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万葉集コミュの万葉集巻第二(85〜234)93・94

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サネカズラ(実葛)  マツブサ科
学名:Kadsura japonica
 別名:ビナンカズラ(美男葛)
 花期:夏
 皮を剥いでつぶして水を加えるとネバネバした液体になります。これを髪につけて整髪料としたそうです。これが別名ビナンカズラ(美男葛)の由来です。テレビ朝日で日曜日午後 4 時 30 分から「探偵ナイトスクープ」という番組がありますが,ここで「ビナンカズラを探す」というのを放送したことがあります。その番組では,シャンプーの代わりに使っておりましたね。
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93;相聞,恋愛,作者:鏡王女,藤原鎌足,娉,贈答,歌垣,比喩

[題詞]内大臣藤原卿娉鏡王女時鏡王女贈内大臣歌一首

玉匣  覆乎安美  開而行者  君名者雖有  吾名之惜<裳>

[たまくしげ] おほふをやすみ あけていなば きみがなはあれど わがなしをしも

玉櫛笥 覆ふを安み 明けていなば 君が名はあれど 吾が名し惜しも
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玉匣ーたまくしげー玉櫛笥ー枕詞(覆ふ)、お化粧箱 。 
覆乎安美ーおほふをやすみー覆ふを安みー隠すのはたやすいと  
開而行者ーあけていなばー明けていなばー 夜が明けてからお帰りになる 
君名者雖有ーきみがなはあれどー君が名はあれどーあなたに浮名が立ち  
吾名之惜<裳>ーわがなしをしもー吾が名し惜しもーこの「名」は浮名、良くない評判。
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隠すのはたやすいと
夜が明けてからお帰りになる  
あなたに浮名が立ち
わたしだって疵つくでしょ
(夜が明けても男を放さないほど、好きなんだ・・)
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お化粧箱を蓋で覆うように、二人の仲を隠すのはわけないと、夜が明けきってからお帰りになるなんて。そんなことをなさったら、あなたの評判が立つのはともかく、私の浮名の立つのが惜しいですわ。
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94;相聞,恋愛,作者:藤原鎌足,鏡王女,贈答,異伝,歌垣,枕詞,序詞

[題詞]内大臣藤原卿報贈鏡王女歌一首

玉匣  将見圓山乃  狭名葛  佐不寐者遂尓  有勝麻之<自> [玉匣 三室戸山乃]

[たまくしげ] みむろのやまの さなかづら] さねずはつひに ありかつましじ,[たまくしげ,みむろとやまの]

玉櫛笥 みむろの山の さな葛 さ寝ずはつひに 有りかつましじ [玉くしげ三室戸山の]
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玉匣ーたまくしげー玉櫛笥ー枕詞。「たま」は美称。櫛を入れる箱。ふた・はこ・ひらく・おおう・あく・おく・み、などにかかる。蓋に対する「身」から、同音で始まる「みもろ」に続けたもの。  
将見圓山乃ーみむろのやまのーみむろの山のー三室山の  
狭名葛ーさなかづらーさな葛ーさねかづら:さ寝を起こす序。常緑つる性の木本植物。  
佐不寐者遂尓ーさねずはつひにーさ寝ずはつひにーさ寝ずに――共寝せずに  
有勝麻之<自>ーありかつましじー有りかつましじーできはしないでしょう。
[玉匣 三室戸山乃]ー[たまくしげ,みむろとやまの]
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玉くしげ、みもろの山のサネかずらー
天下の美女にして、房事の小悪魔め、ひと時も放さないぞ。
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<私の日記帳 >より転載。
http://blogs.yahoo.co.jp/mr_kounosu/11247680.html
押坂の里と鏡王女(2)

 万葉女性歌人、鏡王女の出自は歴史資料的には余り定かではない。
 諸説はあるが、鏡王女が、天智天皇の後宮(皇妃)であったと言うことは今まで多くの学者が認め、一般的な認識になっているようである。
 また鏡王女の出自が皇室系譜に属するかどうかについては、鏡王女の墓が第34代舒明天皇押坂稜の稜域内にあることから、一般的に舒明天皇の近親の者であったのではないかと考えられている。
 
 また日本書紀(天武天皇記十二年七月四日)に天武天皇が鏡王女の病気見舞いに行き、その翌日に鏡王女が薨去(亡くなること)した旨が記されている。
 天皇が直々お見舞いに行くというからには鏡王女は天皇の身内ではなかったかとも考えられ、これ等の史実から鏡王女は舒明天皇の皇女で、中大兄皇子(天智天皇)、大海人皇子(天武天皇)の異母姉妹に当たるのではないかと言う説もある。
 
 しかしこの姉妹説が真実だとすると、鏡王女と額田王との姉妹関係がおかしくなる。額田王との姉妹説の根拠については、?額田王の父の名前が鏡王であり、鏡王女と名前が類似していること、?万葉集の中で家族を思わせるような近親感のある贈答歌を唱和していること、?ともに後宮に仕え、優れた宮廷歌人であったこと等が考えられている。
 
 ともあれ諸説はさておき私は、?鏡王女は皇室の近親者であったこと、?額田王とは姉妹であったこと、?後の内大臣藤原鎌足卿の正室となったことなどを仮説として暫らくの間は万葉集をみていきたいと思っている。
 藤原鎌足卿との関係を見ると、鏡王女が鎌足の病気平癒祈願のため山階寺(後の興福寺)を建立したことが「興福寺縁起」に記されてもおり、果たして鏡王女と鎌足の仲がどのような関係にあったのかは私には知る由も無いが、鎌足との相問歌を私なりに感じてみたい。
 内大臣藤原卿、鏡王女を娉ふ時に、鏡王女が内大臣に贈る歌一首
 「玉櫛笥(たまくしげ) 覆ひを易(やす)み 明けていなば 君が名はあれど 我が名し惜しも」
 (万葉集巻二/九三)
 注)「娉ふ(つまどふ)」とは、男女が交あう時は男が女の家を夜訪れ、朝暗い内に帰るのが当時の慣わしであった。
 
 歌意は、「二人の仲を隠すことはわけのない事、そして帰るのが楽だからと言って夜が明けてから帰られたのでは、男である貴方にとっては浮名の立つことはかまわないでしょうが、女である私には浮名の立つことは口惜しいことでございます。」(「玉櫛笥」は櫛笥の意で「覆る」の枕詞)
 私は、この歌には鏡王女の心の底に『少なくとも私は皇族よ、しかも天智天皇(中大兄皇子)の寵愛を受けていたのよ。』と言う気持ちがあり、さほど強い意志ではないだろうが、ちらりと身分の差のわだかまりを覗かせている歌のような気もする。云うならば、鏡王女の意識の上ではまだ二人の関係を世にはばかっているのかもしれないし、未だこの時点では中大兄皇子に対する「愛情のくすぶり」が心の片隅にあったのではないかとも思ったりしている。
 
鏡王女に比べて、鎌足の方はその情熱的愛情をストレートにぶっつけている。
 そしてこの歌に対して、鎌足は次のように応えている。
内大臣藤原卿鏡王女に報(こた)え贈る歌一首
 「玉櫛笥 みもろの山の さな葛(かずら) さ寝ずはつひに 有りかつましじ」
 歌意は「みもろの山(三輪山を指す)のさねかずらではないが、一緒に共寝をしないでは、とても生きていくのに堪ることはあり得ないでしょう。(それほど恋しいのです)」
 
 この歌は、鎌足が本当は自分のことなのに、あたかも鏡王女の方が「一緒に共寝をしないでは堪えられないでしょう」と逆の表現をしているようにもとれる。
 また「さ寝ずは」という肉体的な動作を表現することによって、逆に強い精神的愛情表現をしているのである。「さ寝ずは」の「さ」は接頭語。「寝ずは」は寝ないでの意味でこの場合「共寝しないで」と訳している。(「万葉集一」新潮日本古典集成・「万葉集注釈巻第二」澤潟久孝著など参照)
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藤原鎌足 ふじわらのかまたり 推古二二〜天智八(614〜669) 通称:大織冠
父は中臣御食子、母は大伴夫人(咋子のむすめ智仙娘)。
藤氏家伝は長男とするが、字を仲郎とし、この名からすると次男だったか。
子に定恵(多武峰縁起・略記などによれば実父は孝徳天皇)・不比等(一説に実父は天智天皇)・氷上娘・五百重娘。
はじめ中臣連鎌子と名乗った。
周の太公望の撰とされる兵法書『六韜』を愛読し、権謀術数を学んだという。
舒明朝の初め、神祇伯の職を固辞して受けなかった。
舒明十二年(640)十月、隋から南淵請安が帰国し、中大兄皇子と共に外典の講義を受ける。
軽皇子(孝徳天皇)とも親交があった。
皇極四年(645)、中大兄らと図って蘇我入鹿を討殺(乙巳の変)。孝徳天皇即位後、大錦冠を授かり、内臣となって、中大兄と共に国政改革の中枢に参加。
斉明元年(655)、大紫冠(三位)を授かる。同五年、藤原不比等生まれる(母は車持国子の女)。
天智年間、帝の命により律令を刊定(近江令)。
天智八年(669)十月十五日、自邸に派遣された大海人皇子より大織冠と大臣の位を授かる。また、藤原氏を賜姓される。翌十六日、薨ず(56歳。
紀に引用する日本世記によれば50歳)。
家伝には「淡海之第」で薨じ、山階精舎で葬儀をしたとある。
万葉集に二首の歌を残す。また藤原浜成撰「歌経標式」にも一首「藤原内大臣秋歌」として見える。

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