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万葉集コミュの万葉集巻第二(85〜234)141・142

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141;挽歌,作者:有間皇子,結び松,自傷,歌語り,謀反,羈旅,鎮魂,和歌山

[題詞]後岡本宮御宇天皇代 [天豊財重日足姫天皇譲位後即後岡本宮] / 有間皇子自傷結松枝歌二首
(有間皇子の自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首)

磐白乃  濱松之枝乎  引結  真幸有者  亦還見武

磐白の(岩代とも。和歌山県日高郡南部町。熊野古道が通っていた) 浜松が枝を 引き結び(松の枝と枝を紐などで結びつけることで、旅の安全や命の無事を祈るまじないである) ま幸くあらば また帰り見む

いはしろの はままつがえを ひきむすび まさきくあらば またかへりみむ

[左注](右件歌等雖不挽柩之時所作<准>擬歌意 故以載于挽歌類焉)
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磐代の浜松の枝を引き結び合わせて

身の安全を祈るけれど

命あって無事であったなら

再びこの松を見よう
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142;挽歌,作者:有間皇子,手向け,羈旅,鎮魂,和歌山,地名

[題詞](有間皇子自傷結松枝歌二首)

家有者  笥尓盛飯乎  草枕  旅尓之有者  椎之葉尓盛

家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る

いへにあれば けにもるいひを くさまくら たびにしあれば しひのはにもる

[左注](右件歌等雖不挽柩之時所作<准>擬歌意 故以載于挽歌類焉)
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家にいれば食器に盛るはずの飯なのに

今は草を枕に寝る旅に出ている身なので

椎の葉に盛ることだ
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「飯を…椎の葉に盛る」とは、神へのお供えをして息災を祈ったものであろう。 「浜松が枝を引き結び」と同様。この直後に訪れる運命を知ればこそ、神の前に跪き、ささやかにして重大な旅の所作をなす皇子の姿は悲痛を誘う。

【主な派生歌】
磐代の 岸の松が枝 結びけむ 人は還りて また見けむか
 も(長意吉麻呂)
磐代の 野中に立てる 結び松 心も解けず いにしへ思ほゆ
 (〃)
鳥翔成 あり通ひつつ 見らめども 人こそ知らね 松は知るらむ
 (山上憶良)

【主な派生歌】
月も見よ 旅にしあれば 椎の葉に もるいひしらぬ 宿にかりねて
 (上冷泉為広)
椎の葉に かれ飯もると やすらへば 山風そへて 雨こぼれ来ぬ
 (加納諸平)
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有間皇子 ありまのみこ 舒明十二〜斉明四(640-658)
孝徳天皇の唯一の皇子。母は阿倍倉梯麻呂の女、小足媛。
大化元年(645)、六歳のとき父が即位したが、同五年、外祖父である左大臣阿倍倉梯麻呂が薨じ、有力な後ろ盾を失う。
父帝は白雉五年(654)十月、難波宮で崩じ、故天皇の同母姉宝皇女が飛鳥板蓋宮に再祚した(斉明天皇)。斉明三年(657)九月、病気を装って牟婁の湯に療養に行き、帰ってその土地を讃め病の完治を天皇に奏上した。天皇は喜び、翌年十月、皇太子中大兄を伴って紀国行幸に発った。
留守官蘇我赤兄と共に飛鳥に留まった有間皇子は、赤兄に唆されて謀反を語り合うが、結局裏切られ捉えられ、紀の湯に連行された。
十一月十一日、藤白坂(和歌山県海南市内海町藤白)で絞首刑に処せられる。薨年十九。
万葉集巻二には、護送の途次、岩代(和歌山県日高郡南部町)で詠んだ歌二首が載る。(千人万首)
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<転載記事>『セゾンの田舎暮らし日記 』より転載。
http://blogs.yahoo.co.jp/sezon1954525/34003074.html
大化の改新以降の政治の中心人物は中大兄皇子(後の天智天皇)だった。しかし,皇位継承などでしばしば争いが起きたこの時代のこと,中大兄皇子にとっても自らの立場を安定させるためには今後起きるかもしれない争いを予想し事前に消し去っておくことは重要なことでもあった。 有間皇子は孝徳天皇の子で有力な皇位継承者の一人。孝徳天皇は中大兄皇子の母斉明天皇の弟にあたり,中大兄皇子と有間皇子は従兄弟関係となる。難波宮に天皇を残し,飛鳥に戻ってしまった中大兄皇子にとって有間皇子の存在は放ってはおけないものであった。

658年10月,斉明天皇は有間の皇子の薦めにより,中大兄皇子らとともに牟婁(むろ)の温湯(和歌山県西牟婁郡白浜町湯崎温泉)に船を使って行幸した。5か月前に中大兄皇子の子の建王(たけるのおう)が8歳で亡くなっているが,言葉が話せなかった皇子で斉明天皇はたいそうかわいがっていた。この行幸は悲しみをいやす旅でもあった。旅の途中,この孫のことを歌に詠んだ。
「水門(みなと)の 潮(うしお)のくだり 海くだり 後も暗(くれ)に 置きてか行かむ」
(斉明天皇と建王は越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)奈良県高市郡高取町に合葬されている)

天皇らが飛鳥を離れている11月のある日(3日か),都に残って留守役を勤めていた蘇我馬子の孫の蘇我赤兄(あかえ)は有間皇子の市経(いちふ−奈良県生駒町)の家を訪ねた。
赤兄は有間皇子に天皇の3つの失政を語った。
?天皇が大きな倉庫に人々の財を集めている。
?大がかりな土木工事を行い,長い用水路造りを行っている。(「狂心の渠(たぶれごころのみぞ)」とよばれていた)
?船で石を運んで丘を築き,人々を苦しめている。
これを聞いた有間皇子は赤兄が自分に好意を持っているといたく喜び,「我が生涯で初めて兵を用いるべき時がきた」と言った。

2日後(11月5日か),今度は有間皇子が赤兄の家を訪ね,謀反の相談をしていると有間皇子の脇息(きょうそく−座ったとき体をもたせかけるためのひじかけ)が壊れてしまう。これは不吉なことと知り,謀反の相談を中止し,この話はなかったこととして互いに秘密を厳守することを誓って帰った。

有間皇子が帰った後,赤兄は物部朴井連鮪(もののべのえのいのむらじしび)に命じて都の工事の人夫を率いて有間皇子の家を取り囲ませた。有間皇子は就寝中であったが起こされ,守君大岩(もりのきみおおいわ)ら4人とともに捕らわれた。このことは牟婁の温湯にいる天皇に早馬で知らせた。有間皇子は赤兄の裏切りによるものだと知ったが,赤兄は中大兄皇子を助ける重臣の一人であり,自分とともに謀反を起こすはずがないと気づくのに遅れた。赤兄の家を訪ねたことは事実であり,どう弁明しても逃れられないと悟った有間皇子は,抵抗せず,天皇のいる牟婁の温湯へと送られていった。
悲劇の皇子は、自分が計略にかかったことを知り、紀州の牟婁の湯で中大兄皇子に糾問された時、「天と赤兄と知る。吾は全ら知らず」と答えたという。
縄を打たれて護送される途中で詠んだこの歌は、幸薄い皇子の悲痛な叫びとして、長く世の人びとの同情をそそった。草や木の枝を引き結んでおくと再び逢うことができる、幸を得る、と万葉の人たちは考えたのであろう。

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