吉井勇コミュの吉井勇による「珈琲の・・」歌二首

　先日、「珈琲の濃きむらさきの一碗を啜りてわれら静こころなし」の歌の由来を調べていました。手元にあった「百日草」、「歌集河原蓬」、「墨寶抄」、「短歌歳時記」、「鸚鵡杯」を調べましたが、残念ながら見つかりませんでした。他の歌集にある歌なのでしょう。諦めて井上誠の「珈琲物語」を調べていましたら、なんとこの「珈琲のこきむらさきの・・」の歌が掲げてありました。井上によると、「パンの会」に関して出てきた詩で、それは「酒ほがい」という歌集にある歌とのことでした。これは吉井の最初の歌集です。吉井勇の別の本（「東京・京都・大阪　―　よき日ふるき日」や「京の歌ごよみ」）には「パンの会」のことが書かれてありました。明治の末年、ドイツのベルリンで新しい文学・美術の運動（ロマン派エキゾチシズムの芸術運動）が起こりました。その運動の名前が「パンの会」でした。日本ではこの運動に刺激されて、同じ「パンの会」という名前を冠して運動が出来たのでした。明治41年の頃です。吉井はそれまで森鴎外の主催する短歌の会「観潮楼歌会」（鴎外は短詩の会と称していた。明治41年3月から明治44年3月まで続いた）にも出ていたのですが、これに飽きたらず、「パンの会」に走っていったようです。この会には、文学から木下杢太郎、北原白秋、美術から石井柏亭、山本鼎、森田恒友、木版彫刻から伊上凡骨、写真製版の田中松太郎、また凡骨の彫刻の弟子のドイツ人フリッツ・ルンペがこの会に参加したということです。ただし、真剣に文学や美術を論じるということではなく、酒を飲んで大騒ぎをしたとのことだったと吉井は言います。パンの会が行われた最初の場所は両国橋の手前の「第一やまと」という西洋料理店でした。木下杢太郎は会の場所をカフェーにしようと探したのですが、見つからず、そこになったということでした。ここでの会はしかし2,3回だったということで、伝馬町にある三州屋というところに移りました。ここは明治初期の西洋館の風情があったようで、パンの会に相応しいということになりました。さて、件の歌にある珈琲はここで出されたのでしょうか。吉井は明治19年の生まれで、パンの会が出来た明治41年は彼が二十四歳前後で、血気盛んで、「珈琲のこきむらさきの・・」の歌の「われら」はパンの会の元気な仲間であったようです。このパンの会には後、与謝野寛、谷崎潤一郎、里見弴なども参加して、実に多士済々という感じで賑わったのでした。井上誠の本によると、しかし、この三州屋でのパンの会も下火になったということで、日本橋小網町の「メゾン鴻の巣」や京橋日吉町の「カフェ・プランタン」に移って彼らは「パリ風のスタイルを追って行った」（井上）ということで、「珈琲のこきむらさきの・・」の歌はこうしたカフェでのことであったのかもしれません。いずれにしろ、この歌は戦前の不安定な時局での歌ではなく、若さ故の歌であったとみられます。珈琲もその興奮度を加えたのでしょう。吉井は「酒ほがい」の「わかうど」の章で珈琲の別の歌を掲げています。それは「珈琲の香にむせびたる夕より夢見たる人となりにけらしな」です。青春の思い出が珈琲の香りと渾然一体となっているように読まれます。

　戦争がまだ苛烈になっていない昭和16年、吉井と木下杢太郎らが京都南禅寺の瓢亭という料亭で会した時に、昔の話で盛り上がったと言います。これは吉井の「京洛歴程」という昭和二十二年の本に記してあります。木下の仏印からの帰路、京都に立ち寄り、吉井を瓢亭で他の仲間とも再会した。話題は仏印に関してはアンコールワットの古蹟ぐらいで、あとは「明星」や「スバル」時代の懐旧談、そして彼らの青春の「パンの会」でのことであったと、吉井は「京の歌ごよみ」の中で述べています。この時のことを、吉井は一つ歌に詠んでいます。

　　　　瓢亭の朝粥すすり松に吹く風の音聞けば心すがしも

　先程の「珈琲の濃きむらさきの・・・」の歌は珈琲を飲んで心静かならずの趣でしたが、ここでは朝粥を食して心すがしもという「老残枯淡の境涯」の風情があり、興味深い対照をなしています。