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万葉集コミュの万葉集巻第二(85〜234)114

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114;相聞,作者:但馬皇女,穂積皇子,恋愛,歌語り,高市皇子

[題詞]但馬皇女在高市皇子宮時思穂積皇子御作歌一首

秋田之  穂向乃所縁  異所縁  君尓因奈名  事痛有登母

秋の田の 穂向きの寄れる 片寄りに 君に寄りなな 言痛くありとも

あきのたの ほむきのよれる かたよりに きみによりなな こちたくありとも
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秋田之ーあきのたのー秋の田の  
穂向乃所縁ーほむきのよれるー穂向きの寄れるー秋の田の稲穂が一方に偏って 
異所縁ーかたよりにー片寄りにー靡くように  
君尓因奈名ーきみによりななー君に寄りななー私もあなたに寄り添いたい。「なな」は、完了の助動詞「ぬ」の未然形「な」に誂えの終助詞「な」が付いたもの。「〜してしまいたい」「〜してしまおう」という意志をあらわす。 
事痛有登母ーこちたくありともー言痛くありともー人の噂がうるさくとも。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
秋の田の稲穂が一つの方向に向いているように

私はひたすらあなたの方に寄りかってしまおう

世間の評判がいくらうるさくとも
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
但馬皇女 たじまのひめみこ
生没年 ?〜708(和銅1) 天武天皇の皇女。母は氷上娘(中臣鎌足の女)。
持統十年(A.D.696)以前、「但馬皇女の高市皇子の宮に在す時、穂積皇子を思ふ御作歌」他3首(02/0114〜0116)がある。異母兄高市皇子・穂積皇子との間で三角関係があったらしい。
0115題詞には「穂積皇子に勅して近江志賀寺に遣はす時」とあり、また0116には穂積と但馬の密通が発覚したとある。
穂積の志賀寺派遣を、但馬皇女との密通発覚により勅勘を被ったものとみる説もある。
和銅一年(A.D.708)6.25、薨ず。
この年冬、穂積皇子がよんだ悲傷歌がある(02/0203)。
万葉には他に、巻8に1首あり(08/1515)、
また04/0505の安倍女郎の歌を、藤原浜成撰『歌経標式』は但馬皇女の作とする。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<万葉集 柿本人麻呂と高市皇子 >より抜粋転載。
万葉集 但馬皇女の歌を読む
http://blogs.yahoo.co.jp/dokatakayo/14726262.html
 万葉集に激しい禁断の恋をしたとされる但馬皇女の歌があります。普通には歌の詞書(評)の「在高市皇子宮」から、この歌が詠われた時に但馬皇女は高市皇子の家(宮)に居たとされています。ただ、これらの解説は、正しい万葉集の理解ではない可能性があるようです。その理由を説明する前に、その万葉集の但馬皇女に関わる歌を以下に載せます。

但馬皇女在高市皇子宮時、思穂積皇子御作謌一首
集歌114 秋田之 穂向乃所縁 異所縁 君尓因奈名 事痛有登母
 秋の田の穂向(ほむき)の寄れる片寄りに君に寄りなな言痛(こちた)くありとも
勅穂積皇子遣近江志賀山寺時、但馬皇女御作謌一首
集歌115 遺居[而] 戀管不有者 追及武 道之阿廻尓 標結吾勢
 遣(おく)れ居(ゐ)て恋ひつつあらずは追ひ及かむ道の隈廻(くまみ)に標結(しめゆ)へ吾が背

但馬皇女在高市皇子宮時、竊接穂積皇子、事既形而御作[謌]一首
集歌116 人事乎 繁美許知痛美 己世尓 未渡 朝川渡
 人言(ひとこと)を繁み言痛(こちた)み己(おの)が世にいまだ渡らぬ朝川(あさかは)渡る

但馬皇女薨後、穂積皇子、冬日雪落、遥望御墓、悲傷流涕御作謌一首
集歌203 零雪者 安播尓勿落 吉隠之 猪養乃岡之 塞為巻尓
 降る雪はあはにな降りそ吉隠(よなばり)の猪養(いかひ)の岡の塞(さへ)なさまくに

穂積皇子御謌二首
集歌1513 今朝之旦開 鴈之鳴聞都 春日山 黄葉家良思 吾情痛之
 今朝(けさ)の朝明(あさけ)雁が音(ね)聞きつ春日山黄葉(もみち)にけらし吾が情(こころ)痛し

集歌1514 秋芽者 可咲有良之 吾屋戸之 淺茅之花乃 散去見者
 秋萩は咲くべくあらし吾が屋戸(やど)の浅茅(あさぢ)が花の散りゆく見れば

但馬皇女御謌一首  一書云、子部王作
集歌1515 事繁 里尓不住者 今朝鳴之 鴈尓副而 去益物乎 (一云 國尓不有者)
 言繁(ことしげ)き里に住まずは今朝(けさ)鳴きし雁に副(たぐ)ひて去(ゆ)かましものを (一云 国にあらずは)

 最初に、以上七首の内の集歌1513以下の三首については、私の独断と恣意を持って今回のものから除きます。私には、どうも集歌1513以下の三首について、但馬皇女と穂積皇子との関係には関係が無いような気がしてしっくりきていません。

 さて、集歌114と116の詞書(評)に「在高市皇子宮時」とあります。ここで悩ましい問題が生じます。高市皇子宮の「宮」とは何でしょうか。この評価によっては、万葉集全体の解釈や但馬皇女と穂積皇子との関係に大きな影響を与えます。通常は、高市皇子以外の皇子や皇女の「宮」とは屋敷である「宮」を想定します。この場合、「時」は「時代」ではなく、「其の時」のような意味合いになります。ところが、高市皇子については「宮」の漢語に対して十分な検討が必要になります。ここで、人麻呂の「高市皇子尊城上殯宮之時、柿本朝臣人麻呂作謌一首」の抜粋を以下に載せます。

挂文 忌之伎鴨 言久母 綾尓畏伎 明日香乃 真神之原尓 久堅能 天都御門乎 懼母 定賜而
かけまくも ゆゆしきかも 言(こと)はまくも あやに畏(かしこ)き 明日香の 真神(まかみ)が原に ひさかたの 天つ御門(みかど)を 懼(かしこ)くも 定め賜ひて

 私は、万葉集における高市皇子の呼称や日本書紀における官位の違和感から、高市皇子の挽歌において上記の歌詞の主語を「高市皇子」とする立場です。一般の解説に見られる「天武天皇」や「持統天皇」ではありませんし、飛鳥浄御原宮でもありません。つまり、香具山宮(俗に云う藤原京)を王宮(天つ御門)と定めたのは、太政大臣日嗣皇子尊の高市皇子となります。ここから、中大兄皇子の宮が「大津京」を示すように、慣例に従って藤原京を「高市皇子宮」と称してもおかしくはないのです。私は、桓武天皇以降に日本書紀は日本紀から創作され、万葉集での「葛」の表記は「藤」へと変更されている可能性が非常に高いとする立場です。したがって、原万葉集では「高市皇子宮」は「香具山宮」と記されていたと推定しています。こうした場合、「在高市皇子宮時」とは「(香具山宮)藤原京の時代に」という意味合いになり、歌の理解において但馬皇女は母親の藤原氏系の屋敷に住む独身の皇女となります。(平城京の発掘調査から藤原京で但馬皇女が独立した宮を持っていたことを示唆する木簡が発掘されたそうです。) つまり、高市皇子の妃ではなくなります。これらの但馬皇女の歌は、人麻呂が歌う高市皇子の挽歌の解釈によっては、万葉集の他の歌の解釈が変わる典型事例の一つです。私は、このような立場を取っています。

 このような立場の場合、高市皇子を含む但馬皇女と穂積皇子との間に三角関係は成立せず、但馬皇女から積極的に穂積皇子に対し、女性の感情を一方的にぶつけただけになります。古事記や日本書紀にある神話から推測して、当時は女性から積極的に恋愛感情を表すことは良くないこととされていたと思われます。それが、「事痛有登母(言痛くありとも)」であり「人事乎 繁美許知痛美(人言を繁み言痛み)」なのでしょう。この状況について、但馬皇女が受けた感情は、「噂で話題に上るが、強く諌める」ようなものではありません。歌を素直に読む限り、人妻による禁断の恋ではなかったと推測されます。
 さらに、歴史から理解しなければいけないのは、高市皇子は太政大臣日嗣皇子尊の立場で、皇位継承第一位です。歴史により高市皇子は持統天皇より先に亡くなられていますが、場合によっては高市皇子と内親王との男子は天皇の位に付く可能性があるのです。つまり、高市皇子の妃は立場上、浮気はできないのです。実際、高市皇子の子の長屋王は、王である軽皇子と藤原四兄弟による歴史初の下克上クーデターで殺されてしまいましたが、懐風藻の大学頭従五位下山田史三方の新羅の外交使節を迎えた宴での漢詩にあるように長屋王は漢語の「君王(=天皇または摂政宮)」なのです。但馬皇女が本当に高市皇子の妃であった場合は、大津皇子の例からして但馬皇女と穂積皇子とは処刑されてもおかしくはないのです。どうも、高市皇子は壬申の乱を戦い勝った軍人の太政大臣日嗣皇子尊であることを忘れた解説が多すぎるのでは無いでしょうか。聖武天皇は「天下と天下の全ての富は自分のもの」と発想しましたが、高市皇子はそれ以上の軍人の太政大臣日嗣皇子尊なのです。この視線を忘れた解説には、私のような平凡な万葉集愛好者としては理解できないものがあります。(つづく)

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