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万葉集コミュのつづき 「人麻呂と依羅娘子  その壱」

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<転載記事>『万葉集 柿本人麻呂と高市皇子 』より。「人麻呂と依羅娘子  その壱」
http://blogs.yahoo.co.jp/dokatakayo/10960989.html
人麻呂と依羅娘子の関係を見てみたいと思います。これに付随して、人麻呂がどのルートを使って、石見国(現島根県)から大和の京に帰って行ったか推理したいと思っています。

一、依羅娘子の里はどこか

 依羅娘子は、集歌131詞書「柿本朝臣人麿従石見国別妻上来時歌二首並短歌」に登場する妻です。従来は「依羅娘子」(いらのおとめ)や(よさみのおとめ)として、島根県内で色々な出身地や出身氏族が論じられています。一方、摂津の住吉郡又は河内地方の丹比郡を本拠とした依羅我孫子一族の出身との見方があります。これらの異なる解釈の背景には、集歌224の「石水之」の読みと解釈に大きく左右されます。私は、「石水=いわみ」派で、「石水=いしかわ」派ではありません。
 依羅我孫子一族は、後に「宿禰」の位を賜り「依羅宿禰」となりました。河内丹比郡には石川が合流しており、丹比真人嶋や倉山田石川麿のゆかりの地とされています。古代豪族の研究では、草壁皇子の養育を行ったと思われる日下部氏は草壁郷を支配しその由縁から草壁皇子の呼び名が付いたとし、その日下部氏の同族に依羅宿禰が位置します。依羅一族は、その方面からも持統天皇朝に関係深い氏族でもあります。また、依羅我孫子一族は海岸の波間に係わる苗字とされ海人族に属します。
 さて、伝承では依羅娘子は、万葉集における歌の配列から石見の豪族の娘とされています。以下に説明しますが、歌の内容からは河内丹比郡の依羅宿禰の一族の娘と見るのが自然と思います。
 一方、当時の方言などから、依羅娘子が石見の豪族の娘とした場合、依羅娘子と人麻呂の間で十分な会話は出来たでしょうか。また、依羅娘子は、当時 京で提案されたばかりの最新文化である万葉仮名を自由自在に使いこなせたのでしょうか。続日本紀によると、地方では十分な読み書きや律令制度が判る官吏の人材が得られないとの記述があります。依羅娘子は、そんな時代の地方都市でどのように大和言葉と万葉仮名を学んだのでしょうか。さらに島根県に残る伝承では、人麻呂が石見国で頼ったのが同族の小野氏であり、大和から同行して益田市戸田に定住した家臣の語家綾部家の娘との関係があります。どうも、地の娘との関係が見出せません。

ここで、人麻呂の臨死に係わる依羅娘子の歌を以下に載せます。

依羅娘子の歌
集歌224 且今日〃〃〃 吾待君者 石水之 貝尓交而 有登不言八方
集歌225 直相者 相不勝 石川尓 雲立渡礼 見乍将偲

 さて、集歌224の歌は、「石水」から遠く離れた場所で「有登不言八方」と伝聞を元に歌を読んでいます。一方、集歌225の歌は目の前の石川の流れと遠方の雲の湧き立ちを見て、死んだ愛人の魂を雲に映して偲ぶと歌っている。さて、伝承では集歌224で「石水」を「石川」としていますが、人麻呂の歌や人麻呂歌集で「水」(み、みず)と書いて「川」や「河」の「かわ」と読ませた例はありません。なお、万葉集の中の詠み人知らずですが、巻七集歌1110で「此水之湍尓」と記し、「この川の瀬に」と詠む例はあります。
 人麻呂の死亡した場所と「石川」なる地名はまず無関係であることは、集歌225の歌から明白な事実です。依羅娘子は石川のほとりに立っていて、そこで愛しい人に直接お目にかかれないが雲にあなたの魂を見て偲びたいと歌っています。つまり、人麻呂は「石川」にはいません。
 次に、「石水」について、「いわみ」とも「いしかわ」とも読めます。集歌224の歌と225の歌が地理的に関係あるとして無理に「いしかわ」と詠むのが伝承ですが、両者の歌が地理的に直接関係ないことは明白なため、「いしかわ」と詠む根拠はなくなります。石見で死亡した人麻呂への歌としては、「いわみ」と詠むのが相当です。人麻呂は、長門から船出して海難に遭遇し、阿武の海岸で水死した可能性が高いのです。したがって、伝承の通りに依羅娘子が、伝聞を下に「石見国の海底の貝に交りて」と詠うのは不思議ではありません。また、石見の海で水死したから、初期万葉集的に「石見」と表記せずに「石水」と表記してのではないでしょうか。この件については、章を改め「人麻呂 臨死時の自傷の歌」で説明したいと思っています。
 さて、死んだ人が編集できないのは明白なので、集歌223〜227は、人麻呂が編集したとする人麻呂歌集や自身の歌記録に無いはずです。これらは、別途に後年に誰かが収集し編纂したものです。つまり、収集編纂者はこの人麻呂の死の状況を知る立場にあります。当然、収集編纂者として大伴家持が筆頭に上げられます。大伴家持と丹比真人一族とは姻戚関係があり、人麻呂歌集の伝承や集歌226の丹比真人(名闕)の本来の作者の消息について知る立場にありますが、それについて家持は黙して語っていません。このあたりの経緯は、石川郎女Eで示した不思議な人麻呂歌集の歌群と関係あると思いますが、現在は不明です。

注1:
 人麻呂は集歌167 草壁皇子の挽歌で「水穂之国乎」と記し「瑞穂の国を」とし、集歌199高市皇子の挽歌で「水穂之国乎」と記し「瑞穂の国を」としている。また、草壁皇子の舎人の集歌185で「水傳」と記し「水伝う」としている。集歌197 明日香皇女の挽歌の短歌で「進留水母」と記し「水ものどかに」としている。「川ものどかに」と詠んではいない。集歌221讃岐の狭峯島の歌で「中乃水門従」と記し「中の水門ゆ」としている。また、最初に編纂されたという万葉集巻一と二において、人麻呂が係わるという集歌50藤原宮の役民の歌で「水尓浮居而」と記し「水に浮きいて」とし、集歌92鏡王女の歌で「逝水乃」と記し「逝く水の」としている。

注2:
 旧来は、次のような伝承で集歌224は、特別に「水」を「川(かわ)」と詠むとしている。万葉集に根拠を取ったわけではないとしている。
「縁水云々(かわにそいて、うんぬん)」日本書紀 神武天皇元年記
「水上云々(かわのほとり、うんぬん)」日本書紀 景行天皇十二年
「水源云々(かわのかみ、うんぬん)」日本書紀 神功皇后五二年

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