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月刊鼻毛帽子コミュの古きを温め苦虫を噛む

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 探しものをしていると、なつかしい原稿を見つけた。大学を中退した彼は、当時、真面目に働こうと決意していたのだが、思いもむなしく、スピード退社。後ろめたさと歯がゆさが彼を襲い、やがて、それを打ち消すように物語をでっちあげたのだ。
 月日は流れ、彼は偶然見つけたその原稿に目をとおす。結末を読み終え、笑わずにはいられなかった。文章や内容の拙さがおかしかったのではない。自己弁護と正当化、それを詭弁とも知らずに告白する健気さと未熟さに笑ったのだ。彼は久しぶりにオナニーをしようと思った。”原稿を見つけた記念”というわけではなかったが…。


(8128w・全て原文まま)

「ぼくの額」


 ぼくの宇宙についての知識は皆無に等しいのだけれど、その無限なものに比べて、ぼくがどれ程小さいものかということだけは、人一倍承知しているつもりだ。
 その頃、ぼくは二か月あまり働いた会社を辞めたのだった。母親以外の家族の誰一人として、この事実を知らないのだから、ぼくは毎朝決まった時刻に玄関を開けて、上目使いで、小さな小屋の中からぼくの顔を窺う愛犬に手を振り、郵便受けのある門まで十数段余りある階段を下りる動作を繰り返した。出勤前に庭いじりをする隣りの主人に挨拶を交わさなければならないこともしばしばあった。ぼくは門を出てから、自転車の籠の中に、紺色を帯びたトートバックを放り込み、自転車にまたがりペダルを漕ぎ始める……そして、油の切れたチェーンの音を聴くことも、時間的には随分短縮されたのだった。

 その日も、ぼくは執拗に生える雑草の中に、犬の糞が見当たらないことを確かめた上で、自転車を車の脇に停めた。実際に犬の糞を踏んでいないかについては、さして問題ではなく、ぼくにとって一番大切なことは、眠気が覚めないうちに、車の中に腰を下ろすことだけだった。そして、助手席のドアにキーを差し込み、ドアを開けた。

 午前中は空を飛べる夢を観た。予想以上に体力を消耗して目が覚めたぼくは、二度寝はやっぱり夢を観るなー、などと独り言を口にし、ジュースホルダーに置いてあるウーロン茶に手を伸ばしながら、それが前の日から置きっぱなしになっている事を思い出し、行き場を失った手にもう片方の手を添えて、芸術家がいつもそうするように、人差し指と親指でキャンパスを作り、フロントガラス越しに見えるぼくの家をやむなく映しだした。この位置からは、二階部分だけが顔を出す。南に面したベランダに、洗濯物が干してあることを除けば、朝と何も変わらない様子だった。そして洗濯物の中から、ぼくのトランクスの一連を見つけた。ぼくの位置から確認できる枚数は、三枚が限界だった。というのも、どれもこれも同じ様な柄で、詳しく言えばチェックの柄なのだけれど、母親はぼくの承諾も得ず、これが無難だからと言って、定期的に近くのスーパーで買ってきてしまうのだ。ぼくも定期的に文句を言うのだけれど、その実、どうでもいいと考えていたので、いつもうやむやになっていた。
 風になびく、トランクスの清らかさとは裏腹に、車の中は太陽の光を十分に浴びて、むんとしていた。ぼくは、数珠を片手に経文を読む教徒より大袈裟に、暑い暑い暑いと苦悶に満ちた表情で訴え、左手でドアを開けた。ぼくは駐車場を囲む住宅街をゆっくりと見回し、井戸端会議が催されてないことを確認してから外に出た。車の中にトートバックを置き忘れたことに気がついたのは、もうぼくが自転車にまたがり、ペダルを南の方角に向かって五回程漕いだ後だった。明日でいいか、そう言ってぼくは車の中と大差のない、蒸し暑い外気に髪だけなびかせ帰宅した。

 その翌日、犬の糞に気を配りながら自転車を車の脇にとめ、ジーパンの左前ポケットからキーを窮屈に取り出し、ドアを開け、運転席に乗り込んだ。ぼくはいくつかある、駅までの道筋を丹念に頭の中に描きだし、最良の経路はどこかについて素早く頭を回転させ、結局いつもの大通りを選択し、車を発進させた。
 ぼくは大通りにでて、そこかしこを走る夥しい数の車にさっそく嫌気がさし、車通りの少なそうな路地を見つける度に、ハンドルを右や左に、時にはぐるぐる回して、一気にアクセルを踏み込んで、来た道を引き返すという、周りのドライバー達を驚かせるのに十分な離れ業を演じてみせた。しかし本当に驚くべき事はもっと他にあって、例えば、レース鳩がスタート地点から何千キロもある鳩舎小屋に磁場を頼りに、あるいは他の何かによって導かれるように、ぼくも家の裏の駐車場へ導かれ、さっそうと自転車に乗り換え、駅へと続く堤防沿いを軽快に走っていたのだった。そう、ぼくは自転車に乗り換えたのだ。
 というわけで、午前十一時頃になって、ようやくぼくは、駅の近くに辿り着いた。さんさんと照り続く太陽の下、汗が首筋を撫で、喉は渇きを訴える。ぼくは自転車のペダルに両足を預けたまま、自動販売機にもたれ、小銭を入れていく。汗を掻いた後はスポーツ飲料に限る、そう言う間もなくガタンと音がして、取り出し口の透明の蓋の向こうに缶コーヒーが見えた。肘に隠れた二つのボタンの奥にあるディスプレイには、コーヒーと野菜ジュースが並んでいた。ぼくは、自動販売機を扱う上での初歩的なミスに、恥じらいと落胆とを抱え込んで呆然としていた。すると後ろから、何やら小刻みに、足でリズムをとる音が聞こえてきた。ゆっくり振り返ると、随分ルーズなソックスを履いた女子高生が百二十円を手の平に乗せ、ぼくを訝しげに見ている。ぼくはひどく驚いたものの、すぐに愛想笑いを投げかけ、冷静を装い、もう機械的に動きながら、缶コーヒーを取るために屈み込んだ。そしてぼくは、取り出し口に手を入れたのだけれど、缶コーヒーを掴んでしばし考え込んでしまった。万が一、彼女が事の成り行きを全て知っていたらどうだろう。狂言染みたぼくの芝居に業を煮やすのも時間の問題のように思われた。白々しい演技はやめよう。ぼくは、取り出した缶コーヒーを力強く握りしめ、首を振り、そして右手で自動販売機を軽く叩いて、こんなはずではなかった、などと落胆を惜し気もなく披露し、彼女の目を深く覗き込んだ。彼女は首を傾げ、あからさまにぼくを睨みつけ、どういう訳か、彼女が話す携帯電話の相手、ぼくの知らない誰かにぼくを紹介しているようでもあった。ぼくは自動販売機から離れ、自転車を近くの駐輪場に停めた。額の汗や、首筋の汗、新たに加えられた冷や汗は一向に引かず、飲めない缶コーヒーを飲むことを余儀なくされ、ぼくは歩きながら一気に飲み干し、大きなげっぷを一回、小さなげっぷを立て続けに二回したあたりで、さっそくお腹が下り始めたのだった。ぼくの歩幅は徐々に狭められ、一見滑らかさを増す。一回目のピークを超えた。が、ここからが問題だった。ぼくの下痢時における歩行術も二回目のピークの前では成す術もなく、スクランブル交差点を前にして、すでに意識は朦朧とし始めていた……神様どうかお許し下さい。これからは真面目に働きます。いや本当に。

 スクランブル交差点を渡りきった角に四階建ての書店があって、その三階が男性用トイレになっている。その一室でぼくは、恍惚とした表情を浮かべ、安堵の溜め息をつきながら、目を閉じ回想にふけっていた。人の波をかいくぐり猛然と走ったさまや、先の見えない階段を上りきったさまを。あれこれ想い描いているうちに、足もしびれ始め、ぼくはトイレットペーパーで尻を拭い、立ち上がる動作に合わせて皺になったジーパンとトランクスを同時に持ち上げた。ぼくは、ジーパンのボタンを丁寧に穴に滑り込ませ、視点の先にあるレバーに片足を掛けながら、ぼくを窮地に追い込んだ汚物をしげしげと見つめていたのだった。ようやくぼくはレバーを踏んだ。轟音と共にその濁流は便器の川を進み、滝壷へ落ち、はかなく姿を消した。この後ぼくは、その物質の存在の始まりと終わりの間にある時空について、しばし思考を巡らせていたのだけれど、結局、物質の存在自体が不可知なものだという認識を一層深めた結果に終わったのだった。

 トイレから出ると正面には文房具の類いが置かれていた。以前ここには問題集やら参考書が置かれていて、ぼくは時々意味もなく有名大学の赤本などを手に取って、過去の問題集を盗み見ては、難解なその問題の前に平伏すのだった……まさか方丈記が日本三大随筆の一つだったなんて。ぼくは、その売り場の床に膝をついて引き出しからノートを取り出す店員を眺めながら、判然としない売り場の変更に頭を抱えていた。そして、ぼくは意を決してその店員の所へ歩み寄り、突然話しかけたのだった。あの、すみませんちょっとお聞きしたいのですが。抹茶色の制服を着た彼女は、虚をつかれたような強張った表情でぼくをそこから見上げ、それでもすぐに店員の自覚を取り戻し、はい、なんでしょうか、とやさしく丁寧に答えた。しかし彼女の手は未だ棚と引き出しの往復。えっと、問題集や参考書が置かれているフロアは一体どこへいったのでしょうか。上のフロアですかね、やっぱり。ぼくは何の根拠もなく四階を指名し、彼女の目線に近づこうと中途半端に足を曲げた。すると彼女は立ち上がり、フロア全体を背伸びを交えて見渡し、ついには、ちょっとお待ち下さい、とデクレッシェンド気味に言い残し、中央に構えたカウンターの方へ走り去った。その場に取り残されたぼくは、そこらの棚に置かれたノートや日記帳をぱらぱらと捲っては戻し、その周辺を行ったり来たりしていた。彼女はすぐに戻ってきて、さっそく新しい売り場をぼくに説明し始める。えっと、階段を上がってすぐに児童書売り場があって、その奥が参考書と問題集の売り場になっています。走り回って肩で息をしていた彼女は、任務の完了と共に大きく息を吐いた。ぼくの偶然は当たり、小声でやっぱり上のフロアか、などと漏らし、彼女をちらっと見ると、彼女は相変わらず苦しそうな顔をこちらに向けている。ぼくは、そろそろ本題を口にしてもいい頃だと考え、彼女の体調は無視して、あの、どういう理由で売り場の変更が行われたのでしょうか、などと唐突に聞いてみた。彼女は眉間に皺を寄せ、ちょっと分からないので、聞いてきましょうか、と言い、いやいや、結構ですよ、とぼくがこれを制し、あなたの独断と偏見で答えて下されば、それでいいのですから、と付け加えた。独断と偏見でですか、と彼女は困惑した表情を浮かべ、考え込んでしまった。ぼくはいくつか彼女に助言を与え、完全に後ろからサポートしていたのだけれど、彼女はぼくの思いつきや詭弁に、なるほど、などと感心するばかりで、相変わらず黙り込んだまま。次第にぼくは、解決の糸口すら見つからないこの状況にやきもきし、彼女に簡単に礼をい言い、売り場変更に伴い生じるエトセトラ、更にはマーケティングとは何たるかについて、頭の奥底から知恵を絞り出していたのだった。
 結局その後ぼくは、雑誌の他に、マーケティング学・構築へのプロセス、という聞き慣れない本を買うに至ったのだけれど、なけなしのお金を叩こうとしたちょふどその時、ぼくの思考の中枢に、塞き止められていた波が、一気に押し寄せたのだった。カウンターのレジには店員が二人いて、一人は勢いよくレジを叩き、一人は本にカバーを掛けている。ぼくの視覚はそれを傍観し、思考は音のない海中深くへ潜り込む。次に気がついた時、店員の一人がぼくを怪訝そうな顔で覗き込み、ですから二千五十八円になります、と念を押すように言った。しかし、ぼくにも断固とした決意が生まれていた。そしてぼくはその店員に、すみません、これを除いて会計して下さい、と堂々と言い放ち、マーケティング学・構築へのプロセスを指さした。店員は、面倒臭い客を抱え込んだとでもいうように、脱力感たっぷりにレジを打ち直す。それでもぼくは屈しない。何しろぼくは、文房具売り場の彼女に騙されたのだから。彼女は素知らぬ顔でぼくの素人意見に耳を傾け、時には感嘆の声をあげ、ぼくの知的探究心と購買意欲をくすぐり、しかし彼女の腹の中では、ビジネス戦略の図式が脈々と並べられていたに違いないのだった。なんて腹黒い奴。そしてぼくは、雑誌分の四百八十三円を払い終えると、足早に店を出た。ぼくは、通りを駅ビルの方に向かって歩きながら、文房具売り場の彼女さえもその一端を担う、消費者の偶発性を引き出す裏工作について、あれこれと考えていた。そして、概念上の存在であるこのビジネス戦略を、善悪に基づいて定義づけるとするならば、文房具売り場の彼女はぼくにとって、悪に他ならないのであった。駅前に着くと人通りも多く、ティッシュを配る人の姿あちこちにあった。彼等はティッシュを片手にいっぱい詰め込み、怠慢にも横を通り過ぎる人にのみそれを配り、時には人が目の前を通っているにもかかわらず、見向きもしないという、自分勝手で一貫性のない動きを繰り返していた。しかし彼等のビジネスは無料で奉仕し、それと引き換えに不特定多数の人々へ働きかけるという点において、善意的な戦略と言えるのだった。あの怠慢な動きを差し引けば。こうしてぼくは、目にした仕事を次々に善悪の物差しで計り、表を作り、人の心をどれ程侵食し、弄ぶか、という問題に対しても十段階の評価を加え、ついには、この街だけでは飽き足らず、企業の中心地……丸の内へと足を運んだのだった。企業を連想して丸の内、安直にして的を射たこの発想に、ぼくは大いに満足していた。


 丸の内南口の自動改札を出ると、八角形のドーム空間がある。その自動改札の一列を一辺と考え、左に四辺目の通路をぼくは、飲食店の看板に釣られて歩いていた。ぼくは朝から何も食べていないのだ。その通路を十メートル程行くと、左に赤いカーペットが敷き詰められた東京ステーションホテルの飲食店へと続く階段があり、その階段をぼくは上り始めたのだけれど、一つ目の角を曲った所で一旦足を止めた。というのも、フロントにお大勢人がいて、しりごみしてしまったのだ。伝統あるステーションホテル、足元は赤いカーペット、一般庶民のぼくが臆病風に吹かれる手筈は整っていた。そういう訳で、ぼくは階段を下りながら眉をひそめ、食事もさる事ながら、市場調査と割り切れない自分のふがいなさに溜め息をついたのだった。ぼくは深呼吸して、トートバックから、表紙に善悪メモと書かれたノートを取り出し、ぼくが下した評価をもう一度端から見ていった。ぼくがすべき事は明白だった。そのために丸の内に来たのだから……ノートの余白にぼくの十八番、巻きグソの絵を何個か付け足した後、ぼくは勢いよく階段を上り、フロントの脇を何食わぬ顔で通り過ぎようとした。すると、そこにいた一人が、ぼくに気が付き微笑んだので、ぼくはもう黙って通過することもできず、渋々彼女の方へ進路変更し、えっと、ちょっとお聞きしたいのですが、と言って、飲食店に行きたい旨を伝えたのだった。

 ぼくが気を揉んだことも今は昔、彼女はバスガイド顔負けのジェスチャー付きで、ぼくに飲食店までの道筋を親切に教えてくれた。そして、予定通り八角形のドーム空間の二階の縁の部分に辿り着いた。ぼくは、そこを左に折れ、一角百三十五度の鈍角を二回曲がって立ち止まった。通路はすれ違うのが精一杯という幅で、ぼくが止まった目の前の店、赤れんがも窓際に何席かあるだけで、ぼくのいる通路と客席との距離はおよそ二メートル強といったところだ。つまり赤れんがは、東京ステーションホテルの外壁とドームの極めて狭い場所に作られていたのだった。ぼくは、バックからノートを取り出し、いたずらに自己主張しない謙虚な姿勢、はたまたフロントの彼女の柔軟な態度を考慮し、赤れんがの接客を待たずして、ホテルのページに東京ステーションホテルと書き込み、その横に善と記した。十段階評価もこの調査を開始して最高の十をつけたのだった。

 ぼくは南口を出てすぐ横にあるキヨスクでパンとウーロン茶を買い、それを食べながら、東京ステーションホテルの評価に修正を加えていた。膝の上にトートバックを置き、その上に広げたノートは歪んで波打ち、二本のラインで消された十、新たに書き加えられた八の字も歪んで見えた。右手に持ったペンは、ぼくの指先を惰性で回り続けている。こうしてぼくは、東京中央郵便局の正面玄関を背にして右側の、横断歩道の先に東京ステーションホテルを望める植え込みの縁に座り込んで、未だ準備中を物語る人気のない赤れんがの客席を眺めていた。少したって、ぼくはウーロン茶を口にしながら、うぐいす色の制服を着た局員達が、ぼくの隣りの職員用出入口から、ワゴンを引きずり移動させているのを観察していた。ステンレスタイヤとアスファルトの摩擦音がぼくの注意を引きつける。彼等は正面玄関の向こうにそれを設置し、ワゴンの上に立てられた掲示板に記念切手のサンプルを貼り付け、何度か位置を変え、しばらく彼等による彼等のためのおしゃべりに耽り、それが終わると無機質な面持ちで記念切手を売り始めていた。彼等は声をあげてそれを宣伝するわけでもなく、どちらかというと、通行人の意志に全てを委ねているような気配すら窺え、ぼくはその曖昧なビジネス戦略に矛盾を抱き、彼等が善であるのか悪であるのか判断しきれずにいた。さっそくぼくはノートを開き、過去のデータと局員の曖昧なビジネス戦略を照らし合わせる事にした。文房具売り場の彼女は、知的探究心と購買意欲を誘う販売促進二重戦略で悪、ティッシュを配る彼等は、それと引き換えに会社を宣伝する広告戦略で善、露店販売をする携帯ショップは、錯覚で人を釣る人的販売戦略で悪、その人的販売戦略とは、そう、ジャンケンで勝ったら携帯電話今なら二千円、と謳い、勝率を五割にして商品価値を引き上げるという、人の物欲に付け込む巧妙な手口。そして郵便局員のビジネス戦略はと言うと、露店販売という点で、携帯ショップと酷似しているのだけれど、しかし、彼等は通行人の主体性に全てを委ね、決して人の心を侵食し弄ぶことはなく、むしろ彼等の戦略は、掲示板に貼り付けた記念切手を傍観し、ただの掲示物に見立てるという、独特な広告戦略にあるのではないかと思えるのだった。その後、もう一度ノートを読み直していたぼくは、直接人に関わるものには全て悪をつけ、間接的に人と関わるものにはほとんど善と記している事実に気が付いたのだけれど、郵便局員の戦略はこの二つを備え持ち、ぼくは一向に善悪の境界を描き出すことができずにいた……その代わりに、漠然と抱いていたぼくの中の疑問がゆっくりと近づき、ウーロン茶を飲み終わる頃には、はっきりとその輪郭を帯び始めていたのだった。


 目の前にある盲人用信号の刻む単調なリズムが、ぼくを思考の深淵部分へといざなう。こうして、じっとしたままぼくは、概念上の存在であるビジネス戦略を、善悪の物差しという概念上の存在で計ることについて考えていた。ちょうどそれは、コーヒーの中にミルクを入れ、かき混ぜるうちに、コーヒーとミルクの境目が無くなってしまうような、始めからその境目があったかどうかも、はっきりせず、意識の中で膨らんだ風船がやがて萎んで、ついには、ガスが抜けきってしまう、そんな感じだった。そして、前に車の中で観た、空を飛ぶ夢のことを思い出していた。それは大空を自由に飛ぶなどという、都合のいいものとは一線を画し、それをゲームに例えるならば、ボタンを連打する度に、徐々に地上から浮き、しかし一旦ボタンから指を離せば、たちまち降下してしまう、そんな快楽と緊張とを伴う夢だった。それからぼくは、空を飛ぶ夢の続きを想い描いた。もがきながら街や緑を越え、やがて大海原に辿り着き、そこにミルクを混ぜたコーヒーを流し入れ、その行方を目で追うのだけれど、それはあっという間に穏やかな波に飲まれて跡形もなく消えてしまう。ぼくは飛ぶことを止め、その無限な空間に飛び込む。海の中は音もなく、ぼくは悠久の流れと溶け合うように、無為に時を過ごし、それでも時々海面に顔を出し、移り変わる空を眺めたりした……。

 蒸し暑い丸の内の昼下がり、郵便局員の販売戦略のことなど、ぼくには、もうどうでもいいことに思え、ぼんやりと、一ヵ月前に辞めた会社の事を考え、それがどれ程正しい選択であったかを知り、今はただ、ぼくの空間を邪魔する誰かに説き聞かせる台詞を心の中で何度も繰り返していたのだった……知っていますか、無限に広がる宇宙と比べ、ぼくがどれ程小さいものかということを。

 その翌日、ぼくは自転車を車の脇に止め、助手席のドアにキーを差し込み、ドアを開けた。

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