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元気の出る聖書の言葉コミュの本日のメッセージ

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皆さま、ご機嫌いかがですか。

今日の礼拝メッセージですが、アップロードツールをインストールしているPCを会場に忘れて来てしまい、アップロードできません。(PCは会場の担当の方がロッカーに入れてくださったので大丈夫です。)

楽しみにしてくださっている方々、ごめんなさい。

来週は忘れないようにしたいと思います。これからもよろしくお願いします。以下に、メッセージ原稿を貼付けておきます。よろしければご覧下さい。

今週もイエス様がお一人お一人と共にいて、守り、導き、活かしてくださいますように。

岩本遠億

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「主イエスを待つ喜び」
ルカの福音書第17章22節〜37節

17:22 イエスは弟子たちに言われた。「人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない時が来ます。 17:23 人々が『こちらだ。』とか、『あちらだ。』とか言っても行ってはなりません。あとを追いかけてはなりません。 17:24 いなずまが、ひらめいて、天の端から天の端へと輝くように、人の子は、人の子の日には、ちょうどそのようであるからです。 17:25 しかし、人の子はまず、多くの苦しみを受け、この時代に捨てられなければなりません。

17:26 人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。 17:27 ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。 17:28 また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが、 17:29 ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。

17:30 人の子の現われる日にも、全くそのとおりです。 17:31 その日には、屋上にいる者は家に家財があっても、取り出しに降りてはいけません。同じように、畑にいる者も家に帰ってはいけません。 17:32 ロトの妻を思い出しなさい。 17:33 自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。

17:34 あなたがたに言いますが、その夜、同じ寝台で男がふたり寝ていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。 17:35 女がふたりいっしょに臼をひいていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。」 17:36 [本節欠如] 17:37 弟子たちは答えて言った。「主よ。どこでですか。」主は言われた。「死体のある所、そこに、はげたかも集まります。」

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聖書の中に書かれていることには、私たちも追体験できることと、追体験できないことがあります。聖書に記されているように、自分自身が神様による不思議な癒しということを経験することがあります。癒しの賜物を与えられた人もいます。聖霊の働きによって自分の存在が変えられるという経験を私たちは与えられ、クリスチャンになりました。また、聖書の言葉によって心を開かれ、罪が清められるという経験をしたり、イエス様の十字架の血によって自分の罪を清められるという経験をします。聖書の言葉の中にイエス様の声を聞きながら生きて行くことができます。

そのように、多かれ少なかれ、私たちは自分の個人的な体験として聖書に記され、記録されている事柄を追体験できる。そして、それを追体験した者たちがイエス様を信じ、この方を自分の神として礼拝するようになるのです。

一方、聖書の中には私たちが追体験できない事柄も書かれています。その最たるものが、イエス様がもう一度この世に来られるということです。キリスト教用語では、これを「再臨」と言いますが、2000年間のキリスト教の歴史の中でこれを追体験した人は一人もいません。しかし、追体験できないからと言ってこれが分からないかというと、そうではないのです。

イエス様がもう一度この世にやって来てくださる。これは、十字架にかけられる前にイエス様が何度も繰り返しお語りになっていることですが、イエス様との深い交わり、祈りの交わりの中で、私たち一人一人に語りかけてくださることでもあるのです。

今、イエス様は聖霊として私たちの中に住んでくださっていますが、私たちとイエス様は完全に一つとはなっていません。しかし、いつかイエス様と完全に一つとなれる時が来る。ここにイエス様を信じる者たちの祈りと希望があります。肉体の死によって霊がイエス様のところに行き、イエス様と一つになるのが早いのか、あるいは、イエス様がこの世にもう一度やって来られるのか早いのか、それは私たちには分かりません。それが何時なのかも分かりません。今日かもしれない。明日かもしれない。10年後、20年後かもしれない。

しかし、必ずイエス様と一つになれる時が必ず来る。それがこの世に生きる私たちの唯一の希望ではないでしょうか。この罪深い心が全く清められる時が来る。この肉の弱さに引きずられなくなる時が来る。完全な者とされる時が来る。祈りの中にイエス様と一つになることを求め続ける時、私たちは、イエス様がもう一度この地に来られ、私たちを完全な者としてくださること、イエス様と一つにしてくださるというイエス様のお約束を信じる者とされて行くのです。

そして、イエス様は悪が牛耳っているこの世を決してこのままにはしておかれない。いつか必ず決着をつけてくださる。イエス様が与えてくださったお約束を、私たちは祈りの中で聞く者となって行くのです。イエス様は言われました。「わたしは来る」と。

そして、その日には、自分のアイデンティティが何に結びついているか、そのことだけがいのちと滅びを分けるものになると言われます。「17:30 人の子の現われる日にも、全くそのとおりです。 17:31 その日には、屋上にいる者は家に家財があっても、取り出しに降りてはいけません。同じように、畑にいる者も家に帰ってはいけません。」

自分のアイデンティティが金銭や物質に結びついているもの、家や土地に結びついている者は失われる。イエス様がやって来られた時、そのままイエス様と結びつく者たちはいのちを得る。そのように言っておられます。ですから、私たちは、いつその日が来ても良いように、自分の本質がイエス様と結びついていることを求め続けたいと思います。

しかし、イエス様と自分の本質、自分のアイデンティティが結びつくとは一体どういうことでありましょうか。ここでイエス様は次のように言っておられます。「人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない時が来ます。」「17:25 しかし、人の子はまず、多くの苦しみを受け、この時代に捨てられなければなりません。」

「人の子」というのは、人の子としてやって来られた救い主で、悪魔に対する勝利を宣言するお方です。イエス様はご自身を人の子と呼び、ご自分こそ悪魔に対する勝利を宣言する者であると自己紹介しておられます。しかし、そのお方が、多くの苦しみを受け、この時代に捨てられる、すなわち十字架による処刑をお受けになるとおっしゃっている。一見すると悪魔が勝利を収めたかに見るような出来事が起きる。そして、「人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない時が来ます」ともおっしゃっている。イエス様が勝利の王であるということを目に見える形で見たいと願っても、見られない時を、イエス様を信じる者たちは潜り抜けなければならない。そのような困難なとき、試練ともいうべき時を経なければならない。そのような中で私たちがどのように生きるかが問われているのです。

先ほど、ご一緒に読んだ聖書の箇所は、マタイの福音書に残されているイエス様の最後の説教です。イエス様が十字架におかかりになる前に、弟子たちにお語りになった最重要事項です。そこには、イエス様がもう一度来られることと、それまでの間、どのように弟子たちが生きるべきかをお語りになっています。次のようにおっしゃっています。

25:34 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。 25:35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、 25:36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』

25:37 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。 25:38 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。 25:39 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』

25:40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

イエス様がここでおっしゃっていること、それは、人を大切にするということに尽きるのであります。人の子の日が見られない状況とは何か。それは、人が虐げられるということが行なわれている時です。食べる物がなくて飢えている人がいる状況です。渇いている人がいる状況。貧しくて着るものがない人がいる状況。また、信仰のゆえに捕らえられた人がいる状況であります。病気で苦しんでいる人がいる。また、自分の努力ではどうすることもできない苦しみの中にある人がいる。そのような中で、それらの人々の友となれ。彼らに自分の手を差し出せ。あなたにできることをせよとおっしゃっているのです。

まさに、人の子の日を見たくても見られない時こそ、あなたがわたしに代わって彼らの友となれ。イエス様はそのようにおっしゃっているのではないでしょうか。それこそが、私たちのアイデンティティがイエス様と結びつくということではないでしょうか。これがもう一度来られるイエス様を待つということではないでしょうか。

しかし、イエス様がご自分の友となさっている方々と共に生きる。これが私たちの力であり、喜びであるのです。

それまで罪に閉ざされて、自分のことしか考えることができなかった者たちが、イエス様と出会い、次第次第に愛に生きるように変えられて行く。そのようなことが起こります。そして、主に頼る者たち、主がお選びになった者たちが全て、主と結びついたアイデンティティを持つに至るまで、聖霊を注いで導き、忍耐づよく待ってくださっているのです。

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。第二ペテロ3:9

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ人への手紙2章1節から10節まで)

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