彼は最初、「The Hillbilly Cat(田舎者の猫)」という名前で歌手活動を始め、その後すぐに歌いながらヒップを揺らすその歌唱スタイルから「Elvis the Pelvis(骨盤のエルヴィス)」の愛称で呼ばれるが、アメリカのバラエティー番組『エド・サリバン・ショー』の3度目の出演の際には、視聴者の抗議を配慮した番組関係者が意図的にエルヴィスの上半身だけを放送したというエピソードが伝えられている。その際にサリヴァンが「このエルヴィス・プレスリーはすばらしい青年です」と紹介したことからサリヴァンにも罵声が飛んだ。しかしこのおかげでエルヴィスへの批判は少なくなった。また、フロリダの演奏では体を動かすなとPTAやYMCAに言われ、小指を動かして歌った。この時には警官がショーを撮影し、体を動かすと逮捕されることになっていた。
★サン・レコード
1953年の夏にエルヴィスはサン・スタジオで最初の両面デモ・アセテート盤を録音するため4ドルを支払った。収録曲は当時のポピュラーなバラード“My Happiness”と“That's When Your Heartaches Begin,”であった。サン・レコードの創業者サム・フィリップスとアシスタントのマリオン・ケイスカーはその録音を聞きエルヴィスの才能を感じ、1954年6月に行方不明の歌手の代理としてエルヴィスを呼んだ。セッションは実り多いものであったかは分からなかったが、サムは地元のミュージシャン、スコッティ・ムーア、ビル・ブラックと共にエルヴィスを売り出すこととした。
1954年7月5日のリハーサル休憩中にエルヴィスは“That's All Right, Mama”をいじくり始め、サムはエルヴィスが適所を得たかもしれないと考えて録音ボタンを押した。即興での演奏でドラムスが不在であったため、ベースをかき鳴らしての演奏となった。B面に“Blue Moon of Kentucky”が収録されたシングルは、WHBQラジオが放送した二日後に、メンフィスでのローカル・ヒットとなった。また、公演旅行は彼の評判をテネシー中に広げることとなった。ラジオを聴いた人たちは黒人歌手だと勘違いしていた。
サンとの契約下でエルヴィスは5枚のシングルをリリースした。
That's All Right / Blue Moon Of Kentucky - Sun 209, 1954年7月19日
Good Rockin' Tonight / I Don't Care if the Sun Don't Shine - Sun 210, 1954年9月25日
Milkcow Blues Boogie / You're A Heartbreaker - Sun 215, 1954年12月28日
Baby Let's Play House / I'm Left, You're Right, She's Gone - Sun 217, 1955年4月10日
Mystery Train / I Forgot To Remember To Forget - Sun 223, 1955年8月6日
これらの多くはリズム・アンド・ブルースまたはカントリー・アンド・ウェスタンのヒット曲のエネルギッシュなカバーであった。レーベルには「エルヴィス・プレスリー、スコッティー・アンド・ビル」とクレジットされた。10曲の中で最短の曲は1.55"、最長のもので2.38"である。
★Follow That Dreamレーベル
エルヴィスがそのキャリアにおいて発表した曲の未発表テイクが数多く存在するが、プライベート録音を含め、すべての残されたエルヴィスの音源を聴きたいというファンの要望に応えるべく立ち上げられたものが、主演映画のタイトルから引用した「Follow That Dream」レーベルである。
1967年5月1日には、ラスベガスのアラジン・ホテルでプリシラ・アン・ボーリューと結婚。プリシラはエルヴィスのドイツでの所属部隊長の継子であった。エルヴィスは母親と継父を説得して、未成年であったプリシラとグレースランドで同棲していた。そして8年後に結婚し、1968年2月1日には娘リサ・マリー・プレスリー(Lisa Marie Presley)が生まれる。しかし4年後、ゴシップ雑誌の報道で浮気を疑われたことや、プリシラ自身もハワイの空手家と浮気したため離婚した。リサ・マリーはプリシラが引き取った。
★映画とエルヴィス
歌手として有名になっていくにつれて映画会社数社から出演の依頼が彼のもとに届いた。エルヴィスは大変喜んで、映画館に通いつめ、演技を独学で勉強した。初出演映画にはパーカー大佐がエルヴィスを映画の主演にさせたかったので20世紀FOX配給『Rino Brothers』を選んだ。エルヴィスはシリアスな演技派を目指していた為、映画内での歌には興味がないと公言していたが、結局パーカー大佐の要請で4曲も歌う羽目になりタイトルも『Love Me Tender』に変更されて公開された。エルヴィスは当時のガールフレンドに「映画会社がアホな曲を用意してきたんだよ。せっかくのいいストーリーが台無しになっちゃったよ」と不満を漏らしている。
コンサート活動後も1970年8月のラスベガス公演やリハーサル風景を収めたドキュメンタリー映画『Elvis: That's the Way It Is(エルヴィス・オン・ステージ)』や1972年4月のコンサート・ツアーの模様を収めたドキュメンタリー映画『ELVIS On Tour(エルヴィス・オン・ツアー)』が製作され、好評だった。それ以降は映画の公開はなかったが、エルヴィスの死去後の1981年には、ほとんどを生前の映像等で構成した彼のライフ・ストーリー的映画『This Is ELVIS』が公開された。これらを合わせると、エルヴィスが主演した映画は計34本となる。
グレイスランド(Graceland)1974年8月19日、ラスベガス公演中のエルヴィスの楽屋をバーブラ・ストライザンドが訪れた。彼女は自らが主演する映画『A Star Is Born(スター誕生)』での共演をエルヴィスに依頼し、エルヴィス自身も非常に乗り気だったと伝えられているが、後日パーカー大佐が出演料を理由に断った。
「やさしく愛して(Love Me Tender)」(1956年)
「さまよう青春(Loving You)」(1957年)
「監獄ロック(Jailhouse Rock)」(1957年)
「闇に響く声(King Creole)」(1958年)
「G・I・ブルース(GI Blues)」(1960年)
「燃える平原児(Flaming Star)」(1960年)
「嵐の季節(Wild in the Country)」(1961年)
「ブルー・ハワイ(Blue Hawaii)」(1961年)
「夢の渚(Follow That Dream)」(1962年)
「恋のKOパンチ(Kid Galahad)」(1962年)
「ガール!ガール!ガール!(Girls! Girls! Girls!)」(1962年)
「ヤング・ヤング・パレード(It Happened at the World's Fair)」(1963年)
「アカプルコの海(Fun in Acapulco)」(1963年)
「キッスン・カズン(Kissin' Cousins)」(1963年)
「ラスベガス万才(Viva Las Vegas)」(1964年)
「青春カーニバル(Roustabout)」(1964年)
「フロリダ万才(Girl Happy)」(1965年)
「いかすぜ!この恋(Tickle Me)」(1965年)
「ハレム万才(Harum Scarum)」(1965年)
「フランキーandジョニー(Frankie and Johnny)」(1966年)
「ハワイアン・パラダイス(Paradise, Hawaiian Style)」(1966年)
「カリフォルニア万才(Spinout)」(1966年)
「ゴー!ゴー!ゴー!(Easy Come, Easy Go)」(1967年)
「ダブル・トラブル(Double Trouble)」(1967年)
「ブルー・マイアミ(Clambake)」(1967年)
「ステイ・アウェイ・ジョー(Stay Away, Joe)」(1968年)
「スピードウェイ(Speedway)」(1968年)
「バギー万才(Live a Little, Love a Little)」(1968年)
「殺し屋の烙印(Charro!)」(1969年)
「トラブル・ウィズ・ガール(The Trouble with Girls)」(1969年)
「チェンジ・オブ・ハビット(Change of Habit)」(1969年)
「エルビス・オン・ステージ(Elvis: That's the Way It Is)」(1970年)
「エルビス・オン・ツアー(Elvis on Tour)」(1972年)
最近の話題だと新編集された曲が2002年FIFA World Cup KOREA/JAPANの公式テーマソングになったり、未発表映像も発掘され、1968年のTVスペシャルや1973年のアロハ・フロム・ハワイのアウトテイクを収録した完全版がリリースされ好評だった。その他、側近や友人、家族らが語るエルヴィスの人物像に焦点をあてた物や、エルヴィスのゴスペルに対する思いを映像化した物もある。
更に1997年には新たなる試みとして、エルヴィスのコンサート映像を使用し、それにあわせて当時のバンド・メンバーが演奏する「ELVIS THE CONCERT(エルヴィス・ザ・コンサート)」(最近「ELVIS PRESLEY IN CONCERT(エルヴィス・プレスリー・イン・コンサート)」に名称変更された)のメンフィス公演が行われ、以後全米各地のほか、ほぼ年に1回のペースでアメリカ以外の地域でツアーを行っている。