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靖國神社(靖国神社)コミュの誰がために散る もう一つの「特攻」(7)

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【回天の母】心に立てた「墓標」100余…

産経新聞朝刊大阪版07年6月12日付社会面

 回天基地のあった大津島の丘の中腹には、回天碑と並んで搭乗員の名前を刻んだ石碑がある。戦後、この石碑を慈しむように指でなぞる女性がいた。通称・おしげさん。「回天の母」と呼ばれた。

 本名は倉重アサコ。大正15年、19歳で徳山駅近くの高級料亭「松政」に女中奉公に出て、以来45年間、松政で働き続けた。当時、徳山には海軍燃料廠があり、松政は高級士官の定宿としてにぎわっていた。奉公に出て2年目、海軍主計兵曹と結ばれた。しかし8年後、夫は病気で急逝、独身を通した。

 男のようにさっぱりとした性格は高級士官にも好かれ、犬養毅首相や南雲忠一海軍大将、山本五十六海軍元帥ら重鎮の接待を担当したという。

■  ■

昭和19年11月7日。おしげさんはこの日を生涯忘れなかった。

 大津島から突然、板倉光馬少佐が訪ねてきて「今夜60人のすき焼き会を催したいから用意を頼む。物資は全部部隊から持参する」。七輪を近所から借り、テーブルの代わりに雨戸を並べた。

 宴会は午後6時から始まり、夜が更けると、大広間に「同期の桜」の大合唱が響いた。壮行会だった。若者たちが翌日に出撃した「回天特別攻撃隊菊水隊」の搭乗員だと知ったのは、翌20年3月末のことだった。彼女はそのときの思いを手記の中で語っている。

 <私は隊員さんたちが特攻隊であること、大津島がその基地であることは知っていましたが、それがどういうことをするためであったかは、新聞で初めて知ったようなわけです。新聞には隊員28人の写真も掲載されていました。私は新聞の写真の上に、ボロボロと涙をこぼしました。菊水隊は3カ月前に、金剛隊は2カ月前に「お母ちゃん、行ってきます」。そういって二度とは帰らぬ日ととも見えぬ元気さで、松政の玄関を出ていったのです>

 松政では出撃の2日前に壮行会が行われるのが恒例だった。おしげさんは手記で、隊員の誰の目も澄み切り、死にに行くことなどみじんも感じさせぬ立派な態度だが、その胸の内には語れぬものを抱えていたのだろう、と回顧している。

 20年7月14日に出撃した竹林(旧姓・高橋)博(82)も2日前の12日夜、壮行会に参加し、初めておしげさんに会った。「おふくろのような感じで、自分の母親の顔と重なった」という。

 いつしか、おしげさんと回天搭乗員は、単なる仲居と客の関係ではなくなっていた。おしげさんは回顧録などで搭乗員との思い出を語っている。

 <なかには私の肩にすがり、膝(ひざ)にもたれて甘える方もあって、その幼な幼なした童顔に、はっと胸をつかれることもありました。まだ17、8から19歳ぐらいの若い人ばかりで、厳しい訓練の明け暮れのうち、束の間の思いは、やはり国許のお母さんだったのでしょう。「お母さんのような気がする」などと行って、私にもたれかかって来られた、あのあどけなさを思い出しますと、今でも目頭が熱くなるのでございます>

■  ■

 おしげさんにとって忘れられないの搭乗員の1人が芝崎昭一だ。北海道の農家出身で18歳の少年だった。

 出撃前、「松政」に来た芝崎は「母ちゃん、詩吟を聞いてよ。国を出るとき、母ちゃんにも聞かせたから…」。顔を真っ赤にしながら朗々と吟じる芝崎の顔を見ながら、<芝崎さんは今、母親の前にいるのだ>と目を潤ませたという。

 金剛隊の都所静世は<おふくろさんは死んでいないが、最後はお母さんと叫んで死にたいと>と言い残して出撃。轟隊の小林富三雄は<慈悲も及ばぬ御世話心より感謝致しています>と遺書を残した。

 おしげさんと回天搭乗員の付き合いは1年に満たない。

 <私の生涯の全部を賭けたほどの意味があったように思います。自分の子供を持たない私が、100人に余る若い人たちに「お母ちゃん」と呼ばれてあまえられたことのしあわせ…けれどもその人たちの墓標を、心にいっぱいたてていることを思えば、私は幸福者なのでしょうか。それとも最も不幸な女なのでしょうか>

 =敬称略
(宮本雅史)

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