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岡山ロカビリークラブコミュの★Elvis Presley★

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Are you lonesome tonight・・・?

Where is King?

King Who!?

コメント(27)

★プロフィール
エルヴィス・アーロン・プレスリー (Elvis Aaron Presley, 1935年1月8日 - 1977年8月16日)は、アメリカのロックンロールミュージシャン。ミドルネームは墓石にはAaronとつづられているが、サイン、公文書共にAronである。キング・オブ・ロックンロールまたはキングと称され、ギネス・ワールド・レコーズでは「最も成功したソロ・アーティスト」として認定されている。

家族
父:ヴァーノン・エルヴィス・プレスリー/Vernon Elvis Presley (1916年4月19日 - 1979年6月26日)
母:グラディス・ラヴ・プレスリー/Gladys Love Smith Presley (1912年4月25日 - 1958年8月14日)
兄:ジェシー・ギャロン・プレスリー/Jesse Garon Presley (エルヴィスの双子の兄に当たり30分早く生まれたが、生後まもなく死去)
娘:リサ・マリー・プレスリー/Lisa Marie Presley (1968年2月1日 - )
妻:プリシラ・プレスリー/Priscilla Beaulieu Presley (1945年5月24日 - )
音楽史に最も影響を与えた人物の1人。初期はアメリカ、そして世界の若者にロックンロールによって多大な影響を与え、後期になるとラスベガスの舞台で、カントリーやゴスペル、バラードなどを歌い、万人に愛されるシンガーとなった、戦後米国の最大のスターである。その影響を受けたビートルズ、レッド・ツェッペリン、ローリング・ストーンズらスーパースターは多い。黒人のリズム&ブルースと白人のカントリー&ウェスタンを融合することによって、今までにない新しい音〈ロック〉を誕生させ、広めた人物として知られる。彼に影響された数多くのアーティスト達によって、後に音楽のジャンルが増えていった。

彼は最初、「The Hillbilly Cat(田舎者の猫)」という名前で歌手活動を始め、その後すぐに歌いながらヒップを揺らすその歌唱スタイルから「Elvis the Pelvis(骨盤のエルヴィス)」の愛称で呼ばれるが、アメリカのバラエティー番組『エド・サリバン・ショー』の3度目の出演の際には、視聴者の抗議を配慮した番組関係者が意図的にエルヴィスの上半身だけを放送したというエピソードが伝えられている。その際にサリヴァンが「このエルヴィス・プレスリーはすばらしい青年です」と紹介したことからサリヴァンにも罵声が飛んだ。しかしこのおかげでエルヴィスへの批判は少なくなった。また、フロリダの演奏では体を動かすなとPTAやYMCAに言われ、小指を動かして歌った。この時には警官がショーを撮影し、体を動かすと逮捕されることになっていた。

KWKラジオではエルヴィスのレコード(「ハウンドドッグ」)を叩き割り、ロックンロールとは絶縁だと放送。ロックンロールが青少年の非行の原因だと中傷され、PTAはテレビ放送の禁止を要求など、様々な中傷の標的になった。

彼の記録は多数あり、例えば、最も成功したソロ・アーティスト、最多ヒットシングル記録(151回)、1日で最もレコードを売り上げたアーティスト(死の翌日)、等がギネスによって認定されている。CD・レコードの総売上げの公式発表は「売り上げデータは無し」である。推定数字として、1977年に「6億枚以上」、死後数ヶ月間だけで「2億枚」、1985年までには「10億枚」とされている。しかしこの記録は1972年以降のものであり、この数字より遥かに多いことが予想される。 なお、彼は2005年10月27日発表の米経済誌フォーブスによると、2004年10月から1年間の印税等の収入は4500万ドル(約51億9000万円)に上った。故人長者番付である同調査では2005年まで5年連続でトップを維持した。2006年10月25日発表の故人長者番付では、カート・コバーンの著作権が売却されたことにより抜かれ2位になったが、翌2007年に4900万ドル(約56億円)で再び首位を奪回した。
★生い立ち
エルヴィスはミシシッピ州トゥーペロの小さな家で、ヴァーノン・エルヴィス・プレスリーおよびグラディス・ラヴ・スミス・プレスリー夫妻の間に1935年1月8日に生まれた。彼はトゥーペロで幼年期を過ごし、13の時に一家はテネシー州メンフィスに転居した。彼には双子の兄弟ジェシー・ガーロン・プレスリーがいたが、誕生時に死亡している。一家は1949年にロウダーデール・コート公営住宅に転居する。エルヴィスは11歳からギターを始め、ロウダーデール・コートの地下洗濯部屋で練習をした。彼はそこに住むミュージシャン達と演奏を行った。エルヴィスは高校卒業後に精密金型会社で働き、次にクラウン・エレクトリック社のトラック運転手となる。

スコットランド人作家アラン・モリソンはエルヴィスがスコットランド系であったと主張する。彼はその著書でエルヴィスの先祖が1700年代にアバディーンシャーのロンメイで暮らしていたことを発見したとする。また、記録によるとアンドリュー・プレスリーが1713年にロンメイでエルスペス・レッグと結婚したとしている。彼らの息子アンドリューが1745年にイギリスの植民地に移住したとのことである。また、ケビン・コスナーは自著本で、プレスリーがアイルランド人の血を引いていると出張している。同時に、プレスリーはドイツユダヤ人[1]の血を引いており、さらに4代前の祖母は、純血のチェロキー族インディアンである。

1950年代のアメリカでは音楽も人種隔離的な扱いを受けている部分が多く残っており、当時のロックンロールのヒットソングも黒人の曲を白人がカバーし、そのカバー版が白人向けの商品として宣伝され、チャートに掲載され、またラジオなどで流れる傾向にあった。例え同じ歌を同じ編曲で歌ったとしても、黒人が歌えばリズム・アンド・ブルースに、白人が歌えばカントリー・アンド・ウェスタンに分類されることが一般的だった。エルヴィスは、このような状況にあって黒人のように歌うことができる白人歌手として発掘された。
★サン・レコード
1953年の夏にエルヴィスはサン・スタジオで最初の両面デモ・アセテート盤を録音するため4ドルを支払った。収録曲は当時のポピュラーなバラード“My Happiness”と“That's When Your Heartaches Begin,”であった。サン・レコードの創業者サム・フィリップスとアシスタントのマリオン・ケイスカーはその録音を聞きエルヴィスの才能を感じ、1954年6月に行方不明の歌手の代理としてエルヴィスを呼んだ。セッションは実り多いものであったかは分からなかったが、サムは地元のミュージシャン、スコッティ・ムーア、ビル・ブラックと共にエルヴィスを売り出すこととした。

1954年7月5日のリハーサル休憩中にエルヴィスは“That's All Right, Mama”をいじくり始め、サムはエルヴィスが適所を得たかもしれないと考えて録音ボタンを押した。即興での演奏でドラムスが不在であったため、ベースをかき鳴らしての演奏となった。B面に“Blue Moon of Kentucky”が収録されたシングルは、WHBQラジオが放送した二日後に、メンフィスでのローカル・ヒットとなった。また、公演旅行は彼の評判をテネシー中に広げることとなった。ラジオを聴いた人たちは黒人歌手だと勘違いしていた。

サンとの契約下でエルヴィスは5枚のシングルをリリースした。

That's All Right / Blue Moon Of Kentucky - Sun 209, 1954年7月19日
Good Rockin' Tonight / I Don't Care if the Sun Don't Shine - Sun 210, 1954年9月25日
Milkcow Blues Boogie / You're A Heartbreaker - Sun 215, 1954年12月28日
Baby Let's Play House / I'm Left, You're Right, She's Gone - Sun 217, 1955年4月10日
Mystery Train / I Forgot To Remember To Forget - Sun 223, 1955年8月6日
これらの多くはリズム・アンド・ブルースまたはカントリー・アンド・ウェスタンのヒット曲のエネルギッシュなカバーであった。レーベルには「エルヴィス・プレスリー、スコッティー・アンド・ビル」とクレジットされた。10曲の中で最短の曲は1.55"、最長のもので2.38"である。

1955年8月18日にエルヴィスの両親はプロデューサーのトム・パーカーとの契約書に署名し、サン・スタジオとの関係は終了した。
★RCA
エルヴィスは1955年11月21日にRCAレコードと契約した。1956年1月28日に「CBS-TVトミー・ドーシー・ステージ・ショウ」にてTVに初出演し、黒人のR&Bを歌う。そこで彼は白人らしからぬパフォーマンスを披露したが、これに対してPTAや宗教団体から激しい非難を浴びせられた。しかし、その激しい非難にもかかわらず、それを見た若者たちは、エルヴィスのファンになっていった。


1957年1956年1月27日に第6弾シングル「Heartbreak Hotel / I Was the One」がリリースされた。これは1956年4月にチャートの1位に達した(Heartbreak Hotelはその後数多く登場したミュージシャンに多大な影響を与えた)。

エルヴィスが1977年に死去するまでの21年間に、146曲が100位以内に、112曲が40位以内に、72曲が20位以内に、38曲が10位以内にチャートインした。1962年4月21日から2週連続で1位を獲得した「グッド・ラック・チャーム」を最後にエルヴィスは1位から遠ざかったが、1969年11月1日、「サスピシャス・マインド」が1位を獲得し、「エルヴィスの復活」と言われた。1972年10月28日には「バーニング・ラヴ」が2位まで上り詰めたが、チャック・ベリーの「マイ・ディンガリング」(1972年10月21日から2週連続1位)に阻止された。70年代においてはエルヴィスは一度も1位を取ることはなかったが、2002年にリメイクされた「ア・リトル・レス・カンバセーション」は世界24カ国でナンバー1を取得した。アメリカにおいて1位を獲得したシングルの数は18作〈計80週間〉で、ビートルズの20作〈計59週間〉に次ぐ2位の記録となっている(Billboard誌に準拠)。

レコーディング場所について1950年代はニューヨークにあるRCAスタジオを利用したことがあったが、エルヴィスのキャリアにおいて、主演映画の挿入歌以外のレコーディング場所で最も利用されたのはテネシー州ナッシュヴィルにあるRCAスタジオBである。しかし、1972年以降はハリウッドにあるRCAスタジオや地元メンフィスのスタジオを利用した。更に1976年になると、RCAスタッフがエルヴィスの自宅(グレイスランド、ジャングルルーム)に録音機材を持ち込み、レコーディングを行った。

後年レコーディング自体に関心を示さなくなったのは、RCAのミキシングがエルヴィスの意向にそぐわなかったことや体調不良等の様々な理由があると思われる。しかし、エルヴィスは最後まで一発撮りと呼ばれる1テイク完成型のレコーディング・スタイルにこだわった(いくつかのテイクをつなぎ合わせて一つの曲として発表する形式や曲の別録りといった選択肢もあったが、エルヴィスはそれを嫌い、現在まで発表された曲数が700以上ある中で、そのような形式で発表した曲は少ない)。そのため、エルヴィスの死去後現在まで様々な未発表テイクが発掘されており、その中には発表されたテイクと違った趣向のものもある。後年、レコーディングに関心がなくなった頃は、体調不良を訴え、「歌のレコーディングは後で必ずするからミュージックだけ録音しておいてくれ」と言うこともあったが、ほとんどの場合、それは実現しなかった。
★ヒット曲
ナンバー1ヒットは全18曲、合計80週間である。曲数はビートルズに次ぐ歴代2位である。週間数に関しては歴代1位である。ちなみに2位はマライア・キャリーの79週。(ビルボードに準拠)

☆全米ナンバー1獲得曲
ハートブレイク・ホテル(Heartbreak Hotel) 1956年 8週間連続1位
ロックの始まりと言われている曲である。この曲に影響されたアーティストの数は計り知れない。
アイ・ウォント・ユー、アイ・ニード・ユー、アイ・ラヴ・ユー(I Want You,I Need You,I Love You) 1956年 1週間1位
ハウンド・ドッグ(Hound Dog) 1956年 11週間連続1位
冷たくしないで(Don't Be Cruel) 1956年 11週間連続1位
ラヴ・ミー・テンダー(Love Me Tender) 1956年 5週間連続1位
トゥー・マッチ(Too Much) 1957年 3週間連続1位
恋にしびれて(All Shook Up) 1957年 9週間連続1位
テディ・ベア(Teddy Bear) 1957年 7週間連続1位
エルヴィスは「なぜこんな曲が7週No.1になったのか?」と疑問に思ったという
監獄ロック(Jailhouse Rock) 1957年 8週間連続1位
ドント(Don't) 1957年 5週間連続1位
冷たい女(Hard Headed Woman) 1958年 1週間1位
恋の大穴(A Big Hunk o' Love) 1959年 2週間連続1位
本命はお前だ(Stuck On You) 1960年 4週間連続1位
イッツ・ナウ・オア・ネバー(It's Now or Never) 1960年 5週間連続1位
今夜はひとりかい?(Are You Lonesome Tonight?) 1960年 6週間連続1位
サレンダー(Surrender) 1960年 2週間連続1位
グット・ラック・チャーム(Good Luck Charm) 1961年 2週間連続1位
サスピシャス・マインド(Suspicious Minds) 1969年 1週間1位
☆その他
好きにならずにいられない(Can't Help Falling in Love) 1961年 全米2位、全英1位
心の届かぬラヴ・レター(Return to Sender) 1962年 全米2位、全英1位
イン・ザ・ゲットー(In the Ghetto) 1969年 全米3位、全英1位
★Follow That Dreamレーベル
エルヴィスがそのキャリアにおいて発表した曲の未発表テイクが数多く存在するが、プライベート録音を含め、すべての残されたエルヴィスの音源を聴きたいというファンの要望に応えるべく立ち上げられたものが、主演映画のタイトルから引用した「Follow That Dream」レーベルである。

このレーベルのアルバムは限定生産され、世界中のファン・クラブに優先的に流通させるので一般のCDショップ等に出回りにくい。1999年に第一弾「Barbank'68」(1968年のNBC-TVスペシャルのリハーサルの模様を収録)がリリースされた。以後、定期的に貴重な音源が次々とリリースされ続けている。わずかだが一つの曲のすべてのテイクを聴くことが出来たり、コンサートアルバムはエルヴィスのコンサートを体験することが出来なかったファンにも(音声だけだが)追体験出来るような内容になっている。
★軍歴
1958年1月20日に、エルヴィスはアメリカ陸軍への徴兵通知を受けた。当時のアメリカ合衆国は徴兵制を施行しており、陸軍の徴兵期間は2年間である。彼は特例措置を受けることなく、通常の兵士として西ドイツで勤務し、1960年3月5日に満期除隊した。彼は軍在籍中に、空手の黒帯を取得し、軍曹まで昇進した。徴兵命令が来た際、エルヴィスは「闇に響く声」を製作中で、徴兵を少し延期したことでも話題になった。徴兵局はパラマウントからの延期の申し入れに対し、「エルヴィスをよこして頭を下げさせろ」と伝えた。翌日、エルヴィスは徴兵局へ出向き、延期の申し入れを行った。軍に在籍中、病気にかかり軍の病院において扁桃腺炎だと診断された。その際、医師は彼の声が変調するのを恐れて、扁桃腺の切除手術は行わなかったが、彼は回復し健康を取り戻した。

1967年5月1日には、ラスベガスのアラジン・ホテルでプリシラ・アン・ボーリューと結婚。プリシラはエルヴィスのドイツでの所属部隊長の継子であった。エルヴィスは母親と継父を説得して、未成年であったプリシラとグレースランドで同棲していた。そして8年後に結婚し、1968年2月1日には娘リサ・マリー・プレスリー(Lisa Marie Presley)が生まれる。しかし4年後、ゴシップ雑誌の報道で浮気を疑われたことや、プリシラ自身もハワイの空手家と浮気したため離婚した。リサ・マリーはプリシラが引き取った。
★映画とエルヴィス
歌手として有名になっていくにつれて映画会社数社から出演の依頼が彼のもとに届いた。エルヴィスは大変喜んで、映画館に通いつめ、演技を独学で勉強した。初出演映画にはパーカー大佐がエルヴィスを映画の主演にさせたかったので20世紀FOX配給『Rino Brothers』を選んだ。エルヴィスはシリアスな演技派を目指していた為、映画内での歌には興味がないと公言していたが、結局パーカー大佐の要請で4曲も歌う羽目になりタイトルも『Love Me Tender』に変更されて公開された。エルヴィスは当時のガールフレンドに「映画会社がアホな曲を用意してきたんだよ。せっかくのいいストーリーが台無しになっちゃったよ」と不満を漏らしている。

陸軍入隊前までの1958年までに4作の映画が製作されたがいずれも挿入歌ありの主演映画に終始し、おまけに映画挿入歌を収めたアルバムが好評だったため、当時のショウビジネス界に新たなビジネスの形態を作り出した。1960年に陸軍除隊するとパーカー大佐は映画会社数社と長期に渡り出演契約を結んだ為、1969年まで1年に3本のペースで27本もの映画の製作が行われ、活動の拠点をハリウッドに移さざるをえなかった。おおよその映画は制作費を抑えた挿入歌アルバム付きのものが多かったが、『G.I. Blues』、『Blue Hawaii』、『Viva LasVegas(ラスヴェガス万才)』等、話題になったものもある。結局、1956年から1969年まで計31本の映画が公開された中で、エルヴィスが望んだ歌なしの映画は1969年公開の『Charro(殺し屋の烙印)』のみであった。

この映画が製作された頃のエルヴィスは1960年代初期と違い、映画への意欲が薄らいでいた時期ではあった(1968年のカムバックを経て、残った契約の消化を急いでいた)が、久しぶりに前向きに臨んだ西部劇で役作りの為にあごひげまではやし撮影された。しかし、エルヴィスの主演映画に対する世間の注目度が低かったこと、脚本の出来もイマイチだったことなどが原因で映画の興行成績は振るわなかった。そういう状況の中、ミュージカル映画の枠を超えていなかったこと、台本の出来の悪さ、また、エルヴィスが力を入れて撮影したシーンがカットされたことなど、彼の仕事への不満は募っていき、それが歌手としてコンサート活動を再開するきっかけになった。

コンサート活動後も1970年8月のラスベガス公演やリハーサル風景を収めたドキュメンタリー映画『Elvis: That's the Way It Is(エルヴィス・オン・ステージ)』や1972年4月のコンサート・ツアーの模様を収めたドキュメンタリー映画『ELVIS On Tour(エルヴィス・オン・ツアー)』が製作され、好評だった。それ以降は映画の公開はなかったが、エルヴィスの死去後の1981年には、ほとんどを生前の映像等で構成した彼のライフ・ストーリー的映画『This Is ELVIS』が公開された。これらを合わせると、エルヴィスが主演した映画は計34本となる。


グレイスランド(Graceland)1974年8月19日、ラスベガス公演中のエルヴィスの楽屋をバーブラ・ストライザンドが訪れた。彼女は自らが主演する映画『A Star Is Born(スター誕生)』での共演をエルヴィスに依頼し、エルヴィス自身も非常に乗り気だったと伝えられているが、後日パーカー大佐が出演料を理由に断った。

1970年代半ば、エルヴィス自身が起案し出演する空手家が主人公の映画の撮影を行ったが、完成することはなかった。理由の一つとして、エルヴィスの体調が悪くなることが多く空手を続けられる状況ではなくなり、8段だった空手自体をやめてしまったことが挙げられる。ちなみに、空手の後の太り始めた頃からの趣味はラケットボールで、医師からの勧めで始めた。エルヴィスは自宅であるグレイスランドの敷地内に専用コートを建てた。死去する1977年8月16日の早朝も友人たちとプレーし、汗を流した。
★出演作品
32本の映画出演作(ドキュメンタリーは除いて)全てが主役という驚異的な記録を残している。

「やさしく愛して(Love Me Tender)」(1956年)
「さまよう青春(Loving You)」(1957年)
「監獄ロック(Jailhouse Rock)」(1957年)
「闇に響く声(King Creole)」(1958年)
「G・I・ブルース(GI Blues)」(1960年)
「燃える平原児(Flaming Star)」(1960年)
「嵐の季節(Wild in the Country)」(1961年)
「ブルー・ハワイ(Blue Hawaii)」(1961年)
「夢の渚(Follow That Dream)」(1962年)
「恋のKOパンチ(Kid Galahad)」(1962年)
「ガール!ガール!ガール!(Girls! Girls! Girls!)」(1962年)
「ヤング・ヤング・パレード(It Happened at the World's Fair)」(1963年)
「アカプルコの海(Fun in Acapulco)」(1963年)
「キッスン・カズン(Kissin' Cousins)」(1963年)
「ラスベガス万才(Viva Las Vegas)」(1964年)
「青春カーニバル(Roustabout)」(1964年)
「フロリダ万才(Girl Happy)」(1965年)
「いかすぜ!この恋(Tickle Me)」(1965年)
「ハレム万才(Harum Scarum)」(1965年)
「フランキーandジョニー(Frankie and Johnny)」(1966年)
「ハワイアン・パラダイス(Paradise, Hawaiian Style)」(1966年)
「カリフォルニア万才(Spinout)」(1966年)
「ゴー!ゴー!ゴー!(Easy Come, Easy Go)」(1967年)
「ダブル・トラブル(Double Trouble)」(1967年)
「ブルー・マイアミ(Clambake)」(1967年)
「ステイ・アウェイ・ジョー(Stay Away, Joe)」(1968年)
「スピードウェイ(Speedway)」(1968年)
「バギー万才(Live a Little, Love a Little)」(1968年)
「殺し屋の烙印(Charro!)」(1969年)
「トラブル・ウィズ・ガール(The Trouble with Girls)」(1969年)
「チェンジ・オブ・ハビット(Change of Habit)」(1969年)
「エルビス・オン・ステージ(Elvis: That's the Way It Is)」(1970年)
「エルビス・オン・ツアー(Elvis on Tour)」(1972年)
★コンサート・ツアー
1969年から過密スケジュールでライヴ活動を再開する。しかし、それは彼を完全なワーカホリック状態へと追い込むものであった。死ぬ前の7年間に行ったライヴは1000回以上であり、平均すると一ヶ月におよそ35回のペースだった。

1970年頃のエルヴィス1960年代後半よりネバダ州のラスベガスを中心にショーを行うようになっていた。

彼のコンサートは時代を経て、大規模なものになっていった。1950年代はエルヴィスのヴォーカルにギター、ベース、ドラムスの一つのグループのような編成でロックンロール色を前面に出す構成だったが、瞬間最高視聴率約72%を記録した1968年のNBC-TVスペシャル以後、翌年にラスベガスのステージで歌手復帰してからは、ロックンロール以外にもレパートリーの幅を拡げ、ゴスペルやスタンダート・ナンバー等を取り入れたエンタテイメント性を前面に出す構成に移行していった。バック・ミュージシャンもコーラス・グループやピアノ等が新たに加わり、オーケストラまで揃えた多人数の団体に膨れ上がった。ラスヴェガスのステージ編成をそのまま地方公演に取り入れた。コンサート活動再開後、最後にコンサートを行った1977年6月26日インディアナポリス公演までチケットは売り切れ状態が続いた。1977年8月17日から始まる予定だったツアーも最終日の8月27日のメンフィス公演まで売り切れ、翌28日に同地で追加公演を行う予定だった。
アロハ・フロム・ハワイ
1973年1月14日、ハワイ州ホノルルで行われたコンサート。 全世界36ヶ国、15億人以上に視聴され、芸能人で世界で初めて衛星生中継された。「伝説が宇宙から降り注いだ日」といわれている。

ハワイの現地時間の午前0時に始まった。これは日本のゴールデン・タイム(午後7時)にあわせたものである。放送は約2時間続いた。

このコンサートの目的は、「クイ・リー癌基金」のためのチャリティー・コンサートである。
★死と埋葬

エルヴィスの墓1977年8月16日にテネシー州メンフィスの自宅、グレースランドで死去した。ガールフレンドのジンジャー・オールデンによって寝室のバスルームの床に倒れているところを発見され、バプテスト記念病院へ搬送されたが、医師は午後3:30に死亡を確認した。42歳没であった。検死後、死因は処方薬の極端な誤用による不整脈と公式に発表された。75年くらいからエルヴィスは処方された睡眠薬などを誤った使い方で服用していた。「処方ドラッグをやっていた」とグレン・D・ハーディンなどのメンバー、さらにデル・“ソニー”・ウェストなどのメンフィス・マフィアのメンバーたちも語っている。グレンは詳しいことは死ぬまで語るつもりはないといっているが、ソニー・ウェストは暴露本を書いて中傷した。違法なドラッグは一切使用していないが、この処方ドラッグの影響で癇癪持ちになり、体調も維持できなくなってしまった。

当初はメンフィスのフォレスト・ヒル墓地で母親の隣に埋葬されたが、遺体の盗掘未遂事件後に、母親と共にグレースランドに再埋葬された。グレースランドには、彼の様々な遺品やピンクに塗られたキャディラック、愛娘の名前をつけた自家用機、コンベア880型、「リサ・マリー号」などが展示されており、現在も世界中からファンや観光客が訪れている。
★世界に与えた影響
ヨーロッパにおいて、ロックンロールに対する興味を生じさせた。冷戦下で、彼はヨーロッパ進出を考えていたアメリカのミュージシャンの先駆者になった。世界中のティーンエイジャーは彼の「ダックテール」と呼ばれる横髪を後ろへなで付けるヘアスタイルをこぞって真似し始めた。そして、黒いズボンや緩い開襟シャツといった彼のニュールックは、ファッションの新たな潮流を作り、その大きな需要を生み出した。エルヴィスの影響は、経済大国における大量消費を行う最初のティーンエイジャー世代を生み出した。エルヴィス・プレスリーを慕うミュージシャンに、ドイツのオペラ歌手ペーター・ホフマンらがいる。

1977年にカーター大統領は「エルヴィス・プレスリーの死は、我が国から大事な一部分を奪いとったようなものだ。彼の音楽とその個性は白人の国家と、黒人特有のリズム、ブルースのスタイルを融合させ、永久にアメリカの大衆文化の様相を変えてしまった。彼は、祖国アメリカの活力、自由、気質を世界の人々に植え付けるシンボルだった。」と語った。ジェームズ・ブラウンは「彼は白人のアメリカ人に目線を下げるということを教えた」という言葉を書き残している。

アメリカ内務省長官のゲイル・ノートンは2006年3月27日にエルヴィスが約20年間を過ごした、アメリカ合衆国テネシー州メンフィスの邸宅「グレースランド」を国の国定史跡に認定した。認定の式典は一般公開で行われ、娘であるリサ・マリー・プレスリーも出席した。
★死後
エルヴィスの急死後、その肖像権は非常に危うい位置にあった。彼はステージ以外の事は人任せであった。肖像権は一応管理はされていたのだが杜撰だった為、金儲けの道具とされ、エルヴィスのイメージを損なうものであっても簡単に商品化出来る状態だった。死去後まもなくして遺族らが膨大なエルヴィスの物的財産を管理する組織を結成、肖像権も管理しようと訴訟を起こした(当時、亡くなった有名人の肖像権の取り扱いは帰属等がはっきりしていなかった)。遺族らは勝訴し、肖像権を手に入れ、以後今日までしっかりと管理されている。

肖像権が管理できるようになって、エルヴィス・プレスリーという名を使い現在まで様々なプロジェクトを世界に向かって発信してきた。エルヴィスのキャリアはサン・レコードからデビューした1954年から死去する1977年である。エルヴィス自身は、もし僕が死んだらファン達は僕の事などすぐに忘れるだろうね、と語っていた。本業の歌の部門では、数多くの未発表テイクが発掘されている。

最近の話題だと新編集された曲が2002年FIFA World Cup KOREA/JAPANの公式テーマソングになったり、未発表映像も発掘され、1968年のTVスペシャルや1973年のアロハ・フロム・ハワイのアウトテイクを収録した完全版がリリースされ好評だった。その他、側近や友人、家族らが語るエルヴィスの人物像に焦点をあてた物や、エルヴィスのゴスペルに対する思いを映像化した物もある。


エルヴィスの物まねタレントそれ以外にもエルヴィスをモチーフにした映画の製作や彼の曲が数多くの映画の挿入歌に使用される事も多い。エルヴィスに因んだセリフも数多くの映画の中で聞くことが出来る。ブロードウェイのミュージカルにも取り上げられる等、そのような話題はとどまる事を知らない。

エルヴィスの物まね、または成りきる(演じる)事を生業とする人々が世界に存在し、その数は数百人と言われている。また、エルヴィスを尊敬するアーティストも多く、そのようなアーティスト達が一堂に会したトリビュート・コンサートが実現した。

更に1997年には新たなる試みとして、エルヴィスのコンサート映像を使用し、それにあわせて当時のバンド・メンバーが演奏する「ELVIS THE CONCERT(エルヴィス・ザ・コンサート)」(最近「ELVIS PRESLEY IN CONCERT(エルヴィス・プレスリー・イン・コンサート)」に名称変更された)のメンフィス公演が行われ、以後全米各地のほか、ほぼ年に1回のペースでアメリカ以外の地域でツアーを行っている。

死後、彼の生存説、目撃情報などが相次いで報告された。年をとったエルヴィスを見たという証言がある一方、若い頃そのままのエルヴィスを見たという証言もある。エルヴィスが生きているという確実な証拠には300万ドル〈約3億4000万円〉が支払われる。もちろん、根拠は全くない。
★映画・メディア作品の中のエルヴィス
映画『フォレスト・ガンプ』 - 無名時代のエルヴィスがガンプの家に泊まり、背骨の固定装置を足に着けたガンプの動きにヒントを得て独自のステージパフォーマンスを編み出すというくだりがある。また、劇中でフォレストの母親が「子どもの見るものではない」と当時のエルヴィスに対する親の考えが表されている。
映画『ミステリー・トレイン』(ジム・ジャームッシュ) - エルヴィスのゆかりの地としてメンフィスを訪れる若い日本人観光客のカップルのエピソードが含まれている。女の子のジュンはエルヴィスに心酔している。エルヴィスの亡霊が登場したり、ラジオからエルヴィスの曲が流れたりもする。
映画『スコーピオン』という映画では主人公ら5人の強盗グループがラスベガスで開催されているエルヴィス・プレスリーそっくりさんコンテストの会場にジャンプスーツ姿で現れ、騒ぎに乗じて金を盗み出す場面がある。
映画『ババ・ホ=テップ』(2006)(Bubba Ho-Tep)(邦題「プレスリーVSミイラ男」)という映画の主人公はブルース・キャンベルが演ずるエルヴィス。エルヴィスは現在も、人知れず南部のとある老人ホームで余生を送っており、1977年に亡くなったのは実はそっくりさんだったという設定。
映画『ハートブレイク・ホテル』(1988年、クリス・コロンバス監督、デヴィット・キース、チューズデイ・ウェルド、チャーリー・シュラッター)、映画『グレイスランド』(1998年米、デヴィッド・ウィンクラー監督、ハーベイ・カイテル)など、プレスリーに対するオマージュを描いた映画作品は多数ある。
映画『フルハウス』 - 大のエルヴィス・ファンであるフルハウス#ジェシー・カツォポリスが主役。作品の随所にエルヴィス関連のネタが登場する。1度だがラスベガスへ行ったときには「ラスベガス万才」と同じ空撮の映像にジョン・ステイモスが歌った「Viva Las Vegas」が流れる。また、まだ母体の中に居る段階の子供に生まれるまでずっとエルヴィスの曲を聞かせようとしたり、子供部屋の装飾を全てエルヴィスグッズにしようとするエピソードもあった(結果的には未遂に終わるが)。また初期はエルヴィスを模した髪形をしていた。
TVシリーズ『俺がハマーだ!』- プレスリー似た者コンテストの優勝者が次々と撲殺される事件が起き、おとり捜査のために主人公ハマー刑事がコンテストに出場するエピソードがある。
ジャック・ウォマックの小説AmbientやElvissey(ともに未訳)で描かれる近未来世界では、エルヴィスの復活を信じるE教会(the Chirch of E)という宗教が登場する。Elvisseyでは、E教会の信者たちが、エルヴィスのそっくりさんファッションに身を固めて、"Elcon"という集会を開催するシーンがある。
★豆知識

☆パーカー大佐
エルヴィスは終生アメリカ、カナダ以外でコンサートを行っていない。(海外での公演を許さなかった理由は、移民であるパーカー大佐がアメリカの永住権を所持しておらず、カナダを例外としてアメリカ国外へいったん出国すると再入国を許されない事態を恐れた為だったと言われている。なお、パーカー大佐の出身国に残してきた家族がエルヴィスに付き添う姿をテレビで見て仰天したという逸話が残されている。)
その為、パーカー大佐は世界の公演希望に応えるため、衛星中継という方法で、ナマのエルヴィスを世界へ送った。日本のゴールデンタイムにあわせて?ハワイ時間深夜1時からコンサートを開始した。また、チャリティ・ショーだった為、エルヴィスをはじめバンド・メンバーはノーギャラでコンサートを行った。この公演の収入は全て、クイ・リー癌基金へ寄付された。この公演のチケットには値段が付いておらず、客が献金したい分だけ払えば、購入することが出来た。6000席の会場で7万5000ドル集まったわけだから、1人あたり12ドル50セント支払った計算になる。
「アロハ・フロム・ハワイ」の記者会見でパーカー大佐は1000ドルを寄付(チケット購入)した。
エルヴィスはパーカー大佐に対する不満をメンバーたちに漏らしていた。しかし、エルヴィスはパーカー大佐をクビにすることはなかった。
離婚の財産分与の資金捻出のためという名目でパーカー大佐はエルヴィスの楽曲の権利をRCAへ売り渡した。これは将来的に見ても大損な取引だったが、パーカー大佐自身がギャンブルで大損を出していたため、手っ取り早く大金を得るためにエルヴィスに伝えないで独断で売った。
離婚に必要な資金は175万ドルでエルヴィスならすぐに回収できるであろう金額だった。
エルヴィスがお金がなくなっていったのはこの権利で手に入る印税を受け取れなかったことが関係している。
☆楽曲のエピソード
公式リリース音源の数は800曲を超える。
「エルヴィス・オン・ステージ」の冒頭で見られる観客は1970年8月の公演のものではない。冒頭の観客の映像は8月にラスヴェガスの行われたホテルでのショウのものではなく、9月にフェニックスで行われたショウである。
1970年8月12日のミッドナイト・ショーでエルヴィスはレイを貰ったが、すぐに切られてしまい「誰か僕のレイを切っちゃった」とMCしていた。
「監獄ロック」(楽曲)は曲のスピードがオリジナルテイク(収録したそのままの状態)から半音分落ちている。これはレコード/CDで発売されている曲と「クローズアップ・エルヴィス」を聞き比べれば簡単に認識できる。
「監獄ロック」のダンスシーンの撮影中、エルヴィスの歯に被せてあった銀歯が取れ、誤って飲み飲んでしまう事故が起きた。銀歯は胃に行かずに肺へ行ったため、肺から銀歯を取り出す大手術を受けた。幸い、彼自身にも喉にも影響はなかった。
エルヴィスはストロークが強いため、ギターの弦をよく切っていた。また、サウンドホール上部は傷だらけになってしまっている(下部はピックガードが付いている)。
「今夜はひとりかい?」のレコーディングの際、エルヴィスは雰囲気を出すためにライトを消して収録した。その為かラストで、譜面台に頭をぶつける音が入っている。
「ハウンド・ドッグ」を歌う際には、「僕はまだほんのガキでした」とMCするのがお約束。
ロックン・ロール、リズム&ブルース、ゴスペル・ミュージックの3部門のいずれも殿堂入りした初のアーティストとなった。また、今のところ3度グラミー賞を受賞しているが、3度ともロック部門ではなくゴスペル部門においての受賞であり、エルヴィスは終生この事を誇りにした。
☆性格、嗜好

リチャード・ニクソン 大統領とエルヴィス・プレスリー(1970年)警察官等のバッジ・コレクションをしており、大変な収集家であった。一般人が警察バッジを持つことは許されていない。つまりエルヴィスは警察やその他の機関の資格を取得していたのだ。麻薬の不法所持者を逮捕するために飛行機を止めたり、エルヴィスのバッグを盗んだ男を逮捕したりしている。
1970年12月21日にはわざわざワシントンD.C.にジェリー・シリングと2人で出向き、シークレット・サービスに手紙を手渡した。一市民であるエルヴィスから大統領にあてた手紙である。その40分後、補佐官から「大統領が合いたい」と電話があった。ホテルに到着したソニー・ウェストが合流し3人でホワイトハウスへ行き、リチャード・ニクソン大統領に会った。右のツーショット写真はその際撮影されたものである。この時、エルヴィスは「ロックが麻薬使用に影響しているとは思わないが、責任は感じている」といい、麻薬取締官の資格を与えられた。翌週、エルヴィスはそのバッジをみんなに見せびらかせて回った。
酒も煙草もやらない。たまに葉巻を吸う程度である。「オン・ステージ」で観客から酒を渡された時も、口を付けるだけでほとんど飲んでいない。ステージ上で飲んでいるものは水かゲータレードである。
コーヒーや炭酸飲料、ピーナッツバターとバナナのサンドイッチが大好きで、毎日の様に食していた。ただし、このサンドイッチはさらに多量のバターをひいたフライパンで焼いた物であり、当然ながら高カロリーな食べ物で、エルヴィスが三十代以降体調を崩して行く一因になったのではないかという指摘もある。
70年代のエルヴィスは真っ白なジャンプスーツが思い出されるが、それ以外にも紺や青、水色、赤などのジャンプスーツも着ている。
70年初期のジャンプスーツは動きやすさを念頭に置いたシンプルな衣装であった。それがどんどん派手になっていき、ケープまで登場した。金やダイヤモンドやルビーなどを施したジャンプスーツは25kg以上にもなっていた。
エルヴィスは友達だと思った人間には尽くすタイプだった。反対にエルヴィスのお金や贈り物を求めて近付いてくる人間には、その姿勢に気付き距離を置いていたようであるとバンド・メンバーは回想している。
ステージでの華やかさからは気付きにくいが、エルヴィスはシャイでテレ屋な性格であった[要出典]。レコード会社の門を叩けずに、入り口付近でウロウロ、ソワソワしていたこともあったようだ。「初舞台の時には死ぬほど緊張した。観客の声が怖かったんだ。」との言葉も残っている。
エルヴィスはまるで日課のように多方面、数え切れないほどの多くの団体に寄付した。殆どが非公式や匿名で行われたものだった為、はっきりと把握出来ていない。ホノルルのパール・ハーバーにあるアリゾナ記念館はエルヴィスが1961年に行ったチャリティ・ショーによって建てられたものである。エルヴィスによると「1日100万ドル使い続けても使い切れない」そうだ。友人には車や宝石を頻繁にプレゼントした。
エルヴィスはジェイムス・ディーンの大ファンである。ディーンの代表作理由なき反抗の台詞を全て覚え、周りを驚かしたこともある。彼が俳優を目指した一因でもある。ちなみにエルヴィスの代表作闇に響く声は、ディーンのために書かれた作品であった。評論家たちはこの作品のなかで、エルヴィスの映画の中で最良の演技をしたと言った。
☆メンバー
70年代のエルヴィスのバックバンドを勤めたベースのジェリー・シェフはエルヴィスから要請が来た時、最初は断るつもりで対面した。ジェリーはブルース以外の音楽には興味がなかったからだ。その場のセッションでエルヴィスがブルースをいじり始め、ジェリーはその歌い方に感銘を受け、バンドに参加する決心をしたという。しかし、ジェリーが本当に心を魅せられたのはエルヴィスの温かい人柄であったという。雑用スタッフも決して邪険にせず、この曲は嫌いなどということも無かったという。
エルヴィスはジェリー・シェフにブルースのソロを振った際、ジェリーはブルース以外の曲も演ろうと思い(公演で何度もブルースは弾いてきたので)アドリブでケイジャンを弾いた。それ以降、メンバー紹介の際には「フェンダーベースのジェリー・シェフです。今夜は何を演ってくれるのでしょう?」とMCするようになった。
ピアノのグレン・ハーデンはエルヴィスがリハーサルしていない曲をソロで振ってくることがあったため、それ以来、エルヴィスにソロを要求されると思われる曲を練習していたという。
エルヴィス復帰後のショーでリズムギターを勤めていたジョン・ウィルキンソンは元々は歌手であった。エルヴィスは休憩時間などにジョンに歌ってもらい、リラックスしていたようである。1990年代に左半身不随になり、2度とギターは弾けなくなってしまった。
エルヴィスの友人で警備担当であるケネディ警部補が同じく警官であった弟を亡くした時、エルヴィスは葬儀の資金を全額負担し、バックコーラスであったJ.D.サムナー&スタンプス・カルテットにゴスペルを歌わせた。葬儀の際に野次馬で式が邪魔されるのを避けるため、エルヴィスは警官の制服を着用し、他の参列した警官と共に式に出席した。
スコティ・ムーアは“エルヴィスの葬儀は見世物ショーになるだろう”と感じ、式に出席しなかった。
70年代、エルヴィスがツアーをはじめた時、ツアー先から「黒人娘(ザ・スウィート・インスピレーションズのことを言った。実際にはもっとひどい言い方をされた)は連れてこないでくれ。」と連絡を受けたことが度々あった。エルヴィスは「彼女たちを来させないなら僕も行かない。」と言い張り、向こうが謝罪し、多額のお金を積んだが、絶対に行かなかった。
ライヴ中、ある観客が「あなたはキングよ!」と叫んだことがあった。そのときエルヴィスは「いや、キングはイエス・キリストだ」と答えた。
☆その他
2006年6月29日、グレイスランドに向かう当時の内閣総理大臣小泉純一郎
元自家用機のコンベア880「リサ・マリー」日本の小泉純一郎元首相が大ファンであり、エルヴィスと誕生日が同じである。ブッシュ大統領と共にグレイスランドを訪ねた。このとき遺族から借りたサングラスを元首相ははめておどけて見せた。
現在グレイスランドには元自家用機のコンベア880「リサ・マリー」が展示されているが、世界でも数機しかないコンベア880の現存機の内の1つでもある。
メンフィスのグレイスランドの前の通りはエルヴィス・プレスリー・ブールバード(大通り)という。
世界中のエルヴィスのファン、ファンクラブからの募金のみで運営している病院がある。その病院はメンフィスにあるエルヴィス・プレスリー記念病院である。
エルヴィス・プレスリー・エンタープライズは映画やテレビでエルヴィスが間違った認識で扱われること、ある一面だけを大きく取り上げられることにピリピリきている。そのため、エルヴィスを好意的に捉える映画やテレビには積極的に協力し、使用料も比較的安くしてもらえる。
1965年8月27日に、ロサンゼルスのエルヴィスの邸宅でエルヴィスとビートルズは一度きりの会見を果たす。ビートルズのマネージャーであるブライアン・エプスタインとエルヴィスのマネージャーであるパーカー大佐の間での極秘の打ち合わせという名目だったが、案の定自宅周辺には野次馬が集まった。対面の場では、登場したエルヴィスの姿に見惚れしたメンバーに対し、即興演奏が始まった。エルヴィスは習いたてのベースを演奏し、ジョンとジョージはギター、ポールはピアノを演奏した。リンゴはドラムキットが無かったため演奏してはいない。エルヴィスは彼らの曲も歌い、「君たちのレコードは全部持ってるよ」と言った。ジョン・レノンは「僕はあなたのレコードは1枚も持ってない」と発言したことからその場が凍りついた。そしてその会見に実際に立ち会ったという、記者クリス・ハッチンスによればジョンはエルヴィスのベトナム戦争に賛同する姿勢と、彼のマンネリ気味であった映画を痛烈に批判したということらしい。エルヴィスがジョンを嫌うようになったのはこれらの事がきっかけであった。(ジョンは以前もアメリカに公演に来た際、エルヴィスを馬鹿にするような行動をとった)エルヴィスはジョンがアメリカに住むようになった頃、大統領にジョンを追放してほしいと手紙を出したとも言われている。そしてなにより惜しい事は、当時音楽界に於いて最も注目すべきこの会見を録音したテープが存在しないことである。
モハメド・アリと交流があり、彼に金色のマントを送ったが、それを初めて着用して登場した試合で敗れたので、以後2度と着用することはなかったが、アリはそれを大事にした。アリは金色のマントをもらったので、お返しにエルヴィスに金色のアリのサイン入りグローヴを送った。エルヴィスもこれを大事にした。部屋に篭りがちだったエルヴィスに、アリが外に出てファンと交流した方がいいとアドバイスした所、エルヴィスは「もみくちゃにされるから外に出られない」と答えたという。ファンサービスが大好きだったアリは後年「エルヴィスは解ってなかった。ファンは誰もエルヴィスに危害を加える気は無かったんだ」と語っていた。だが実際はメンフィス・マフィアがエルヴィスとファンの間に壁を作り、エルヴィスをホテルの最上階に閉じ込めて、窓ガラスに銀紙を貼り、隔離していた。エルヴィスが死に、自身も引退した後、アリは親友のカメラマンに「俺が通りを歩いてて、向こうの通りをエルヴィスが歩いてたら、人はどっちに注目すると思う?」と訊ね、カメラマンが「難しいな。外国じゃあんただが、国内(アメリカ)じゃエルヴィスじゃないかな」と答えた。するとアリは「そうだろうな。エルヴィスは大分前に死んだから、人は彼が本物かどうか確かめようとするだろうな」と語ったという。
F1チームだったB・A・Rの元オーナークレイグ・ポロックがかなり古いハーレー・ダビッドソンを約60万円で購入したところ、すぐ故障したので修理に出しシートを開けたらシートの裏に”親愛なるジェームズ・ディーンへ エルビス・プレスリー”と書かれており、プレスリーからジェームズ・ディーンへプレゼントされたものとわかった為オークションに出展したところ、およそ1億2千万円の値がついた。
チャペルチャペルチャペル8月16日!!、今日は!KINGの!ELVISの!命日だ!チャペルチャペルチャペル


ザッツオーライママ!を歌お〜か〜。
いやいや!、終戦記念日もあった事だし・・・
G.I BLUESを歌おうか〜。
と、語るG.I JOE(兵隊の人形)

上のELVISの人形は・・・、首だけが販売されてて
色んな人形に、無加工で取り付けられるとか・・・らすぃ・・・
下は、G.I JOEで、ハンバーガー喰ってるのは・・・、謎。
これもG.I JOEかな〜??。
わからないジョ〜あせあせ(飛び散る汗)
>YMYM≠モトキさん
おいっす!モトキちゃ!おひさしじゃな〜ん☆
モっちゃんは、携帯YouTube観れた!?
詳しくは、このコミュの「こいつを観ないと・・・」ってトピを参照してみてください。
ビリー親父さんのコメントを熟読です!☆

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