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光原百合コミュの「「やさしさ」の帝国 ―― 初期「光原百合」論」をめぐって

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私が、

・ 「はじめましてのトピック。」
  (http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=930516&comm_id=168526

に、コミュ参加のご挨拶とともに、拙論、

・ 「「やさしさ」の帝国 ―― 初期「光原百合」論」2006年05月20日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=138232291&owner_id=856746

のご紹介をいたしましたところ、前記トピックで、若干の議論となりました。

前記トピックは、議論をその主旨としてものではありませんし、他の方からの、議論は別にトピックを立ててやるべきとのご意見もございましたので、さっそく私が、この、拙論をめぐる議論専用のトピックを立てさせたいただきました。

これまでの経緯については、「はじめましてのトピック。」の当該部分(コメントNo.35〜44)までを、下に全文引用して紹介しておりますので、議論の参考になさって下さい。


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2006年05月20日15:36  35: アレクセイ


初めまして。

光原百合のファンとまではいかないので、今までは、このコミュニティーに参加していなかったのですが、なりゆきで「光原百合論」を書いてアップしたので、折角ですから、ご本人とファンのみなさんにも読んでいただきたいと思い、そのご紹介のために、ここに参加させていただきました。

・ 「「やさしさ」の帝国 ―― 初期「光原百合」論」2006年05月20日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=138232291&owner_id=856746

は、端的に言えば、初期「光原百合」批判であり、ご本人はもちろん、ファンのみなさんにも決して耳障りの良い内容ではありません。しかしながら、ここに語られているのは、光原百合のもっとも古い、そしてもっとも遠慮のない読者の、真摯な批評だということです。

以前、ご本人に「そのうち光原百合論を書きますよ」と言ったところ、「結構です」と冗談半分の本音を返されてしまいましたが、私としては「遠い約束」をやっと果たせたというところです。

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2006年05月21日02:54  36: りっきー


>アレクセイさん
アレクセイさんの初期「光原百合」論、拝見さえて頂きました。
光原さんの古い読者ということで、アレクセイさんの批評を興味深く読ませて頂きましたが、
その他のファンの方々に対して、「他者からの一方的な優しさを求めている人」「本物の味を知らない舌の貧しい人」という言い方はいかがなものでしょうか?
誰がどう思うかはそれぞれ個人の自由で、それをもとに様々な意見が交わされるのは面白くていいと思いますが、
少なくとも、そのことで他人を断定するような言い方はいただけないと思います。

私個人としましては、「やさしい共犯」は未読のため意見を言うことは出来ませんが、
「時計を忘れて森へ行こう」を読んだ限りでは、アレクセイさんのおっしゃるように「主人公=作者」的な甘さを感じるものの、それを含めて初期の作品として好きですし、
作家としての成長が見られる「十八の夏」も好きでしすし、
光原先生のよりいっそうの飛躍も、期待しています。

「はじめましてのトピック」なのに、失礼致しました。。。

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2006年05月21日03:41  37: アレクセイ


☆ りっきーさま

> その他のファンの方々に対して、「他者からの一方的な優しさを求めている人」「本物の味を知らない舌の貧しい人」という言い方はいかがなものでしょうか?
> 誰がどう思うかはそれぞれ個人の自由で、それをもとに様々な意見が交わされるのは面白くていいと思いますが、 少なくとも、そのことで他人を断定するような言い方はいただけないと思います。

「私はそうではない」と思う方がいらっしゃるのは当然ですが、その方が本当にそうじゃないという保証もありません。
ともあれ、人が喜ばないことだから「断定」 的に語るなという意見には、首肯いたしかねます。結局のところ、貴方のおっしゃっていることは「いろんな意見が出るのは大いに結構。しかし、人を不愉快にさせるような意見は止めるべき」と言っているようなものです。しかし、それでは「批評」は立ち行きません。

貴方のおっしゃる「例外もいるんだから、一般論として断じるな」というご意見は、ある事柄の「原理」を語ることの意味を理解していないことからくる、謬見だと思います。
ちょうど、昨日、そのことについて、友人の日記にコメントしたので、それをそのまま引用しておきましょう。これは、「創価学会員は、こうだ」というような批判に「そうじゃない人もいる」という反論は「的外れ」である、ということを説明した文章です(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=136821390&owner_id=1434041)。

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チョムスキーの本を読んでいたら、次のような箇所がありました。「生成言語学」(あるいは、科学)の話なので、最初は難しすぎてよくわからなかったんですが、ふと淳さんがここで書いていたことを思い出して、少しはわかったような気がしました。


『ロナ  二、三の社会学者たちは言語学を支配的な言説の正当化に加担しているということで弾劾しています。とくに〈言語能力〉という概念のためです。これは多かれ少なかれ言語を扱う巧みさと混同されているのですが。とくに言語学が責められるのは、その理念化が社会の現実を遠ざけるということなのです。

チョムスキー  理念化に対するたたかいは理論的筋道を通すことへのたたかいだ。それが意味しているのは、有意義な知的仕事をやめようということだからね。研究に値するだけの複雑さを持つものはみな、たしかにいくつかの体系の相互作用を伴っている。だから対象を抽出しなければならないし、関与的ではない因子を排除しなければならない。すくなくとも、末梢的ではない研究をしようとするかぎりはね。精密科学では、この原理は論じられることさえない、自明のことだ。人間科学では、その知的なレヴェルがごく低いために、それが問われ続けている。不幸なことだ。物理学では理念化をする場合に、ひどく重要なあるものを忘れているかもしれない。それは歴史的に与えられた条件で、そんなことは気にしてはいけない。大部分、有意義な知的活動をしてきた賭けというのは、そうした偶然をまともにみつめ、それを迎え入れること、つまりその偶然に甘んじることだ。それは避けられない。
 正しい理念化を与える基準はない。有意義な結果を獲得するという基準以外はね。もしいい結果がえられるなら、すぐれた理念化から遠くないところにいるんだ。もし視点を変えることによってさらにいい結果がえられるなら、その理念化を改善することになる。こういうわけで探究領域の規定と有意義な原理の発見のあいだにはいつでも一定した相互作用が存在する。理念化を斥けることは小児的だ。マルクス主義経済学は古典的ででしかも身近なひとつの例だが、理念化と高度な抽象化を伴っている。』

(ロナ・ミツ編『チョムスキーとの対話 政治・思想・言語』1980/4刊行、P102〜103)


どうでしょう。何を言っているか、わかりますか?

ここでチョムスキーが言っているのは、「有意義な探究」をするためには、中心的な因子を抽出し、『関与的ではない因子』を排除して行う、『理念化』は避けられない、ということをなんですね。で、彼の「言語学」も、そういう「科学的」な手続きにもとづいてなされている。

ところが、「理念化」というものの意味を理解していない「人間科学(=文系科学=社会学等)」者は、「理念化」と「単純化」と混同してしまい、「関与的ではない因子(=末梢的な要素)」の排除が「恣意的な単純化」でしかなく「現実に即さない」と批判するんですね。
つまり、「あらゆる言語の根底的法則を確定しようとするチョムスキー」の研究を『支配的な言説の正当化に加担』ものだと言うんですね。「例外的な、少数言語を無視するものだ」と、非難するんです。
つまり彼らは「人間主義的平等主義」を持ち出してくるんですが、チョムスキーは「すべての現象」を選択なく(網羅的に)考慮すれば、それは「趣味の学問」たる「博物学」にはなりえても、「有意義な結論」をもたらす研究にはなりえない、と言っているんです。

で、ここまで説明したところで、淳さんは、どちらの意見に惹かれるでしょうか? けっこう、社会学者の意見にも惹かれているのではないですか?(笑)


さて、ここで、私が最初に書いた『淳さんがここで書いていたこと』を参照してみましょう。

> 学会って世界は従順に妄信、盲従することで約束された対他者のみで関係が成り立つ異様な世界。彼らにとっての裏切り者に対する無慈悲さときたら常軌を逸している。

> ボクは一生涯、自発的組織活動なんてしないけど、内側からしか見えない、彼ら一人一人の純朴さだけは知っている。

> 子供が無邪気な残酷さを示せるように、従順な無垢さの「組織」信仰ほど恐ろしいものは無いんだよね。

> でも、彼らの顔を見ると、僕は嘘偽り無い笑顔を見せてしまう。

> 好きなんだよ。看板がどうのよりさ、人間が好きなんだよ。
> 共産党員だろうが、エホバだろが、北朝鮮人だろうがさ。
> 看板はカンケーないの。人間だけなの。


ここで行われている「創価学会員」批判に、私は「不徹底」なものを感じました。
何故だろうと考えてみると、「概念的存在でしかあり得ない、創価学会員」が「個々の創価学会員の存在(=実存)」によって「筋違いに、救われてしまっている」からです。

おわかりでしょうか?
「創価学会員」のいうのは「抽象概念」であって、そういうものは「存在しません」。だから「創価学会員」論なり批判なりをしようとすれば、自ずとそれは創価学会員総体への「理念化」がなされなければならないのです。そして、淳さんもそれをなかば無自覚的になさっているのですが、その「理念化」が一応の達成を見ようとした時に、「末梢的な要素」としての「個別特殊的な学会員としての個人(=実存)」が顔を出して、「理念化」を「無意味」なものだとして否定してしまっているんですよ。
つまり、淳さんは、ここで一人で二役を演じてしまっている。「創価学会員」を科学的に捉えようとした淳さん。そして、それを『現実を遠ざける』ことだとして邪魔だてした、もう一人の淳さん。

つまり、私がここで言いたいのは、淳さんはまず「個々の学会員」に配慮することなく、「学会員」を正しく「理念化」することに専念すべきだ、ということなんです。
いつまでも「あんな人もこんな人もいる」なんて言っていても、それはセンチメンタルであり『小児的』だということになります。個人への愛は愛として、「有意義な探究」はそうした「個人的な想い」とは別のところで、(自他に)冷徹に客観的になされなければならない。そうでなければ「有意義な探究」などできないのではないでしょうか?

チョムスキーは言っています。

> 物理学では理念化をする場合に、ひどく重要なあるものを忘れているかもしれない。それは歴史的に与えられた条件で、そんなことは気にしてはいけない。大部分、有意義な知的活動をしてきた賭けというのは、そうした偶然をまともにみつめ、それを迎え入れること、つまりその偶然に甘んじることだ。それは避けられない。

これは「われわれにだって未見の、立派な学会員がいるはずだ。けれども、そんな人がいるからといって、いま与えられている材料で、創価学会について探究することが無意味である、ということにはならない」ということを言っているんですね。われわれは「現実の一部」しか知り得ない。だからこそ、われわれはその現実を直視して、知り得る範囲において、もっとも適切な「理念化」を図らなければならない。逆に言えば「すべての要素を考慮しなければ、誠実ではない」という言い分は、誰もがすべては知り得ないという現実を無視して言う「傲慢なきれいごと」でしかない、ということなのです。

「学会員って、こうだ」と言われた時に「いや、そうじゃない人もいる」と言いたくなる気持ちは、私にもあるし、多くの学会員はそう思っていることでしょう。しかし、それは「反論になっていない」ということを、私たちは肝に銘ずるべきです。

私たちは、個々の学会員さんをどうにかしようとしているのでしょうか? それなら、こんなところで「創価学会員」を論じたりはせず、その人個人の「現実」に合わせた方策を考え、具体的な行動をしているでしょう。しかし、現実に私たちがやっているのは、そんなことではありません。

私たちが問題としているのは「個々人(=実存)」ではなく、「個々人」を超えて作用している何かであり、「何かに作用されている人々(という理念)」なのです。であるならば、われわれは、「人々」が共通してもつ「その部分」を抽出し、適切な「理念化」しなければなりません。つまり、私たちが語るべきは、基本的には、「あの人この人」ではなく、「創価学会」であり「創価学会員」という「理念」なのだ、ということなのです。

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つまり、私の目に映じた「光原百合作品を無条件に肯定しているかのようなファン」を「理念化」して語れば、「他者からの一方的な優しさを求めている人」「本物の味を知らない舌の貧しい人」ということになる、ということです。

ですから、貴方が真摯に私の意見を否定なさりたいのであれば、貴方は、私の「光原百合論」の内容を十二分に踏まえて、それを理論的に否定しなければならない。つまり「光原百合の作品は、アレクセイの言うようなものではない。それは、これこれという理由において証明でき、アレクセイの意見を論破できるからである」という形でなされなければならない、ということです。

そうでなければ、貴方の今回のご意見は、昔、島田荘司がよく口にした「日本人的な行儀論」だということになってしまうでしょう。
「理論」に対して「理論」で反論し得ないのは、「光原百合ファンの水準」を低く見積もらせる要素にしかならないことを、肝に銘ずるべきだと思います。

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2006年05月21日04:31  38: りっきー


>アレクセイさま
誤解をさせてしまいましたなら、申し訳ありません。
私は別にアレクセイさまの意見を否定しようとしているわけではありません。
それに、「例外もいるんだから、一般論として断じるな」と言っている訳ではありません。
ましてや「人が喜ばないことだから言うな」なんて言っている訳でもありません。

批評、討論、大いに結構です。
ただ私が言いたかったのは、批評をする以上「人を不愉快にさせるような意見」は別にいいのですが、
議論の本筋以外の部分で「人を不愉快にさせかねない表現」は避けるべきではないのかと思ったのです。
相手が感情的になりかねない表現を使うのは、実りある討論にはつながらない可能性があるということを言いたかった次第です。

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2006年05月21日05:14  39: アレクセイ


☆ りっきーさま

> 誤解をさせてしまいましたなら、申し訳ありません。

私は『誤解』したとは思っておりません。したがって、 謝罪していただく理由はありません。

私たちは、お互いに意見を交換しているだけですし、私としては、ただ「忌憚なく意見を述べたいだけ」なのですから、いずれにしろ謝罪なんて必要のないものなのです。

> 私は別にアレクセイさまの意見を否定しようとしているわけではありません。
> それに、「例外もいるんだから、一般論として断じるな」と言っている訳ではありません。
> ましてや「人が喜ばないことだから言うな」なんて言っている訳でもありません。

> 批評、討論、大いに結構です。
> ただ私が言いたかったのは、批評をする以上「人を不愉快にさせるような意見」は別にいいのですが、
> 議論の本筋以外の部分で「人を不愉快にさせかねない表現」は避けるべきではないのかと思ったのです。

ご指摘の部分が、拙論における『議論の本筋以外の部分』だとは思っておりません。また、なぜ「人を不愉快にさせかねない表現」は『避けるべき』なのでしょうか?

批評文を書くということは、まず自分の考えたことを「正確に書く」ことであり、それを相手がどう受け止めようが、それは相手の都合でしかありません。そもそも、「批判」的要素の強い論文を書いておいて「喜んで読んで下さい。怒らないで下さい」と要求する方が、虫が良すぎるのです。相手を怒らせることや、相手に誤解されることを恐れるのであれば、人のことをとやかく言うべきではない。その覚悟がないのなら、意見など述べなければ良いだけのことです。

> 相手が感情的になりかねない表現を使うのは、実りある討論にはつながらない可能性があるということを言いたかった次第です。

私は、誰かと『討論』するために文章を書いたのではありません。私は、私の「読み」を示すために書いただけです。その結果、私の意見に賛同する人も、否定する人もいるでしょうが、それは「避け得ない反応」であって、それ自体はどうということではないんです。賛同であれ、否定であれ、「中味」が無い意見は、批評的には何の価値もないし、そういう意見の持ち主と『討論』する気など、私には元からないのですよ。

ついでに書いておきますと、私のこうした姿勢が、ことさら「狷介」なものと映るとしたら、それはその人が「ミステリ評論」とか「書評」「レビュー」の類しか読んでおらず、「純文学」「思想」「哲学」などのジャンルにおける「批評」を、まったく読んでいないからだと思います。そうしたジャンルでは、自身の全存在を賭けた理論的闘争が「批評」の名において行われており、読者の顔色を窺うような「売文芸者」の方が、むしろ珍しいのです。
たしかに、こうしたジャンルは「もともと商売として成り立たないから、そういう原理原則が通用するのだ」といった「笠井潔的な言いぐさ」もあるでしょうが、理由の忖度はさておいて、ともあれ、そうした厳しさが「批評」の本筋であり、ミステリ批評の「ぬるま湯」こそが異常なのだということは、知っておいて損はないと思います。そして、すくなくとも、そういう双方の世界を知っている私は、わざわざミステリ批評の水準にまで、身を貶すことをいさぎよしとはしないのです。

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2006年05月21日05:26  40: kisshee


>アレクセイさま
はじめまして。管理人のkissheeです。
アレクセイさんの論考、興味深く読ませていただきました。

>「エンターティンメントの世界」や「ミステリーの世界」では、この程度で「優しさに満ちた世界を描く、異色の作家」だと評価されるのかも知れないが、その評価は「優しさ」や「癒し」に飢え、その「本物の味」を知らない「舌の貧しい人たちに歓迎される」というレベルのものでしかない。

ここでいう「本物の味」とはなんでしょう? 本物の味などというものは、あるのですか? あったら、ぜひ教えていただきたい。ぼくには、この部分は、本質主義にとらわれた一文にしか読めませんでした。

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2006年05月21日16:03  41: アレクセイ


☆ kissheeさま

> ここでいう「本物の味」とはなんでしょう? 本物の味などというものは、あるのですか? あったら、ぜひ教えていただきたい。ぼくには、この部分は、本質主義にとらわれた一文にしか読めませんでした。


「本物の味を教えて下さい」
「はい、これこれが本物の味です」

などという会話を期待すること自体、貴方が「本物」について考えたことのない証拠ですよ。

ただ、所詮は「自分の理解の範囲から一歩も出ようとしない人たち」にこんなことを言っても「そうれ、まともに答えられなかった」なんて言うのが関の山でしょうから、簡単に説明して差し上げましょう。

「本物」というものは、「相対的に存在している」ものです。

例えば、『時計を忘れて森へ行こう』と、中井英夫の『虚無への供物』や大西巨人『神聖喜劇』を比べたら、まともな批評眼のある人なら、間違いなく後者を「本物」だと評するでしょう。しかし、そうでない人も当然いるし、彼は自分に批評眼が無いと認めもしないでしょう。そんな人と、中井英夫の『虚無への供物』や大西巨人『神聖喜劇』の方が「本物」だと評する人とを比較した場合、どっちが読解力のある「本物」の読者かは、第三者には明らかでしょう。しかし、その区別がつかない第三者がいるというのも事実です。

つまり、自分自身を含め、誰もが認めている「相対的な差の存在」を、自分が「絶対的に」認めてほしいものが否定された場合に限っては「それは相対的な違いだから、そんな違いなど無いも同然だ」などと言い出す人こそが、首尾一貫しないご都合主義の「偽物=(二流)」読者であり、そういう読者にしか支えられない作家・作品というのも、おのずとそれ相応の作家・作品だ、ということになるのです。

だから私は、りっきーさんのおっしゃる、

> その他のファンの方々に対して、「他者からの一方的な優しさを求めている人」「本物の味を知らない舌の貧しい人」という言い方

を、

> ご指摘の部分が、拙論における『議論の本筋以外の部分』だとは思っておりません。

と答えたのです。
あなた方が好きな作家を擁護したいというのは良くわかります。それはそのまま「自分自身の能力への擁護」でもあるのですから、当たり前の自己防衛でしかない、と言えるでしょう。

しかし、そうして発せられた「意見」やら「反問」やらが、「論」の態をなさない「上品な、2ちゃんねるレベル」でしかない(=中味が無い)という現実は、直視すべきです。

結局のところ、あなた方の反応は、私が、

・ 「「やさしさ」の帝国 ―― 初期「光原百合」論」2006年05月20日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=138232291&owner_id=856746

の中で書いた、次のような指摘をそのまま体現するもので、むしろ拙論の正しさを逆証明しているさえ言えるはずです。


『光原の作品は、基本的に「読者に優しい」。たとえ不幸な事件を描いたとしても、最後には「読者に対する救い」が準備されていて、後味が悪いということは、まずない。その意味で、光原作品は「読者に優しい」とも言えるし、「読者に甘い」エンターティンメント、だとも言えるだろう。

しかし、光原百合の問題点は、その「優しさ」が「強さ=厳しさ」に裏打ちされたものではない、という点にある。その結果、彼女の「優しさ」は、まず「自分自身」に向き、次に「仲間」に向く。その結果、その「優しさ」は、彼女から見た「優しい仲間」の範中にはいない「他者」を排除することで、保証されるものとなってしまっている。

例えば、問題の短編「優しい共犯」なんかがその良い例で、著者は「語り手」と「語り手が同情する女の子」には過剰なまでの「優しさ」を示すけれど、彼女たちの「気持ち」に配慮しない、彼女たちの気持ちの「外部」にいる男の子に対しては、「冷たさ」と通り越して、「憎悪」をすら向けてしまっている。だから「攻撃的」になるんだね。 』


私は、この論文のなかで、光原百合の今後の課題として、

『ただ、ひとつ釘をさしておきたいのは、どんなに「重い問題」を扱っても、それを物語的(表面的)に「救う」のなら、何の意味もない、ということだ。「救われない現実」のなかに、いかに「救い」を見い出すか。そうした「深度」が、彼女には求められているんじゃないかな。』

と書いたのは、なにも光原百合だけに限った話ではありません。

「光原百合の心優しき世界を共有できる、心優しき私」という「癒しの幻想」を捨てて、結局のところ「自分が可愛いだけの、良い子ぶりっこ」であるという現実を直視した上で、それでも「理想」や「優しさ」を目指せるのなら、彼は、今は「偽物」でも、本質的には「本物」だし、「本物」になれる存在だと言えるでしょう。

私の書いた『「救われない現実」のなかに、いかに「救い」を見い出すか。』というのは、そういうことであり、私が問うているのは、光原百合とそのファンには、その「深度」を求めることが可能か。つまり「本物」をめざす勇気を持てるのか、ということに他ならないのです。

これは「本質主義」でもなんでもなく、しごく現実主義的な、行動を要求する「問い」なのですよ。

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2006年05月21日22:18  42: もっち


横からやり取りに入るようで大変申し訳ありませんが、
ここは「はじめましてのトピック」です。
別にトピックをご用意していただいて、
そちらでの議論をお願いできないでしょうか。

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2006年05月21日23:15  43: りっきー


>もっちさん、その他の皆様
すみませんでした。私もそう思います。
管理人様、どうぞよろしくお願い致します。

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2006年05月21日23:25  44: アレクセイ


私が責任を持って立てさせていただきますので、どうぞお任せ下さい。

コメント(7)

批評における大前提をご説明しておきましょう。
こんなことを説明されなければならないこと自体、恥じてしかるべきことだということを、まずご理解下さい。

まず、「傑作は傑作であり、駄作は駄作である」との判断明示するのが、批評です。
こう言うと、必ず返ってくる「言い訳」は「傑作駄作と、判定を下すのが批評ではなく、その作品がどういう作品なのかというのを、分析的に語るのが批評だ」という紋切り型です。

私にかぎらず、当たり前に批評を行う者が『「傑作は傑作であり、駄作は駄作である」と明言するのが、批評です。』と語る時、『その作品がどういう作品なのかというのを、分析的に語るのが批評だ』というようなことは「自明の前提」として省略した上で、そう端的に語っているわけですが、言い訳することが目的の人というのは、字面に終止して、そうした「自明の前提」を無視してしまいます。

己の器が量られてしまう「批評というものの厳しさ・怖さ」を知らない、例えば多くのミステリファンは、『「傑作は傑作であり、駄作は駄作である」と明言する』批評の方が、『その作品がどういう作品なのかというのを、分析的に語る』批評よりも容易だ、と考えるから、こういう言い訳が有効だと思って、そのように反論するわけなのですが、事情はまったく違います。

つまり、批評家の世界全体から見れば、明らかに「二流」以下が揃っている「ミステリ評論家」たちにだって、まともな批評を読んだことのないミステリファンを「喜ばすような批評」を書くことくらいは容易なことです。つまり、その作家の「明らかな特徴」について「誉めれば」、ファンはそれだけで「適切な批評」だと喜んでくれるからです。

しかし、『「傑作は傑作であり、駄作は駄作である」と明言する』のは、その評者の作品評価能力やセンスを示すことになるから、何でもかんでも誉めるわけにはいきません。つまり、凡作駄作の「なけなしの美点」を取り上げて「傑作だ」などと「的外れの評価」を語るわけにはいかない、ということです。

つまり、まともな批評家なら、ある作品を批評する時、その作品を自分がどの程度評価しているかを「議論の前提」として示した上で、その作品の分析にとりかかります。言い換えれば、作品の分析とは、その作品の価値を判断するためになされるのではなく、その作品が傑作であれ駄作であれ、そんなことには関係なく、「どのような存在意義を持っているのか」ということを析出するために、その「過程」として、作品分析がなされるに過ぎないのです。

これが「批評」の常識です。
まとめると、『「傑作は傑作であり、駄作は駄作である」と明言する』批評行為は「大前提」であり、『その作品がどういう作品なのかというのを、分析的に語る』批評は「必要な過程」であって、批評の「目的」ではない、ということ。どちらも、その目的実現のためには、必要なものですが、それが「目的」そのものではない、ということですね。

ところが、ミステリ批評くらいしか読んだことのない人は、この「前提」レベルや「過程」レベルを、批評の「目的」そのものだと勘違いします。そういうものしか知らないのだから、仕方がないと言えば言えなくもないですが、知ろうともしないという意味では、やはりその「無知」「無認識」は本人たちの責任だと言うべきでしょう。


さて、「批評」というものを、この「常識的なレベル」でとらえた場合、拙論、

・ 「「やさしさ」の帝国 ―― 初期「光原百合」論」2006年05月20日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=138232291&owner_id=856746)

の問題意識が「光原作品が、どのような読者に、どのように受容されており、その意味するところは何か」という点にあるのは自明でしょう。もともと、特に評価している作家ではないのですから、作品そのものにさほどの興味が無いのは当然で、私の興味は「このような作品を肯定したがるような読者とは、どういう存在であり、その読者が体現するものとは何か」というところに向くのは、理の当然なのです。――そして、現に拙論はそのようなものとして書かれているわけですが、拙論に「注文」をつけた、りっきーさんも、kissheeさんも、批評とは「作品について」のものだ(=「読者」が批評の対象になることはない)という風に思い込んでいますから、よもやその「享受者(=お客さん)である自分」たちが批評され批判されるとは思わなかった。だから「読者批判」は『本筋ではない』とか、読者を挑発するような書き方は止めるべきだ、というような「見当違いな意見」を口にするはめにもなったのです。

光原作品が、誰にも評価されていなければ、あるいは「すでに適切な批判を受けておれば」、私は今回のような論文を書くこともなかったでしょう。なぜなら私は、光原作品を、屋上に屋根を架するほどの作品だとは思わないからです。
しかし、今回、りっきーさんが「さも最初からわかっていたかのように」、

> まず、私の考えとして、貴方の「時計を忘れて森へ行こう」の甘さについて、基本的に異論はありません。
> 光原百合としてのデビュー作であり、作品の距離的バランスについて問題がないわけではないと思います。
> 貴方のおっしゃるような強さに裏打ちされた優しさを描く光原百合作品も読んでみたいと思います。

などと書いていることの「欺瞞性」こそが問題なんですね。

どうして、そう思っていたのなら、その点を踏まえて、きちんと評価しなかったのか? もし、本当に気づいていたとしたら、りっきーさんは、「本音」を隠して、光原百合やそのファンの耳に「やさしい」評価ばかりを語って、そうした人たちを欺いていた、と言えるでしょう。つまり、こうした「見せ掛けだけの、不実な、やさしさ」こそが、私が非難した「強さの裏打ちのない、自己中心的なやさしさ」であるというのは、論を待ちません。
残念ながら、世間の多くは「誉める人は、やさしい人で、良い人」というレベルなのですから、自分が誉められたければ、事実や本音がどうであろうと、とにかく人を誉めておけば間違いないというのが「世渡りの現実」なのです。

ともあれ、りっきーさんの「やさしさ」は、「腹の中の思い」とは別の「表面的なやさしさ」に過ぎないし、そうしたものを肯定してしまう「甘さ」が、光原作品にはある。あるいは、そうした「見せ掛けのやさしさ」という「欺瞞」を剔抉する「強度」を光原作品が持たないからこそ、こういう読者から有り難がられる、ということにもなるんですね。

実際、りっきーさんは、上のように、私の意見を受け入れてみせ、光原作品の弱点を認めますが、その後に、彼の本音が出てきます。つまり「自己防衛」です。
「そんなことはわかっていたよ。でも、貴方の立論にはこういう難点がある」という言い方には、「後者の反論のために、しかたなく前者を認めた」という形式が表われています。つまり、拙論に反論して「自分の体面を保つため」だったら、今まで口にしたこともない光原百合否定論だってあっさり認めるてしまうという「方法的な狡さ」が、ここにはハッキリと刻印されているのです。

もちろん、ここでのりっきーさんの批判など、採るに足らない無内容なものです。つまり、『時計を忘れて森へ行こう』を「やさしい共犯」よりも重視しなければならない根拠などどこにもない。もし、その理由があるとすれば、それは単にりっきーさんが「やさしい共犯」を読んでいないから、読んでいる作品で語ってくれないと議論できない、という「甘え」があるだけでしょう(「デビュー作」だから? 論外でしょう)。

したがって、このような無内容なりっきーさんの立論に、

> ぼくの言いたいことは、ほぼりっきーさんがおっしゃっているように思われるので、あえてこれ以上は述べません。

などと無責任に便乗し、自己の「説明責任」を果たそうとはしない、kissheeさんの「もったいぶった態度」が、論外かつ不誠実なのは、言うまでもない。つまり、これは、kissheeさんへのレスに、

> 「論」の態をなさない「上品な、2ちゃんねるレベル」でしかない(=中味が無い)

と書いたとおりだ、ということです。

前にも書いたとおり、「自分の体面」を保つために、自分を顧みることは一切せずに、反論にも何にもならない「言い訳」に腐心する人を、私は説得できるとは思っておりません。
私が、ここで示したいのは「これが、光原作品崇拝者の典型である」ということであり、それを彼ら自身の言動において示させるということです。

もちろん、りっきーさんへの最初のレスに、チョムスキーを引用して説明したように、光原百合ファンがすべて、このお二人のような人だとは申しません。それは「当たり前」のことです。私が言っているのは、この二人の振る舞いに、光原百合ファンの「本質的な傾向」が表象されている、ということなのです。

例えば、光原百合ファンには、こうした「身内のあやまちを正す(=批判する)やさしさ」は無いでしょう。それは作者光原百合自身にも無い、と私は見ています。つまり「この作家にして、このファンがいる(逆もまた然り)」ということです。


私が、前回、『時計を忘れて森へ行こう』との比較で、

> 例えば、『時計を忘れて森へ行こう』と、中井英夫の『虚無への供物』や大西巨人『神聖喜劇』を比べたら、まともな批評眼のある人なら、間違いなく後者を「本物」だと評するでしょう。しかし、そうでない人も当然いるし、彼は自分に批評眼が無いと認めもしないでしょう。そんな人と、中井英夫の『虚無への供物』や大西巨人『神聖喜劇』の方が「本物」だと評する人とを比較した場合、どっちが読解力のある「本物」の読者かは、第三者には明らかでしょう。しかし、その区別がつかない第三者がいるというのも事実です。

と、『虚無への供物』や『神聖喜劇』を持ち出したことを、「ずいぶん野暮なことをするなあー」と思った人は少なくないでしょう。
私自身、光原作品を評価するのにそこまでする必要を普通は感じないし、そこまでするのは野暮だと思うから、日頃はそんなことはしないんです。――しかし、私たちが「当たり前」だと思っているから「あえて指摘しないでいる」ことを、指摘されたことがないからこそ、まったく気づいていないという読者が、ここには現に存在するんですね。だから、そういう人たちには、そういう「思考の外部」があるんだということを、野暮を承知で教えてあげなければならない。

私は、りっきーさんへの最初のレスで、

> 私のこうした姿勢が、ことさら「狷介」なものと映るとしたら、それはその人が「ミステリ評論」とか「書評」「レビュー」の類しか読んでおらず、「純文学」「思想」「哲学」などのジャンルにおける「批評」を、まったく読んでいないからだと思います。そうしたジャンルでは、自身の全存在を賭けた理論的闘争が「批評」の名において行われており、読者の顔色を窺うような「売文芸者」の方が、むしろ珍しいのです。

という事実(=外部の存在)を示しましたが、それは「小説」作品についても同じで、一方に光原百合がいれば、他方に中井英夫だの大西巨人だの森鴎外だのドストエフスキーだのがいるというのも「自明の事実」なのです。
しかし、それが「自明の事実」だからといって誰も指摘しないでいると、そんな「事実」があるなんてことに気づかない(驚くべき)人たちが出てくる。

例えば「電車の座席に寝転がってはいけない」ということも、誰も注意しないでいると、それが悪いことだとさえ気づかない人が出てきて、それをきつく咎められたりした日には「知らなかったんだから、もっと優しく教えてくれたら良いだろう。その言い方が気に入らない」などと、自分のあやまちは棚上げにして、逆上したりする(=言い訳する=反論する)。
さらには、そうした「甘え」を「もっともだ。もっとやさしく教えてあげれば良かった」などという「やさしい大人」まで出てくるという始末です。

私の言う「強さ・厳しさの裏打ちのない、光原百合の優しさ」の問題点と欺瞞性とは、結局のところ、こういうことなのです。『「優しさ」「ほのぼの」「憧れ」「真面目」「救い」「癒し」』といったものが、ご都合主義的に「お易い」のですね。だから、「エンターティンメント(慰撫の作品)」の域を、まったく出ないという評価にもなるんです。

もちろん、作者がそれを承知で、お易い読者にお易い作品を供給しているというのであれば、もはや何も言うことは無いけれど、読者がどうあれ、少なくとも作者光原百合がそのような意識で作品を書いているとは思わないからこそ、私の批評は「光原百合のために」も存在価値がある。

私は、よく「現実を直視せよ」と言いますが、光原百合に言っておきたいことは、貴方の読者はこのレベルだという「事実」です。そして、貴方の小説家としての弱点は、貴方のファンでさえ口にしないんだ、という「事実」です。まして、ファンでも何でもない読者や評論家なら、気づいていたって、わざわざ貴方の弱点を指摘してくれることなどない、という「事実」です。したがって、指摘が無いからと言って、弱点がないということでもないのだという「当たり前の事実」を、貴方は直視すべきなのです。

私は、拙論において、

> 光原百合の問題点は、その「優しさ」が「強さ=厳しさ」に裏打ちされたものではない、という点にある。その結果、彼女の「優しさ」は、まず「自分自身」に向き、次に「仲間」に向く。その結果、その「優しさ」は、彼女から見た「優しい仲間」の範中にはいない「他者」を排除することで、保証されるものとなってしまっている。

> 光原百合の「優しさ」とは、まず「自分自身のための優しさ=優しくして欲しい」であり、「見かけ上の、他者への優しさ」は「私にも、そのように接してほしい」という「交換条件の提示」の域を出ないものなんだ。だからこそ「優しさを示してくれない人=他者」を「敵視」し「排除」しようとしてしまう

と指摘しましたが、これは、今回の「貴方のファン」の反応でも、実証されたと言えるでしょう。彼らは、貴方の弱点は認めても、それを支持してきた自分たちの弱点だけは、決して認めようとはしなかった。これが「現実」です。

彼らは、小説・文学の世界から『中井英夫だの大西巨人だの森鴎外だのドストエフスキーだの』を排除し、その極端に狭く囲われた世界の中で「光原百合作品を絶賛してみせた」。私が、訪れるまで、彼らは自らが「排除」した「外部」を忘れ、内部の「ぬるま湯」に耽溺することも出来た。

けれども、私によって「外部」があからさまに示された時、彼らは「内部のぬるま湯に微睡んでいた自分」の弱さを認めるのではなく、そこが「ぬるま湯であったことくらいわかっていたよ」と言って「保身」に走ったのです。

ある程度の広さで世界を認識している人間(読書人)にとっては、今どき「やさしさ」だの「癒し」だのといったものが、ひどく「安価」で「俗悪」なものだというのは、常識に類する認識でしょう。だからこそ、あえてそういうものを前面に押し出す作品には、それ相応の「強度」が要求されもする。
しかし、作品にピン切りがあるように、当然のことながら「読者(の能力や質)にもピンから切りまでがある」ので、ひどく「安価」で「俗悪」なものでも、商品としての需用はあいかわらずあるのです。

たしかに、誉めてくれる読者というのは、それがどの程度の読者であれ、ありがたいという気持ちになるのは、私だってわからないわけではない。しかしながら、貴方が「誠実に小説を書いていきたい」というのであれば、良い意味で、そうした読者の「甘え」を「批判する勇気」をもつ必要があるでしょう。「八方美人の良い人」と「誠実さ」というものは、少なくとも表面上は「両立不能」だという「現実」を直視し、それを言語化しなければ、それは物書きとして、何もしていないも同然なのではないでしょうか。
☆ りっきーさま

ご意見、拝読しました。
拙論が『世界』レベルで完璧ではない、というご意見には、まったく賛成です。
実際、なんども繰り返しているように、私はそこまで完璧を期そうと考えるほど光原作品に興味を持っているわけないので、論証過程を省いているところは多々あり、光原百合本人や貴方のような光原読者でないかぎり、理解できないような書き方をしている部分も多々あるでしょう。

しかし、貴方のような「粗探し」をすれば、どんな評論でも「論証が不十分」だということになるでしょう、「中味の当否」はべつにしてね。
「貴方の期待」に応えるには、光原百合の全作品について言及する必要があるでしょうし、そのそれぞれの中から、私が指摘したような問題点を剔抉して見せないかぎり、「形式の完璧性」だけを問題にしておられる、貴方を納得させることなど出来ない。しかし、もともと、そのような完璧性など、貴方の頭のなかにあるだけなのですから、いくら筆を尽くしたところで、貴方の主観を満足させえないというのは、眼に見えています。

そもそも、まともな反論をしようという人が『貴方の批評を国際的な目で見れば、非常にプアーであると言いざるを得ないでしょう。』などと言い出すはずがない。
たしかに 私の批評は『国際的な目で見れば、非常にプアー』でしょうが、それを指摘しなければならない貴方の批評は、もっとプアーなのではないでしょうか? まして、そんなプアーな批評にさえ、「言い訳」をしなければならない、作品や読者とは、果たしてプアーではないなどと、本気でお思いなのでしょうか?

私の批評の、「論証」が形式的に不十分ではあっても、「結論」あるいは「主旨」が当っているというのは、貴方も認めておられるところなのですが、なぜ、これまでは誰もはっきりと指摘したことがなかった「正解」が語られたのに、貴方はそれを喜ぶどころか、その「形式」に注文をつけることに腐心するのでしょう。
――その意図は、だれの眼にも明白です。

いくら口先で「批評・批判・議論は大事」とか「貴方の意見を認めている」とか言ったところで、貴方のご意見の「主旨」が奈辺にあるのかは、傍目にはあきらかでしょう。
要は「腐されたから腹が立って、文句をつけてみた」と、ただそれだけ。あなた方は「正解なんて欲していない」。つまり「批評の価値なんて認めていない」ということです。

で、結局のところ、貴方の結論は、

> このmixiは様々な人と人とのコミュニケーションの場であります。従って、自身の批評を自身のHPでアップするだけならともかく、少なくとも「ご本人とファンのみなさんにも読んでいただきたいと思」っているのであれば、読み手のことを考えた言い回しが必要ではありませんでしょうか?本当に光原百合に期待し、そのファンに自分の考えを伝えたいのであれば、そうしないと、せっかくの貴方の貴重な考察が、貴方のおっしゃっている「2ちゃんねるレベル」としか伝わらない可能性もあると思いますよ。まぁ、「後からどう言おうと」いうように論を展開して結論付けようとするのならばしかたありません。

という「批判は大いに結構。でも、他所でやってくれ」というところに収まります。
――これが私の言う「排除」です。

何度も言っていますが、私は「反省する気のない人まで、反省させられる」なんて思ってはいません。これは、相手の知的レベルの問題ではなく、もっと根源的な部分に由来する問題だからです。で、私はそここそを問題にしています。

> 貴方が我々と違うと示すことで「自分自身の能力」が上だと示したいお気持ちはよくわかりますが、

というようなことは、わざわざ私が示さなくても、あなた方自身が自分で示していることで、私にはどうでも良いことです。問題は、私が「どう評価したか」ではなく、「評価どおりの事実があるか否か」です。で、それを示すのは、あなた方だということですよ。

言うまでもないことですが、批判したい人が批判し、貶したい人が貶すことを、「他所でやってくれ」と言う人間が「批評・批判・議論は大事」などと言うのは、「偽善」の大嘘です。
それならば、初めから「光原百合ファンは、批判や批評を求めていませんから、それらは他所でやってください」と「正直」に言えば良いのです。そうすれば、拙論の主旨は肯定されたわけですから、それ以上、無駄なやり取りをする必要もなかったのです。
私は前回、わざわざ、

> 例えば「電車の座席に寝転がってはいけない」ということも、誰も注意しないでいると、それが悪いことだとさえ気づかない人が出てきて、それをきつく咎められたりした日には「知らなかったんだから、もっと優しく教えてくれたら良いだろう。その言い方が気に入らない」などと、自分のあやまちは棚上げにして、逆上したりする(=言い訳する=反論する)。
> さらには、そうした「甘え」を「もっともだ。もっとやさしく教えてあげれば良かった」などという「やさしい大人」まで出てくるという始末です。

という譬え話をしましたが、私がここで言う「やさしい大人」じゃないというのは、わかりきったことなのではないでしょうか?

ともあれ、いくら私を貶めたところで、光原作品の価値や、それを高く評価する読者の価値が(下がりこそすれ)上がることなどないという事実に、貴方は気づくべきでした。「外部」が見えていない人は、そういう過ちをおかすものなのです。
拙論がどのような「評論文」であるかについては、すでに、

>・ 「「やさしさ」の帝国 ―― 初期「光原百合」論」2006年05月20日
>  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=138232291&owner_id=856746)

> の問題意識が「光原作品が、どのような読者に、どのように受容されており、その意味するところは何か」という点にあるのは自明でしょう。もともと、特に評価している作家ではないのですから、作品そのものにさほどの興味が無いのは当然で、私の興味は「このような作品を肯定したがるような読者とは、どういう存在であり、その読者が体現するものとは何か」というところに向くのは、理の当然なのです。

ということで説明済みですが、そうした観点から、今回の光原ファンの反応が、私の目にどのように映ったかを総括しておくのも、無駄ではないと思います。

拙論に対し、りっきーさんとkissheeさんのお二人からご意見がございましたが、ここでは、ご自身の「意見」の中味をいちおうでもご説明下さっているために分析が可能である、りっきーさんのご意見について、私がそこにどういう「光原百合的問題点」を読みとったかをご説明したいと思います。


まず、りっきーさんの最初のご意見は、次のようなものでした。

『アレクセイさんの初期「光原百合」論、拝見さえて頂きました。
光原さんの古い読者ということで、アレクセイさんの批評を興味深く読ませて頂きましたが、
その他のファンの方々に対して、「他者からの一方的な優しさを求めている人」「本物の味を知らない舌の貧しい人」という言い方はいかがなものでしょうか?
誰がどう思うかはそれぞれ個人の自由で、それをもとに様々な意見が交わされるのは面白くていいと思いますが、 少なくとも、そのことで他人を断定するような言い方はいただけないと思います。

私個人としましては、「やさしい共犯」は未読のため意見を言うことは出来ませんが、
「時計を忘れて森へ行こう」を読んだ限りでは、アレクセイさんのおっしゃるように「主人公=作者」的な甘さを感じるものの、それを含めて初期の作品として好きですし、
作家としての成長が見られる「十八の夏」も好きでしすし、
光原先生のよりいっそうの飛躍も、期待しています。 』

このご意見の「後半」は、拙論とはほとんど何の関係もない、りっきーさん個人の「光原作品への想い」語りですから、私としては「私は、個人的な好き嫌いをどうこう言うつもりはないし、個人的な好みでどうこう言われても仕方がない」とだけ言っておけば充分だと思います。したがってここでは、主に「前半」について書かせていただきましょう。

> 光原さんの古い読者ということで、アレクセイさんの批評を興味深く読ませて頂きましたが、

とのことですが、りっきーさんが『興味』を持たれたのは、結局のところ、私が『光原さんの古い読者』だという点だけだったのでしょう。りっきーさんは『「主人公=作者」的な甘さを感じるものの、それを含めて初期の作品として好きです』と自認なさっているように、まさに「そういう読者の問題性」という拙論の論点については、まったく理解されなかったようです。というのも、この論点を理解していれば、

> その他のファンの方々に対して、「他者からの一方的な優しさを求めている人」「本物の味を知らない舌の貧しい人」という言い方はいかがなものでしょうか?
> 誰がどう思うかはそれぞれ個人の自由で、それをもとに様々な意見が交わされるのは面白くていいと思いますが、 少なくとも、そのことで他人を断定するような言い方はいただけないと思います。

などと、「甘さに関して鈍い」読者に対する「過保護=甘やかし」を私に求めるような、的外れな「助言」は、とうてい出てこなかったはずだからです。

りっきーさんは、拙論で批判されている「読者」に、自分自身が当て嵌まるのだという事実を、充分に理解されておりません。理解しておれば、自身の問題点について「はっきり言うべきではない=甘やかすべき」などという意見を公にできるわけがないからです。

『誰がどう思うかはそれぞれ個人の自由』というのは当たり前のことですし、これは憲法でも保証されている「基本的人権」です。またそれを、他人に妨げられることなく「表現」できる、というのも「基本的人権」です。
ところが、この基本的人権は、りっきーさんのおっしゃるように『様々な意見が交わされるのは面白くていい』というようなことには、必ずしも帰結しません。なぜなら『様々な意見』の中には、当然「耳に痛い意見=批判・否定的意見」つまり「聞きたくない意見」も含まれるからで、そういう意見を聞かされれば『面白くていい』で済まないのは、わかりきったことだからです。
つまり、「思想信条の自由」と「言論表現の自由」というワンセットの「基本的人権」を認めるということには、自分にとって「好ましくない意見の存在やその表明」を認め、それに「堪える」という「義務」が必然的につきまとうのです。
ですから、「思想信条の自由」と「言論表現の自由」というワンセットの「基本的人権」を認めるのなら、

> その他のファンの方々に対して、「他者からの一方的な優しさを求めている人」「本物の味を知らない舌の貧しい人」という言い方はいかがなものでしょうか?
> 誰がどう思うかはそれぞれ個人の自由で、それをもとに様々な意見が交わされるのは面白くていいと思いますが、 少なくとも、そのことで他人を断定するような言い方はいただけないと思います。

などという意見は、論理的には出てこないはずなのです。

しかしながら、世の中には「悪しき慣習」というようなものも現に存在していて、本来守るべきことも「お互い守らない済ませましょう。その方がお互いに楽です」みたいなことが、往々にしてあるのです。
例えば「本音で語っても良い」というのは原則だけど、お互いそれには堪えられないだろうから「意見はオブラートに包んで語りましょう」あるいは「本音は語らず、聞こえの良いきれいごとだけで話をしましょう」などという「易き」に流された「俗情との結託」的意見が出てきて、大衆的な支持を受け、「慣例化」し、やがてそれが「行儀」として定式化され、「それこそが正しいのだ」と勘違いされるに到ってしまう。
――私が、りっきーさんの「もっともらしい助言」を『日本人的な行儀論』だと言ったのも、そういう意味です。

問題なのは、こういう「慣例的な誤魔化しの技法」は、多くの人たちにとって、つまり一般的には「やさしい」ものなのだと、誤解されている点なのです(「誤りを指摘してあげないのは優しいから」といった認識の存在)。
だから私が批判したのも、そういう「見せ掛けのやさしさ」であり、それは本質的なところで「他者への抑圧(=排除)」を隠蔽している、という事実なんですね。「他者への抑圧(=排除)」が無ければ、私だって「やさしさ」を批判したりはしない、ということです。
そして、りっきーさんのご助言もまた、表面上は、私への「親切=やさしい思いやりの表現」としてなされていた点を見落としてはなりません。

光原百合の作品の「やさしさ」は、まだまだそういう「表面的なやさしさ」の域を脱しておらず、文学作品として底が浅い(=深い部分に何が隠れているのかの、掘りさげが足りない)。そのために「エンターティンメント(慰撫の作品)の域に止まって」おり、そうした作品は、読者の「他者に抑圧的な、表面的なやさしさ(=偽のやさしさ)」を補強するものでしかないと――私は、主に光原百合本人に向けて語ったのです。

したがって、私が拙論「「やさしさ」の帝国 ―― 初期「光原百合」論」で言いたかったのは、

  (1) 日本人の社会意識の問題点(自己中心的やさしさ希求)

であり、あとは付属的に、旧知の光原百合に対する、

  (2) 作品傾向への問題提起と、目指すべき方向についての助言

だったと言えます。
したがって、拙論の論点が、りっきーさんが書いておられるような『「主人公=作者」的な甘さ』の指摘に止まるものではない、というのは言うまでもありません。むしろ、りっきーさんが問題視し、拙論からの「排除」を求めた「読者批判」こそが、拙論の「ミソ」だったということなのです。

ですから、結局のところ、前にも書いたように、

> 拙論に「注文」をつけた、りっきーさんも、kissheeさんも、批評とは「作品について」のものだ(=「読者」が批評の対象になることはない)という風に思い込んでいますから、よもやその「享受者(=お客さん)である自分」たちが批評され批判されるとは思わなかった。だから「読者批判」は『本筋ではない』とか、読者を挑発するような書き方は止めるべきだ、というような「見当違いな意見」を口にするはめにもなったのです。

ということになり、それは取りもなおさず「光原作品には、読者に対する批評性が欠如している」つまり「エンターティンメント(慰撫の作品)の域に止まっている」ということを意味するものでもあるわけです。
光原百合作品には、「ある種の人間的理想」が語られている(=批評性がある)かに見えるのに、その「実質が無い」というのは、作品にとって明らかに弱点でしょう。

また言うまでもないことですが、私の批評は「いかにすれば、売れる小説が書けるか」ではなく「いかにすれば、より優れた(読者に有意義な)小説になるか」というものなのですから、そうした観点で「批評」を書けば、ある種の「読者批判」が含まれるのは避けられないことですし、逆に言えば、「小説」も含め、「読者批判」という「読者への本質的な愛と信頼」を契機として含まない作品は、「商品」ではあり得ても、「本物」ではあり得ないということなのです。
双方の議論を楽しく読ませて頂きました。どことなく両者の論点にズレがある気はしますが、その点などについて感想を。

アレクセイさんの批評に対する感想として、始めに提示された疑問は、リッキーさんによる
>その他のファンの方々に対して、「他者からの一方的な優しさを
>その他のファンの方々に対して、「他者からの一方的な優しさを
>求めている人」「本物の味を知らない舌の貧しい人」という言い
>方はいかがなものでしょうか?

というものでした。これに対してアレクセイさんは批評の中心が、
>問題意識が「光原作品が、どのような読者に、どのように受容さ
>れており、その意味するところは何か」という点にある

という言葉で、「問題意識としているのは光原作品の受容層であり、その無批判な受容層は、上記の様に表現されても不都合のない存在である」と反論されています。

さて、自分が議論のズレと感じる部分が此処です。特定の著述作品を論じることで、受容層の問題を論じる事は可能でしょうか?作品や作者を論じる材料は提示されていますが、受容層を論じるだけの素材は提供されていない様に感じます。(個人的には、光原作品が日本人の社会意識を論じられる程広範な支持を得ているとは思いません。ファンの一人として悲しい事ではありますが。)作品だけを論拠にその受容層を語った為にリッキーさん、管理人さんは一方で光原作品の問題点としてアレクセイさんの主張を認めつつ、一方で不快感を抱くという結果になったのではないかと思います。つまりまとめ部分でアレクセイさんが論点として揚げた2点の内、始めの1点についてを述べるためには光原作品は未だ役不足である、と言うことです。

その意味では、書き込み「6」にこそ光原受容層批判としてのアレクセイさんの真価が現れてくるのではないかと思いますが、素人目に見ても、既にアレクセイさんの批評に対する不快感を顕わにした両氏の発言を持って光原無批判受容層の代表的意見とするのは総計ではないでしょうか?

さて、ヴェーユの「不在の神」の理論と光原作品の「やさしさ(甘さ)」を対置した方法は面白く読ませて頂きましたが、表象的な光原作品のやさしさをもって、光原作品を定義付けてしまって良い物でしょうか。

さて、「時計を忘れて森へ行こう」の作品世界では、主人公の少女が醸し出す少女的雰囲気に満ちた森(シーク・夢ノ国)は現実世界から切り離された楽園として存在し、作中に出てくる東京や大阪などの都会(現実)とは別世界を構築しています。確かにアレクセイさんの言うような甘さに満ちた世界ですが、少女はそこから出てくる事もなければ出てくる事も望みません。「時計(時間=都会的な習慣の表象か)を忘れて森(夢ノ国)へ」というタイトルが示しているように、その事は作者にとっても自覚的な事の様です。それでは、アレクセイさんによるような批評が起こることを承知の上で(もし承知ではなかったとしたらその後の作品(遠い約束−十八の夏)の展開はなかったと考えます)、これらが書かれた意図は何処にあったのか、を考えてみる必要があるのではないでしょうか?「作者自身の甘さ」故とばかりは言えないのではないかと思います。

最後に、
自分なりの光原百合論がないことをお許し下しさい。未だ評価を確定する時期にあらずと考えていますので。

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