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北朝鮮、創価学会、壊滅希望の会コミュの公明党離党した現職参議・福本潤一氏が暴露

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公明党は全体主義的傾向の党

【公明党に「信教の自由」なし】
 福本氏は東京大学在学中の昭和43年10月12日に入信。以来、創価学会員ではあっても、信仰的には、自分はあくまでも「日蓮正宗創価学会」の会員である、というイメージできた、という。
 その福本氏は東大法華経研究会に籍を置き、最終的には総合委員長まで務めた人物。学会教学部長の斉藤克司とは5年間同居し、現会長の原田稔は先輩に、副会長(元総合青年部長)の谷川佳樹は後輩にあたる。
 東大大学院博士課程を修了後、愛媛大学の助教授として地域環境工学に取り組んでいたところ、平成7年、当時の新進党からの要請で参院選に出馬して当選し、現在は2期目。その福本氏が語った「勇退」の真相はこうだ。
 昨年1月、福本氏の政策秘書を務めていた馬田泰廣氏が死去。遺族の意向により、葬儀は日蓮正宗で行なうこととなった。
 福本氏としては当然のように、初当選以来、ずっと政策秘書を務めてきてくれた馬田氏に報(むく)いたいとの念から、自分が葬儀委員長を務め、葬儀を立派に執(と)り行なってあげたい、と考えた。
 ところが、馬田氏の葬儀が日蓮正宗で行なわれることを聞きつけた公明党秘書会長から、「葬儀委員長を務めるなどとんでもない!葬儀に参列してもいけない。マスコミに嗅(か)ぎつけられたら大騒ぎになるから、党内への訃報(ふほう)も回覧しないように」と強く申し渡されてしまったのである。
 党首脳部などとも綿密に連携している秘書会長--言い換えるなら"公明党の裏の顔"のような存在から強く言われてしまえば、福本氏としても、不本意ながら従うほかない。福本氏としては、馬田氏の未亡人に電話を入れて事情を説明し、葬儀の前日に馬田氏の自宅に赴(おもむ)いて、読経・唱題するのが精一杯だったという。
 それから3ヶ月が過ぎ、議員の間で次期参院選の公認に関する話が取り交わされるようになった4月、福本氏は、学会の方面幹部から「近々、冬柴から呼び出しがかかるぞ」と教えられた。
 その学会幹部の話によると、学会と公明党との間の協議で決められた比例区の"区割り"は、すでに学会の最高幹部会で発表されており、中国・四国ブロックの候補者名は空白になっていた、というのである。
 その学会幹部の言葉どおり、福本氏は冬柴幹事長(当時)に呼び出された。
 福本氏が冬柴を訪ねていくと、そこには神崎代表(当時)もいた。そして福本氏は、その場で冬柴から「今期は公認しない」と言い渡されたのである。
 福本氏としては3期目を目指すつもりで、年初に地元で行なわれた賀詞交換会に出席し、公認されることを前提に"どうぞよろしく"と挨拶もしている。
 納得のいかない福本氏がその理由を尋ねると、神崎が"馬田氏の葬儀問題"を口にし、冬柴もそれに同調したという。
 これにより福本氏は、"政策秘書の葬儀が日蓮正宗で行なわれたのは、秘書の管理ができていない証拠"という理由で、自分は"管理者責任"を問われたのだ、と認識したのである。
 秘書の葬儀が日蓮正宗で行なわれたことを理由に所属議員の公認を見送る―いくら支援団体である創価学会の手前があろうとも、日本国憲法には「信教の自由」が高らかに謳(うた)われている。そして公明党は、国民の血税から支出される政党助成金を受け取っている「公党」なのだ。
 秘書の葬儀の宗旨にクレームを付け、それを理由に公認候補から外したとしたら、それこそ言語道断。憲法を遵守(じゅんしゅ)すべき公党として許されないことは自明の理である。


【「学会が上で党が下」さらに池田はその上に君臨】
<公明党の使命>
 福本氏が離党を申し入れた際、太田昭宏は、
 「公明党議員に離党はない。公明党議員は一生、公明党議員なんだ!」
と言い放って離党届を受理しなかったという。
 また創価学会の方面幹部(副会長)は、
 「公明党議員の使命は何か分かっているのか!?池田先生と創価学会を守ることが公明党議員の使命なんだ。君はその使命を分かっているのか!」
と福本氏に教訓したという。

<勤行会・本部幹部会・そして池田大作への報告書>
 太田昭宏さんが公明党の代表になってから、より深刻になったのは、学会に毎月報告書を提出しなければならなくなったことと、議員が全員揃(そろ)って党本部で勤行をすることが頻繁になり、しかも、勤行会への参加回数が"評価"の対象にされるようになってしまったことです。
 じつは、創価大学でも今、同様の問題が起きているといいます。長谷川副会長が創価大学の担当になってから、大学職員ばかりでなく教授までが参加しての早朝勤行が常態化していることに、教授陣かち不満の声が盛んに上がっている、ということです。
 さて、「報告書」のことについて、もう少し詳しく話しましょう。
 学会の本部幹部会へは、毎回、30人ほどの公明党の国会議員が参加することになっています。ですから、だいたい3回に1回の割合で"順番"が回ってきます。それは国会の会期中であっても、です。
 そのため議員達は、外部の人間からそれと気付かれないよう、三々五々、八王子などの本部幹部会の会場に入るのです。会場内で座る位置は、写真や同時放送のカメラに絶対写らない位置です。
 本部幹部会終了後には、報告書を書いて提出しなければなりません。そもそも、池田大作が出席した会合に参加した学会幹部は全員、報告書を書く、というルールになっているのです。公明党議員もその例外ではない、ということです。
 池田名誉会長宛(あ)ての報告書は、宛先を空欄にします。それで、どこに上がる報告書かが判(わか)るのです。というのは、原島嵩さんに報告書のコピーを持ち出されたことが教訓になり、池田名誉会長宛ての報告書は、宛先を空欄にするようになったからです。
 ですから、報告書の書き出しは、必然的に「御健康な先生・奥様のもと、本部幹部会に参加させていただいて、ありがとうこざいました」といった具合いになります。しかも、こうした"定型文"が入っているか否かも、チェックの対象になっているのです。
 会合に参加したときには報告書を出すだけでなく、まず秋谷会長のところにあいさつに行き、次に第1庶務(※池田大作の秘書室)にあいさつに行きます。

<「お前は池田先生と同列か!?」との注意>
 もっとも、公明党議員は、こうした報告を通してだけでなく、学会員の監視の目によって、その一挙手一投足が全て創価学会に把握(はあく)されている、と言っても過言ではありません。
 私が演説の中で、「昭和43年10月12日に19歳で入信し」と語った時には、後から「福本君、『19歳の時に』というのはヤバイよ。池田先生と自分を同列に見ているのか?『19歳の時に』というのは言うべきではない」と、学会幹部にきつくたしなめられたことがあります(※「19歳」というのは、池田大作が入信した時の年齢)。
 こうした公明党の内情をよく知る自民党の野中広務(幹事長。現在は引退)さんから「君達のところは『SCIA』だ」と言われたこともありますよ。(笑い)

<「神崎、立て!」>
 私が出席した本部幹部会では、こんなこともありました。ちょうど、神崎武法さんが公朋党代表の座を太田さんに譲った、すぐ後の出来事です。
 池田名誉会長が「秋谷、立て!」「神崎、立て!」と命じ、いきなり「神崎、お前は秋谷にいじめられたそうだな」と問いただす。すると神崎氏が「はい!」と答える―。何のことはない、学会の会長である秋谷さんが公明党代表の神崎さんを辞任させたのだ、と印象付けるためのパフォーマンスなんですよ。もちろん、そんな場面が一般会員の目に触れることは絶対にありませし、「口外秘」です。


【その気がなくとも強制される竹入氏批判】
 竹入氏についてですが、今、公明党が竹入氏を訴えている裁判について、関係者から「あれは政治的裁判だ」というボヤキを聞いています。
 また、亡くなった馬田氏は、長く公明党秘書会長を務めていた優秀な人物でしたが、その彼が、竹入時代を評して「あの頃は本物の政治家が生まれていたが、今は創価学会の官僚が政治をやっている」という言い方をしていましたよ。
 それから、日蓮正宗や竹入氏を誹謗(ひぼう)することは、公明党議員OBに与えられる「役務(えきむ)」でもあります。私が勇退を拒(こば)み、離党を決意した理由の1つに、"0Bになって、日蓮正宗攻撃や竹入氏攻撃に駆り出されてはかなわない"という思いがありました。
 OB議員は、持ち回りで竹入氏攻撃をさせられています。「今回は君が竹入糾弾文章を書け」と言われてしまえば、言われた本人にそんな気持ちはなくとも、糾弾文章を書かざるを得ないのです。
 だから、自分が竹入さんについて知っていることを、わざと悪意の目で書く。また、批判的でない議員には竹入批判の指導をしなければならない。つまり、悪人像を作り上げための組織活動に加担しなければいけない。私にはとても耐えられません。

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