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ForumJaponコミュのユルスナールの、『源氏物語』観(転載)

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 承諾が得られましたので、ここにユルスナールの『源氏物語』観等を、如月さんの掲示板から転載します(下記URLより、どうぞ参考に…)。ちなみに、たしかユルスナールは、初めての、アカデミー・フランセーズ女性会員でしたね。それから、以下の投稿にもあるように、ガレーによるユルスナールへのインタビュー記録、『目を見開いて』(邦訳=白水社<ユルスナール・セレクション6>、岩崎力訳、 2002年)が、如月さんの引用元です。
http://www.furugosho.com/cgi-bin/newbbs/yybbs.cgi?

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ユルスナールの『源氏物語』観 投稿者:如月 投稿日:2007/02/12(Mon) 00:24 No.4526

 親鸞教団についての研究を横ににらみながら、実は先日からマチュー・ガレーによるフランスの女流作家マルグリット・ユルスナールへのインタビュー記録『目を見開いて』(邦訳=白水社<ユルスナール・セレクション6>、岩崎力訳、2002年)を読んでいる。
 ユルスナールはもともと私がとてもすきな作家で、このインタビュー、全体がとてもおもしろいのだが、なかで、彼女が『源氏物語』についてふれた箇所を紹介してみよう。
 ちなみにユルスナールは、短編集『東方綺譚』のなかで、『源氏の君の最後の恋』のタイトルのもと、『源氏物語』では題名のみ記され省筆された「雲隠」の巻を想像で書いている(邦訳は白水社<ユルスナール・コレクション4>に収載)。ユルスナールの来日に立ち会った渡辺一考さん(despera 亭主)によれば、日本での彼女は、『源氏物語』のことだけをしきりに気にしていたという。
 インタビュー集のタイトル『目を見開いて(Les yeux ouverts)』が、ユルスナールの代表作『ハドリアヌス帝の回想』(邦訳は白水社<ユルスナール・コレクション1>に収載)の結びに引用されたハドリアヌスの詩によっていることは言うまでもない。

   *    *    *

 ガレー「日本文学を発見なさったのはいつごろですか?」
 ユルスナール「非常に早く、20歳ごろでした。フランス語に訳されたものはほとんどありませんでしたが、英語には訳されていたので、英訳でたくさん読んだのです。たとえばアーサー・ウェイリーの『源氏物語』のように、すばらしい翻訳があります。
 フランス語の新訳は、文法に関してとても興味深い原則にのっとって構築されています。その原則というのは、要するに訳文をフランス中世の文体に近づけようとするものなのですが、私としては全面的に賛成するわけにはいきません。たしかに一理ある考えではあります。ただ私には、原文と私たちのあいだに、私たち自身の中世趣味を介在させない訳文のほうが好ましいのです。一種の力業なのはたしかですが、私は半分満足という状態にとどまっています。ヴィクトル・ベラールによる『オデュッセイア』の翻訳も同様で、ペネロペーは女城主になり、しかじかの人物は馬係になっていました。J・M・エドマンズによるギリシア詩の翻訳は実にすばらしいと思いますが、ルネサンス期のイギリス田園詩に想をえているテオクリトスの翻訳は好きになれません。」
 ガレー「『源氏物語』という日本の小説のなかで、なにがとりわけあなたを引きつけたのですか?」
 ユルスナール「女性の登場人物の複雑さ、光源氏という主人公の、さまざまな女性との関係や、それらの女性たちの多様さにたいする感覚、さらには彼女たちにたいする自分の感情の多様さへの感覚、そういったものから見てとれる並外れた繊細さ、鋭敏さによって、これは私の知るかぎりもっとも豊かな小説のひとつです。そしてふたたび私たちは、あるときは同情愛に、あるときは共感愛に、さらにはまた遊戯愛に引き込まれるのですが、いずれも堂々としたもので、この国の文明はそこに、ベッドでの手管以外のあらゆる芸術、詩、音楽、絵画、書道、香道、さらには目に見えぬものとの接触さえ重ね合わせているのです。」
 ガレー「西欧文学のなかに『源氏物語』に似ているものがあるとしたら、どんな作品でしょう?」
 ユルスナール「似ているものは全くありません。男女関係の心理のみならず、事物の浮動、時の移ろいにたいする深い感覚についても、それらの愛の挿話の数々が悲劇的であると同時にはかなくあえか(ママ、転載者・注「あでやか」か?)なところを見ても、信じがたいほど繊細な作品なのです。書き出しはみごとです。帝は更衣を失ったのですが、彼女は朝廷で絶大な権力をふるう一族の出ではないだけに、宮廷の陰謀やライヴァルたちに精神的に苦しめられたあげくの死でした。そこで帝は女官のひとりを遣わし、亡き更衣の年老いた母と、更衣とのあいだにもうけた幼子がその後どうしているか、尋ねさせます。帰ってきた女官はことこまかに話しますーー多かれ少なかれ打ち捨てられた家、家のなかに漏れ落ちる雨、荒れ果てた庭、涙にかきくれるばかりでなにひとつ説明できない老母、それにひきかえ、逆に陽気で生気にあふれ、非常に美しい男の子などのことを。世代の移り変わり、彼らの孤独、そして同時に生と死を通して彼らを結びつける絆、それらをめぐる感情がみごとに表現されています。
 もっとも敬服する作家は誰かとたずねられるとき、すぐさま心に浮かぶのは紫式部の名前であり、同時に並外れた敬意と畏敬の念をおぼえます。それは真に大作家であり、11世紀の日本、つまりこの国の文明が頂点に達した時代の、実に偉大な女流作家です。要するに、彼女は日本中世のマルセル・プルーストなのです。社会的変動、愛、人間のドラマ、不可能に立ち向かう人びとの流儀などに関する感覚を備えた天才的女性です。世界じゅうのどんな文学でも、これ以上の作品はありません。」(上掲書135-7頁)

宗教に関するテクストと民衆 如月 - 2007/02/12(Mon) 13:17 No.4529

 ヨーロッパの民衆の信仰とテクストの問題について、ユルスナールは次のように指摘しています。

 ガレー「(古代人は)死すべきものとわかっている神々を、どうして信じることができたのでしょう?」
 ユルスナール「いつかは死ぬはずの誰かの存在を、私たちはどうして信じることができるのでしょう?私たちは、人びとの形と個性がいずれ消滅することを受け入れています。さしあたり彼らは現にいま存在し、愛されているのです。
 『冠と竪琴』への序文で、ギリシアの宗教について少し述べようと試みたとき、ひとつ気づいたことがありました。神々に関する文学的、哲学的テクストは、教養ある階級の人びとによってしか書かれず、読むのもそういう人たちだけだったということです。民衆の信仰は、おそらく古代世界の終わりまで、昔のままにとどまっていたのだと思います。信徒の群れは自分たちの神々に祈りつづけ、結局キリスト教中世の正教にまで生きのびたのです。」(前掲書307- 8頁)

 こんなことを書くと突拍子もないと感じる人も多いと思いますが、私は、ここでユルスナールが言っていることは、峰岸純夫さんの次の指摘にとても近いように思えるのですね。

 「浄土信仰の広がりを、旧仏教(顕密八宗体制)の枠のなかで把握するか、あるいは浄土系鎌倉新仏教(浄土宗・浄土真宗・時宗)とみるか、大きな問題であるが、その枠組はむしろ教団・教派の側の問題であって、広範な民衆を含む多くの人びとの世界では、旧・新にこだわらずに汎浄土的信仰の「風土」が形成されていたと考えてよいのではないかと思われる。」(峰岸純夫「中世東国の浄土信仰」260頁〜『中世東国の荘園公領と宗教』<吉川弘文館、2006 年>所収)

ユルスナールの死生観 如月 - 2007/02/13(Tue) 00:33 No.4531

 上に引用した、『源氏物語』についての言説、信仰とテクストについての言説は、『目を見開いて』をとおして明かされるユルスナールの思想のほんの一部、それも本質からは少しかけ離れた逸話的な部分に過ぎない。
 作品が生まれるまでのプロセスについてのインタビューが終わった後半から、作品とユルスナールの関係をめぐって、この本はさらに盛りあがっていく。
 そしてその最後、インタビューはパートナーを失い、老境を迎えたたユルスナールの死生観にと迫っていく。

   *    *    *

 ユルスナール「他の人びとの苦痛、心配ごと、病気、私たち自身のそれ、他の人びとの死、自分の死を受け入れさえすれば、それらを生の自然な部分にすることができます。たとえば私たちのモンテーニュのように、西欧にあって道教の哲学者にもっとも似ていたかもしれない人もそう考えたはずです。その人を反神秘主義者とみなすのは浅薄な読者だけです。死、それは生の最後の形…
 その点についていえば、私の考えはユリウス・カエサルの考えと正反対です。彼はできるだけ時間をかけずに死にたいと願っていたのですから(そしてほぼそのとおりになったわけです)。私としては、意識を完全に保ったまま死にたいと考えています。病気の進行が充分に緩慢で、いわば私の死が私のなかに入り込み、全体に広がる時間を与えたいのです。」
 ガレー「なぜですか?」
 ユルスナール「生から死への移行という最後の体験をしくじらないためです。ハドリアヌスは目を見開いたまま死ぬことについて語っています。私がゼノンに彼の死を生きさせたのも、そう考えてのことです。」
 ガレー「ベルゴットの死を自分のそれと重ね合わせて描いたプルーストに通じるとも言えますね…」
 ユルスナール「彼がそういうことを試みたのは、私にもとてもよくわかります。自分自身の死をそのように利用するのは、小説家の一種のヒロイズムです。私にとって大切なのはむしろ、ある本質的体験をしくじらないことなのです。誰かからその死を奪い取るのは憎むべき行為だと考えるのは、私自身そういう本質的なことを体験したいと思っているからです。アメリカでは医療界全体が驚くほど誠実ですが、フランスでは医師たち、とくに家族がしばしば、病人につまらぬ隠し立てをして時間を無駄に過ごしています。私はそういう態度に賛成できません。逆に私は自分の死を準備する人びとを愛し、尊敬します。」(上掲書 377-8 頁)

夏の空のような空虚 如月 - 2007/02/15(Thu) 11:48 No.4534
 ユルスナールの死についての考え方、直前から続けます。

   *    *    *

 ガレー「そうすると自分の最期を絶えず身近に感じながら生きざるをえなくなりますね。」
 ユルスナール「たいへんけっこうなことです。自分の死のことを友情こめて考えなくてはならないのです。たとえそうすることにいくぶん本能的嫌悪を感じるとしても。動物たちがそんなことを考えないのは事実です。でもそれだってどこまで本当なのか!自分の死を予見する動物がいるのは明らかなのですから。」
 ガレー「それにしても、そういう移行を前にして、人は全く無防備ですね。」
 ユルスナール「あんまり無防備なので、もしかしたら最後にめそめそしたり恐怖に駆られたりするかもしれません。しかしきっとそれは、船酔いのように単純な肉体的反応にすぎないのです。重要な受容は、その前になされているはずです。
 それに、誰にわかるでしょう。もしかしたら、いくつかの思い出が、天使たちのように人を引き受けてくれるのかもしれません。チベットの神秘思想家たちは、死んでいく人たちは彼らの信じるものに支えられるのだと断言しています。ある人にとってはシバやブッダであり、またある人にとってはキリストやマホメットです。純粋な懐疑論者あるいは想像力を欠く人たちには、おそらくなにも見えないでしょう。なにも背負っていなかったマルブルックの四人目の士官のように、あやうく溺れそうになりながら息を吹き返したことのある友人が言っていましたが、そんなときには自分の生涯全体がふたたび見えるという民間信仰は本当だということでした。もしそうなら、ときには不愉快なこともあるでしょう。もっと選択の余地があってしかるべきです。それにしても私は何をもう一度見たいと思っているのでしょう?
 もしかしたらモン=ノワールのヒヤシンス、春のコネチカットのスミレ、南フランスの庭で父が巧みに枝に吊るしたオレンジ、バラの下で崩れかけているスイスの墓地。白樺の木立ちのなか、雪に覆われた別の墓地、場所さえわからない、さらに別の墓地、ということは結局あまり大切じゃないということだけれど。世界の始まりから続いている海の響きの聞こえるフランドルの砂丘、そしてもっとあとのヴァージニアのバリアリーフのそれ。スイス製の別にどうということもない小さなオルゴール。ピアニシモでハイドンのアリエッテを奏でるそのオルゴールを、グレースの死の一時間前、手でさわっても話しかけても、もう彼女には伝わらなくなったとき、私は枕元でそれを鳴らしたものだった(中略)。
 私はこういったイメージをばらばらに列挙するだけで、それらを象徴の域にまで高めるつもりはありません。それに、想像された顔や、歴史から取り出された顔といっしょに、生死を問わず友人たちの顔もいくつか付け加えなければならないのも確かです。
 あるいはもしかしたら、いまあげたものからなにひとつ選ばれず、三島が死の数時間前に書き終えた最後の小説で、80歳をこえた本田老人が最後に眺める青く白い大きな空虚だけなのかもしれない。炯眼な裁判官である彼は、同時に、言葉のもっとも不都合な意味で、のぞき魔でもあります。それは夏の空のように、燃え上がってものみなを焼き尽くす空虚であり、それに比べれば他はすべて、もはや亡霊の行列にすぎないような、そんな空虚です。」(上掲書378 -80頁)

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 ユルスナールには、『三島または空虚のヴィジョン』という著作がある(邦訳=澁澤龍彦、ユルスナール・セレクション5所収)。

自分自身の灯火 如月 - 2007/02/18(Sun) 12:24 No.4536

 直前に引用・紹介した発言の続きです。インタビューは終結に近づきます。

   *    *    *

 ガレー「日本の小説からそういう引用をされたのは、偶然ではないかもしれませんね。仏教はあなたに大きな影響を及ぼしているように思えるのですが。」
 ユルスナール「私にはいくつかの祖国があるように、いくつかの宗教があります。ですから、ある意味で私はそのどれにも属していないのかもしれません。たしかに私は、正義に飢えている人びとの願いは満たされるであろう(それがあの世においてであるのは確かです。私たちの現実の世界では、そうは言えないのですから)、心の清きものは神を見るであろうと言った人、そしてその報いに十字架にかけられた人を否定しようとは思っていません(「おお、おお、私はときおりそのことを考えると震えてしまう」ーーもっとも美しい黒人霊歌はそう歌っています)。といって私には道教の叡智をあきらめるつもりはありません。その叡智は、あるときは明るく、あるときは暗い色をおびるとはいえ、つねに澄みきった水のようで、その奥から事物の奥の奥が見えてくるのです。タントラ教と、精神と肉体の力を目覚めさせる、ほとんど生理的ともいえるその方法に、そしてまた光り輝く刃と言ってもいい禅に、私は感謝しています。それらは私自身について数々の貴重なことを教えてくれましたし、それらの研究を企て、実行し、続行することもできたからです。とりわけ私は仏教の知識に深い愛着をおぼえます。さまざまな宗派を通してそれを学びましたが、それらの宗派は、キリスト教のもろもろの教派と同じく、相互に矛盾するというよりお互いに補完するものと思われます。仏教の説く、生あるものすべてへの憐憫は、しばしば狭きにすぎる私たちの慈悲の概念を豊かにしてくれるだけではなく、また、ソクラテス以前の哲学者たちと同じく、移ろい行くものである人間を移ろい行く世界に置きなおしてくれるだけではなく、ソクラテスと同様に、野心的な形而上学の空論に陥らぬよう私たちに警告し(とはいえ、それに身を委ねながらであるのは言うまでもありませんが)、とりわけ私たち自身をよりよく知るように促してもくれるからです。さらにはまた、仏教の説く慈悲は、もっとも大胆なものと信じられている近代哲学に劣らず、自分自身にしか頼らないことの必要性を強調し、「あなた自身の灯火であれ…」と述べています。」(上掲書380-2頁)

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