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万葉集コミュの万葉集第一巻7・8・9

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7;雑歌,作者:額田王,京都,回想,羈旅

[題詞]明日香川原宮御宇天皇代 [天豊財重日足姫天皇] / 額田王歌 [未詳]

[原文] 金野乃  美草苅葺  屋杼礼里之  兎道乃宮子能  借五百礒所念

[仮名] ,あきののの, みくさかりふき, やどれりし, うぢのみやこの, かりいほしおもほゆ

[訓読] 秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治の宮処の 仮廬し思ほゆ

[左注]右檢山上憶良大夫類聚歌林曰 一書戊申年幸比良宮大御歌 但紀曰 五年春正月己卯朔辛巳天皇至自紀温湯 三月戊寅朔天皇幸吉野宮而肆宴焉 庚辰日天皇幸近江之平浦

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秋の野の草を刈り
屋根を葺いて宿った
宇治の行宮での仮廬が
思い出されることだ
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<額田王ははじめ大海人皇子(後の天武天皇)の妻となり、十市皇女を生んだ。後に中大兄皇子(後の天智天皇)の後宮に入った。>
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<万葉雑記 難訓歌の周辺<ブログ[万葉集 柿本人麻呂と高市皇子]より転載。>
http://blogs.yahoo.co.jp/dokatakayo/folder/1147375.html

集歌7 金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百礒所念
訓読 秋の野のみ草刈り葺(ふ)き宿(やど)れりし宇治の京(みやこ)の仮いほしきし念(おも)ふ
意訳 皇位を譲って隠棲した古人大兄皇子は吉野で秋の野の草を刈り屋根を葺いて住まわれているようです。古人大兄皇子と同様に皇位を譲って隠棲した菟道稚郎子の伝えられる石垣を積んで作られた宇治の宮の故事が偲ばれます。
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8;雑歌,作者:額田王,道後温泉,愛媛,舟遊び,熟田津,代作

[題詞]後岡本宮御宇天皇代 [天豊財重日足姫天皇位後即位後岡本宮] / 額田王歌

[原文] 熟田津尓  船乗世武登  月待者  潮毛可奈比沼  今者許藝乞菜

[仮名], にぎたつに, ふなのりせむと, つきまてば, しほもかなひぬ, いまはこぎいでな

[訓読] 熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな

[左注]右檢山上憶良大夫類聚歌林曰 飛鳥岡本宮御宇天皇元年己丑九年丁<酉>十二月己巳朔壬午天皇大后幸于伊豫湯宮 後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔<壬>寅御船西征 始就于海路 庚戌御船泊于伊豫熟田津石湯行宮 天皇御覧昔日猶存之物 當時忽起感愛之情 所以因製歌詠為之哀傷也 即此歌者天皇御製焉 但額田王歌者別有四首
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熟田津で船出をしようと月を待っていると
潮流も良い具合になった
今こそ漕ぎ出そう
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万葉雑記 難訓歌の周辺<ブログ[万葉集 柿本人麻呂と高市皇子]より転載。
http://blogs.yahoo.co.jp/dokatakayo/folder/1147375.html

集歌8 熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜
訓読 熟田津(にぎたつ)に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
意訳 熟田津から船を乗り出そうと遅い月の出を待っていると、月も出て潮も都合が良くなってきた。さあ、漕ぎ出そう。
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9;雑歌,作者:額田王,紀州,和歌山,難訓,厳橿,斎橿,植物

[題詞]幸于紀温泉之時額田王作歌(紀の温泉に行幸の時、額田王が作った歌)

[原文] 莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣  吾瀬子之  射立為兼  五可新何本

[訓読]莫囂円隣之大相七兄爪謁気 我が背子が い立たせりけむ 厳橿が本

[仮名],*****,*******,わがせこが, いたたせりけむ, いつかしがもと

(上二句難読)…わがせこが いたたせりけむ いつかしがもと
…愛しいあなたが お立ちになっていたであろう 神聖な橿の木の下。
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鎮まりし雷神よ起きるな
わが君のお立ちになった
神聖な樫の木の下に
   (土橋利彦説から訳した場合)
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 <本歌はまだ定訓はない。
 本歌は日本語では読めない可能性もある>

鎮まっていた浦の浪がいま騒いでいる
わが君がお立ちになった神聖な樫の木の下で
 (澤潟久孝説から訳した場合)

 <古事記下巻、雄略天皇の歌に「みもろの、いつかしが本
 樫が下ゆゆしきかも、かしはら童女」がある。神聖な樫の
 下という歌言葉はすでにあった>

鎮まりなさい周りの者よ 
とつ国の高官が拝謁する
わが君が
お立ちになられています 
神聖な樫の木の下に
 (松本清張説から訳した場合)

鎮まりなさい大相七兄が拝謁すべく吾が背子が行きなさいと
行きなさいと幾度も
 (Dr.Kang Kill-woon説。本歌を古代朝鮮語で訳した場合)

 <大相七兄:高句麗官職>

まとまりの星つめ行けど我が背子が 射立たせかねて五つ星かも
 (鈴木健次説の場合)まとまりの星は北斗七星。五つ星はカシオペア。
 行幸の進み具合が遅すぎて、弓型の五つ星が射掛けられないほど北斗七星は山陰に隠れてしまう。

<兄中大兄と弟大海人の運命を暗示する歌と見るのはうがち過ぎか>

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万葉雑記 難訓歌の周辺<ブログ[万葉集 柿本人麻呂と高市皇子]より転載。
http://blogs.yahoo.co.jp/dokatakayo/folder/1147375.html
 万葉集「奈弖之故(なでしこ)」で説明したように、万葉集の最初期に位置する歌は、その編者である丹比真人国人の手によって補足されてます。すると、私の推測では、原型を留める歌と伝承歌からの丹比国人の手による修正歌との二種類に分かれることになります。
 では、どのような歌が原型を留める歌でしょうか。一つには、借名字表記の難訓歌があると思います。丹比国人は、万葉集「奈弖之故」の編纂で短歌形式の整ったものについては、そのまま修正せずに載せたと思ってます。それで、統一された万葉仮名に慣れた私達にとって難訓なのでしょう。事例を挙げると次の歌々です。

集歌9 莫囂圓隣之 大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本
試読 穏(しづ)まりし浦波(うらなみ)騒(さゑ)く吾(あ)が背子の偉(い)建(た)てせけむ厳橿(いつかし)が本(もと)
意訳 神武天皇を苦しめた丹敷戸畔(にしきとべ)も討伐されましたし、牟漏(むろ)の荒坂の浦に立っていた荒波も収まり穏やかになってきたようです。私の愛しい背の君が御造りになった橿原宮の本になった行宮よ

ここで、集歌9や集歌156の歌に戻りますと、これらの歌は舒明天皇の御製や高市皇子尊の御歌とされてますから、私は、この天皇や準天皇の御製の伝承により、丹比国人は表記法や語調の変更を一切行わなかったと思ってます。つまり、現在まで伝わる短歌の古風です。
 すると、現在に伝わる大和歌の短歌の表現方法は、舒明天皇期から天武天皇期初期の時代にはあったことになります。人麻呂の略体歌から非略体歌、さらに常体への展開で、短歌の形式が整えられたとの説がありますが、やはり、一人の人間に帰する問題ではないようです。

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額田王 ぬかたのおおきみ 生没年未詳
日本書紀には「額田姫王(ぬかたのひめみこ)」とある。鏡王のむすめで、天武天皇の妃となり、十市皇女を生んだ。鏡姫王(鎌足の嫡室)の妹かともいう。

斉明四年(658)十月、斉明天皇の紀温湯行幸に従駕し、歌を詠む(万葉集巻1-9)。斉明七年(661)、天皇の新羅征討の際、熟田津の石湯行宮で歌を詠む(巻1-8)。但しこれは左注所引の『類聚歌林』によれば、斉明天皇の作。天智六年(667)三月、近江大津宮遷都の際、「額田王、近江国に下る時の歌」(巻1-17・18)。これも『類聚歌林』は天智天皇(正式には当時まだ皇太子)の作とする。天智七年(668)五月、蒲生野遊猟に従駕し、大海人皇子と歌を贈答(巻1-20、大海人皇子の答歌1-21)。天智十年(671)の天智天皇崩御の後、大殯(おおあらき)の時に歌を詠む(巻2-151)。持統年間(持統七年=693年五月か)、吉野行幸の際、弓削皇子より歌を贈られ、これに和す(巻2-112)。

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