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万葉集コミュの万葉集巻第二(85〜234)156・157・158(高市皇子尊御作歌三首)

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156;挽歌,作者:高市皇子,十市皇女,難訓,

[題詞]明日香清御原宮御宇天皇代 [天渟中原瀛真人天皇謚曰天武天皇] / 十市皇女薨時高市皇子尊御作歌三首

三諸之  神之神須疑  已具耳矣自得見監乍共  不寝夜叙多

みもろの 神の神杉 已具耳矣自得見監乍共 寝ねぬ夜ぞ多き

みもろの かみのかむすぎ *****,******* いねぬよぞおほき

[左注](紀曰七年<戊>寅夏四月丁亥朔癸巳十市皇女卒然病發薨於宮中)
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万葉雑記 難訓歌の周辺<ブログ[万葉集 柿本人麻呂と高市皇子]より転載。
http://blogs.yahoo.co.jp/dokatakayo/folder/1147375.html
集歌156 三諸之神之 神須疑 已具耳矣自得 見監乍共 不寝夜叙多
試読 三諸(みもろ)の神の神杉(かむすぎ)逝くに惜しと見けむつつとも寝(い)ねぬ夜ぞ多き
意訳 前方の目に入る三諸山の神杉を見ていると、神杉の枝を折ると神威に触れるというその神威に触れたのでしょうか、 突然、亡くなられた十市皇女を思い出し夜も寝られない日々です
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157;挽歌,作者:高市皇子,十市皇女,難訓,

[題詞](十市皇女薨時高市皇子尊御作歌三首)

神山之  山邊真蘇木綿  短木綿  如此耳故尓  長等思伎

三輪山の 山辺真麻木綿 短か木綿 かくのみからに 長くと思ひき

みわやまの やまへまそゆふ みじかゆふ かくのみからに ながくとおもひき
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158;挽歌,作者:高市皇子,十市皇女,難訓,

[題詞](十市皇女薨時高市皇子尊御作歌三首)

山振之  立儀足  山清水  酌尓雖行  道之白鳴

山吹の 立ちよそひたる 山清水 汲みに行かめど 道の知らなく

やまぶきの たちよそひたる やましみづ くみにゆかめど みちのしらなく
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古代シュメールの「ギルガメシュ」に見える伝説
――西方に生命復活の泉があり、そのほとりに金色のキク科の花が咲いている――
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上記の三首は高市皇子作「難訓」歌。 

また、「挽歌」とされているが、本当にそうか?。

幸い、森 明著の「名歌鑑賞」があるので、次ページにそれを掲載します。
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高市皇子 たけちのみこ
生没年 654(白雉5)?〜696(持統10)
系譜など 
天武天皇の第1皇子。母は胸形君徳善の女、尼子娘。御名部皇女(天智天皇の皇女)との間に長屋王をもうけた。子にはほかに鈴鹿王・河内女王・山形女王らがいる。異母妹の但馬皇女を妻としたらしいことが万葉にみえる(02/0114題詞)。
 『日本書紀』に後皇子尊(のちのみこのみこと)と称されたとあり、万葉集02/0169脚注・02/0202左注にも後皇子尊とある。また柿本人麻呂の挽歌では題詞に高市皇子尊とある。
 高市県主のもとで養育を受ける。672(天武1)年、壬申の乱勃発の際は大津皇子と共に近江にいたが、吉野の大海人より報が届き、直ちに近江を出発、6月25日、積殖(柘植)山口で父らの一行に合流した。翌26日、伊勢国朝明郡において将軍に任命され、不破に派遣される。翌27日、不破に父を迎え入れる。大海人は高市皇子に全軍の指揮を一任し、自らは野上に行宮を造る。翌月近江方を破り、翌年父は即位(天武天皇)。大臣を置かず皇后・皇子らが輔佐する皇親中心の政治を行い、高市は皇后菟野皇女・弟草壁・大津らと共にその一翼を担った。678(天武7)年4.7、倉梯の斎宮への行幸に出発した際、異母姉の十市皇女(天武第1皇女。故大友皇子の妃)が宮中で急死し、この時挽歌を作る(02/0156〜0158)。天武8年5月の六皇子の盟に参加、「相扶けて逆ふること無」きことを父帝に誓約する。天武10年2月、異母弟の草壁皇子(20歳)が立太子。天武14年1月、冠位四十八階制定の際は、草壁皇子の浄広壱位・大津皇子の浄大弐位に次ぐ浄広弐位に叙せられる。最年長の高市が第3の地位に甘んじたのは、おそらく母親の出身の低さによる。父帝崩後、689(持統称制3)年には草壁皇子が薨じ、代わって高市が皇太子に立てられたらしいが、菟野皇女は孫の軽王の成長を待ち、翌年1.1、即位の式を挙げて自ら皇位に就いた(持統天皇)。同年7月、太政大臣に任ぜられる。同年10.29、公卿官僚らを率いて藤原の宮地を視察。翌持統5年1.13、位に従って食封を加増される。持統6年1.4、さらに二千戸を加増され、計五千戸という莫大な食封を得る。持統7年1.2、浄広壱に昇叙される。696(持統10)年7月、薨ず(43歳、一説に42歳)。墓は延喜諸陵式に「三立岡墓 高市皇子墓 在大和国広瀬郡」とあるが、高松塚古墳の被葬者に比定する説もある。万葉集に殯宮の時の柿本人麻呂の挽歌がある(02/0199〜0202)。自作の歌は上記3首のみ。(千人万首)
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