ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

万葉集コミュの万葉集巻第二(85〜234)117

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
117;相聞,作者:舎人皇子,大夫,恋愛

[題詞]舎人皇子御歌一首

大夫哉  片戀将為跡  嘆友  鬼乃益卜雄  尚戀二家里
ますらをや 片恋せむと 嘆けども 醜のますらを なほ恋ひにけり

ますらをや かたこひせむと なげけども しこのますらを なほこひにけり
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
大夫哉ーますらをやー立派な男子たるものが 、原文は初句では「大夫」、第四句では「益卜雄」。 
片戀将為跡ーかたこひせむとー片恋せむとー 片思いなんかしないと
嘆友ーなげけどもー嘆けどもー 嘆くけれども、強がっても 
鬼乃益卜雄ーしこのますらをー醜のますらをー醜 罵り言葉。 
尚戀二家里ーなほこひにけりーなほ恋ひにけりーみにくい男はどうしても恋に苦しんでしまうよ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ますらをたる者が

片思いなんかしないと強がっても

みにくい男はどうしても恋に苦しんでしまうよ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
舎人皇子 とねりのみこ 天武五〜天平七(676-735)
天武天皇の皇子(第六皇子か)。母は天智天皇の皇女新田部皇女。子に三原王・三島王・船王・池田王・守部王・大炊王(淳仁天皇)などがいる。
 持統九年(695)正月、浄広弐。大宝四年(704)正月、長親王らと共に増封される。この時二品。和銅七年(714)正月、さらに封200戸を増す。
養老二年(718)正月、一品に昇叙。同三年十月、元正天皇より新田部親王と共に皇太子首皇子の補佐を命ぜられる。また内舎人・大舎人・衛士を増員される。
同四年五月、『日本書紀』を奏上。同年八月、右大臣不比等薨去に伴い知太政官事に任ぜられる。
神亀元年(724)首皇子即位(聖武天皇)に際し、封500戸を加えられる。
天平元年(729)二月、長屋王窮問使。同年八月、安宿媛立后の勅を宣伝。天平五年(733)十二月、橘三千代に従一位を追贈する役を負う。同七年十一月、天然痘の蔓延する平城京で60歳の生涯を閉じ、太政大臣を贈位される。
長命を得たと言えるただ一人の天武皇子であり、また最後に生き残った天武皇子でもあった。
天平宝字三年(759)、子の大炊王が即位するに及び、崇道尽敬皇帝と追号される。
万葉集には3首入集。
・・・・・・・・・・・・・・
<抜粋転載>
[万葉集 柿本人麻呂と高市皇子 ]高市皇子と日本書紀より。
高市皇子と草壁皇子
http://blogs.yahoo.co.jp/dokatakayo/10506145.html
 天武八年正月に重大な詔がありました。「卑母に礼を尽くしてはいけない」という詔です。この詔からすると、皇族や貴族の階級を強く意識していて、皇子の立場上、皇族出の母親以外は礼を尽くす相手から除外されますから、その皇子の格式が大幅に違ってきます。したがって、皇太子の候補は、生母から草壁皇子と大津皇子の二人に絞られます。
 そして、この直後の天武八年五月五日に吉野宮にて六人の皇子との誓約がありました。この吉野宮の誓約は、「皇位継承の順位を決めるが、同じ兄弟として互いに助け合い反目してはいけない。」としたのではないでしょうか。ここで重要なのは、高市皇子がこの決定に納得することです。天武天皇の皇子で一番割りを食うのは、壬申の乱で実力を示し、経験豊かな高市皇子です。私は、その後の状況から、天武天皇と高市皇子が相談して、この誓約を決めたのではないかと思っています。
 そして、ここで注目すべきは天武八年五月五日で、草壁皇子の称号が変わります。天武元年六月時点での称号は「草壁皇子」ですが、この日以降は「草壁皇子尊」に変更になります。つまり、この日に草壁皇子の立太子があったことが推定できます。
 ところで、高市皇子の官僚としての記事が登場するのは、持統四年七月の太政大臣就任が最初です。さて、ここで伊勢神宮に関して興味深い記事があります。大神宮諸雑事記の古伝に「朱雀三年九月廿日、左大臣の宣に依り、勅を奉じて伊勢の二所太神社の御宝物等を、勅使を差はして送り奉られ了んぬ」とあります。このとき、持統天皇はまだ即位していませんから、朱雀三年は朱鳥三年のことで、日本書紀では持統二年九月の記事となります。同年八月に天武天皇の殯が終わり、葬儀の儀式に移っています。このとき、天武天皇のご愛用の御物が、左大臣の裁定で伊勢神宮に贈られたのでしょう。この記事から、正史には見えませんが天武天皇から持統天皇の時代にかけて、左大臣が朝廷を指揮していたことが推定されます。持統四年七月に高市皇子が太政大臣に就いていますが、皇子の立場から急に太政大臣になったとは思えません。事前に他の官職についていたと思っています。天皇の空位はあっても、政府の首班の不在が、四年に渡るとは思えません。高市皇子の業績と実力から、左大臣として朝廷を指揮していたと思います。
次に、持統天皇称制前紀から二年にかけて、「皇太子、・・を率て、」の記事が多数あります。当時、皇太子は天武天皇が定めた草壁皇子です。皇位継承の基本ルールからすると、草壁皇子が皇位を継承するのが基本です。人臣がこぞって草壁皇太子を廃して、鵜野讃良皇后の即位を願い出るようなことはしていません。本人も草壁皇太子から皇位継承権を取り上げるようなことは希望しないでしょう。鵜野讃良皇后は、このとき皇位継承の認識は無かったと思います。したがって、持統二年十二月に天武天皇の喪が明けますから、本来は持統三年正月に草壁皇子の即位の儀礼が、予定されていたと思われます。ここで、事件が起きます。持統三年四月十三日に皇太子草壁皇子が病死してしまったのです。
 私は、持統三年八月二日に記す「百官会集於神祇官。而奉宣天神地祇之事。」の集会は、国の天神地祇(=祭主=天皇)についての会議ですから、天皇の即位に関する集会と思います。このとき、建前上、国の祭主は不在です。祭主のいない神事はありえません。つまり、天皇の後継に関する議題以外はありえないのです。日本書紀によると、この場で初めて持統天皇の即位が決まったと思います。当然、この会議の議長は、従来なら皇位継承第一位の左大臣高市皇子です。
 すると、大津皇子の謀判事件の真相が変わってくる可能性があります。正史によると、大津皇子の謀判事件が画策されたのが、朱鳥元年九月二十四日です。そして、同年十月二日に発覚し逮捕されています。ちょうど、天武天皇の殯宮が始まって喪に服している時です。ここで、万葉集の大津皇子の歌を引用しますと、
詞書「大津皇子竊婚贈石川女郎時、津守連通占露其事、皇子御作歌一首 未詳」
集歌109 大船之 津守之占尓 將告登波 益為尓知而 我二人宿之
大船の津守が占に告らむとはまさしに知りてわが二人宿りし
とあります。
 ここで、「津守之占尓(占に告らむ)」とは、津守連通は大津皇子の同衾している状況を実際に見たと通告できませんから、誰かが陰陽師である津守連通の名を借りた密告と解釈できます。すると、この歌が歌われた時期が大変重要です。この歌に示す石川女郎とは、皇太子草壁皇子の女の大名児と思われます。天武天皇の殯宮が行われている最中の九月二十四日の夜に、大津皇子が石川女郎を抱いたのを誰かに見られ、津守連通によって通報されたのでしょうか。
 この場合、天皇(皇太子)から重要な日嗣の神事の最中に妃を盗んだことになります。懐風藻によると、大津皇子の性格は「性すこぶる放蕩にして、法度に拘らず」とあります。場合によっては、大津皇子本人は、殯宮も一つの儀式として普段の通りに馴れた女を抱いたのかも知れません。しかし、この密会が朱鳥元年九月二十四日であれば、謀判とされても言い訳は出来ないでしょう。日本書紀からすると、二人の連絡を行ったのが新羅沙門行心で、密会の警護をしたのが帳内礪杵道作(とねりのときのみちつくり)です。
 このとき、政府の首班が高市皇子であれば、なおさら、救済は難しいのではないでしょうか。私は、天武八年五月の吉野宮の誓約で、高市皇子は天皇家の行く末を見定めて、臣下の左大臣になったと思っています。この天武天皇の殯宮の主催者は、草壁皇太子です。これを支えているのは高市皇子です。もし、実際に九月二十四日の夜に大津皇子が石川女郎を抱いていたら、高市皇子は、わが身を引いて築き上げようとする天皇家と自分に対する冒涜と思うでしょう。
 また、律令が行われていることを前提とすると、この事件のとき草壁皇太子は、正式に天皇に即位していませんから、朝廷としての公式の処罰決定権は持っていません。伊勢神宮への天武天皇の御物下賜の決定と同様に、大津皇子を処罰したのは左大臣の高市皇子でしょう。通説にいう、鵜野讃良皇后でも草壁皇太子でもありません。
 さて、日本書紀、続日本記と懐風藻の記事からすると、高市皇子が死亡した時に次の皇位継承者が決まっていません。少し、不思議な光景です。高市皇子は、皇太子で太政大臣です。政権の実権を握っている人です。懐風藻によると、議論紛糾ですから軽皇子と持統天皇が絶対的な権威を持っていなかったことがわかります。つまり、高市皇子がその気になれば、自分の子できわめて優秀な長屋王に皇位(皇太子の地位)を与えることも出来たはずです。すると、高市皇子は律儀に吉野の盟約を忠実に守ったのでしょうか。もし、そうだとすると懐風藻は、大津皇子の長子説と葛野王の一喝説と事実と異なる記事を載せたことになります。
 余話として、古事記には記載がありませんが、日本書紀にこの大津皇子事件と、まったく同じ事件が過去に起きていたことを見ることが出来ます。それは、履中天皇と弟の住江仲皇子の事件です。履中天皇が殯宮で喪に服している最中に、弟の住江仲皇子が履中天皇の妃を犯した事件です。その後、住江仲皇子は謀反を起こして誅されます。このとき、履中天皇は一度桜井市付近から河内の丹比に逃げ、態勢を整えて石上神社に還ってきます。そして、住江仲皇子を難波で誅します。大津皇子の事件と、本質は同じです。ここで面白いことに、履中天皇の避難のときに、持統天皇朝を支えた重臣の一族や里の名が出てきます。それは、物部臣、東漢臣、丹比臣等です。 
 もう少し、脱線します。さて、九月二十四日の夜、大津皇子が草壁皇太子の妃を抱いたとします。月は遅い半月です。夜中に半月の月明かりの下に男女が抱き合っているのです。密告した目撃者は、誰でしょうか。石川女郎の従者でも、大津皇子の従者でもないはずです。それぞれ口の堅い親族の従者を使っていたでしょう。大津皇子は深夜に女郎の所に来ていますから、密告者は、以前からの状況を知っていて、夜通し見張っていることになります。すると、草壁皇太子の家人しか、考えられません。密告者は、養親から日下部(草壁)臣や依羅臣の関係者ではないでしょうか。そうすると、大氏(おおうじ)の丹比公嶋は事件の全容を事前に知る立場です。大津皇子の事件ですから、謀反なのか、それとも戯けただけなのか、綿密に裏を調べる必要があります。持統天皇朝での丹比公嶋と太政大臣の高市皇子や持統天皇との関係は、非常に良好です。すると、この事件の裏取りを、丹比公嶋がしたのでしょうか。


コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

万葉集 更新情報

万葉集のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング