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万葉集コミュの万葉集巻第二(85〜234)105・106のつづき2

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とぼけた万葉集 大伯皇女の歌を考える
http://blogs.yahoo.co.jp/dokatakayo/21735867.html
 先に「大津皇子は和歌を詠んだか」と、疑問を持って大津皇子の歌を眺めてみました。そこで、取り上げなかった大伯皇女の歌を同じような視線で見てみます。万葉集で大伯皇女の歌とされるものは次に示すもので、全部で六首です。

藤原宮御宇天皇代
高天原広野姫天皇、謚曰持統天皇。元年丁亥、十一年譲位軽太子。尊号曰太上天皇也
大津皇子竊下於伊勢神宮上来時、大伯皇女御作謌二首
集歌105 吾勢枯乎 倭邊遺登 佐夜深而 鷄鳴露尓 吾立所霑之
 吾が背子を大和へ遣(や)るとさ夜更けて暁露(あかときつゆ)に吾(わ)れ立ち濡れし

集歌106 二人行杼 去過難寸 秋山乎 如何君之 獨越武
 二人行けど去(い)き過ぎ難(かた)き秋山を如何(いか)にか君が独り越ゆらむ

藤原宮御宇天皇代
高天原廣野姫天皇、天皇元年丁亥、十一年譲位軽太子。尊号曰太上天皇
大津皇子薨之後、大来皇女従伊勢齊宮上京之時御作謌二首
集歌163 神風乃 伊勢能國尓母 有益乎 奈何可来計武 君毛不有尓
 神風(かむかぜ)の伊勢の国にもあらましを何にか来けむ君もあらなくに

集歌164 欲見 吾為君毛 不有尓 奈何可来計武 馬疲尓
 見まく欲(ほ)り吾がする君もあらなくに何にか来けむ馬疲(か)るるに

移葬大津皇子屍於葛城二上山之時、大来皇女哀傷御作謌二首
集歌165 宇都曽見乃 人尓有吾哉 従明日者 二上山乎 弟世登吾将見
 現世(うつそみ)の人にある吾(わ)れや明日よりは二上山を弟世(いろせ)と吾(あ)が見む

集歌166 礒之於尓 生流馬酔木[乎] 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓
 磯の上に生(お)ふる馬酔木(あしび)を手折(たを)らめど見すべき君が在(あ)りと言はなくに
右一首今案、不似移葬之歌。盖疑、従伊勢神宮還京之時、路上見花感傷哀咽作此歌乎。


 この中で集歌105、集歌106、集歌165と集歌166との四首は、既に「大津皇子は和歌を詠んだか」で触れました。ここでは、集歌163と集歌164とを見てみます。例によって、詞書や左注が無いものとして歌を見てみますが、最初に、標準的な解釈として中西進博士の意訳をまず紹介します。

集歌163 神風乃 伊勢能國尓母 有益乎 奈何可来計武 君毛不有尓
訓読: 神風(かむかぜ)の伊勢の国にもあらましを何にか来けむ君もあらなくに
意訳: 神風の吹く伊勢の国にもいればよかたものを、どうして都に帰って来たのだろう。貴方もいないことなのに。

集歌164 欲見 吾為君毛 不有尓 奈何可来計武 馬疲尓
訓読: 見まく欲(ほ)り吾がする君もあらなくに何にか来けむ馬疲(か)るるに
意訳: 会いたいと思う貴方も、もういないことだのに、どうして来たのだろう。徒らに馬が疲れるだけだのに。

 この中西進博士の解釈は、斉藤茂吉氏や山本健吉氏などと共通しますが、これら二首の歌は集歌163の歌の歌詞の「有益乎」の言葉を「あらましを」と読み、「有るにも関わらず」との否定語として理解することで共通の意訳が成立してます。「有益乎」の漢語自体には、否定語の要素はありませんが、詞書の「大津皇子薨之後、大来皇女従伊勢齊宮上京之時御作謌二首」の「従伊勢齊宮上京(伊勢齊宮から上京)」の言葉から拡大解釈して、否定語と採ってます。つまり、歌の解釈上では、詞書で云う「帰京という御題」が先にあって、大伯皇女はその「帰京という御題」に合わせて、歌を詠ったことになってます。とぼけた人間には、ここに違和感があります。本来は、「御題」が有ろうが、無かろうが、歌に合わせて解釈すべきと思ってます。

 では、「有益乎」に「有るにも関わらず」のような意味が万葉の言葉として、万葉集の歌にあるのでしょうか。ここで、同時代とされる万葉集の巻一と巻二の歌の中で、「あらまし」の言葉を捜してみると、次の四首を見つけることが出来ました。

(ア)集歌091 家母有猿尾       家もあらましを
(イ)集歌120 花尓有猿尾       花にあらましを
(ウ)集歌163 伊勢能國尓母 有益乎  伊勢の国にもあらましを
(エ)集歌197 能杼尓賀有萬思     のどかにあらましを

 およそ、「あらまし」は、漢語の表情と同じで、和語としても願望や希望を表す言葉のようです。

 さて、非常にとぼけた妄想から、集歌163と集歌164との歌に、次の詞書「幸于伊勢國時、天皇御製歌二首」を付けてみました。そして、それに似合った意訳を付けました。

藤原宮御宇天皇代
高天原廣野姫天皇、天皇元年丁亥、十一年譲位軽太子。尊号曰太上天皇
幸于伊勢國時、天皇御製歌二首
集歌163 神風乃 伊勢能國尓母 有益乎 奈何可来計武 君毛不有尓
訓読: 神風(かむかぜ)の伊勢の国にもあらましを何にか来けむ君もあらなくに
超訳: 神の風が吹くと云う神の住まう伊勢の国にもあるのに違いないのにどうして来たのでしょうか。貴方は既にお亡くなりになられたのに。

集歌164 欲見 吾為君毛 不有尓 奈何可来計武 馬疲尓
訓読: 見まく欲(ほ)り吾がする君もあらなくに何にか来けむ馬疲(か)るるに
超訳: 私がお会いしたい貴方は既にお亡くなりになり、もうここにはいないことなのに、どうして来たのだろうか。徒らに馬が疲れるだけだのに。

 詞書を変えると、あら不思議、とぼけた人間の解釈は、持統天皇の伊勢国への御幸での伊勢国能褒野(のぼの)陵への天皇の勅使の幣捧呈時での天皇御製の歌のようになります。
 天皇の一行が北伊勢へ御幸した場合、日本武尊の能褒野陵への幣捧呈は、先祖の崇拝と旅の安全を祈願する土地誉め神事を想うと、行なわれるべき行事と思います。また、尾張や北伊勢の豪族に過去の天皇家の歴史を知らせしめる上でも、故事に基づく神事は政治的にも重要であったと想像してます。もし、そうであるならば、何らかの日本武尊への歌が詠われてもおかしくはないはずです。一方、天皇御製とした場合には、天武天皇の桑名郡家への思い出の可能性もありますが、ここでは、古事記の伝承から日本武尊を推定してます。
 また、私は、従来の解釈において、「奈何可来計武(何にか来けむ)」の「来」の用字につまずいてます。「来」の用字を自分の本拠に帰る意味で積極的に使うのでしょうか。集歌163と集歌164との両方の歌で、「奈何可来計武」の共通のフレーズが使われていますし、建前上、二首は一人の人間による作歌です。つまり、使いたくて使った、「奈何可来計武」の用字です。とぼけた人間の感覚は、「貴方は既に亡くなられて生きてはいませんが、それでも、ここに来たかった。」のような切望の「来」と想ってます。つまり、「貴方はもういない。それは判っている。それでも、私は、ここに来ました。」の感覚です。

 他方、歌の表記という見当違いの世界から見ると、大津皇子や大伯皇女の歌が詠われた時代は、あの略体歌から非略体歌への移行時代となっています。整った人麻呂の非略体歌の初見は持統3年の草壁皇子の挽歌です。こうした時、集歌163と集歌164との歌は非常に整った表記の短歌ですから、非略体歌論では持統天皇期後半以降に採歌されたかも知れません。ちなみに、大伯皇女の時代性では、次のような表記になると思われます。まだ、統一された万葉仮名表記ではありません。好みによる借音の真仮名を使った訓読体の表記です。

集歌9 莫囂圓隣之 大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本
 穏(しづ)まりし浦波(うらなみ)騒(さゑ)く吾(あ)が背子がい立たせりけむ厳白橿(いつかし)が本(もと)

集歌156 三諸之 神之神須疑 已具耳矣自得見監乍共 不寝夜叙多
 三諸(みもろ)の神の神杉(かむすぎ) 逝(い)くに惜しと見けむつつとも寝(い)ねぬ夜ぞ多き

 では、このとぼけた世界で、大伯皇女と集歌163と集歌164との歌はどうなるのでしょうか。
大伯皇女が伊勢から大和に戻ったとき、父親も母親も弟も既に全員死亡して、この世にはいません。そして、親戚一同は弟を殺した人達です。また、万葉集や歴史からは、その後に大宝元年十二月に皇女の死亡の記事が載るだけです。

 先に示した万葉集の歌六首は、どうも全て、大伯皇女の歌ではないようですが、なんらかの消息の伝聞はあったでしょう。それが歌での二上山ではないでしょうか。私は、大伯皇女は御祖母さんの里の河内石川の蘇我一族の許に身を寄せたのではないかと妄想してます。内親王相当の位田や位封があり身分と生活は保障されても、弟を殺した人達の藤原京には住みたくなかったと思います。皇女や内親王は皇位継承や祭祀の問題があり、勝手に伴侶を選ぶことが出来ませんから、大伯皇女は、建前上は生涯、頼る身のない独身のはずです。それらの姿を見ていた蘇我・中臣一族の人達が、伝承や物語を作っても良いと思ってます。また、積極的に、創り伝えるのが人の優しさではないでしょうか。
 万葉集に大伯皇女と大津皇子の歌があるのは、万葉集編者である丹比国人とその理解者である橘諸兄の優しさと想ってます。また、それが外国人に理解されない、敵を徹底的に叩き潰さない日本人の緩さと優しさの感情でしょう。
 万葉集で判りやすい、この敵対者への優しさの明確な現われが、次の歌です。長屋王の子の膳部王への挽歌のように見せてますが、本来の歌の内容は老荘思想の「無為自然」から「空色と戒律」の仏教に対する批判の歌です。それを、万葉集の編者は「長屋王の変」で殺された膳部王への挽歌として、探し出して詞書を付けているのです。それが、万葉集の優しさと想います。

悲傷膳部王謌一首
集歌442 世間者 空物跡 将有登曽 此照月者 満闕為家流
 世間(よのなか)は空しきものとあらむとぞこの照る月は満ち闕(か)けしける
右一首作者未詳

 とぼけた人間は、個人の勉強としては、このとぼけた視線で大伯皇女や大津皇子の歌を読みますが、和歌鑑賞としては「普通の解説」にしたがって、哀悼の意味を込めて、これらの歌々を読みたいと精神分裂して想ってます。


*おまけ*
 集歌163と集歌164との歌の「君毛不有尓」と「吾為君毛 不有尓」の「君毛不有尓(君もあらなくに)」の「毛」は、持統天皇からみて「東国征伐の日本武尊」と「壬申の乱の天武天皇」との意味での用字と想ってます。とぼけた解説では、「奈何可来計武(何にか来けむ)」の用法は反語的ですが、伊勢皇大神宮の存在から推定して天武天皇に対して、直接に「奈何可来計武(何にか来けむ)」の表現では、持統天皇の気持ちとしてはあんまりでしょうから、「東国征伐の日本武尊」の方に重きを置いてます。
 なお、万葉集は孝謙天皇のための奉呈歌集ですから、大伯皇女の身に阿部内親王を仮託したかもしれません。政争がなければ安積親王が殺されずに即位し、阿部内親王は孝謙天皇になる必要はなかったはずです。直接ではありませんが、安積親王と阿部内親王との関係は、大津皇子と大伯皇女との関係に相似してます。
 こうして見ますと、竹取物語や万葉集「奈弖之故」は、阿部内親王への優しさに満ち溢れた歌物語かもしれません。


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