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万葉集コミュの万葉集88・89・90

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88;相聞,仁徳天皇,作者:磐姫皇后,律令,情詩,閨房詩,大阪,伝承,仮託,恋情,女歌

[題詞](相聞 / 難波高津宮御宇天皇代 [大鷦鷯天皇 謚曰仁徳天皇] / 磐姫皇后思天皇御作歌四首)

秋田之 穂上尓霧相  朝霞  何時邊乃方二  我戀将息

あきのたの ほのへにきらふ あさかすみ いつへのかたに あがこひやまむ

秋の田の 穂の上に霧らふ 朝霞 いつへの方に 我が恋やまむ
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秋田之ーあきのたのー秋の田のー秋の田の実りの穂波 
穂上尓霧相ーほのへにきらふー穂の上に霧らふー動詞「きる」(霧が立つ)+継続を表わす接尾語ー霧が立ち込める意。 平安以降は春の霧を「かすみ」、秋の霧を「きり」と区別した。 
朝霞ーあさかすみー朝霞ー(穂波の上に)たちこめる朝霧は  
何時邊乃方二ーいつへのかたにーいつへの方にー何処にか(朝霧は消える)  
我戀将息ーあがこひやまむー我が恋やまむーあれみたいに、私の恋心もどこかへ消えていってほしいのだけれど、いつまでも私の胸に立ちこめたままだ。
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秋の田の穂波の上にかかる朝霞は

いつの間にか消えてしまうのに

私の恋心は止むこともなく

いつまでも心が晴れません
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万葉雑記 難訓歌の周辺<ブログ[万葉集 柿本人麻呂と高市皇子]より転載。
http://blogs.yahoo.co.jp/dokatakayo/folder/1147375.html

集歌88 秋田之 穂上尓霧相 朝霞 何時邊乃方二 我戀将息
訓読 秋の田の穂の上(うへ)に霧(き)らふ朝霞(あさかすみ)何処(いつ)辺(へ)の方(かた)に我が恋やまむ
意訳 秋の田の稲穂の上に霧が流れて朝霞のようにはっきり見えない私の恋。いついつも私の貴方を慕う気持ちに休まる場所もない。
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日本書紀によれば、仁徳天皇の二十二年一月、
天皇は皇后に八田皇女を妃にする相談をされたが、皇后は許さなかった。
そこで天皇は歌で皇后に頼んだ。
三十年九月十一日、皇后は紀伊國に旅行し、熊野の岬でそこの御綱葉(みつながしわ)を取って帰った。
天皇は皇后の留守をねらって、八田皇女を娶って宮中に召し入れられた。
皇后は難波の渡し場まで来たとき、このことを聞いていたく天皇を恨んだという。
そのあと、皇后は御綱葉を海に投げ、淀川を上って山城の筒城に入り、天皇自身の迎えを拒み、
五年後にその地で崩じた。
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89;相聞,仁徳天皇,作者:磐姫皇后

[題詞](相聞 / 難波高津宮御宇天皇代 [大鷦鷯天皇 謚曰仁徳天皇] / 磐姫皇后思天皇御作歌四首)或本歌曰

居明而  君乎者将待  奴婆珠<能>  吾黒髪尓  霜者零騰文

居明かして 君をば待たむ ぬばたまの 我が黒髪に 霜は降るとも

ゐあかして きみをばまたむ ぬばたまの わがくろかみに しもはふるとも
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ここでじっと 夜を明かして
あなたを 待ちましょう
この黒髪に 霜が降ろうとも
待ちましょう 白髪になるまでも
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90;相聞,仁徳天皇,作者:磐姫皇后

[題詞]古事記曰 軽太子奸軽太郎女 故其太子流於伊豫湯也 此時衣通王 不堪戀<慕>而追徃時歌曰

君之行  氣長久成奴  山多豆乃  迎乎将徃  待尓者不待

君が行き 日長くなりぬ 山たづの 迎へを行かむ 待つには待たじ

きみがゆき けながくなりぬ やまたづの むかへをゆかむ まつにはまたじ
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あなたが出掛けてから

たくさん日が経ちました

迎えに行きましょう

待つには恋しすぎる

もう待ってなんかいません
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万葉雑記 難訓歌の周辺<ブログ[万葉集 柿本人麻呂と高市皇子]より転載。
http://blogs.yahoo.co.jp/dokatakayo/folder/1147375.html

集歌90 君之行 氣長久成奴 山多豆乃 迎乎将徃 待尓者不待
訓読 君が行き日(け)長くなりぬ山たづの迎へを往(ゆ)かむ待つには待たじ
意訳 貴方が帰って往かれてからずいぶん日が経ちました。山路を越えて訪ねて迎えにいきましょうか、それともここで待っていましょうか。
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【由来】軽大郎女の同母兄、軽皇子は皇太子であった。ところが、父允恭天皇が崩じたのち、即位を前にして皇子は妹の大郎女と情を通じた。これを知った官僚・民衆は軽太子を離れ、允恭第二皇子である穴穂皇子に心を寄せた。軽皇子は大臣の家に逃れて兵器を集めたが、穴穂皇子の軍勢に隠れ家を囲まれてしまった。大臣は軽皇子を捕えて穴穂皇子に差し出した。このとき軽皇子は大郎女を偲んで歌を詠み、これに応えて大郎女が献ったのが「夏草の」の歌であるという。のち、大郎女は恋しさに耐えきれず、兄を追って往き、さらに「君が往き」の歌を詠んだ。兄の流刑地に至り、共に自死を選んだという。(古事記では、軽大郎女を「衣通王」とも呼び、日本書紀に允恭天皇の愛人(皇后の妹)とする 衣通郎姫 との間で伝の混乱が見られる。)
<千人万首)
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【由来】2.
「君がゆき 日長くなりぬ 山たづの 迎へを行かむ 待つには待たじ」
るとも」
(90番・軽大郎女(かるのおおいらつめ)・衣通王(そとおりのおおきみ)の歌)

あなたが 道後へ流されてから
ずいぶん月日が たってしまいました
もう待ってなどいられないわ
ニワトコの幣を掲げて お迎えに行こう
四国の 道後までも
       
注・古事記ニ曰ク、(木梨)輕太子(きなしのかるのひつぎのみこ)、(実妹)輕大郎女(かるのおおいらつめ)と奸(タハケ・結婚)する。
この故に太子(ひつぎのみこ)、伊豫ノ湯(道後温泉)ニ流サル。
此ノ時衣通王(そとおりひめ・軽大郎女)、恋慕ニ堪ヘズシテ追ヒ徃ク時ノ歌ニ曰ク、
此ニ山多豆ト云ヘルハ、今ノ造木(ミヤツコギ)也。右ノ一首ノ歌ハ、古事記ト類聚歌林ト、説ク所同ジカラズ。
歌主モ亦異レリ。因(カ)レ日本紀ヲ検(カムガ)フルニ曰ク、難波高津宮ニ御宇(アメノシタシロシメ)シシ大鷦鷯(オホサザキ)天皇、廿二年春正月、天皇皇后ニ語リタマヒテ曰ク、八田皇女ヲ納(メシイ)レテ、妃ト為サム。時ニ皇后聴シタマハズ。
ココニ天皇歌(ミウタ)ヨミシテ、以テ皇后ニ乞ハシタマフ、シカジカ。
三十年秋九月乙卯朔乙丑、皇后、紀伊国ニ遊行(イデマ)シテ、熊野岬ニ到リ、其処ノ御綱葉ヲ取リテ還リタマフ。是ニ天皇、皇后ノ在サヌコトヲ伺ヒテ、八田皇女ヲ娶リテ、宮ノ中ニ納レタマフ。
時ニ皇后、難波ノ濟(ワタリ)ニ到リ、天皇ノ八田皇女ヲ合(メ)シツト聞カシタマヒテ、大ニコレヲ恨ミタマフ、シカジカ。
亦曰ク、遠ツ飛鳥宮ニ御宇シシ雄朝嬬稚子宿禰 天皇ノ二十三年春三月甲午朔庚子、木梨輕皇子ヲ太子ト為ス。容姿佳麗(カホキラキラシ)。見ル者自ラ感(メ)ヅ。同母妹(イロモ)輕太娘皇女モ亦艶妙ナリ、云々。遂ニ竊(ひそか)ニ通(タハ)ケヌ。乃チ悒懐少シ息(ヤ)ム。廿四年夏六月、御羮(ミアツモノ)ノ汁凝(コ)リテ以テ氷ヲ作ス。天皇異(アヤ)シミタマフ。其ノ所由(ユヱ)ヲ卜(ウラ)シメタマフニ、卜者曰(マウ)サク、内ノ乱有ラム、盖シ親親(はらがらどち)相姦カ、云々。仍チ大娘皇女ヲ伊豫ニ移ストイヘルハ、今案ルニ、二代二時ニ此歌ヲ見ズ。
(仁徳朝の磐姫の事件と允恭朝の軽の同母兄妹事件の正史日本書紀を調べるがどちらにも85,90の歌の記載がない。結局この万葉集と日本書紀の、どちらが正伝であるか不明である)
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ニワトコ  スイカズラ科(レンプクソウ科)  Sambucus sieboldiana (racemosa ssp. sieboldiana)
別名:セッコツボク  古名:やまたず
性状:落葉低木
原産地:日本(北海道、本州、四国、九州)、朝鮮半島、中国
特徴など:別名の接骨木とあるように打撲や骨折に効果があるとされ利用されている(現在も?)。
薬用として:葉の部分をセッコツボクカヨウ(接骨木葉)と呼び、利尿・骨折・捻挫に、花をセッコツボクカ(接骨木花)と呼び発汗の目的で利用されている。
和歌:君が行き日長くなりぬ山多豆の 迎へを行かむ待つには待たじ(万葉集:巻二の九〇)

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