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1893友の会コミュの昭和15年11月1日、武蔵進水!!

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其の日、夜明けとともに総動員された憲兵・警察署員約600名、佐世保鎮守府より乗り込んできていた海軍の警戒隊1200名、合計1800名は、すでに長崎市内に配置されていた。
その日進水する第二号艦の姿を人々の眼から遮断するために、海軍省から派遣されていた防諜専門家たちは、一月以上も前からその方法について研究を重ねていた。その結果、採用された方法は、第一に、その日を海軍および憲兵隊・警察署合同の防空演習日と称して、市民の外への出歩きを抑制したことであった。(中略)
さらに、港を見下ろすことの出来る高台はむろんのこと、海岸線一帯には、人垣のように警戒隊・憲兵・警察署員を配置して
市民の監視に当たらせ、それら警戒に当たる者たちも、進水の定刻には、海面に背を向けて艦の姿を眼にしないように命令を受けていた。

(中略)その頃、港内の水位は50センチ以上も高まっていた。膨大な容積を持つ船体が不意に満潮時の港内に進水した為に起こった、予想外の現象だった。その上、滑り降りた船体のあおり上げた海水は1メートル20センチの高波となって対岸の浪の平地区一帯に押し寄せた。それは、一種の津波に近いものだった。家の中に閉じ込められていた海岸の住民たちは、突然海水が床下を走り畳を洗うのに狼狽した。しかし、路上に飛び出した住民たちは、警戒隊員たちの手であらあらしく押し戻された。住民たちは訳もわからず、ただ、おびえきった眼で海水の泡立つ家の中で身をふるわせていた。

吉村昭著「戦艦武蔵」より。緊張感がこちらにも伝わってきます。当時かなり重大な出来事だったんですね。
今日現在、武蔵はシブヤン海でアメリカ軍の戦闘機と交戦中です。もうちょっとで読み終わります。

コメント(23)

超メジャー「大和」と比べると影の薄い「武蔵」ですが
官製大和に対して民間の三菱製なので内装は大和以上の
豪華装備。「大和ホテル」に対し「武蔵御殿」とあだ名され
山本長官は旗艦として「武蔵」を選びました。

最後はフィリピン沖で沈んだのですが、座礁させようと
浅瀬、浅瀬へと向かっていたので、もし見つかれば
バラバラだった大和と違ってほぼ完全な姿でサルベージも
可能では?言われていますね。

海流に乗って今だ海中をさまよっている幽霊軍艦という
オカルト染みた噂もあったそうです。
しんた軍曹さん^^
自分は「大和」は勿論好きですが、何せ「武蔵の國」に住んでおりますので「武蔵」にも愛着を感じます。
このシブヤン海の戦闘でアメリカ軍はどうして「武蔵」に照準を合わせたのでしょう??しかも左舷を集中的に。
というか航空兵力が無いといかに巨大戦艦でもこういう運命になるということでしょうね。

バラバラになってないのならぜひ引き揚げて貰いたいです!!
雪風鹿之助 さん^^
しかしこの本は、本当によく調べたな〜という感じです。
また、読んでいくと段々自分の「武蔵」に対する愛着が強くなっていくのがわかります。

トラック島のそのブイ、見たいです。

出来ればサルベージしてほしいですが、それがダメなら
せめて映像だけでも何とかならないのでしょうか??
噂では沈没現場の水深は1400メートル位あるみたい
ですが・・・
1944年10月24日シブヤン海海戦で沈没したのですが
正確な沈没地点が今だ不明です。

全長260mの巨大艦でも海の広さに比べれば砂浜で
針を探す様なもので、またそのための資金集めが大変。
大和でも沈没地点の確認と艦影を見つけるまで
長い年月と莫大な資金がかかりその調達の苦労は
執念とでも言いましょうか・・・。

「戦艦大和発見」 辺見じゅん・原勝洋 / 編
に詳しく述べられています。

関係者が御存命の内に見つかって欲しいですね。
しんた軍曹 さん^^
この写真はまだ竣工間もない頃ですか??

電探がまだ付いてないですね。機銃も少ないような感じ
がしますし。

要はその資金をどう捻出するかですね。
尾道で1/1大和の甲板に立った時にも思いましたが、こうして人の大きさと比較される写真を見るとこの巨艦が飛行機の攻撃で沈んだ事が信じられず、大艦巨砲の時代に「飛行機に戦艦が沈められる訳が無い」と信じられていた事も納得出来る気がします。

大和なんか作らず飛行機を…という過去への批判は簡単ですが、國の方針に関わる重要な事柄を方向転換するには現在でも数年掛かったりする事を考えると、公共事業としての規模から言っても建造中止は無理だったのではないかと思います。帝国陸海軍はいかにも頭が固く考え方が古かったと思われがちですが、世界最初の航空母艦の建造と言い機動部隊の編成と言い、そう安易に批判出来る訳では無いと思います。
ですのでやはり大和型戦艦は欧米列強に対抗しようという日本の気概がカタチとなったものとして誇りにして行きたいと思います。
>>…という過去への批判は簡単ですが、
その通りです!私達はその時代からすれば未来人で
其の後を知っているから何とでも簡単に批判出来るのです。
しかし当時の情勢までの視点からは未来予想は今以上
に困難です。当時の軍令部は無能じゃありません。
その中で今後の国防手段として企画建造された
超弩級戦艦達は海に囲まれた日本最善の選択だったと
思います。
自分もこの巨大戦艦の存在は当時のわが国の工業力を世界に向かって示したものでありまた国民の自尊心をくすぐるものであって(例えば現在の新幹線のような存在)それだけでも存在価値は十分にあったように思います。
大和、武蔵の存在を大本営がPRしたかどうかはわかりませんがそれによって国民をまとめやすくはなっていたでしょうね。

武蔵の母港が横須賀・・・
やはり名前は母港と関係あるのかもしれませんね。
大和・武蔵に関しては一般国民の殆んどは戦後まで
存在を知りませんでした。機密保持は徹底的で
呉や佐世保の建造ドックでは巨大な目隠しの塀も
あり、進水式もそれまでとは違い、厳かに行われ
竣工後も一般にはもちろん海軍関係者でも
観た人は少なく「大和(武蔵)を見た!」だけで自慢が
出来たそうです。
それでも付近住民の間では
「海軍がとても大きな軍艦を造っているらしい・・・」
の噂は有ったとか。
「信濃」は大和型3番艦として建造予定でしたが
ミッドウェイで主力空母を失った事、大和・武蔵は
航空機機動作戦がメインの大東亜戦では活躍の場が無い・・・
との事で急遽、航空母艦にと設計が変更されたのです。
その「信濃」も竣工し公試運転後呉に戻る途中に
米潜水艦の攻撃で瀬戸内海に沈んでしまいました。
竣工僅か10日間後の出来事です。
大和型戦艦が帝国海軍の栄光と悲劇の象徴のように捉えられるようになったのは戦後の事でしょうね。しかし当時技術の粋を集めてこれだけの物を作ったという事が国民の心理に与える影響は現在でも大きいと思います。
機密保持と言えばアメリカは終戦まで大和型の主砲は40センチだと思っていたそうですね。
余談ですが映画「男たちの大和」の中で蒼井優が「大和は沖縄に行くんじゃろ?」と言っていましたが、そんな作戦内容を一般人が知り公然と話していたのでしょうか??私は心の中で「貴様スパイじゃろ!!」とツッコミを入れていました(笑)。呉では飲み屋等を通じて結構情報が漏れていたと言いますが…。
「大和」は沖縄に行くんじゃろ?」・・・
いや〜、自分はそこまで考えなかったですね〜。

ただ、映画「連合艦隊」ではミッドウェイ作戦が芸者にも
ばれていたシーンはありましたが。
大和型搭載の「46センチ砲」の正式名称は
「九二式四十糎砲」です。
機密保持のために正式名称まで偽った程の周到深さでした。

「男たちの大和」はがんばっていましたが「?」の部分も
多かったですねw
正直、「鈴木京香、仲代達也」はいらないから、CGで大和の
勇姿を頭からお尻までじっくり見せて欲しかったですよ!
映画を観て「大和は沖縄へ一隻だけで行った」と勘違い
している人もいたので。「矢矧」以下「雪風」・・・の映像も
欲しかったです。
「男たちの大和」では武蔵は出て来ませんでしたね。夕暮れの中、艦首が海中に没し燃え盛り遠ざかって行く武蔵、大和の甲板から見詰める乗り組み員たち…そんなシーンがあるかと思ったのですが。手負いの武蔵は自ら標的になったと言うのに、ここでも武蔵が不憫でした。
映画で大和の全体像が少ないのは予算不足が露呈されてしまってますね。大和周囲の艦も写っているカットと写っていないカットがありましたし。知り合いは「最後に救助に来た船はどこから来たの?」と言っていました(苦笑)。

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