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万葉集コミュの万葉集巻三(235〜483)235・235S

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235;雑歌,作者:柿本人麻呂,現人神,天皇讃美,宮廷讃美,飛鳥

[題詞]天皇御遊雷岳之時柿本朝臣人麻呂作歌一首
(持統天皇が雷岳(いかづちのおか)に御遊ししとき柿本人麻呂の作る歌)

皇者  神二四座者  天雲之  雷之上尓  廬為<流鴨>

大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に 廬りせるかも

おほきみは かみにしませば あまくもの,いかづちのうへに いほりせるかも

[左注]右或本云獻忍壁皇子也 其歌曰 王 神座者 雲隠伊加土山尓 宮敷座
・・・・・・・・・・・・・・・・・
大君は神にあらせられるので

[天雲の} 雷の上に

仮宮を造られておられるのであるな
・・・・・・・・・・・・・・・・・

235S;雑歌,作者:柿本人麻呂,現人神,天皇讃美,宮廷讃美,飛鳥

[題詞]右或本云獻忍壁皇子也 其歌曰
(或る本では忍壁皇子に奉った歌といわれる)

王  神座者  雲隠伊加土山尓  宮敷座

大君は 神にしませば 雲隠る 雷山に 宮敷きいます

おほきみは かみにしませば くもがくる いかづちやまに みやしきいます
・・・・・・・・・・・・・・・・
天皇は神でいらっしゃるので

天雲に隠れてとどろく雷の山に

宮殿をお作りになっていらっしゃる
・・・・・・・・・・・・・・・・
<転載記事>[たのしい万葉集]より。
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/three/m0235.html
ここでの「大君(おほきみ)」は、天武天皇・持統天皇・文武天皇いずれかと考えられます。持統天皇(じとうてんのう)ではないでしょうか。雷丘(いかづちのおか)のことを「天雲の、雷(いかづち)」と表現していると考えられますが、ずいぶんと大げさな言い方に聞こえますね。
・・・・・・・・・・・・・・・・
<転載記事>[雷(いかづち)丘 ]より。
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/25616461.html
○雷(いかづち)丘は、奈良県高市郡明日香村雷に存在する小さな丘である。丘の高さはせいぜい、10数?くらい、長さも100?ほどではないか。香具山から南下して、飛鳥に向かう途中の信号機のある交差点の角に存在した。

○以下の案内がなかったら、多分見落としていただろう。

 雷丘(いかずちのおか)
  IKAZUCHI HILL
大君(おおきみ)は神にしませば 天雲の 雷の上に 庵(いほ)りせるかも
               柿本人麻呂
大君は神でいらっしゃるので、天雲の中にいる雷の上に仮の御殿をお造りになっていらっしゃることだ
(解説)
人麻呂が「天皇、雷丘に出でます時」に作ったと題する歌で、天皇とは一般に天武天皇のこととされている。「日本書紀」や「日本霊異記」に、雷神の降臨する説話を伝える聖なる丘であったことが記されており雷丘の名もこれに由来しているらしい。

○以前、甘樫丘に登った時、飛鳥川の先に雷丘が見えた。これまで明日香方面からしか、雷丘を確認したことがなかったので、香具山方向から眺める雷丘は、また新鮮な感じであった。これまで雷丘と言えば、鬱蒼とした森のイメージであった。それが今回、木々を幾らか残しただけの雷丘は、ひどく貧相な丘の様子に見えた。

○いろいろ調べてみると、雷丘では発掘調査が行われたらしい。その結果、今のような様子に様変わりしたのであろう。丘に登る小道も付いていたので、そこから登ってみた。畝傍山や香具山がきれいに見えた。耳成山は障害物で見ることは出来ない。丘の形状はまるで前方後円墳のような様である。

○案内板の歌は、「万葉集」巻第三・雑歌の冒頭に載せる歌である。

天皇、雷岳に御遊しし時、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首

大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に 庵らせるかも  (235)

右、或る本に曰く、忍壁皇子に献ると言へり。その歌に曰く、

大君は 神にしませば 雲隠る 雷山に 宮敷きいます

○「万葉集」は、その冒頭に、次の雄略天皇の御歌を載せる。

籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち この岳に 菜摘ます兒 家聞かな 告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ座せ われにこそは 告らめ 家をも名をも  (1)

○「万葉集」がその冒頭に雄略天皇の御歌を載せるには意味がある。敷島の道が雄略天皇(第21代天皇)の御代から始まったことを意味するのである。もちろん、それ以前にも伝承された歌は数多く存在するのであるが、歌の道が創始されたのが、雄略天皇の御代であったと、当時の人々には意識されていたと思われる。

○「古今和歌集」仮名序に拠れば、敷島の道の始まりは、難波津の歌からで、仁徳天皇(第16代天皇)の御代からであるとしている。難波津の歌は次の通り。

難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花

○「万葉集」の部立て(構成)は、大きく「雑歌・相聞・挽歌」の三つである。そのうち、「万葉集」の巻一は雑歌のみで構成され、巻二は相聞と挽歌を掲載する。だから、形式上は、「万葉集」は巻一と巻二で完結することになる。次に、巻三は雑歌と譬喩歌と挽歌で構成され、巻四は相聞で構成されているから、巻三と巻四で更に一つの完結を迎えているのである。 
 
○そういうふうに考えると、柿本人麻呂の歌は、決して天武天皇当時の雷丘の情景を歌ったものではないことが分かる。人麻呂は雄略天皇の御代の話を思い出して歌っているに過ぎない。雄略天皇の御代の話には、二つがある。

○一つは、上記の「籠もよ み籠持ち 掘串もよ」の歌である。ここ雷丘に、「み掘串持ち この岳に 菜摘ます兒」が存在したのである。雄略天皇はその兒に懸想した。だから「家聞かな 告らさね」と、その女性に家の在りかと名前を尋ねるのである。

○誰もが雷が恐ろしいと思っているかも知れないが、「地震・雷・火事・親父」以上に恐ろしいのが、実は雄略天皇なのである。その証拠に、雄略天皇は、ここでもその女性を脅迫している。「そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ座せ」以上の脅迫の文言はあるまい。日本全土は私のものだ。その私が「われにこそは 告らめ 家をも名をも」と言う以上、これを拒絶出来る者は日本には居るわけがない。

○この歌を、春の若菜摘みの、ほほえましい情景と捉えている解説があったりするが、そんなはずはない。相手は獰猛無慈悲で有名な、あの雄略天皇である。そんなロマンチックな話など考えられるはずもない。生か死か、それしか無い、恐ろしい世界の話なのである。

○もう一つの話は、もっと面白い。話は、「日本国現報善悪霊異記」と言う長い題名の本に載っている。あまりに長すぎるので、縮めて「日本霊異記」と言う。日本で最も古い説話集であり、僧景戒の著。弘仁十三年(822年)ころ成立したとされる。その冒頭も、実は雄略天皇の逸話から成っている。題して、「捉電縁(電を捉ふる縁)第一」。

○主人公の名は小子部栖軽(ちいさこべのすがる)と言う。名前に小子部とあるから、大したことのない人物であるかのように思えるが、仕える天皇が天皇であるからして、随身である小子部栖軽も只者ではない。ある日、雄略天皇が寝室で妃といちゃいちゃしていたところに、小子部栖軽がつい、うっかり踏み込んでしまった。「いちゃいちゃ」と表現したが、原文では、しっかり「婚合(くなかひ)」と記してある。怒った天皇は、その時鳴っていた雷を捕まえて来いと、まるで乱暴な勅命を下すのである。勅命を受けた小子部栖軽は、平然とまず、雷を捉える為に、身支度を整えるのであるが、それがまた実に格好良い。額に赤い鉢巻きをし、赤い幡桙を捧げて、馬に乗って、「天の鳴雷神、天皇請け呼び奉る云々」と大声で叫びながら、大路を駆け巡ったと言う。流石、小子部栖軽、ついに雷丘で落ちてきた雷神を捕獲。すぐさま轝籠に閉じこめて、堂々天皇に献上した。捕獲されて轝籠に入れらて、ピカピカ光っている雷神を見て、天皇は吃驚仰天。すぐさま落ちた雷丘にお返しなさったそうである。

○何処の世界でも復讐は付き物である。捕獲されて轝籠に入れらると言う屈辱を味あわされた雷神はどうしてもリベンジしなくては気が済まない。復讐に燃えて機会を窺っていたら、どうしたことか、小子部栖軽はあっけなく死んでしまった。雄略天皇はその死を悼み、雷丘に墓を造り、「雷を取りし栖軽が墓」と言う柱を立てさせた。愚弄された雷神は怒って、その柱に鳴り落ちたところ、何と柱が砕け、その間に雷神は挟まってしまった。何とも愚かな雷神であるけれども、雄略天皇は雷神を開放し、再び柱を立てて、「生きても死にても雷を捕へし栖軽が墓」と碑文に記しなさったと言う。

○雷(いかづち)丘に登り、懸命に小子部栖軽の墓碑銘、「生きても死にても雷を捕へし栖軽が墓」を捜索したが、残念ながら発見出来なかった。おそらく、雷神が密かに持ち去ったものと思われる。

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