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ありがとう出版舎コミュの空海に訊く

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中今呑さんの

『空海に訊く』をアップいたします。

空海が、虚空蔵部札求聞持法を会得した場面、

般若心経の
『羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶』
のマントラを読み解く部分が、圧巻でした。

本当に、訊いて来られたようです。



『空海に訊く』    中今呑

「密教は、他の仏教が釈迦の教えであるとするのにたいして、大毘廬(だいびる)遮那(しゃな)如来(にょらい) 、すなわち大日如来の教えだとしているようですが、大日如来とは何ですか。」

「大日如来は法(ほつ)身仏(しんぶつ)です。法(ほつ)身仏(しんぶつ)は釈迦(しゃか)如来(にょらい)のように歴史的に実在した仏ではなく、原初から存在している永遠不滅の仏性です。」

「お釈迦様と法(ほつ)身仏(しんぶつ)はどう違うのですか。」

「釈迦は、今から二千五百年ほど前に、釈迦族の王家の子としてインドで生まれ、出家成道して、悟りを啓き、広く説法して、八十歳の生涯をとじた聖者です。聖者とは永遠不滅の仏性の一つの現れであって、それは応化身と呼ばれるべきものです。それに対して、永遠不滅の仏性は法身と呼ばれるもので、この法身を応化身より根源的として、実在性を持ったものとしたものが法(ほつ)身仏(しんぶつ)といえるでしょう。」

「お釈迦様は仏の応化身であって二義的であり、法(ほつ)身仏(しんぶつ)こそ一義的とするのですね。」

「そうです。ですから、仏の応化身である釈迦の教えは衆生を教化するための方便の教えであるので、それは真実そのものとは言いがたく、法(ほつ)身仏(しんぶつ)である大毘廬(だいびる)遮那(しゃな)如来(にょらい)の教えである密教こそが真実と言えるものです。これは他(他人、神、仏)を頓着せず、本当の自らのさとりの境地をありのままに説き、自ら楽しみ、愉楽世界に遊ぶ教えです。」

「本当の自らのさとりの境地とは何ですか。」

「この宇宙世界は素晴らしい。それは無限の宝を空に秘蔵している。人はまだその無限の宝を秘蔵したまま、そのことに気付いてさえいなかった。無限の宝の宝庫の鍵は自らの手中にあるのにその事も知らず、その使い方にも気付いていなかった。その無限の宝の宝庫の鍵とは創造力のことである。その創造力はマントラ真言によって行使できる。このマントラ真言によって無限の宝が空より創造される。マントラ真言とは永遠不滅の仏性であって、原初からの実在である。われわれ人間はこのマントラ真言を自由自在に使いこなすことが出来るゆえに、法(ほつ)身仏(しんぶつ)である大毘廬(だいびる)遮那(しゃな)如来(にょらい)、つまり、大日如来と同じ創造力を持った存在なのだという自覚こそがそのさとりの境地です。」

「その自覚を持つに至るにはどうすればいいのでしょうか。」

「至心(ししん)懺悔(ざんげ)して大誓願を発することが必要です。」

「至心(ししん)懺悔(ざんげ)して大誓願を発するとはどうすることですか。」

「自らの心を、清浄、無垢にして、必ず成し遂げようと願い定めた誓願をマントラ真言として唱えることです。」

「具体的に体験したことを教えてください。」

「私が大学での勉強と自らの先行きに挫折感を持ちかけていたある日、大学寮を抜け出て、氏寺佐伯院の金堂に参詣した時の事です。なぜか、薬師如来の脇侍の日光・月光菩薩のお顔に見入っていたら、ふいに、一人の沙門が現れて『お前は仏に縁がある相をしている。お前は今やっている学問では満足できまい。仏法を極めてはどうか。そのために万巻の経典をたちまちに理解し暗記できる秘法を教えよう。』と言って『虚空蔵求聞持法』を教えてくれました。『虚空蔵求聞持法』というのは虚空蔵菩薩の真言である『ナウボウ、アキヤシア、キャラバヤ、オン、アリキヤマリボリ、ソワカ』(マントラの意味は、華鬘蓮華冠をかぶる虚空蔵菩薩に帰依する)という咒を唱える外にいくつかの作法があって、それをふくめ、一日一座一万遍、百日百座百万遍を修するというものです。私はこれを一心不乱に一日ニ座二万遍の行法として修し、五十日で成満させました。そのことによって、一切の教法の文義をたちまちに理解し暗記できるようになったのです。」

「それは『三教指帰』にある話ですね。それと自らが大日如来と同じ創造力を持った存在なのだという自覚を持つに至ることとどんな関係にあるのですか。」

「私が大学での勉強と自らの先行きに挫折感を持ちかけていたというのは其の時の現状を変えようと思ったということです。そして、氏寺佐伯院の金堂に参詣し、なぜか、薬師如来の脇侍の日光・月光菩薩のお顔に見入っていたのは、無意識の中で、仏法を学ぼうと決意していたのです。そこへ、ふいに、一人の沙門が現れて『お前は仏に縁がある相をしている。お前は今やっている学問では満足できまい。仏法を極めてはどうか。そのために万巻の経典をたちまちに理解し暗記できる秘法を教えよう。』と言って『虚空蔵求聞持法』を教えてくれたのです。私はこれを一心不乱に一日ニ座二万遍の行法として修し、五十日で成満させました。そのことによって、一切の教法の文義をたちまちに理解し暗記できるようになったのです。ここで注意してほしいのは私が教えてもらったとおりの一日一座一万遍百日ではなくて、一日ニ座二万遍五十日で成満させたことです。」

「一日に二倍の修行をしたということですか。」

「そうです。しかし、それは単に数合わせをして速く成満させることが出来たということだけではありません。『虚空蔵求聞持法』に新しい工夫を自ら施して、つまりわたし独自の『虚空蔵求聞持法』によって、自己の目的を達成することが出来たのです。ここに、自らが大日如来と同じ創造力を持った存在なのだという自覚を持つに至ることへの光明を見出したのです。」

「自ら思いついた方法で自らの能力開発が出来たということが、自分が大日如来と同じ創造力を持った存在なのだという自覚を持つに至ることへの足がかりになったというのですね。」

「そうです。人間は思ったとおりのことを思ったとおりに出来る根本的能力があるということの確信をもったのはこの『虚空蔵求聞持法』を自らの方法で修した時からでした。
 それ以来、幾多の仏典書物を読み漁り、唐にまで渡って求めたところ、真言密教に人間の根本的あり方を見出したのです。」

「真言密教とその他の仏教とはどのような違いがありますか。」

「仏教は本来的に、四諦十二因縁を理論の中心としているために人間生活を苦とし、その苦の原因である欲望からの解脱を説く教えです。つまり、現世に対する否定をその理論の根底に持っています。たとえば、浄土教においてはこの世を穢土として、それから離れ、純粋な世界である浄土を求め、その浄土は死後初めて往生することが出来るとされています。親鸞は死後の世界への憧れより、念仏を唱えることによる安心の境地の素晴らしさを教えたのですが、それでも、真の浄土は死後にあるという観念は拭い去れません。また、禅は無を説き、一切のとらわれは否定されます。ですから、浄土教も禅も現世が全体として否定されています。
 一方、密教においては、この世界にはきらびやかな宝が無尽蔵に、あらゆる所に埋蔵されていて、人間が掘っても掘っても尽きることがなく、しかも、その無限の宝は何よりも人間自身の中にあり、その智慧も能力も、それらの開発法も、人間自身が自由に生み出す創造力を持ち合わせているということになっていて、これはまさに現世の大肯定、愉楽思想だといえるでしょう。」

「真言密教に人間の根本的あり方を見出したといわれましたがそれは何ですか。」

「それは『即身成仏義」の中などに書きましたが『父母所生の身に、速やかに大覚の位を証す』ということです。父母からもらった心身のままで、つまり、この世においてそのまま仏となり、さとりを啓くことが出来る存在こそ私たち人間だということの発見です。」

「父母所生の身とはなんですか。」

「身とは六大であり、地水火風空の五大に識を加えたものです。地水火風空の五大とは物質であり、識とは心とか覚とか智といわれる精神部分です。」

「六大といえば次のような即身成仏の偈をあなたは書いていますね。
  六大無碍(むげ)にして常に瑜伽(ゆが)なり
  四種曼荼(まんだ)各々(おのおの)離れず
  三蜜加持(かじ)すれば速疾(そくしつ)に顕(あらわ)る
   重重帝網(たいもう)なるを即(そく)身(しん)と名づく
  法然に薩(さ)般若(はんにゃ)を具足(ぐそく)して
  心數(しんじゅ)心王刹(しんおうせつ)塵に過(す)ぎたり
  各々五(ご)智(ち)無際(むさい)智(ち)を具(ぐ)す
  圓(えん)鏡力(きょうりき)の故に實覺智(じつかくち)なり

 これを今風に解説していただけませんか。」

「人間は六大から出来ていて、それらが互いに交じり合いあらゆるものを構成している。四種の曼荼羅(まんだら)が表わす宇宙の中心仏たる大日如来と離れず同じである。身(しん)口(く)意(い)の三蜜が見事に作用し合うとあらゆる物事が速やかに顕現し成就する。衆生と仏が等しく重なりあってお互いに反映しあっている様子を即(そく)身(しん)という。この即(そく)身(しん)は法(ほう)爾(に)自然(しねん)にあらゆる智慧を具足していて、様々な現れとなって現世に満ちている。その各々は大日如来の五智と無際限の智を具しているが故に、その自己本来の面目を實覺(じつかく)智(ち)することで圓鏡の如く心は澄み渡り、自由自在に創造力を発揮する。」

「さすがに自らお書きになった偈の解釈だけにわかりやすいですね。
ここに出てきた自己本来の面目を實覺(じつかく)智(ち)するとはどういうことですか。」

「自己本来の面目を實覺(じつかく)智(ち)するとは、『この世界にはきらびやかな宝が無尽蔵にあらゆる所に埋蔵されていて、人間が掘っても掘っても尽きることがなく、しかも、その無限の宝は何よりも人間自身の中にあり、その智慧も能力もそれらの開発法も人間自身が自由に生み出す創造力を持ち合わせているということを真実に覚智すること』です。」

「私たち人間は地水火風空識の六大から出来ていて、宇宙の中心仏である大日如来の現れである。だから、自己本来の本質に目覚めるとき、私たちは大日如来と一体に重なった即身成仏人間としてあらゆる智慧と創造力を駆使した覚醒愉楽生活がおくれるというわけですね。」

「その通りです。私はそれだけの事を世の人々に知らせんが為にあらゆる智慧を絞りました。しかし、時代が時代だったためにか、多くの人を自己本来の面目を實覺(じつかく)智(ち)することで圓鏡の如く心は澄み渡り、自由自在に創造力を発揮する境地に導くまでにはいたっていません。」

「最も智慧を絞って工夫を凝らしたのは何でしたか。」

「書物の書き方です。密教思想を伝えるにあたって従来通りであれば多くの経典を引き、それを解釈するという方法なのですが、わたしは自ら作った偈を経典の言葉と同じ権威を持ったものとして解説して、密教思想を明らかにしようとしたのです。」

「経典の句を引き、それを独自の解釈で説明したりするのならまだしも、自分が作った偈を経典の句と同じ重みを持たせて解釈説明するとは思い上がりもはなはだしいということになったでしょうね。」

「しかし、私はあえてそうしたのです。経典の句の説明に自作の偈を引いてきて、その偈に経典の句と同じ重みを持たせる解説をくわえたのは私の思い切った挑戦でした。」

「あえてそうしたというのにはいかなる訳があるのですか。」

「自己本来の面目の實覺(じつかく)智(ち)を示さんがためです。
 私たちは自己の本質に目覚めたとき、自己の内部に大日如来を自覚し、自己すなわち大日如来、大日如来すなわち自己であるという自信を持つものです。このことを身をもって示さんがための言(こと)挙(あ)げでした。」

「人間のあり方の高みを具体的に見せてくれたのですね。目覚めた人間の言葉は、大日如来の言葉である経典の句と同等の重みを持つ、と言いたかったのですね。」

「そうです。目覚めた人間の言葉は大日如来の言葉であり、したがって、絶大なる創造力を持っているという言(こと)挙(あ)げだったのです。」

「言(こと)挙(あ)げといえば、あなたは入定(にゅうじよう)の直前、『般若心経秘(はんにゃしんきょうひ)鍵(けん)』という本を書いておられますが、これはあなたの言(こと)挙(あ)げの究極といってもいいものですか。」

「そうです。般若心経の一句一句にはすべての仏教の教義、事相が含まれています。そして、最高最上の真言密教の秘法が余すところ無く開示されているのです。」

「般若心経の一句一句にはすべての仏教の教義、事相が含まれているというのは具体的にどういうことですか。また、般若心経に開示されている最高最上の真言密教の秘法とは何ですか。」

「般若心経秘鍵に書いた般若心経の全体的概要を述べることでそれに答えてみましょう。
般若心経は大般若菩薩の偉大な心髄の真言によるさとりの境地を説いたものです。文全体は一枚の紙を満たすほどもなく、簡略であって要領を得ており、簡約でありながら深遠です。五蔵の経典に説く般若のさとりの教えは『行深般若波羅蜜多』という一句のうちにことごとく含まれて尽きることなく、また、七宗派のそれぞれの修行の成果は『三世諸仏依般若波羅蜜多』から『三菩提』に至るまでの一行に、余すところなく包みこまれています。観自在菩薩は諸宗派の修行者を意味し、『度一切苦厄』『究竟涅槃』は、諸教の修行によって得られる喜びを表わしたものです。『五蘊』は空間的な観点から迷いの境界を指し、『三世諸仏』は、時間的な観点からさとりの心を示しています。『色不異空』などの行は普賢菩薩が、華厳に説くすべてのものが完全に溶け合うという教えであり、『不生不滅・・』などの行は文殊菩薩の八不正観で煩悩を絶つ教えといえます。『是故空中無色受想行識』などの行は、すべてのものは心の現れとする弥勒菩薩の教えであり、『無智亦無得以無所得故』などの行は教えを聞くことによってさとる声聞などの教えが仏の唯一の教えに帰入するとする観世音菩薩の教えといえます。また、十二の因縁を説く『無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽』は、ものの生滅を独立でさとる縁覚に教えを示し、苦集滅道の四諦は苦や空などの特徴による教えによってさとる声聞などに知らしめます。
このように、般若心経はあらゆる教えを内包したすばらしい経典ですから、これを読み唱え、講説し、供養するならば、あらゆるものの苦しみを取り除いて、楽しみを与え、もし、この経典の教えを守り行ない、思惟するならば、さとりを得るとともに、不思議な力さえ身につけることができるのです。」

「般若心経の一句一句にはすべての仏教の教義、事相が含まれていて、各宗派の教えにことごとくこたえ得るもののようですが、この経典の教えを守り行ない、思惟して、さとりを得るとともに、不思議な力さえ身につけるには、具体的にどうしたらいいのでしょうか。」

「私は般若心経を五つの部分に分けています。第一は人と法とを全体的に説き示す部分として『観自在』より、『度一切苦厄』まで。第二はもろもろの教えを分類して説く部分として『色不異空』より、『無所得故』まで。第三は修行した人が得る利益を説く部分として「菩提薩埵』より、『三藐三菩提』まで。第四はすべてが真言に帰すことを説く部分として『故知般若』より、『真実不虚』まで。第五は秘密の真言を説く部分として『羯諦羯諦』より、『薩婆訶』まで。この中で第一の部分が最も重要な部分です。この部分も全体の立場から因、行、証、入、時という五つの要素を挙げることができます。まず因として、観自在菩薩は本来の面目としてその身にそなわった仏となるべき本覚の菩提があること。行として『行深般若波羅蜜多』、つまり、奥深い最高の完成された智慧をきちんと行なうことができること。それによって、証として『照見五蘊皆空』というさとりを得たのです。入としてはその智慧の実行によって『度一切苦厄』という結果を得ることになり、それは涅槃に入ることです。時とは修行に要する時間のことですが般若心経の教えを誦持すれば他の教えでは長くかかることでも、計り知れない智慧が得られて、たちどころにさとりが啓けるのです。
 最後に第一を要約すると、

観自在菩薩は深い完成された智慧の行を修して
五つの集まりが実体のないことをさとられた。
無限に長い修行をしている者たちも、
この修行で迷いを離れ、諸物の根源である一心に通達する
 ことができる

となるでしょう。」

「第一の人と法とを全体的に説き示す部分である 観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄 を 因、行、証、入、時 という五つの要素にわけて説明していますが、それが最高最上の真言密教の秘法の開示なのですか。」

「そうです。私は『即身成仏義』において二経一論八箇の証文を引用して『即身成仏』の教証を行なっています。
例えば、『金剛頂瑜伽修習毘廬遮那三摩地法』には『まさに次のように理解しなさい。密教の修行者は、自らが金剛界の大日如来にほかならない。自身が金剛になれば、堅固、かつ確実であり、傾いたり、壊れたりすることはない。私は、そのような金剛の身体となろう。」というのがあります。

 また、『大日経悉地出現品』には『この身このままで、思うまま行動できる不思議な力を得て、大いなる空の境地において自由に振舞い、しかも聖なる身体を完成することができる。』とあって、この『大日経』に説かれている結果功徳は、明咒真言を唱えることによって得られる結果功徳と、法身仏の境地を成就する結果功徳とを明らかにしています。ここにおいて大いなる空の境地とは、さとりの当体である仏身は、大いなる虚空と同様に妨げるものがなく、あらゆる現象存在を包含して永遠であることを知り得ている境地のことです。
また、『菩提心論』には『もし、誰であっても、仏の智慧を求めてさとりの心を覚知したならば、父母より授かったこの身このままで、ただちに大日如来の境地を体得することができる。』とあります。
 これらは、人は誰でもその気になれば『即身成仏』できるという教証です。そして『即身成仏」する具体的方法が『観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄』のなかに余すところなく開示してあることを私は読み取ったのです。」

「即身成仏、つまり、この身このままで仏であるという自覚を持つための秘法が読み取れるというのですね。従来の仏教経典の中では、いずれも計り知れない長い年月をかけて修行し、やっと仏になることが出来ると説いてあります。それを、この秘法の解読によって身近なものに出来るのですね。」

「そもそも仏の教えは、はるか遠くにあるものではありません。それは、われわれの心の中にあって、まことに近いものです。さとりの当体である真如は外にあるものではないから、身体を捨てて、どこへ求めることが出来ましょうか。迷いとさとりは、自己の内部にあるものだから、さとりを求める心を起こせば、さとりに到ります。さとりの明るい世界と、迷いの暗い世界は、自己の外にあるのではないから、仏の教えを信じて修行すれば、さとりの世界は、私たちの眼前にたちどころに開けてくるのです。」

「『観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄』から読み取れる秘法をわかりやすく教えてください。」

「観自在菩薩がさとりを求める原因(いん)は、もともと、観自在菩薩という尊格が般若心経の教えをよく実践する人で、本来その身に備わっている本覚の仏性を表出せんとする内的願望から来ています。次に、行(ぎょう)深般若波羅蜜多とはさとりを得る修行のことですが、観自在菩薩が行なった深遠な般若波羅蜜多の修行とは、どんな修行だったのかというと、『羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶』のマントラを誦えることでした。マントラ真言を繰り返して誦える修行を念誦法といっています。その念誦の結果が『照見五蘊皆空』ということであり、これがさとりを証(しょう)する智慧です。さらに、このさとりによって得られる結果が『度一切苦厄』であり、一切の苦厄から解き放たれた涅槃に入(はい)ることになります。」

「観自在菩薩が、本来その身に備わっている本覚の仏性を表出せんとする内的願望から、『羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶』のマントラを誦える念誦法を行なうことによって、『五蘊皆空』を確認自覚して、その結果、あらゆる苦労と災厄から開放され、涅槃寂静の世界に悟入したということですね。
 本来その身に備わっている本覚の仏性というのはなんですか。」

「観自在菩薩というのは旧訳においては観世音菩薩のことで、いわゆる観音様のことです。この観音様については観音経に詳しく記されています。観音経は法華経のなかの観世音菩薩普門品第二十五を独立させて観音経といっているものです。
 無尽意菩薩がお釈迦様に、観世音菩薩はどうして観世音と名付けられたのか、と質問したのに対する答えとして次のように書かれています。それによると――百千万億の人々がもろもろの苦悩を持っていても、観世音菩薩の名を聞き、一心にその名を唱えたならば、観世音菩薩はただちにその声を聞いて人々を苦悩から解き放ってくれる。この観世音菩薩の名を心の中にたもって、その名を唱えれば、大火や大水にあっても、暴風で船が難破しても、処刑されようとしても、夜叉や羅刹に襲われても、罪があって枷や鎖にその身をつながれても、たちまち危機を脱する事が出来る。
 また、愛欲に囚われても、憎悪に迷っても無知に迷っても、つねに観世音菩薩を念じて敬えば、欲や怒りや愚かさを離れることが出来る。――とあります。
 つぎに、無尽意菩薩は、観世音菩薩はどのようにしてこの娑婆世界に遊行して、どのようにして人々に教えを説くのか、と質問します。そうすると、お釈迦様は――仏の姿によって救うべきものには、観世音菩薩は仏の姿を現して教えを説く。菩薩の姿、声聞の姿、梵天の姿、帝釈天の姿、自在天の姿、転輪聖王の姿、毘沙門天の姿、などによって救うべきものには、それぞれの姿によって教えを説く。小王や長者や居士や宰官や婆羅門や僧や尼僧や信男信女の姿によって救われるものには、それらの姿によって教えを説く。医者、居士、宰官、婆羅門の妻の姿によって救われるものには、それらの姿によって教えを説く。童男、童女、神や竜神や夜叉や乾闥婆や阿修羅や迦楼羅や緊那羅や摩ご羅伽や人や人でないものの姿によって救われるものには、それらの姿によって説く。執金剛神の姿によって救われるものには、その姿によって教えを説く。この観世音菩薩はこのような功徳を備え、さまざまな姿となって、あちらこちらの国土に遊び、人々を救う――とあります。
 これは、観自在菩薩の、本来その身に備わっている本覚の仏性の一端を、お釈迦様の言葉として書かれたものだといえます。」

「次に、観自在菩薩が行なった深遠な般若波羅蜜多の行とは、『羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶』のマントラを誦えることでした、とありますが、ここのところの説明をお願いします。」

「本覚の仏性が本来その身に備わっていて、観ること自在である観自在菩薩の行なった深遠な般若波羅蜜多の行とは、完全な智慧による深般若波羅蜜多という行法でした。そして、それは具体的には『羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶』のマントラを誦えることでした。」

「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 の解説をお願いします。」

「私は般若心経秘鍵を書いた当時、その中で、最初の『羯諦』は、教えを聞いてさとる者つまり声聞の修行の成果をあらわし、第二の『羯諦』は、独自にさとる者つまり縁覚の修行の成果をあらわし、第三の『波羅羯諦』は、法相・三論などのもろもろの大乗菩薩たちの修行の成果をあらわし、第四の『波羅僧羯諦』は、曼荼羅・真言を完全に備えた密教の修行の成果をあらわし、第五の『菩提薩婆訶』は、究極的なさとりに入る意義を説明している、としています。
そして、次のような頌(じゅ)を書いています。

 真言は不思議なり
 観誦(かんじゅ)すれば無明(むみょう)を除く
 一字に千理を含み
 即身に法如(ほうにょ)を証す

 行(ぎょう)行(ぎょう)として円(えん)寂(じゃく)に至り
 去去(ここ)として原初に入る
 三界(さんがい)は客舎(かくしゃ)の如し
 一心(いっしん)は是れ本居(ほんこ)なり              
                      
 真言とは不思議なものである
 本願を観想しながら真言を念誦すれば、根源的な無知の闇が 除かれる
 真言の一字一字の中に、それぞれ千の理法が含まれていて
 この身このままで真理をさとることができる

 『羯諦 羯諦」と行き行きて、静かなる涅槃の境地に至り
 『波羅羯諦 波羅僧羯諦』と渡り渡って、彼岸のさとりに入 る
 この現象世界はあたかも仮の宿の如く
 自己本来の面目たる一心こそが本来の拠り所である  
                           」
「般若波羅蜜多の真言を五種に分けて、順に第一声聞・第二縁覚・第三諸大乗・第四真言密教の成果を明らかにし、第五真言『菩提薩婆訶』で、あらゆる教えが究極的には、さとりに入ることを説いているのですね。
 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 を日本語に訳すとどうなるでしょうか。」

「渡った、渡った、彼岸に渡った、彼岸に完全に渡った、さとりだ、おめでとう。」

「完全な智慧による深遠な般若波羅蜜多の真言の訳にしては変な感じですね。」

「完全な智慧の真理とは単純なものです。彼岸へ渡る事を最終目的とする人々にとっては、この真言こそが最良のものです。仏教においては『五蘊を空と照見して一切の苦厄を度し、涅槃の境地へ至ること』、つまり、『悟ること』を『彼岸へ渡る』とたとえていますから、悟るため『彼岸へ渡る』ための真言は『渡った渡った、彼岸へ完全に渡った、おめでとう。』でいいのです。」

「彼岸へ渡る事を最終目的とする人々にとっては『渡った、渡った、彼岸へ完全に渡った、おめでとう。』でいいということは、自己を探究し、涅槃の境地へ至るさとりをえるためにはこの真言でいいということですね。それは、日常の願望を達成するためには、これとは別の真言があるという意味に理解していいのでしょうか。」

「これは、自己を探究し、智慧と慈悲を実践する高度な修行の技法として、尊重されてきたものですが、観自在菩薩のさとりである『照見五蘊皆空』がなされたならば、この技法を日常生活における願望の達成にも大いに使っていいのではないでしょうか。」

「この技法を日常生活における願望の達成に使う場合、どのようにすればよいでしょうか。」

「彼岸へ渡る事を最終目的とする人の真言は『渡った、渡った、彼岸に渡った、彼岸に完全に渡った、さとりだ、おめでとう。』でした。これを参考にすれば、たとえば、病気が治りたい人の真言は『治った、治った、元気になった、元気が完全に回復した、おめでとう』というような意味合いを持つものにすればいいのではないでしょうか。」

「真言マントラを自分勝手に作っていいものでしょうか。」

「本来、マントラとは、師が弟子の修行の達成度に応じて伝授するものでした。奥義に到達し、自己本来の面目を自覚した師がいて、まだ、自覚し得ない弟子に、その奥義に達するためのマントラを授け、そのマントラを誦えることにより、マントラを誦える人の魂が揺さぶられるという体験の中において、マントラは意義を持つものでした。
しかし、『虚空蔵求聞持法』に新しい工夫を自ら施して、つまり、わたし独自の『虚空蔵求聞持法』によって、自己の目的を達成することが出来、ここに、自らが大日如来と同じ創造力を持った存在なのだという自覚を持つに至ることへの光明を見出した時以来、『幾多の仏典書物を読み漁り、唐にまで渡って求めたところ、真言密教に人間の根本的あり方を見出したのです』と以前に述べたように、根本的あり方としての人間は、自ら、自らのマントラ真言によって、自己を創造していくことが出来る存在なのだという確信を持って以来、マントラは、師や仏典から伝授されるだけのものではなく、その人の願いに合わせて、その人が思うとおりの言葉を、自分で自分のマントラ真言にしていいのだ、と思うようになりました。その言挙げが私の書物の書き方だったのです。そして、その集大成ともいえるものが『般若心経秘(はんにゃしんきょうひ)鍵(けん)』であったわけです。」



中今呑


コメント(2)


『虚空蔵菩薩求聞持法』


の誤りでした。

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