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万葉集コミュの万葉集183・184・185・186・187・188・189・190・191・192・193、挽歌,作者:舎人,草壁皇子(前ページからつづき)

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183;挽歌,作者:舎人,草壁皇子,柿本人麻呂,島の宮,殯宮挽歌,飛鳥

[題詞](皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首)

吾御門 千代常登婆尓 将榮等 念而有之 吾志悲毛

我が御門千代とことばに栄えむと思ひてありし我れし悲しも

わがみかど,ちよとことばに,さかえむと,おもひてありし,われしかなしも

[左注](右日本紀曰 三年己丑夏四月癸未朔乙未薨)
・・・・・・・・・・・・・・
わが御子の宮殿は千代までも

永遠に栄えると思っていた私は悲しいばかりだ
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184;挽歌,作者:舎人,草壁皇子,柿本人麻呂,島の宮,殯宮挽歌

[題詞](皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首)

東乃 多藝能御門尓 雖伺侍 昨日毛今日毛 召言毛無

東のたぎの御門に侍へど昨日も今日も召す言もなし

ひむがしの,たぎのみかどに,さもらへど,きのふもけふも,めすこともなし

[左注](右日本紀曰 三年己丑夏四月癸未朔乙未薨)
・・・・・・・・・・・・・・・・・
東の滝の御門に出仕しているのに

昨日も今日もお召しのお声がかからないことだ
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185;歌,作者:舎人,草壁皇子,柿本人麻呂,島の宮,殯宮挽歌

[題詞](皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首)

水傳 礒乃浦廻乃 石<上>乍自 木丘開道乎 又将見鴨

水伝ふ礒の浦廻の岩つつじ茂く咲く道をまたも見むかも

みなつたふ,いそのうらみの,いはつつじ,もくさくみちを,またもみむかも

[左注](右日本紀曰 三年己丑夏四月癸未朔乙未薨)
・・・・・・・・・・・・・・・・・
水ぎわの磯の浦の磯つつじが茂り咲く

この道を再び見ることがあるだろうか
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186;挽歌,作者:舎人,草壁皇子,柿本人麻呂,島の宮,殯宮挽歌

[題詞](皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首)

一日者 千遍参入之 東乃 大寸御門乎 入不勝鴨

一日には千たび参りし東の大き御門を入りかてぬかも

ひとひには,ちたびまゐりし,ひむがしの,おほきみかどを,いりかてぬかも

[左注](右日本紀曰 三年己丑夏四月癸未朔乙未薨)
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一日に何度となく参上した東の大きい御門

もう入る事はできなくなってしまったのか
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187;挽歌,作者:舎人,草壁皇子,柿本人麻呂,佐田岡,殯宮挽歌

[題詞](皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首)

所由無 佐太乃岡邊尓 反居者 嶋御橋尓 誰加住<N>無

つれもなき佐田の岡辺に帰り居ば島の御階に誰れか住まはむ

つれもなき,さだのをかへに,かへりゐば,しまのみはしに,たれかすまはむ

[左注](右日本紀曰 三年己丑夏四月癸未朔乙未薨)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以前無関係だった佐太の丘あたりに来てお仕えしているが

今は島の宮殿の御橋を誰が通うのだろうか
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188;挽歌,作者:舎人,草壁皇子,柿本人麻呂,島の宮,殯宮挽歌、飛鳥

[題詞](皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首)

<旦>覆 日之入去者 御立之 嶋尓下座而 嘆鶴鴨

朝ぐもり日の入り行けばみ立たしの島に下り居て嘆きつるかも

あさぐもり,ひのいりゆけば,みたたしの,しまにおりゐて,なげきつるかも

[左注](右日本紀曰 三年己丑夏四月癸未朔乙未薨)
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朝だというのに太陽が雲に隠れてしまったので

皇子のお立ちになった島に降りて

嘆き悲しむことだ
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189;挽歌,作者:舎人,草壁皇子,柿本人麻呂,島の宮,殯宮挽歌,飛鳥

[題詞](皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首)

<旦>日照 嶋乃御門尓 欝悒 人音毛不為者 真浦悲毛

朝日照る嶋の御門におほほしく人音もせねばまうら悲しも

あさひてる,しまのみかどに,おほほしく,ひとおともせねば,まうらがなしも

[左注](右日本紀曰 三年己丑夏四月癸未朔乙未薨)
・・・・・・・・・・・・・・・・
朝日の静かに射し込む島の御殿に

人の気配もなく物音もしないので

心から悲しく思われることだ
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190;挽歌,作者:舎人,草壁皇子,柿本人麻呂,島の宮,殯宮挽歌

[題詞](皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首)

真木柱 太心者 有之香杼 此吾心 鎮目金津毛

真木柱太き心はありしかどこの我が心鎮めかねつも

まきばしら,ふときこころは,ありしかど,このあがこころ,しづめかねつも

[左注](右日本紀曰 三年己丑夏四月癸未朔乙未薨)
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真木の柱のようなしっかりした心はあるが

この悲しみは鎮め抑え切れはしない
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191;挽歌,作者:舎人,草壁皇子,柿本人麻呂,島の宮,殯宮挽歌,飛鳥

[題詞](皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首)

毛許呂裳遠 春冬片設而 幸之 宇陀乃大野者 所念武鴨

けころもを時かたまけて出でましし宇陀の大野は思ほえむかも

けころもを,ときかたまけて,いでましし,うだのおほのは,おもほえむかも

[左注](右日本紀曰 三年己丑夏四月癸未朔乙未薨)
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狩の季節が来て

日常の衣を解き出掛けられた宇陀の大野

この先も思い出される事だろうな
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192;挽歌,作者:舎人,草壁皇子,柿本人麻呂,佐田岡,殯宮挽歌,飛鳥

[題詞](皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首)

朝日照 佐太乃岡邊尓 鳴鳥之 夜鳴變布 此年己呂乎

朝日照る佐田の岡辺に泣く鳥の夜哭きかへらふこの年ころを

あさひてる,さだのをかへに,なくとりの,よなきかへらふ,このとしころを

[左注](右日本紀曰 三年己丑夏四月癸未朔乙未薨)
・・・・・・・・・・・・・・・
朝日の射す佐田の丘のあたり

鳴く鳥は夜泣きを繰り返している

この一年あまりずっと
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193;挽歌,作者:舎人,草壁皇子,柿本人麻呂,島の宮,殯宮挽歌,飛鳥

[題詞](皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首)

八多篭良我 夜晝登不云 行路乎 吾者皆悉 宮道叙為

畑子らが夜昼といはず行く道を我れはことごと宮道にぞする

はたこらが,よるひるといはず,ゆくみちを,われはことごと,みやぢにぞする

[左注]右日本紀曰 三年己丑夏四月癸未朔乙未薨
・・・・・・・・・・・・・・・・・
墳墓造営の役民たちが

昼夜を問わず行き来する道だが

舎人はみんな殯宮への道としている
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<転載記事>『旅人 』
http://blogs.yahoo.co.jp/chiyokokkk/6264067.html
天照神話は、持統天皇の血を受けない皇子に、決して皇位を渡さないために作られた神話。
人麿は、天照神話作成に努力した持統天皇ブレーン(持統の秘書)だった。(梅原猛)

『古事記』は、天皇の正統性の物語。アマテラスの孫神が正統な支配者としている。
アマテラスの子は、オシホミミ。孫はニニギ。
アマテラスの命を受けて降ったオシホミミだが、葦原中国が「いたくさやぎて有なり」と言って還り上る。そこで、八百万の神々の会合して、ニニギの 降臨となる。
アマテラスの独断でなく、合議している。ここがミソ!
持統天皇の子は、草壁皇子。孫は文武。
神功皇后の知恵袋が、武内宿禰だったように、持統天皇の知恵袋は、藤原不比等と思われる。
不比等は、文武を天皇にしたてあげ外戚となり、わが世の春を願った。
人麿は、宮廷歌人として持統天皇の決意を歌った。

人麿は、舎人ではない。
人麿が、もし 600人もいる東宮舎人の中の 1人にすぎなかったら、とても多くの官人に代わって挽歌をつくることは出来ない。→かなり重要な政治的地位を占めていた。(梅原猛)
最初、「人麿は生意気だ。」と言ってた私。ゴメンナサイ。しかも、大伴の宿禰より、柿本の朝臣のほうが、「八色の姓」で上位だった。
「八色の姓」(天武13) は、壬申の乱で勲功をたてた大伴馬来田(まぐた)・吹負(ふけい)の死の翌年待ってましたかのように、制定された。つまり、名門、大伴氏は、疎外された。
「八色の姓」は、無血革命といわれる。影に、聡明な舎人、青年不比等(25才)がいた。

藤原不比等は、藤原鎌足の次男。長男は、僧侶、貞慧(じょうえ)
母は、車持与志古娘(くるまもちよしこのいらつめ)。
不比等を養育した山科(東山区)の田辺史(ふひと)大隈の史姓に由来する。
国家珍宝帳(大仏に献上した聖武天皇の遺品目録)にみえる黒作懸佩の刀(くろつくりのかけはぎのたち)の由来は、不比等が草壁皇子の後見的立場にあったことがわかる。

持統天皇即位。
 持統 4年、春正月の戊寅の朔に、「物部麻呂朝臣、大盾(おおたて)を樹つ。神祇伯中臣大嶋朝臣、天神寿詞(あまつかみのよごと)読む。忌部宿禰色夫知(しこぶち)、神のしるしの剣・鏡を皇后(きさき)に奏上る。皇后、即天皇位(あまつひつぎしろしめ)す。公卿百寮(まへつきみつかさのつかさ)、羅列(つらな)りて匝(あまね)く拝みたてまつりて、手拍つ(てうつ)」
中臣大嶋は、新しい国家神道をつくりだし、神祇権を独占した。
この即位で、初めて2種の神器がでる。

ヒミコのシャーマンは、もちろん。皇極女帝も、蘇我氏との雨乞いバトルでシャーマンだった。
持統女帝も、アマテラスになぞらえた人麿の歌にあるように、吉野で神性を補給しながら、即位した。
文武に引き継ぐために。
持統天皇は、31回も吉野行幸し、帝位を文武に譲ると、ぱったり止まる。

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