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カープファン物語連載中コミュの悪ガキたちの物語 (その?) (連載第4回)

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 1960年代の子供たちは、遊ぶといえば男の子は野球。ゲームセンターなど無かったし、テレビゲームなんかましてやあるはずも無かったから、もっぱら学校が終わったら空き地で野球をやっていた。
 同い年の子供ばかり家の近所にいる訳は無いし、運動神経のあまり良くない子もいたりして、それはもう野球などと呼べるものではなかったが、野球のいいところは、よく打つ者にも打てない者にも公平に打順は回って来るし、守備の下手な者のトンネルしたゴロは、他の者が拾いに走ってみんなで助け合わなければチェンジにならない。あまり考えたことは無かったが、知らず知らずと助け合うということを学んでいたのかもしれない。
 さて、小学校の3〜4年ともなると、近所の子供たちとの三角ベースのお遊び野球もつまらなくなり、同じクラスのそこそこ野球の上手い者同士で、9人のちゃんとしたチームを作り、他のチームに試合を申し込んで真剣に戦ったりしていた。
 ボールもソフトボールに飽き足らなくなり固い軟式ボールに、ピッチャーも本格的にオーバースロー。審判も置いてフォアボールもカウントする。盗塁もホームランもあり、9回まで戦う本格的な野球なのだ。
 ただ、今のように親がかり、大人がかりの少年野球チームというものは無く、指導者もおらずすべて子供だけでやっていたから、ユニフォームなどといった気の効いたものがある訳ではなかった。
 ユニフォームの上下を持っている子は一人か二人で、他のほとんどの子は手作り。白い開襟シャツの襟を切って母親に丸首に縫ってもらう。そして背番号を背中に縫いつけてもらい、下は白いトレーパン。スパイクなど履く者はおらず、全員運動靴。帽子をそろえるということも無く、皆思い思いの帽子を被って勢揃い、試合にのぞむ訳だ。
 背番号も人と競合しない限りそれぞれ好きな選手の番号をつけていた。
 当時の一番人気はやはり、ジャイアンツの王の1番か長嶋の3番。赤い手袋で颯爽と盗塁する柴田の12番なども結構人気があった。地元チーム、広島カープの4番バッター山本一義の7番などがこれに続き、少し後になると頭角を現してきた衣笠の28番などといったところ。あと、後年カープの監督となりチームを初優勝に導いた古葉は確か1番だったと思う。古葉は足が速く、セカンドの守備も堅実でバッティングもしぶとく、結構当時の地元の子供たちの人気も高かった。
 そこを買われてかどうかは知らないが、「森永マミーA」という乳酸菌飲料のTVCMに、
 「僕も飲んでいます、森永マミーA!」
と広島地方では画面に登場した。カープの選手がTVCMに登場した第1号だったのではなかろうか。
 ちなみに、この子供だけでやる本格草野球だが、主審は攻撃中のチームの手が空いている者がやるから当然自分のチームに有利に判定するし、線審、塁審などいるわけも無かったから、フェアかファウルか、アウトかセーフかで途中必ず大揉めとなり、まともに9回まで行き着くことはほとんど無かった。双方判定に不服でいがみ合いとなり、途中でお開きとなるのだ。
 それでも一丁前に、背番号つきの手作りユニフォームまで着てする試合の日は、朝からワクワクして、とても楽しかった思い出となっている。

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