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万葉集コミュの高市皇子尊御作歌三首 (前ページからのつずき)

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<転載記事>
森 明 著
<万葉集巻二:156・157・158歌>
原文:
明日香清御原宮御宇天皇代 天渟中原瀛真人天皇謚曰天武天皇
十市皇女薨時高市皇子尊御作歌三首

156歌:
三諸之 神之神須疑 已具耳矣自得見監乍共 不寝夜叙多

みもろの かみのかむすぎ <已具耳矣自得見監乍共> いねぬよぞおほき

157歌:
神山之 山邊真蘇木綿 短木綿 如此耳故尓 長等思伎

みわやまの やまへまそゆふ みじかゆふ かくのみからに ながくとおもひき

158歌:
山振之 立儀足 山清水 酌尓雖行 道之白鳴

やまぶきの たちよそひたる やましみづ くみにゆかめど みちのしらなく

紀曰 七年戊寅夏四月丁亥朔癸巳十市皇女卒然病發薨於宮中
・・・・・・・・・・・・・・・
釈文:
十市皇女の薨ぜし時に、高市皇子尊の作らす歌三首

156歌:
「三諸の神の神杉<已具耳矣自得見監乍共>い寝ぬ夜ぞ多き」
「みもろの かみのかむすぎ<已具耳矣自得見監乍共>いねぬよぞおほき」

157歌:
「三輪山の山辺真麻木綿短木綿かくのみからに長くと思ひき」
「みわやまの やまへまそゆふ みじかゆふ かくのみからに ながくとおもひき」

158歌:
「山吹の立ちよそひたる山清水汲みに行かめど道の知らなく」
「やまぶきの たちよそひたる やましみづ くみにゆかめど みちのしらなく」

紀曰く「七年戊寅の夏の四月、丁亥の朔の癸巳に十市皇女、にわかに病発りて宮の中に薨ず」といふ

この高市皇子作の珍しい3首は、題詞によれば、十市皇女が薨じたときに作られた歌であるという。二人は異母姉弟であるが、壬申の乱では敵同士ではなかったか。その高市皇子が十市皇女に挽歌を捧げたのは何故であろうか?

十市皇女は、大海人皇子(天武天皇)と額田王との一人娘である。成人の後、大友皇子(弘文天皇)に嫁ぎ一子葛野王をもうけていた。しかし、壬申の乱によって死に別れとなり、父のもとに戻って夫の喪に服していたのである。当時、貴人の喪は6年と定められていた(戸令)。

ところが、後注の記述(日本書紀からの転載であるが)によれば、神事式典の当日(天武7年(678年)4月7日。皇女の喪明けの時期と一致する。そのための祭事か?)朝、行列の進発の直前、突如として皇女は世を去ったという。

死の事情については、急病によるとしか明らかにされていない。しかし、周囲の驚きやそのあわただしさを伝える記事からすると、死は、全く突発的な出来事であったことを窺わせる。このため、自殺説、他殺説、事故死説等々(果ては江戸時代国学者の神の祟り説まで)またその理由について、様々の憶測を生むことになった。

ところで、日本書紀の十市皇女薨去の記事には、高市皇子の名前は一切出てこない。にも関わらず、万葉集には皇子作の、上記の三首が挽歌として収録されている。これによって、二人の関係が俄然注目されることになるのである。他に歌を残していない皇子が、皇女のためにわざわざ歌を作ったとすると、そこには並々ならぬ事情を伺わせるものがある。

推定年齢では、当時、皇女は30歳程度、皇子は25歳頃であった。二人の間には何があったのだろうか?皇女の突然の死に皇子は関わりがあったのだろうか?恐らく、歌にはそのヒントが隠されているはずである。しかし残念ながら、現在その解明は十分に為されているとは言い難い。それは歌が極めつけの難解歌だからである。

<156歌の解釈>
156歌:「三諸の神の神杉<已具耳矣自得見監乍共>い寝ぬ夜ぞ多き」
三諸(みもろ):御室、神の居場所
神杉(かむすぎ):神の標(しるし)、杉に神は宿るとされた

156歌は、万葉集中屈指の難訓歌として有名である。<已具耳矣自得見監乍共>が未だに解読されていない。ただ、幸いなことに前後部はほぼ定訓を得ているので、その間をうまく繋げるよう、多くの試訓が提案されている(※注1)。

中で比較的有力なのは、「夢見だに見むとすれども」(日本古典文学大系、ただし同新大系では無訓)の訓である。すると歌意は、「三輪の神のしるしの神々しい杉、夢にでも逢いたいと思うけれども眠れない夜が続く」(同大系)ということになる。この解釈では、神杉とは、神に仕える(=喪に服している)皇女を指すとする。これによって、皇子が皇女に対して思慕の情を抱いていたと推理するのである。当たらずとも遠からずか、現在のところ、この解釈が採用される場合が多い。

しかし、これだけでは、皇子と皇女の関係は、極めて限定的にしかわからない。例えば、二人は結婚していたのだろうか?歌中に「共」の字が使われていることから、既に関係があったと見る向きも多い。だが、事の真相の解明には、どうしても、この156歌の完全な解読が不可欠である。それには、何としても難訓部<已具耳矣自得見監乍共>に定訓を与えなければならない。

いろいろあるが、一歌詠みとしての立場から検討した、私の結論を述べよう。私は、「神杉」とは、「神の降臨の樹」→「神の標(しるし)」→「神意、神慮」の喩えと考える。「標(しるし)」は、また「印」「徴」「験」「証」「璽」等でもある。

そして、難訓の<已具耳矣>を「こふ身だに」と訓む。「こふ」は「請う」、「乞う」であり、「祈願する、請願する」の意味である。「耳」は、「(聞きたいと願っている)身、(尋ねている)身」の意味。すると、上句の意味は、「(自分は)神に対して神意を祈願している身なので」になる(※注2)。

続く、下句の<自得見監乍共>は、文字通り「(神の標の)獲得を夢見ようとする」との意味で、「いめ(夢)見なさむと、いめ見せむとも」、あるいは「しめ(標)見なさむと、しるし(験)見せむと」と訓む。

156歌:「三諸の神の神杉請ふ身だに夢見なさむとい寝ぬ夜ぞ多き」

「三輪の神に、神慮を請願している身なので、その霊験を夢見て(かえって目が冴えて)眠れない夜が多い」

皇子には神に何か祈願のことがあった。歌では、抽象化されているので、その内容ははっきりしないが、その標(神意)を待ち望んで焦慮している様子が詠われている。

一体その祈願の事とは何か?古来、「杉の標」(あるいは「標の頼み」)には、「結納」の意味が含まれるという。もし、それが皇女への求婚を意味しているとすれば、(歌では、三輪の神への祈願という形をとってはいるが)、実際には、天武天皇への請願(許可願い)ということになる。

歌からは、結果(神の標=天皇の許可、璽)を、期待と焦燥で待つ皇子の様子がひしひしと伝わってくるではないか。

(次ページへ続く)

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