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カナダの歴史と政治コミュのポーリン・ジョンソン

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Emily Pauline Johnson (Tekahionwake)(1861−1913)

 オンタリオ州ブラントフォード郊外のシックスネイションズ・インディアンリザーブで、モホーク族の酋長ジョージ=ヘンリー=マーチン・ジョソン(オンワノシション)と、イギリス人宣教師の娘エミリー・ハウエルズの間に生まれる。父マーチンの家は代々酋長だったが、彼自身も白人とインディアンの混血で、インディアンの血が半分未満になると酋長にはなれなくなるため両親に結婚を反対され、エミリーの両親もインディアンとの結婚に反対した。しかし二人の結婚生活は幸福だったという。
 英語のほかに八か国語を話したというマーチンは、ポーリンに読書を勧めた。また酋長だった祖父スモークが聞かせたインディアンの民話は、後の彼女に大きな影響を与えた。子供のころから詩を詠んでいた彼女は、わずか4年の学校教育を受けたに過ぎないが、12歳のときニューヨークの雑誌に彼女の詩が掲載されている。
 当時白人は、インディアンの土地の材木を粗悪なウイスキーとの不法な交換で伐採させていたが、深刻な森林破壊が起こり、また歴史的に酒を知らなかったインディアンの間でアルコール中毒が急増していった。そこでマーチンはインディアン居留地での酒の販売を禁止しようとしたが、白人業者の恨みを買い、リンチに遭ったのが原因で1884年、帰らぬ人となった。その後一家の生活は困窮を極め、ポーリンは詩を書いて売りに出すようになったが、後に彼女の代表作となった「我が櫂の詠える歌」は3ドル、「鞭と銃」はたった75セントと、彼女は31歳までに詩でわずか500ドル稼ぎ出したに過ぎなかった。
 1892年、著名な詩人たちとともに招かれた「ヤングリベラルクラブ」主催の詩の朗読会がポーリンの人生を変えた。全く無名だった彼女の「インディアン妻の嘆き」が最も好評を博したのだった。そこでクラブの主宰フランク・イーは、ポーリンの朗読リサイタルを企画したが、それは彼の発案により、インディアンの民族衣装を身にまとい、インディアン名「テカヒオンワケ」(「小春日和の霞」の意)を名のり、身振り手振りを加えながら朗読することだった。鹿皮のドレス、深紅のブランケットを身にまとい、烏の羽根を髪に差し、首には熊の爪の数珠のネックレス、銀のブローチ、腕には貝殻のブレスレット、腰には短剣……テレビもラジオも映画もなく、劇場しか娯楽がなかった時代、彼女は詩にビジュアル性を加味したのである。そしてカナダの人々は、民族衣装を着てインディアンの風俗を(英語で)語るポーリンに強く興味を惹かれたのだった。
 ポーリンの「白い貝殻玉」「火打ち石と羽飾り」「我が櫂の詠える歌」は、それまでカナダで作られた詩の中で最も有名なものとなった。マーガレット・ローレンスの自伝的短編集「家の中の小鳥」の中には、バネッサがポーリン・ジョンソンのファンで、「我が櫂の詠える歌」を朗詠しているシーンがあるほどである。ポーリンは1894年と1906年にイギリス講演、1907年にはイギリス・アメリカ講演と、生涯125を越えるリサイタルを開催した。晩年はバンクーバーに移住し、インディアンの酋長から聞いた民話をもとに1911年「バンクーバーの伝説」を刊行している。「ロスト・ラグーン」(失われた潟)は彼女の命名によるものである。1913年に亡くなった彼女はスタンレーパークに葬られ、1922年には記念碑が建てられ「ポーリン・ジョンソン・メモリアル」となっている。


写真左:民族衣装を身にまとったポーリン・ジョンソン。
写真中:少女時代のポーリン・ジョンソン。白人にしか見えない。
写真右:ポーリン・ジョンソン・メモリアル(バンクーバー)。

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 ポーリン・ジョンソンは一般に「インディアンの文化と歴史を詠ったインディアンの詩人」と考えられている。彼女の詩「インディアンの男たちが死ぬとき」は、イロコイ戦争でヒューロン族に捕らえられたモホーク族の酋長が、寝返りをよしとせず自ら名誉ある死を選ぶ行為を称えた作品である。これは一見、インディアンであるポーリンがインディアンの戦士を称えているように見える。だがよく考えてみると、戦っている相手もインディアンだということに気がつくだろう。ではなぜ、ポーリンはモホーク族の酋長を称えたのだろうか。答えは簡単である。彼女自身がモホーク族であるということと、ヒューロン族がフランスと同盟したのに対し、モホーク族はイギリスと同盟しており、彼女の血の4分の3がイギリス人だからである。
 「インディアン妻の叫び」は、ノースウエストの反乱を詠った詩である。これはメティスがカナダ連邦政府に叛旗を翻した事件だが、メティスとはインディアンとフランス人の混血のことである。ポーリンはここでも当初メティスに同情を寄せているように見えるが、その後「だが待て。ユニオンジャックに手向ってはならぬ」と詠んでいる。
 ここでポーリンのあまり有名でない詩「カナダ」を紹介しよう。

 “Canada”
Crown of her, young Vancouver; crest of her, old Quebec;
Atlantic and far Pacific sweeping her, keel to deck.
North of her, ice and arctics; southward a rival's stealth;
Aloft, her Empire's pennant; below, her nation's wealth.
Daughter of men and markets, bearing within her hold,
Appraised at highest value, cargoes of grain and gold.
[和訳]
錨頂は若きバンクーバー、紋章は古きケベック、
寄せる大西洋と遥かな太平洋は、甲板を支える竜骨。
北には氷の極地、南方には敵の隠密、
檣頭には大英帝国の三角旗、甲板下には国の富。
人類と市場の愛娘、その船倉に納むるは、
至上の価値を評さるる、穀物と黄金の積荷。

 カナダは徹頭徹尾、大英帝国を支えるものとして詠われている。彼女にとってはインディアンもまたカナダ=大英帝国に奉仕するものとしか映ってなかったのではないだろうか。差別を克服する最も安易な方法は、差別する側に同化することであろう。「ユニオン・ジャックの旗の下で、諸民族は英国臣民として平等である」、これではまるで「五族協和」、古き良き大東亜共栄圏ではないか。
 ポーリンの作品は全て英語で書かれ、インディアンを自称したがインディアンの言語で書かれた作品は一つもない。これは何を意味するだろうか。そう、彼女は差別される者として、インディアンの文化を白人に理解してほしかったのである。当時英語を理解できるインディアンは稀だったから、彼女の詩は決してインディアンに向けてその文化を誇るものではなかったのだ。
 ある白人女性が、ポーリンの白人的外見を誉め「あなたはまるでインディアンには見えませんわ」と言ったとき、「あなたもまるで白人には見えませんわ」と言い返したという有名なエピソードがある。「インディアンがインディアンのように見えないと言われて喜んでいるのはおかしい」と言いたかったのだろう。だがポーリンは血統的には4分の3が白人であり、現に白人にしか見えなかった。その彼女がインディアンの民族衣装を着て、己をインディアンと称し、インディアンの文化を〔英語で〕詠うというのは、かなり滑稽であろう。
 今日彼女の映像は残ってないが、彼女の詩は今も読むことはできる。しかし本人の肉体が朽ち果てた今、文字によるロジカルな情報だけを読む行為は、文学にビジュアル性を加味した「前衛芸術家」ポーリン・ジョンソンの作品鑑賞として正しい方法かどうかは疑問の余地がある。当時のカナダ人は、インディアンの文化を英語で説明してくれるポーリンが珍しかっただけであり、結局のところ彼女の芸術とは、自分の肉体を見世物にする「縁日の見世物小屋」の出来事でしかなかったのだ。わずか4分の1のインディアンの血のために差別されてきた彼女は、インディアンという立場を着て、インディアンという立場を「踊らされていた」に過ぎなかったのではなかろうか。

 カナダは今や独立国で、大英帝国ではない。ユニオン・ジャックも廃止されメープルリーフに替わり、国王も意味のないものになりつつある。こんな時代に、ポーリンの訴える大英帝国=ユニオン・ジャックへの忠誠は、ひどく時代錯誤に思えてならない。
 クララ・トーマスは「カナダ英文学案内」の中で「今日、ポーリン・ジョンソンの作品は浅くて上滑りな波紋を残しているに過ぎず、その短く消えた名声を思えば、読むだに悲しい思いを誘われる」と述べている。

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