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万葉集コミュの万葉集 92

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92;相聞,作者:鏡王女,和,天智,贈答,歌垣,奈良,女歌

[題詞]鏡王女奉和御歌一首(鏡王女の和(こた)へ奉(たてまつ)る御歌一首)
【補記】当時皇太子であった中大兄皇子(天皇)の「妹が家も継ぎて見ましを大和なる大島の嶺に家もあらましを」に答えた歌。

秋山之  樹下隠  逝水乃  吾許曽益目  御念従者

あきやまの このしたがくり ゆくみづの われこそまさめ みおもひよりは

秋山の 木の下隠り 行く水の 我れこそ益さめ 御思ひよりは
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秋山之ーあきやまのー秋山の  
樹下隠ーこのしたがくりー木の下隠りー木〃の落ち葉の下をひそかに隠れて 
逝水乃ーゆくみづのー行く水のーれる水のように表には見せませんが 
吾許曽益目ーわれこそまさめーあこそまさらめー我れこそ益さめー私の方こそ(思いは)まさるだろう。「ます」は、前の句からの続きでは「(水が)増す」意、後の句への続きでは「(思いが)勝る」の意。「まさめ」の「め」は推量の助動詞「む」が係助詞「こそ」との係り結びにより已然形をとったもの。 私の思いの方が勝っておりますよ、お逢いしたいという思いは 
御念従者ーみおもひよりはーおもほさむよはー御思ひよりはーあなたが私を思ってくださるよりも。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
木の下を隠れて流れる水のように

表には見せませんが

お逢いしたいという私の思いの方が

勝っておりますよ

殿下が私を思ってくださるよりも
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
鏡女王 かがみのおおきみ 生年未詳〜天武十二(?-683)

 万葉古写本には「鏡王女」とあるが、日本書紀に見える「鏡姫王」と同一人と思われ、また『歌経標式』には「鏡女王」とある。王女は女王の誤りであろう(『萬葉考』)。

舒明天皇の皇女または皇孫とする説と、鏡王のむすめで額田王の姉であろうとする説がある。

 天智天皇代、天皇より歌を賜わり、これに答える(2-91,92)。また内大臣藤原卿(鎌足)に娉(つまど)われ、歌を贈答している(2-93,94)。初め天智に召され、のち鎌足の室となったか。『興福寺縁起』によれば不比等の母。天武十二年(683)七月五日、薨ず(紀)。その前日、天武天皇の見舞を受けている。
万葉集に五首(重出を除けば四首)。また藤原浜成の歌学書『歌経標式』に「諷去春歌」が歌病の例として挙げられている。
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<万葉集 柿本人麻呂と高市皇子 >より抜粋転載。
http://blogs.yahoo.co.jp/dokatakayo/15106175.html
<万葉集を読む  鏡王女は釆女安見か>

内大臣藤原卿娉鏡王女時、鏡王女贈内大臣謌一首
集歌93 玉匣 覆乎安美 開而行者 君名者雖有 吾名之惜[裳]
 玉匣(たまくしげ)覆ふを安(やす)み開けて行(い)なば君が名はあれど吾(わ)が名し惜しも内大臣藤原卿報贈鏡王女謌一首
集歌94 玉匣 将見圓山乃 狭名葛 佐不寐者遂尓 有勝麻之[自] (或本歌曰、玉匣 三室戸山乃)
 玉匣(たまくしげ)見(み)む円山(まどやま)の狭名葛(さなかづら)さ寝(ね)ずはつひに有りかつましじ (或る本の歌に曰はく、玉匣(たまくしげ)三室戸(みむろと)山の)

内大臣藤原卿娶釆女安見[兒]時作謌一首
集歌95 吾者毛也 安見兒得有 皆人乃 得難尓為云 安見兒衣多利
 吾はもや安見児(やすみこ)得たり皆人(みなひと)の得(え)難(か)てに為(す)とふ安見児得たり

額田王思近江天皇作謌一首
集歌1606 君待跡 吾戀居者 我屋戸乃 簾令動 秋之風吹
 君待つと吾が恋ひをれば我が屋戸(やと)の簾(すだれ)動かし秋の風吹く

鏡王女作謌一首
集歌1607 風乎谷 戀者乏 風乎谷 将来常思待者 何如将嘆
 風をだに恋ふるは羨(とも)し風をだに来(こ)むとし待たば何か嘆(なげ)かむ

鏡王女謌一首
集歌1419 神奈備乃 伊波瀬乃社之 喚子鳥 痛莫鳴 吾戀益
 神奈備(かむなび)の伊波瀬(いはせ)の社(もり)の呼子鳥(よぶこどり)いたくな鳴きそ吾が恋まさる

 このように歌を並べた時に、定訓による歌の解釈から想像される背景に違和感を感じませんか。今回は、すこし時代背景などを説明するために、歌の説明の前に長々しい前講釈を載せさせていただきます。
 この違和感とは、上記の歌の詞書をそのまま読むと、中臣連鎌足に天智天皇から鏡王女と釆女安見との二人の女性が下賜されたようになります。ところが、(藤氏)家傳上大師(鎌足伝/大織冠伝:近日Upします)では、そのような鏡王女を含めて女性の下賜の記載は一切ありません。まず、鏡王女は、例え天智天皇から下賜されようが、天平期以降の藤原氏にとって家系図に載せなければいけないような大王の王族の女性ではなかったのでしょうか。また、大織冠伝によると鎌足の墓は山科精舎とされていますが、菩提寺は飛鳥の法興寺(後、奈良に移って元興寺)です。正妻でもない鏡王女が鎌足のために山科寺を建立する可能性はありません。鎌足系中臣一族は、蘇我氏の枝族ですから蘇我氏の菩提寺の法興寺を氏の長者として引き継ぐのは当たり前の姿です。藤氏家傳(大織冠伝)から鏡王女は鎌足や山科寺などとも関係が無かったことを、まず確認しておきます。
 この鏡王女の考察については、インターネットの「天武天皇の年齢研究」に丹念な検証を見つけることが出来ます。ただ、大阪の四天王寺所蔵にある国宝銅盒子(骨蔵器)の銘文の一節の「威奈鏡公」の鏡公を以って鏡王とすることには、私は躊躇を覚えます。また、神話の時代から大王に娘を献上する場合、適齢期の未婚の娘全員を献上することは良くある状況です。娘を差し出す側からすると、もし万が一残した方の娘が数年後に成長して美人であったり、才女であった場合、反逆の疑いを持たれます。安全の為にも適齢期の娘全員を献上した方が良いとしたのでしょう。さて、日本書紀天武天皇紀の記述から、額田王は鏡王の娘です。そして、鏡王女は読んで字の如く鏡王の女(むすめ)です。つまり、鏡王女と額田王は、鏡王女を年上とする姉妹としてよいと思います。
 当時、少なくとも斉明天皇から天武天皇の時代は道教思想が流行したようですし、国家神道の骨格に採用された形跡もあります。また、天智天皇や中臣連鎌足には外丹法の金属毒による死亡説まであります。さらに、多武峰の双槻宮は道観ではないかともされていますので、鏡王はその名の通りに渡来系の神仙道教の道師の長老の意味合いも否定できなくなります。一方、飛鳥・平城京時代には、百済や高句麗からの亡命王族の称号に「王」を用いていますから、「王」の肩書き=皇族の枝族とは限りません。また、薬師寺の縁起に額田王は三采女の一人との伝承があります。日本書紀にあるように渡来人の倭直(阿知使主)等から大王に采女を献上する風習が始まったともあります。これらの状況から、渡来人の鏡王が采女である娘二人をそれぞれの皇子に献上しても状況として不思議ではありません。
 ここで、鏡王女と額田王の年齢の推定を試みます。まず、額田王は天武天皇との間に十市皇女を産み、その十市皇女は大友皇子の下へ嫁でいます。大友皇子は、懐風藻によると壬申の乱(672)の時に25歳で戦死しています。次に、鏡王女(日本書紀では鏡姫王)は、天武12年(684)に7月に死亡 (薨)しています。(なお、日本書紀では興福寺縁起から鏡王女は大織冠の妻の立場として「薨」の字を使ったと思われますが、中臣連鎌足の大織冠自体が作文ですので作文として鏡王女の「薨」を理解してください。また、繰り返しになりますが、藤氏家傳には鏡王女が大織冠の妻であったとの記載はありません。) 額田王が16歳程度で白雉5年(654)頃に十市皇女を産んだとしますと、額田王は舒明元年(638)頃の生まれとなります。すると、鏡王女は舒明即位前紀7年(635) 頃の生まれではないでしょうか。額田王の熟田津の歌が斉明7年(661)24歳位、蒲生野の歌が天智7年(667)30歳位、春秋争いの歌が天智8年(668)31歳位で、鏡王女の天武12年(684)の死亡時の年齢は45歳前後となりますので違和感はないと思います。
 ここで、突然連脈はありませんが、延喜式諸陵寮によると鏡王女は大和國城上郡押坂に葬られています。そのすぐそばの城上郡外山に宗像神社三座が、当時すでに祭られていたようです。その祭神の一柱は古事記によると大嶋中津宮の市寸島比売命(いちきしまひめ)、別名を狭依毘売(さよりびめ)で、この狭依毘売は美人三神の中でも特に美人で歌舞音曲の名手とされています。また、その東北すぐに円錐形の山容を持つ三室(三輪)山があります。三室戸山と表記した場合、三室邑の山とも読むことが可能です。また、当時は、天香具山の東北地区に舒明天皇の百済宮と百済寺が作られていて、百済系渡来人が大勢住む地域と思われます。また、漢語に云う采女は百済や渡来系氏族が貢のが古式です。
 中臣連金は、確実に歴史に残る近江朝廷の中心的官僚で、兄弟・従兄弟関係の中臣連可多能祐、中臣連国子、中臣連国足、中臣連意美麿の系図から推定して、推古28年(620)頃の生まれと思われます。

 大変長い前講釈になりました。ここで、やっと歌に戻ります。
 天智天皇の集歌91の歌は、中大兄皇子時代の孝徳天皇の難波宮時代(645-653)に、難波宮から大和にいる鏡王女に送ったものとされています。当時の狭義の「倭」地域は、日本書紀によると中大兄皇子が思う「倭の京」が飛鳥河辺行宮を示すことから海石榴市から大軽付近を示すと思っていいのではないでしょうか。すると、「山跡有 大嶋嶺尓」は狭義の「倭にある大嶋嶺」を示します。つまり、美人の神様がいる大嶋中津宮の狭依毘売の社の嶺ですから、鳥見山の麓でしょうか。このとき、鏡王女は自宅の家に住んでいますから、妃ではありません。中大兄皇子が通う愛人の立場です。推定した生まれ年からすると、この歌が詠われたのは鏡王女がおよそ18歳位のときでしょう。集歌91の歌を意訳すると、
集歌91 妹が家(いへ)も継(つ)ぎて見ましを大和なる大島の嶺(ね)に家(いへ)もあらましを
 美人で音曲が得意なお前をずっと逢いに通い続けたいので、大和の大嶋、中津宮の狭依毘売の社が在る嶺、その宗像神社の近くに住むお前の家の近くに私の家があれば善いのだが
 これに対して、鏡王女は集歌92の歌で、「表には見えないでしょうが貴方以上に、私はずっと絶えずに貴方をお慕いしています。」と詠っています。中大兄皇子は鏡王女の家も得意も知っていますから、当然、二人は共寝の関係です。集歌92のおよその意訳は、
集歌92 秋山の樹(こ)の下隠(かく)り逝(ゆ)く水の吾(わ)れこそ益(ま)さめ御念(おも)ひよりは
 秋山の落ち葉の下に隠されてひっそりと流れいく水のように、そのように貴方には見えないでしょうが貴方以上に私はずっと絶えずに貴方をお慕いしています

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