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Rising Sunsコミュの補習校バスケ部からRising Sunsへ

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第三代ヘッドコーチ 渡部 聡

補習校でのバスケットの活動をしていることを知ったのは、初代コーチの吉岡さんと知り合いになった2000年位のことだと思う。吉岡さんや、当時一緒にバスケを指導していた寺嶋さんに、子供たちの練習相手になって欲しいと頼まれ、参加することにした。当初は、練習に出ることもそれほど頻繁ではなかったが、寺嶋さんに続いて2003年には吉岡さんも日本に帰国した後は、その後ヘッドコーチになられた歌原さんを支えねばと考え始め、ほぼ毎週練習に参加し、生徒への指導も積極的にするようになった。

そんな中の2004年の冬、歌原さんから突然、近々ヘッドコーチをかわって引き受けるよう依頼を受ける。バスケットをしている時のその動きからは信じがたいことだったが、歌原さんは、まもなく還暦を迎えるという年齢で、かなり膝の状態が悪くなっていたらしい。2005年の春から、本格的にヘッドコーチとしての指揮を始めた。と、ほぼ同時期に、悪い知らせが補習校バスケ部に届いた。補習校は、バスケ部の活動を2005年の秋以降は認めないというのだ。その理由を学校側に聞きにいったが、納得のいく説明は得られなかった。バスケの活動が子供たちにとって無意味だと言うわけではない。また、体育館使用の費用の問題でもないと言う。継続できないのは、怪我のリスクやSecurityのためとの説明だった。しかし、もし、バスケの活動が子供たちにとってプラスだという意識があるのなら、課題を何とか解決していこうするのが本当ではないのか。そんな姿勢が、感じられなかった。

そこで、アシスタントコーチの佐藤さんと一緒に代替案の検討に入った。まずは、独自団体を設立して活動を続けることを基本方針とし、生徒たちの意向を確認した。問題は、体育館の確保であった。もちろん、Winonaの体育館で続けられるのが一番だが、学校側は、たとえ独自団体であっても、それは反対だという。やむをえず、佐藤さんと学校の近くの体育館を探し始めた。佐藤さんには、近所の学校のいくつかに実際に足を運んで体育館の様子を見ていただいたり、その学校のCare takerや校長に、使用許可のサインを取りに行ってもらうなど、大変お世話になった。そろった書類をもとに、トロント教育委員会に許可を求めるためコンタクトをしてみると、面白い反応があった。許可を求める経緯を説明すると、先方は、なぜ、子供たちが3時までいるWinonaを使わないのかと質問してきた。それは、自分にも理解できない学校側の意向なのだと説明すると、教育委員会は、もう一度学校側と話してくれという。移動をする必要がないだけ、交通事故のリスクの面からでもWinonaを使うほうが安全だし、また、教育委員会も別の学校を開けるために人の手配などをすることは避けたいとのことだった。もっともな考えだ。この意向を学校側に伝えると、あっさり体育館の使用に反対をしないとの返事をもらうことができた。こうして、補習校バスケ部は、2005年夏、新たな独自団体として、同じWinonaの体育館で再スタートをきることになった。9月の初めての練習に顔を見せた生徒たちのうれしそうな顔は、今も鮮明に覚えている。

独自団体となったことにより、いくつかの変化があった。まずは、対外試合が可能になった。それまでは、学校側の意向で試合が禁止されていたからだ。そのためにユニフォームを作ろうという話になった。チーム全員で、ユニフォームの色を話し合い、日の丸の色でもある赤に決まった。それから、チーム名だ。これも全員でアイディアを出し合い、いくつか出た案から多数決でRising Sunsという名に決まった。発案は、テル(池田君)。日本を形容する言葉としてよく使われるいい名前だ。たしか、聖徳太子が、当時の中国の皇帝に「日(太陽)昇る国(The Country of the Rising Sun)の王より日の沈む国の王へ」との書き出しの親書を送ったことに由来している言葉だと思う。その後、ユニフォームを作る業者を、知り合いに教えてもらい、チームの代表として、ワタベー(渡辺君)、コービー(竹中君)、そして吉川(兄)君と共に、ユニフォームを選びにいった。

コーチになって特に重要だと考えたのは、チームとしての動き方を教えることだった。もちろん基本も、まだまだできていないことが多く、基本だけを徹底的にやることも一つのやり方かとは思ったが、5対5の練習の時に、戸惑ってばかりいて自分の力の半分も出せないでいる生徒たちを見ていると、基本練習に加えてチームプレーの動き方を教えることが一番の飛躍につながると感じた。来たる対外試合に備えるためにも、5人でチームとして、どう動くかをわかっていないといけない。個々の力が5くらい選手が、チームとしての動き方もわかっていないと、試合では、3くらいの力しか発揮できない。逆に、チームとして動くことができて互いに助け合うことができれば、7や8の力が出せるかもしれない。そうすれば、個々の力が我々よりも上でも、チームとしてはまとまっていない相手には勝てるかも知れない。

2005年11月、Rising Suns初の対外試合。結果は、大敗。相手は、個々の力も、チームとしてのまとまりも上。ターンオーバーや、相手に取られたオフェンシブ・リバウンドが特に痛かった。その後も、春まで4連敗。しかし、その中には接戦の中での僅差の敗戦もあり、少しずつ手ごたえは感じるようになってきていた。

そんな中の2006年4月、私は、それまで勤めていたコンサルティング会社から、顧客であったアメリカの銀行への転職を決意する。これは、Rising Sunsとの別れも意味していた。情熱を傾け、いくつかのハードルを乗り越えて、ここまで持ってくることができたチームだけに、大いに心残りだったが、自分や家族の人生設計上、やむを得ない決断だった。

せめて、トロントを離れる夏までに勝つことができれば。そんなことを思いながら、自分のアメリカ行きの話をチームに伝えた直後の試合だった。Rising Suns初勝利。その夜は、チームで焼肉屋で祝勝会。産みの苦しみが大きかった分、喜びは格別のものだった。

私がトロントを去る前の2006年7月の最後の試合は、OBのハックンこと、崔 亜博君とその知り合いで構成されたチームとだった。相手は、全員すでに高校を卒業していて、身体も大きくスピードもあり、1対1を一人づつやったらあきらかに相手が上というチームだった。しかし、結果は見事な勝利。相手のマンツーもゾーンも見事にチームとして戦って切り崩し、また、ディフェンスも互いをカバーしあって隙を見せず、力では上と思っている相手を、いらつかせ、あせらせることに成功した結果だった。トロントを去る私にくれた、生徒たちからの最高のプレゼントだった。 

ヘッドコーチをした期間は、わずが1年半だったが、3−4年くらいはやったような気がする。いろいろなことがあった、充実した1年半だった。最後の練習の後、生徒が、寄せ書きをくれ、そして胴上げをしてくれた。本当にうれしかった。補習校のバスケに参加し始めた頃は、ここまで子供たちを指導することに、喜びや幸せを感じる思わなかった。自分も、いろいろなことを学んだ日々だった。あきらめなければ道は開ける。チームとして戦えば、強いやつを倒すこともできる。このほかにも、Leadership、一生懸命がんばることの喜び、頭を使って努力することの大切さ、など。願わくば、生徒たちも、同様に何かを学んだと、感じてくれていればと思う。Rising Sunsのますますの発展をアメリカの地から祈っている。 

2007年1月

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