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万葉集コミュの万葉集巻第二(85〜234)163・164・165・166

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163;挽歌,作者:大伯皇女,大津皇子,歌語り,哀悼,飛鳥

[題詞]藤原宮御宇天皇代 [高天原廣野姫天皇<天皇元年丁亥十一年譲位軽太子尊号曰太上天皇>] / 大津皇子薨之後大来皇女従伊勢齊宮上京之時御作歌二首
(大津皇子が亡くなった後、大来皇女が伊勢の斎宮より上京した時にお作りになった歌二首)

神風<乃>  伊勢能國尓<母>  有益乎  奈何可来計武  君毛不有尓

神風の 伊勢の国にも あらましを 何しか来けむ 君もあらなくに

かむかぜの<伊勢の枕詞> いせのくににも あらましを<(伊勢の国に)いたほうが良かったのに> なにしか<し強意とか疑問助詞>きけむ きみもあらなくに<あなたはいないのに。「君」は大津皇子を指す>
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伊勢の国に留まっていればよかったのに

どうして都に来てしまったのでしょう

もうあなたはいないのに
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164;挽歌,作者:大伯皇女,大津皇子,歌語り,哀悼,飛鳥

[題詞](大津皇子薨之後大来皇女従伊勢齋宮上京之時御作歌二首)

欲見  吾為君毛  不有尓  奈何可来計武  馬疲尓

見まく欲り 我がする君も あらなくに 何しか来けむ 馬疲るるに

みまくほり わがするきみも あらなくに なにしかきけむ うまつかるるに
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逢いたいと私が思うあなたはいないのに

どうしてこの都に来てしまったのでしょう

馬が疲れるだけなのに
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165;挽歌,作者:大伯皇女,大津皇子,歌語り,哀悼,二上山,飛鳥

[題詞]移葬大津皇子屍於葛城二上山之時大来皇女哀傷御作歌二首
(大津皇子の屍を葛城の二上山に葬った時、大来皇女が哀しみ傷んでお作りになった歌二首)

宇都曽見乃  人尓有吾哉  従明日者  二上山乎  弟世登吾将見

うつそみの 人にある我れや 明日よりは 二上山を 弟背と我が見む

うつそみの ひとにあるわれや あすよりは ふたかみやまを いろせとわがみむ
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この世に生きる身の私

明日からは

二上山を愛しい弟として眺め

偲びましょう
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伊勢の斎宮だった大伯皇女は、大津皇子死刑後40日余りで、京へ帰られた。
それから年が変わって、大津皇子の墓は、皇子の祟りをおそれて二上山に移された。
これは大伯皇女が、弟の霊魂に呼びかける哀傷の歌である。
「うつそみの人」現世の人、この世の人。
弟は死んで霊魂になってしまったのに対して、自分が生き身の体であることを特に対照的に言い、弟が葬られた二上山を擬人視して、呼びかけている。
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166;挽歌,作者:大伯皇女,大津皇子,歌語り,哀悼,二上山,飛鳥

[題詞](移葬大津皇子屍於葛城二上山之時大来皇女哀傷御作歌二首)

礒之於尓  生流馬酔木<乎>  手折目杼  令視倍吉君之  在常不言尓

磯の上に 生ふる馬酔木を 手折らめど 見すべき君が 在りと言はなくに



いそのうへに おふるあしびを たをらめど みすべききみが ありといはなくに

[左注]右一首今案不似移葬之歌 盖疑従伊勢神宮還京之時路上見花感傷哀咽作此歌乎
(今考えると、この歌は移葬の歌ではない。伊勢神宮より京に還る時、路辺の花に感傷して作った歌か。)
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水辺に生えている馬酔木を手折ろうとしても

その花を見せるべきあなたがこの世にいると

だれも言ってくれる人はいない
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<転載記事>ブログ[放課後の研究室 ] 万葉集の歌
http://blogs.yahoo.co.jp/taikutudaiou/19352785.html
礒の上に 生ふる馬酔木を 手折らめど 見すべき君が ありと言はなくに 2・166
いそのうへに おふるあしびを たをらめど みすべききみが ありといはなくに   大伯皇女

水辺に生える馬酔木を手折ろうとしたけれど、それをお見せするべきあなたが(この世に)いるとは誰も言ってくれないのだから…。
 大伯皇女が伊勢の斎宮の任を終えて帰京したのは朱鳥元年(西暦686年)十一月のことでした。唯一の肉親である弟大津皇子は、一ヶ月前の十月三日に謀反の罪によって処刑されました。この年の秋のある日、大津皇子は伊勢の姉の元を尋ねたことがありました。そのときの歌は、このブログでも前に紹介したことがあります。皇女が帰京した時、最愛の弟のなきがらはすでに埋葬されていたのでしょうか。まだ、だったのでしょうか。
 皇族の葬儀は、通常長い期間をかけて執り行われるものですが、大津皇子の場合は罪人の扱いですから、すみやかに埋葬されたのかもしれません。この歌の題詞には「大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時に、大伯皇女の悲しびて作らす歌」とあります。処刑後しばらく経って、事件の影響が収まってから、相応の埋葬の仕方に改めたものと思われます。移葬の時期については『日本書紀』にも記載がなく、不明ですが、多くの万葉集の注釈書にはこの歌の「馬酔木」を手がかりに、翌年の春のこととしています。
 「見せすべき君がありと言はなくに」は当時の風習に基づいた表現で、人がなくなった時、身近な人々が「あの人は今、山の中いて、静かに暮らしているんだよ」などと言って遺族を慰めたらしいのです。
死んだ、のではない、もう会えないけれどもどこかに今もいるのだと信じられれば大きな慰めになるでしょう。ところが、大津皇子は刑死でした。人々は累が及ぶことを恐れて、その類のことを誰も言ってくれないのです。
  美しい馬酔木を見て、弟に見せてやろうと手を伸ばす。でも、その弟がもういないことに気付き、ふと手が止まる。大伯皇女の孤独感がひしひしと伝わります。
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<転載記事>『万葉集 柿本人麻呂と高市皇子』
http://blogs.yahoo.co.jp/dokatakayo/21735867.html
集歌163と集歌164との歌の「君毛不有尓」と「吾為君毛 不有尓」の「君毛不有尓(君もあらなくに)」の「毛」は、持統天皇からみて「東国征伐の日本武尊」と「壬申の乱の天武天皇」との意味での用字と想ってます。とぼけた解説では、「奈何可来計武(何にか来けむ)」の用法は反語的ですが、伊勢皇大神宮の存在から推定して天武天皇に対して、直接に「奈何可来計武(何にか来けむ)」の表現では、持統天皇の気持ちとしてはあんまりでしょうから、「東国征伐の日本武尊」の方に重きを置いてます。
 なお、万葉集は孝謙天皇のための奉呈歌集ですから、大伯皇女の身に阿部内親王を仮託したかもしれません。政争がなければ安積親王が殺されずに即位し、阿部内親王は孝謙天皇になる必要はなかったはずです。直接ではありませんが、安積親王と阿部内親王との関係は、大津皇子と大伯皇女との関係に相似してます。
 こうして見ますと、竹取物語や万葉集「奈弖之故」は、阿部内親王への優しさに満ち溢れた歌物語かもしれません。

およそ、「あらまし」は、漢語の表情と同じで、和語としても願望や希望を表す言葉のようです。
また、私は、従来の解釈において、「奈何可来計武(何にか来けむ)」の「来」の用字につまずいてます。「来」の用字を自分の本拠に帰る意味で積極的に使うのでしょうか。集歌163と集歌164との両方の歌で、「奈何可来計武」の共通のフレーズが使われていますし、建前上、二首は一人の人間による作歌です。つまり、使いたくて使った、「奈何可来計武」の用字です。とぼけた人間の感覚は、「貴方は既に亡くなられて生きてはいませんが、それでも、ここに来たかった。」のような切望の「来」と想ってます。つまり、「貴方はもういない。それは判っている。それでも、私は、ここに来ました。」の感覚です。

 他方、歌の表記という見当違いの世界から見ると、大津皇子や大伯皇女の歌が詠われた時代は、あの略体歌から非略体歌への移行時代となっています。整った人麻呂の非略体歌の初見は持統3年の草壁皇子の挽歌です。こうした時、集歌163と集歌164との歌は非常に整った表記の短歌ですから、非略体歌論では持統天皇期後半以降に採歌されたかも知れません。ちなみに、大伯皇女の時代性では、次のような表記になると思われます。まだ、統一された万葉仮名表記ではありません。好みによる借音の真仮名を使った訓読体の表記です。

集歌9 莫囂圓隣之 大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本
 穏(しづ)まりし浦波(うらなみ)騒(さゑ)く吾(あ)が背子がい立たせりけむ厳白橿(いつかし)が本(もと)

集歌156 三諸之 神之神須疑 已具耳矣自得見監乍共 不寝夜叙多
 三諸(みもろ)の神の神杉(かむすぎ) 逝(い)くに惜しと見けむつつとも寝(い)ねぬ夜ぞ多き

 では、このとぼけた世界で、大伯皇女と集歌163と集歌164との歌はどうなるのでしょうか。
大伯皇女が伊勢から大和に戻ったとき、父親も母親も弟も既に全員死亡して、この世にはいません。そして、親戚一同は弟を殺した人達です。また、万葉集や歴史からは、その後に大宝元年十二月に皇女の死亡の記事が載るだけです。

 先に示した万葉集の歌六首は、どうも全て、大伯皇女の歌ではないようですが、なんらかの消息の伝聞はあったでしょう。それが歌での二上山ではないでしょうか。私は、大伯皇女は御祖母さんの里の河内石川の蘇我一族の許に身を寄せたのではないかと妄想してます。内親王相当の位田や位封があり身分と生活は保障されても、弟を殺した人達の藤原京には住みたくなかったと思います。皇女や内親王は皇位継承や祭祀の問題があり、勝手に伴侶を選ぶことが出来ませんから、大伯皇女は、建前上は生涯、頼る身のない独身のはずです。それらの姿を見ていた蘇我・中臣一族の人達が、伝承や物語を作っても良いと思ってます。また、積極的に、創り伝えるのが人の優しさではないでしょうか。
 万葉集に大伯皇女と大津皇子の歌があるのは、万葉集編者である丹比国人とその理解者である橘諸兄の優しさと想ってます。また、それが外国人に理解されない、敵を徹底的に叩き潰さない日本人の緩さと優しさの感情でしょう。

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