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万葉集コミュの万葉集 83・84

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83;作者:長田王,伊勢,三重,御井,古歌,転用,和銅,羈旅

[題詞](和銅五年壬子夏四月遣長田王于伊勢齊宮時山邊御井<作>歌)

海底  奥津白波  立田山  何時鹿越奈武  妹之當見武

[わたのそこ] おきつしらなみ たつたやま いつかこえなむ いもがあたりみむ

海の底 沖つ白波 龍田山 いつか越えなむ 妹があたり見む
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海底ーわたのそこー海の底ー枕詞。海の沖を海の底とも言った。 
奥津白波ーおきつしらなみー沖つ白波 
立田山ーたつたやまー龍田山ー立田山ー大和から西國諸國に通ずる要路で、天武天皇の時代、関所が設けられた。 
何時鹿越奈武ーいつかこえなむーいつか越えなむーいつ越えられるだろうか  
妹之當見武ーいもがあたりみむー妹があたり見む
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沖に白波が立っている

立田山をいつ越えられるだろうか 

早く妻の家のあたりを見たいものを
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* 龍田山は、現在の奈良県生駒郡三郷町の龍田本宮の西、信貴山(しぎさん)の南にあたる山地とされ、龍田山という名前は現在残っていない。
龍田山を越えるルートが平城京と難波の行き来に使われたが、どのようなルートだったのかは現在ではよく分かっていない。

* 白波、というと海の・・、万葉集の歌でも、海岸などに打ち寄せる「白波」がほとんど。
しかし中には、吉野の瀧を流れる水を「白波」と詠んでいるように、川や沼の流れを「白波」と詠んでいる歌もある。

* 長田王(ながたのおほきみ)
系統未詳 奈良朝の風流侍従のひとりと称される人。
天平6年2月朱雀門での歌垣で五品以上の風流者の筆頭とされたとある。(続紀)
長田王が九州に派遣されたのははっきりしないが慶雲2年(705)とされる。
 和銅5年(712)4月 長田王を伊勢の斎宮に遣はす時、山辺の御井にして作る歌」が巻1の81〜83にある
                       山の辺の 御井を見がてり 神風の 伊勢をとめども 相見つるかも
                       うらさぶる こころさまねし ひさかたの 天のしぐれの 流らふ見れば
                       海の底 沖つ白波 龍田山 いつか越えなむ 妹があたり見む

(2首目3首目の歌は御井の所の作でなくその時誦された古歌かとされる)

隼人の 薩摩の瀬戸を 雲居なす 遠くも我は 今日見つるかも   (巻3−248)
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84;作者:長皇子,志貴皇子,宴席,屏風歌,奈良

[題詞]寧樂宮 / 長皇子與志貴皇子於佐紀宮倶宴歌(長皇子、志貴皇子と佐紀宮にともに宴する歌)

秋去者  今毛見如  妻戀尓  鹿将鳴山曽  高野原之宇倍

あきさらば いまもみるごと つまごひに かなかむやまぞ たかのはらのうへ

秋さらば 今も見るごと 妻恋ひに 鹿鳴かむ山ぞ 高野原の上
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秋去者ーあきさらばー秋さらばー秋になると  
今毛見ーいまもみるごとー今も見るごとー今もご覧になられているように
妻戀尓ーつまごひにー妻恋ひにー妻恋に 
鹿将鳴山曽ーかなかむやまぞー鹿鳴かむ山ぞー鹿が鳴きます 
高野原之宇倍ーたかのはらのうへー高野原の上ーこの高野原あたりは
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秋がやってくると

妻を慕って鹿が鳴く山なんですよ

今ご覧のこの高野原一帯は
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長皇子 ながのみこ 生年未詳〜和銅八(715) 
天武天皇の第七皇子。『皇胤紹運録』によれば母は大江皇女(天智天皇の皇女)。弓削皇子の同母兄。子に栗栖王・長田王・智努王・邑知王・智努女王・広瀬女王らがいる。
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【補記】平城遷都後、長皇子が従兄弟の志貴皇子を佐紀の自邸に招いて宴をした時の歌。佐紀は平城京の北。高野原は佐紀の北の丘陵。「今も見るごと」の見る対象を山田孝雄は「その状をかたどれる物」とし(萬葉集講義)、これを踏まえて伊藤博氏は「秋の野に鹿の鳴くさまを描いた絵ではないかと思う」と言い、邸内に飾られた屏風絵などを眺めての歌かと推測している(萬葉集釋注)。(千人万首)
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<斎藤茂吉万葉秀歌>より」抜粋転載。
長皇子(ながのみこ)(天武天皇第四皇子)が志貴皇子(しきのみこ)(天智天皇第四皇子)と佐紀(さき)宮に於て宴せられた時の御歌である。御二人は従兄弟(いとこ)の関係になっている。佐紀宮は現在の生駒郡平城(へいじょう)村、都跡(みあと)村、伏見村あたりで、長皇子の宮のあったところであろう。志貴皇子の宮は高円(たかまと)にあった。高野原は佐紀宮の近くの高地であっただろう。
 一首の意は、秋になったならば、今二人で見て居るような景色の、高野原一帯に、妻を慕って鹿が鳴くことだろう、というので、なお、そうしたら、また一段の風趣となるから、二たび来られよという意もこもっている。
 この歌は、「秋さらば」というのだから現在は未だ秋でないことが分かる。「鹿鳴かむ山ぞ」と将来のことを云っているのでもそれが分かる。其処に「今も見るごと」という視覚上の句が入って来ているので、種々の解釈が出来たのだが、この、「今も見るごと」という句を直ぐ「妻恋ひに」、「鹿鳴かむ山」に続けずに寧ろ、「山ぞ」、「高野原の上」の方に関係せしめて解釈せしめる方がいい。即ち、現在見渡している高野原一帯の佳景その儘に、秋になるとこの如き興に添えてそのうえ鹿の鳴く声が聞こえるという意味になる。「今も見るごと」は「現在ある状態の佳き景色の此の高野原に」というようになり、単純な視覚よりももっと広い意味になるから、そこで視覚と聴覚との矛盾を避けることが出来るのであって、他の諸学者の種々の解釈は皆不自然のようである。
 この御歌は、豊かで緊密な調べを持っており、感情が濃(こま)やかに動いているにも拘(かかわ)らず、そういう主観の言葉というものが無い。それが、「鳴かむ」といい、「山ぞ」で代表せしめられている観があるのも、また重厚な「高野原の上」という名詞句で止めているあたりと調和して、万葉調の一代表的技法を形成している。また「今も見るごと」の入句があるために、却って歌調を常識的にしていない。家持が「思ふどち斯くし遊ばむ、今も見るごと」(巻十七・三九九一)と歌っているのは恐らく此御歌の影響であろう。
 この歌の詞書は、「長皇子与志貴皇子於佐紀宮倶宴歌」とあり、左注、「右一首長皇子」で、「御歌」とは無い。これも、中皇命の御歌(巻一・三)の題詞を理解するのに参考となるだろう。目次に、「長皇子御歌」と「御」のあるのは、目次製作者の筆で、歌の方には無かったものであろう。

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