すると想像できるでしょう。たぶん、この地に皇子の湯沐があったのでしょう。

 さて、集歌206は皇子の若死を踏まえての挽歌としますと、この歌は皇子の歌に対する言葉直しの意味合いを込めた歌かも知れません。

集歌242 瀧上之 三船乃山尓 居雲乃 常将有等 和我不念久尓
 滝の上の三船の山に居(ゐ)る雲の常にあらむと吾(わ)が念(おも)はなくに

「常将有等 和我不念久尓(常にあらむと吾が念はなくに)」に対する、「常丹跡君之 所念有計類(常にと君が念ほせりける)」なのかも知れません。絶えるものの象徴が「雲」であるならば、絶えないものの象徴が「波」なのでしょうか。そのような皇子が思った「常将有等」に対する言葉直しの「常丹跡」であれば、十分、挽歌になるのではないでしょうか。

 このとぼけた万葉集の解釈が成り立つならば、これこそ、「言霊」の世界です。集歌242を詠い上げることで、自分の寿命は長く続かないと吉野の神々に宣言したと皆が思ったのでしょうか。実のところ、集歌206については、よく分かりません。

 蛇足:高市皇子が亡くなられたとき、懐風藻では皇室会議での皇位継承の議論で、弓削皇子は葛野皇子に叱られた形になっていますが、噂される兄の長皇子のためではありません。このときの皇位継承の議論の対象者は、文武天皇と長屋親王の二人です。年は一つ違いで、共に皇太子と内親王との間の長男の皇子です。それに、長皇子は文武天皇の太政大臣ですから、一種の後見人の立場です。本来は、親の政治的実績や本人の人物からすると、長屋親王の方が天皇に相応しいと思われるのですが、このとき、天武天皇と六皇子との吉野盟約が生きていたのでしょう。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

万葉集 更新情報

万葉集のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング