ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

☆CORNELIUS☆コミュの小山田圭吾氏年表

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
えぇなんとなく年表群を載せていくと書いてましたがやめることに決定。こういう情報のたぐいは生半可に載せる意味はないなとあらためて思いましたので。で、いくつか削除しました。小山田氏のものを最後に載せることにしようと思います。たしかバッフアウトに載っていたものにほんのちょっとなにかプラスしただけですが。おしゃれで憎いアンチクショウ!バツイチ。子持ち。中目黒。

1969年(昭和44年)1月27日。愛育病院にて生誕す。生家は大井町沿線の旗の台。

1972年(昭和47年) 3歳 通常より入園が早い愛育幼稚園に入園。近くに住む外国人パイロット、ヘルド氏宅によく遊びに行く。飼い犬が怖かった記憶が残る。

1973年(昭和48年) 4歳 世田谷区下馬に引っ越す。近くにある育英幼稚園に通常の幼稚園として転園。クラスメイトに当時、ジャイアンツの名二塁手、土井正三の愛娘、ようこちゃん。餅つき大会に土井選手が来園し、餅つきするのを見、それ以来、ジャイアンツ・ファンに。

1974年(昭和49年) 5歳 「ママと遊ぼうピンポンパン」に初のテレビ出演。当時、カータンが出演した子の書いた絵をうまく書き直すというコーナーに応募も予選の段階で「カータンが真似できない絵を書いてやれ」と思い、実行したためかそのコーナー出演者としては予選落ち。その他多勢として出演するも、出番待ちの際、意外にも子供を叩いていぢめてるガータンに激怒。ケリを入れる。親同士が仲がよかった同じクラスの岸田まいちやんに初恋。鼓笛隊の先頭が同じだったことがフォーリン・ラヴのきっかけ。『冒険王』連載の永井豪作の「へんちんポコイラー」に感銘を受ける。

1975年(昭和50年) 6歳 小学1年生 和光小学校入学。入学式から1週間、おたふく風邪で出鼻を挫かれる。

1976年(昭和51年) 7歳 小学2年生 駒沢公園で交通事故に遭う。当日、病院から出る際、手術中からずっと握りしめていた右手を開くと事故に遭う際、持っていたくしゃくしゃになったモーラと40円の回数券が出てくる。

1977年(昭和52年) 8歳 小学3年生 知恵遅れのKくんが転校して来て、学校中騒然となる。歌謡曲に燃える。日本レコード大賞での沢田研二VS石川さゆりレースでは断然ジュリー派。結果、石川が勝利で悔し泣き。マンガは、「ドカベン」「ブラック・ジャック」「マカロニほうれん荘」が載っている『少年チャンピオン』派。級友はくぼ君と「マカロニほうれん荘クラブ」を結成。活動内容は連載ページを切り取りファイリングすること。持ってないバック・ナンバーはゴミ捨て場などで拾ってきて揃え、コンプリート版を作成(表紙は自分達で描く)。クラブに入会希望殺到し、入学試験としてコアなマカロニほうれんクイズを課す。結果、誰も入会できず。その後、自然消滅。

1978年(昭和53年) 9歳 小学4年生 TBSテレビ『ムーー族』にて、生放送でジュリーがギタリストに竹田和夫をフィーチュアして、大好きだった曲「憎みきれないろくでなし」を映画『愛の嵐』のナチのようなコスチューム、カミソリのイヤリング、子持の爪のみ黒く塗ったマニュキア、皮パンで演奏(ロバクではない)するのを観て、再びショック。そのシーンの前振りは、受験勉強に嫌になった拓郎〈郷ひろみ)が金田さん(樹木希林)といっしょにジュリーを観に行くという設定。その後、画面が変り、郷ひろみVSジュリーの2大スーパースター対決となる。1ラウンドは郷とジュリーが「ハウンド・ドッグ」を交互にヴォーカルを取り合うセッション。2ラウンドはツイスト合戦。3ラウンドに持ち歌対決。まずジュリーが「憎みきれない〜」、次に郷が『サタデー・ナイトフィーバー』のトラボルタを意識したディスコもの「ヘル・オア・ヘヴン」を披露するという構成。初めて自分の小遣いでレコードを購入(ピンク・レディーの「UFO」)

1979年(昭和54年) 10歳 小学5年生 TVの音楽番組『ザ・ベズトテン』を好んで観る。クリ・キン、ツイスト、ゴダイゴが好きであった。ツイストは、誕生日に友達からセカンド・アルバムをプレゼントにもらい、1曲目の「フライ」が気に入る。お気に入りのゴダイゴのメンバーはトミー・シュナイダー(ドラム)とスティーブ・フォックス(ベース)。最初の疑似洋楽体験。夏休み、引っ越した友達に会いにニューヨークに一人旅を敢行する。渡米目的のひとつであるキッスのアルバム『ラヴ・ガン』を購入する (外国のレコードは外国にしか売ってないと思っていた)。帰国後、従兄にもらった『ミュージック・ライフ』がきっかけで洋楽にも興味を持つ『少年チャンピオン』から『少年ジャンプ』に鞍替え。好きな作品は「すすめパイレーツ」「リングにかけろ」。

1980年(昭和55年) 11歳 小学6年生 成績も良く、あい変わらず歌謡曲に燃える日々。「ヤング・オー・オー」でジュリーが「TOKIO」をファンの要望でシングル・カットすることを宣言。その直後に電飾つけて演奏する井上尭之バンドをバックに感動。EXOTICSにロック、ニュー・ウェイヴを感じる。

1981年(昭和56年) 12歳 中学1年生 和光中学に進学。中学時代は学年ははっきりとはしないが、いじめのアイディアマンとしての実力も発揮していた。内容は本人によると「全裸にしてグルグルに紐を巻いてオナニーさしてさ。ウンコを食わしたりさ。ウンコ食わした上にバックドロップしたりさ」等々。本人は直接手を下さず行き過ぎると引いていたらしい。

1982年(昭和57年) 13歳 中学2年生 友達はクラスメイトの滝沢君と宍戸君(俳優宍戸錠の三男)。宍戸君の家に遊びに行った際、宍戸錠の作ったカレーライスをごちそうになる。グレコのレスポール・モデルを購入。ギターをはじめる当時、行った外タレのライヴはマイケル・シェンカー・グループ、クイーンなど。しかしファッションはIVY。同じテニス部の小沢健二とはまだ交友生まれず。やる気出ずフェード・アウト。人気テレビ番組「ベストヒットUSA」を見、チャートものは何でも聴いていた。

1983年(昭和58年) 14歳 中学3年 ヘヴィメタ・バンド、ショッカーを結成、学園祭で演奏、ライトハンド奏法を披露し評判を得る。初めてタバコの味を覚える。ラジオ関東(現ラジオ日本)放送のスヌーピー(今泉恵子)、大貫憲章司会「サウンド・プロセッサー」「全米トップ40」「全英トップ20」を愛聴。『音楽専科』で見たエコー&ザ・バニーメンのイアン・マッカロクの部屋に置いてあったアズテック・カメラの『ハイランド・ハード・レイン』を発見。おそらくこの頃、友人達と調布のショッピングセンターで何度か窃盗をはたらく。合計で100万円近くの額に達する。仲間の1人が見つかり学校に発覚。学年総会等の議長を務めていた小沢健二の指示もあり仲間達とともに全校生徒にマイクで謝罪。これだけではなく、よく学年総会で小沢に怒られていた。小沢もおそらくこの頃は新宿紀○国屋での書籍の万引き常習者。小沢は学校にはバレず優等生として存在していた。ともかく無事卒業。

1984年(昭和59年) 15歳 高校1年生 欠席・遅刻常習で1学期の時点で大学推薦されずという状況に陥る。シングル「マイ・エヴァー・チェンジンク・ムーズ」のジャケットの通り、ポール・ウエラーがタバコをマルボロからジタンに変更との噂を聞き出し、下校時、友人とジタン捜索を敢行する。ようやく見つけるも、あまりの不味に一口でバァフする。「ゲンズプールが吸ってようが、誰が吸ってようがダメ。ゴロワーズもダメ」との迷言を残す。バイトへの憧れを満たすため、新宿の〈ケンタッキー・フライドチキン〉で初バイト。あれこれ指図されることや生鳥肉の扱いに嫌気が差し、1日で辞める。友達の家で何じ中学だった小沢健二と再会。小山田作製の編集テープにピピッときた小沢より電話があり、以後交友深まる。

1985年(昭和60年) 16歳 高校2年 週に1度の割合で友人、富沢君(のちバァフ・デザイナー)のヴェスパ125ccに二人乗り(後部座席専門)して町田にある和光高校まで登校する。が、遠い上にスクーター通学という無謀計画ゆえに途中の喫茶店ブレイク→遅刻→午後から出席が当たり前に。校内でバンド・ブーム爆発。学園祭では10のバンドを掛け持ちする。

1986年(昭和61年) 17歳 高校3年 無事卒業。卒業写真は撮影に欠席し、囲み扱いに。3年間同じクラスにもかかわらず半数以上、話さないままに終わる。

1987年(昭和62年) 18歳 6ケ月のバイト生活後、9月より〈セツ・モード・セミナー〉に入学。理由が1.絵が好きだったから。2.入学方法が試験はなくクジ引きであったから、3.週3日なのでラクそうだから。当時の生活は放課後、洋服屋でのバイト→翌日バイト疲れで自主休校が通常パターン。校内では友達できず。予備校帰りの小沢健二がバイト先にちょくちょく来店、二人でお茶の水のレンタル・レコード・ショップ〈ジャニス〉に通う。当時〈ジャニス〉は英国音楽好きが集うカルト的コミューンであった。友達の友達だった井上由紀子さんの勧誘でバンド活動を再開。そこで出会つた沖野俊太郎と伝説の(?)ニュー・ウェイヴ・バンド、ビロードも始める。どちらもリード・ギターを担当。渋谷〈シード・ホール〉にてホール・スタッフとしてアルバイト開始。業務はジョージア・オキーフ展などの展示スペースの端でもっぱら読書。あとは作品に接触せんとする輩に「触らないでください」と哀願すること。ビロード、シングル「Self Love Portrait」1枚残すが中古盤筋の評価は激シプ(ン百円?)。ちなみに現在は超高値(ン万円)にて流通。メンバー・チェンジを経てロリボップ・ソニックに発展。「歌う人がいなかったので」ヴォーカルもとるようになる。当時日本では完全なアンダーグラウンドだったアノラック・ムーヴメントにいたく影響され、ジャングリー・ギター・ポップ風のオリジナルを初めて作る。タイトルは「ゴー」。この頃、リード・ギターで小沢加入。

1988年(昭和63年) 19歳 当時、ロリボップ・ソニックがライヴを行なっていたのは渋谷〈ラ・ママ〉、原宿〈クロコダイル〉、六本木〈インクスティック〉、新宿〈ジャム・スタジオ〉など。客は6割ぐらい埋まる程度。対バンはオリジナル・ラヴ、JAZZBONES、フイリップス、ペニー・アーケード、シンク・カーネション(武蔵美の幻のネオ・アコ・グループ)等。「コーヒー・ミルク・クレイジー」「エキゾチック・ロリボップ」の2曲が、モッジン『ヒア・トゥデイ』と並ぶ元祖UKファンジン『英国音楽』の付録のソノシートに収録さる。続いてもう1枚、「ホイッスリン・アンド・スマイリン」にも「グッパイ・アワ・パステルズ・バッヂ」を提供。両親が海外旅行に行く際、渡された授業料を使い込む。帰国後も「学校に行くふり」して犯行を隠蔽。ロリボップ・ソニックがレコード・デビューすることになったのを幸い「レコーディングで忙しいから、ちと学校休む」と更に嘘の上塗りする。そのまま95年に至るが現在も犯行は明るみに出ていない。ロリボップ・ソニック限定100本手作りポストカード付きカセット『フェイヴァリツト・シャツ』を自主製作。初めの20本にはジャケットに水彩絵具による赤と青の線が入る。英『レコード・ミラー』誌の名物ライター、ジョニー・ディーが選ぶ「今週のシングル」にロリボップ・ソニックが選ばれる。英レーベル、〈LADIDA〉リリースのカセットコンビレーション『Hoopla』に「エキゾティック・ロリボップ」が収録さる。日本最古のネオアコ・バンド、デボネアと大阪にて開かれた通称「アッコちやんズアノラック・パーティー」で共演。その時のライヴが主催者の〈ぽうしレーベル〉よリカセットリリースされる。

1989年(昭和64年、平成元年) 20歳 メンバーがデモ・テープをサロン・ミュージックに渡したことから話が進み、〈ポリスター〉よりデビューが決まる。バンド名を変えることになり、楽器の名前を入れるのがいいとのことで、フリッパーズ・ドラムなどのアイディアの出たが、当時のメンバー、荒川君(現〈ポリスター〉社員)の命名でフリッパーズ・ギターにする。レコーディング終了後のデビュー直前、交通事故に遭い、入院。8月25日、デビュー・アルバム『スリー・チアーズ・フオー・アワ・サイド』発表。横浜〈マイカル本牧〉 にて、イクラちゃんの子分たちのバンドといっしょにライヴ。観客は50人。その後、「いろいろあって」5人から小沢との2人編成に。

1990年(平成2年) 21歳 1月25日、2人になって初のシングル「フレンズ・アゲイン」リリース。東幹久、つみきみほ主演のカルト青春映画『オクトパス・アーミー〜渋谷で会いたい』主題歌に使用さる。出演依頼も受けたが、脚本を見てあっさり断わる。のち、〈LA-DI-DA〉レーベルのコンビレーション・アルバム『ブルパドール』にもロング・ヴァージョン収録。これ以降、楽曲のクレジットは全て〈ダプル・ノックアウトコーポレーション〉名義になる。3月10日ヴィデオ『それ行けフリッパー名画危機一髪』リリース。5月5日、シングル「恋とマシンガン」リリース。チャート最高17位のスマッシュ・ヒットになる。6月6日アルバム『カメラ・トーク』リリース。渡辺満里奈に楽曲「大好きなシャツ」「レイニー・カインド・オブ・ラヴ」の2曲を提供。『POPEYE』にて「ビバ・デス・ロウ」連載開始。その後『宝島』でも「フリキュラ・マシーン」連載。翌年、人気投票1位のまま2回で終わった『i-DJAPAN』での「ビバ・デス〜90’sのオキテ」を含め、いずれも構成はドギー・ドッグ・ディー。9月25日マキシ・シングル「カメラ!カメラ!カメラ!」リリース。10月25日クリップ集『続・それ行けフリッパーズ!!オリジナル・クリップとCM集』、コンピレーション・アルバム『ファブ・ギア』リリース。11月21日シングル「ラヴ・トレイン」リリース。「輝け!日本レコード大賞」にてレコード新人賞を受賞。司会の坂東英二が「フリッパーズのギターです」と紹介し、話題に。

1991年(平成3年) 22歳 〈富士通〉98ノートのCMキャラクターに起用されるもあえなく、大江千里に変更さる。〈クラブ・チッタ〉にて瀧見憲司とDJイヴェント「ビバ・デス・レイヴ」開催。満員、オールナイトで盛り上がる。3月20日シングル「クルーヴ・チューブ」リリース。7月10日ラストアルバム『ヘッド博士の世界塔』をリリース。8月25日シングル「星の彼方に」リリース。9月、解散。ツアー等バンドとしての予定は全てキャンセルさる。原因は今に至るも明かされず。10月27日、変名で作曲・プロデュースしたカヒミ・カリイの2曲を含むオムニバス・アルバム『プロウ・アップ』〈クルーエル〉よりリリースさる。12月1日クリップ集『テスタメント』リリース。12月21日ベスト・アルバム『カラー・ミー・ポップ』リリース

1992年(平成4年) 23歳 〈ポリスター〉内に新レーベル〈トラットリア〉を設立、プロデューサーとして参画。6月1日、サッカーの応援歌を集めたコンビレーション・アルバム『ベンド・イット!』リリース。日本独自の企画として、カヒミ・カリイとブリッジの書き下ろしをプロデュース、収録する。11月26日、自らモー・ミュージック名義で参加、プロデュースしたコンピレーション・アルバム『ジャズ・ジャージー』リリース、ブリッジのファーストアルバム『ウィンデイ・アフタヌーン』をプロデュース。〈資生堂〉ウーノのコマタレに起用される。レコード屋でサクサクしているコンテでは、新しいスタイルとして自ら片手サクサク・ポーズを提案。年末のスポンサー・パーティで柳薬敏郎、時任三郎に挟まれスピーチするも反応薄く、寂しい思いをする。12月21日、〈クルーエル〉よりプロデュース及び全楽器を演奏したシングル、カヒミ・カリイの『マイク・オールウェイズ・ダイアリー』リリース。また小泉今日子のアルバム『bambi−nater』に初の作詞曲「華麗なる休暇」提供。クリスマス・ギフトとして、ヴィデオとCDを詰め合わせた『トラツトリア・コースVo1.1』を初回限定でリリース。〈エル〉コンピレーション・アルバム『アーメン』にフリッパーズの音源が収録さる。

1993年(平成5年) 24歳 3月25日、プロデュース・アルバム、ブリッジの『スプリング・ヒル・フェアー』リリース。6月1日、プロデュース・アルバム、ピチカート・ファイブの『ボサノヴァ2001』リリース。8月25日、初のレーベル・イヤーズ・ベスト『プレーゴ!93』リリース。9月21日、〈クルーエル〉のコンビレーション・アルバム『ハロー・ヤング・ラヴァーズ』にギタリスト、アレンジャーとして参加。コーネリアスとして9月1日シングル「太陽は僕の敵」、10日『ホリデイズ・イン・ザ・サンep』でデビュー、〈HMV〉のCD袋にコーネリアス・ロゴを刷り込んだキャンペーンが注目を集める。11月10日シングル「パーフェクトレインボウ」リリース。12月22日アナログ12インチ・シングル「レイズ・ユア・ハンド・トゥゲザー」をリリース。

1994年(平成6年) 25歳 1月26日シングル「(ユー・キャント・オールウェイズ・ゲット〉ホワット・ユウ・ウォント」リリース。2月25日ファーストアルバム『ファーストクエスチョン・アワード』リリース(オリコン初登場第4位)。3月25日クリップ集『プロモーションズ』リリース。6月25日シングル「ムーン・ライト・ストーリー」、〈クルーエル〉よりプロデュースEP(ただし1曲のみ)、カヒミ・カリイの『Girly』リリース。9月1日ライヴ・ヴィデオ『ラヴ・ヘヴィメタル・ミュージック・ヴイジョン』リリース。11月20日プロデュース・アルバム、エル・マロの『ザ・ワースト・ユニヴァーサル・ジェット・セット』リリース。

1995年(平成7年) 26歳 1月〈P'PARCO〉「1st Anniversary計画、発覚。」イメージ・キャラクターに起用。1月25日プロデュース・ミニ・アルバム、カヒミ・カリイの『マイ・ファースト・カリイ』、初めて〈トラットリア〉よりリリース。4月、FM802、「LoveOverTime」パーソナリティとして出演。「TVBros.』にて「猿は猿を殺さない」連載開始。4月25日コンピレーション・クリップ集『トラツトリア・プロモーションズ』リリース。7月25日プロデュースEP、カヒミ・カリイ〈トラットリア〉より『「彼ら」の存在』リリース。8月25日、レーベル・イヤーズ・ベスト『プレーゴ95』リリース。10月「MoonWalk」をシングル・カセット(200円けでリリースし、オリコン・カセット・チャート首位を狙うが、実はそのようなランキング部門は無く、ガックリ。11月 セカンド・アルバム『69/96Jをリリース(オリコン第3位)。ピンク・ビニール・ジャケットが業界のド肝を抜く。また、オジー・オズポーンとの対談の話が来たり、ギター小僧のファンが増える。この年、初めてのパソコンとしてPowerbook Duo280を購入。トラットリア公式HPも立ち上げ。

1996年(平成8年) 27歳 6月『69/96』のギミックス盤F96/69地球あやうし!!」リリース。hide(×JAPAN)、岡村靖幸、スチヤダラパ、まりん(当時電気グルーヴ)ほかによるギミック溢れるリミックスが話題を呼ぶ。また、CX系『ちびまる子ちゃん』オープニング・テーマ・ソング「ハミンクがきこえる」(唄:カヒミ・カリイ/トラツトリア)を作曲する。9月トラツトリア・レーベルの100枚目を記念して、CD3枚、ピクチヤー・アナログ・レコード、丁シャツ、ゲームなどがセットになったデラックス盤『TRATTORIAmenu.100』(10000円!!)を限定発売する。9月29日(日)上野公園内のお寺で行われた藤子F不二雄先生の葬儀に出席。

1997年 28歳 6月11日12インチ・アナログ「STAR FRUITS」と「SURF RIDER」を同時にリリース。1枚ずつ聴いてもよし、2枚同時にかけると1つの曲「STAR FRUITS SURF RIDER」として聴ける音響的冒険が話題を呼ぶ。8月6日サード・アルバム『FANTASMA』をリリース。初回特別仕様にはイヤフォンが付いていた。尚『FANTASMA』のレコーディング終了後、疲れを癒すために「ブラ・ブロ」(ブライアン宅のお風呂)に入浴。10月音と映像の祭典「FANTASMATICWORLDTOUR」開始(全国13公演)。ラストは初の日本武道館。

1998年 29歳 3月『FANTASMA』をほぽそのままの形で、アメリカのレーベル・マタドール・レコードから発売。“ブライアン・ウイルソン・ミーツ・ブラック・サパス”的な受け方をはじめ、好評を博す。6月、アムステルダム、ロンドン、パリ、ニューヨークなど、アメリカ・∃一ロツパを回る初めてのワールド・ツアー行なう(全12公演)。9月ハンブルク、グラスゴー、ミュンヘン、リヨンなどを回る2度目のヨーロッパ・ツアー(全11公演)。11月ニューヨーク、ワシントン、フィラデルフィアなどを回る2度目のアメリカ・ツアー(全14公演)。11月26日『FANTASMA』の楽曲を内外のアーティストがRE−MlXした作品を集めた『FM』と、今までにコーネリアスが海外アーティストから頼まれたRE−MlXを集めた『CM』をリリース。同日・初の単行本『コーネリアスの惑星見学』を出版。単行本にエコ・プレーヤーとソノシート3枚が付いた、6000個限定の<特別篇>は即完売。12月海外ツアー時の4ピースで国内ツアー「FANTASMATICWORLDTOUR−98」を行なう〈全7公演)。

1999年 30歳 春 hide、ブラー、マニック・ストリート・プリーチャーズなど、リミキサーとしてもモテモテ。4月−6月3度目の∃一ロッパ・ツアー(全8公演)。6月−7月北欧を含む、これまでで最も過酷な∃一ロッパ・ツアーを無事終了(全10公演)。イギリスのグラストンベリーやデンマークのロスキルドといった由緒あるロック・フェスにも初参加。8月フレーミンク・リップスとアメリカ大陸を縦断(全10公演)。その後、イギリスでレディングフェス他に出演(全4公演)9月ニューヨークでマタドールのイヴェントに出演(全4公演)。新宿リキッド・ルームでゆらゆら帝国と対バン。10月ウッドストックに次いででかい、アメリカのロック・フェス「コーチャラ・フェスティバル」に出演。12月「2001 A SPACESHOWER ODDESSAY」(ZEPP東京)で電気クルーヴと対バン。

2000年 31歳 春にベック、スティング、k.d.ラングなどのリミックスを手がける。3月トラツトリア・レーベルの200枚目を記念して、コンビレーション・アルバム『menu.200』を2000円というドン・キホーテもびっくり!な値段で期間限定発売。ハムレット盤とドン・キホーテ盤の2枚組で、計30曲収録。選曲は小山田が担当。5月24日’99年の海外ツアーの勇姿を編集したライヴ・ヴィデオ『EUS』をリリース。6月 嶺川貴子さんと結婚。

2001年 32歳 10月24日アルバム『POINT』をリリース

コメント(1)

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

☆CORNELIUS☆ 更新情報

☆CORNELIUS☆のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング