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ウエストロードブルースバンドコミュのmember.1 永井"ホトケ"隆(vo&g)

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【オフィシャルサイト】
http://www.hotoke-blues.com/

★大急ぎで自筆profileをご紹介。HPからの転載です。あしからず。

本名/永井隆。1950年10月24日生まれ。三重県出身。
ビートルズとの出会いは衝撃というよりも、聴いたことのない、訳の分からない、でも聴きたくなる、不思議な音との出会いだった。中学から高一ぐらいまではビートルズはじめローリング・ストーンズ、アニマルズ、キンクス、スペンサー・ディビス・グループ、ゼムなどブリティッシュ系を中心にアメリカのビーチボーイズ、バーズ、CCRなどもよく聞いた。
高校生になると映画に魅かれ「映画研究部」に所属。フェリーニ、アントニオーニ、ゴダールなど、やや難解なもの憑かれてしまう。当時の好きな女優はジャンヌ・モローとモニカ・ヴィティだった。ジャズ喫茶に行き始めたのも高校2年頃。マイルス・ディヴィスがいいと思ったが、最初に買ったジャズ・アルバムは何故かソニー・ロリンズの「Tenor Maddness」。たぶん「Maddness」という言葉にグッと来たんだろうと思う。渡辺貞夫さんのラジオ番組「ナベサダとジャズ」も愛聴していた。何度読んでもすべてがわからないサルトルや言葉だけがかっこいいと思ったケルアックの本と吸い始めたばかりの缶ピースをもってジャズ喫茶へ行き、そして飲めもしないのにウィスキー(なぜかハイボールをよく飲んでいた)を飲みトイレで何度も吐いた。映画も音楽も本も難しいものに魅かれた年頃で、すべてに「背伸び」をしていた。ベトナム戦争の激化で政治や社会に興味を持ちはじめて、高2の10/21国際反戦デーの日デモに初めて出た。60年代も終わりに近づいた頃、クリーム、ジミ・ヘンドリックスなどの登場で再びロックに強い興味をもちはじめた。10代の10年間、本当に興味をもてなかったのが日本のフォークソングだった。

1970年
同志社大学文学部在学中に軽音楽サークル”ライラック・レインボー”にて知り合った小堀正とビートルズ、CCRなどをカヴァーするロックバンドを始める。ちなみにバンド名はシルヴァー・スプーンだった。

1971年
同サークルに所属していた塩次伸二とブルーズ・ロックのバンドを結成したが、同サークルの古い体質に嫌気がさし塩次、小堀たちとサークルを脱退しディスコなどに出演し始める。この当時、偶然NHK-TVでOn Airしていた「黒人の魂-ブルース」というイギリス、BBC-TV製作の番組に塩次と強いショックを受け黒人ブルーズのレコードを探しはじめる。当時関西で最も輸入ブルーズ・レコードを仕入れていた心斎橋「サカネ楽器店」を塩次が見つけ、以後阪急電車に乗って京都から大阪へ頻繁にレコードを買いにいくことになる。そして、バンドの方向もそれまでの白人ブルーズ・ロックから、その源流であるアフリカン・アメリカン(アメリカ黒人)のブルーズの追求へと自然に移行していく。

1972年
永井“ホトケ”隆Vo 塩次伸二G 山岸潤史G 小堀正B 松本照夫Drというメンバーで「ウエストロード・ブルーズバンド」を結成。
同年9月のB.B.King大阪公演のオープニング・アクトの際にB.B.本人からアンコールでのセッションを依頼され共演。それが更に深くブルーズに傾頭するきっかけとなる。ブルーズ・ハーピスト、ウィーピング・ハープ・セノウ(妹尾隆一郎)と知り合い、彼の紹介で東京西新宿の伝説のライヴハウス「Magazine#1/2」でライヴをするために頻繁に東京へ行くようになり、吉祥寺の「OZ」などにも出演。後には吉祥寺「曼陀羅」にもよく出演した。

1973年
4月「Magazine#1/2」が閉店するため常連の出演グループであった、「レイジー・キム・ブルース・バンド」そしてウィーピング・ハープ・セノウたちと記念のライヴ・アルバム(限定500枚)「ライヴ・アット・マガジンNo.1/2」を録音。これがウエストロードが初めてレコードになったものだ。「Magazine#1/2」でのライヴが評判となり、東京の大学祭などにも出演し始める。一方地元京都では同年開店したライヴハウス「拾得」を中心にライヴを続け、京大西部講堂のコンサートにも頻繁に出演。同年、8月8日に行われたヤマハ主催の「8.8Rock Day」の前後から「上田正樹とサウス・トゥ・サウス」「憂歌団」などとブルーズ、R&Bのコンサートに出演。これが76年あたりまで続く「関西ブルーズムーヴメント」のはしりとなる。

1974年
「8.8Rock Day LIVE 74」が(徳間バーボン)リリースされ、ウエストロードは3曲収録された。8月、日本のほとんどのロックバンドが集結した福島県郡山で開催された「ワン・ステップ・フェスティバル」に出演。そして、同年開かれた「第1回ブルース・フェスティバル」にロバート・Jr・ロックウッド、スリーピー・ジョン・エステスなどが来日したことで関西のブルーズ・ムーヴメントに拍車がかかり、ウエストロードはその中心となって活躍。

1975年
4月1日デビュー・アルバム「ブルーズパワー」(徳間バーボン)を発表。初の全国ツアーを敢行。
同年、山岸潤史が脱退し、神戸出身のサックス奏者-薩摩光ニとレイジー・キム・ブルーズ・バンドに在籍していたピアノの井出隆一が加入。山岸は石田長生(g)らと「ソー・バッド・レヴュー」結成。
同年セカンド・アルバム「ライヴ・イン・キョート」(徳間バーボン)をリリース。2枚のアルバムから抜粋された曲によるコンピレーション・アルバムが米アイランド・レコードよりアメリカ、カナダ、オーストラリアなど5カ国にで発売。

1976年
塩次、薩摩が脱退した後、元スウィート・ホーム・シカゴの中島正雄(g)を加えカナダにてライヴ、プレゼンテーション・ライヴを行う。同時期、来日していたアメリカの有名DJ、ウルフマン・ジャック(映画”アメリカン・グラフィテイ”にも登場する)がウエスト・ロードのアルバムを気に入り、カナダの帰りにロス・アンジェルスで会い、彼のラジオ番組に出演。ウルフマンにアメリカに移住してブルーズを歌うことを強く勧められる。塩次、薩摩はその後、「ダウン・ホーマーズ」から「しーちゃんブラザーズ」へと活動していく。

1977年
2月26日「Jirokichi」でのライヴを最後にウエストロード解散。単身渡米。帰国後、吾妻光良(現スウィンギング・バッパーズ)チャールズ清水(元ソー・バッド・レヴュー)小堀正等と共に「ブルー・ヘヴン」を結成。ジャンプ・ブルーズとR&Bがミックスされた新たなサウンドを作る。

1978年
50.60年代の数々のヒットR&B、ブルーズ曲でギターを弾き、「ミッキー&シルヴィア」でも有名なミッキー・ベイカーと「Jirokichi」にてセッション・ライヴを行う。78年から79年にかけては精力的に全国のライヴにでかけ、北海道網走から佐渡島や、南は石垣島など行かなかった県はほとんどない。

1980年
「ブルー・ヘヴン/ライヴ」(ヴィヴィド・サウンド)(ブレイク・ダウンとのカップリング・アルバム)を発表。吾妻、チャールズ脱退後、ギターに元「ウシャコダ」の菅野ケンジ、小出斉が加入しブルー・ヘヴン2枚目「ビッグ・ボスマン」をリリース。
吾妻光良との共著であるブルーズ・ギター教則本「プレイ・ザ・ブルーズ・ギター」(中央アート社)を発表。

1981年
映画「ブルース・ブラザーズ」のプロモーションのために来日していたジョン・ベルーシとダン・エイクロイドがブルー・ヘヴンのライヴに飛び入り。"Sweet Home Chicago""Gimme Some Lovin'"などを歌うだろでなく、狭いライヴハウスのステージで映画で見せたバク転まで披露してくれた。終わってから少し話をしたが、ベルーシはほんとにブルーズとR&Bを愛する男だった。

1982年
アルバム「松竹谷清With Juke&Up Tight」(ヴィヴィド・サウンド)をプロデュース。

1983年
吾妻光良とスウィンギング・バッパーズの1stアルバム「Swing Back WithThe Swinging Boppers」(Dead Ball)をプロデュース。

1984年
ウエストロード・ブルーズバンド、オリジナル・メンバーにて再結成、アルバム「ジャンクション」(ビクター/インヴィテーション)よりリリース。佐山雅弘(p)ロミー木下(b)とともに「クレイジー・ブギ・ナイト」を結成し、ジャズ・クラブ、ジャズ・フェスティバルに出演。この頃よりパーマネントなバンドをもたず、ソロ・シンガーとして多数のセッション、ギグに参加。来日した若手ブルーズマン、ロバート・クレイと東北、北海道ツアーに。

1985年
ジャンルを越えたライヴ・シリーズ「Endless Boogie」を東京クアトロ、大阪バーボン・ハウスなどでプロデュース。ウエストロードのメンバー始め、近藤房之助、金子マリ、シーナ、鮎川誠、ジョニー吉長、ニ井原実、憂歌団、佐山雅弘、桑名晴子など総勢60名以上のミュージシャンが参加し10年続けられ、最後の日比谷野音での総集編コンサートの模様は衛星放送によりオン・エアされた。
初エッセイ集「ドッグティ・ブルーズ」(少年社)を上梓。

1993年
シカゴのブルーズマン、ビリー・ブランチ、カール・ウェザスビーの来日ツアーを共に行う。

1995年
初ソロ・アルバム「ナイト・ピープル」(ZAIN)発表。長年の念願であったウエストロードのアメリカでのライヴをニューヨークの名門ライヴハウス「トランプス」の招聘により実現。そのライヴはアルバム「ウエストロード・ライヴ・イン・ニューヨーク」(ZAIN)として発表された。神戸FM KissでDJを始める。

1996年
アレンジ・プロデュースに中村キタローを迎え、ソロ第2弾「フールズ・パラダイス」(ZAIN)発表。大阪毎日放送ラジオにて「ホトケの大阪ブルーズ・スピリッツ」のDJを始め、以後4年半に渡って広くブルーズを知ってもらうために番組を続いた。現在でも放送の内容が毎日放送のHPで見ることができるので興味のある方はhttp://mbs1179.com/blues/へ、サーフしてください。

1997年
3册目のエッセイ集「ブルーズ・パラダイス」(中央アート出版社)を上梓。

1998年
元「四人囃子」の森園勝敏(g)元「KUWATA BAND」の小島良喜(key)大西真、鶴谷智生とともに15年ぶりにバンド「tRICK bAG」を結成。

2000年
「tRICK bAG」の初アルバム「LAST EXIT」(ZAIN)をリリース。

2001年
12月パークタワー・ブルース・フェスティバルに「ウエストロード・ブルーズバンド」で参加。

2003年
9月漫画週刊誌「モーニング」(講談社)に連載される山本おさむ氏の「ヘイ!ブルーズマン」に掲載されるブルーズの訳詞とコラムを担当。また2003年末漫画週刊誌「アフターヌーン」(講談社)に連載開始の「俺と悪魔のブルーズ」(平本アキラ氏)の監修も手掛けている。

過去共演した外国ミュージシャンはB.B.KINGはじめ「ワールド・ロック・フェス」でのジェフ・ベック、ニューヨーク・ドールズ、オノ・ヨーコ、アルバート・キング、ロバート・クレイ、ミッキー・ベイカー、ジェイムズ・ギャドソン、カール・ウェザスビー、など数多い。
DJとしても神戸のKISS-FMなどのステーションで活躍。大阪毎日放送の「永井“ホトケ”隆の大阪ブルーズ・スピリッツ」は日本初の本格的ブルーズ番組として4年半続いた。
エッセイ集「ドッグティ・ブルーズ」(少年社)「エンドレス・ブギ」(少年社)「ブルーズパラダイス」(中央アート社)の3册を上梓。また、吾妻光良との共著であるブルーズ・ギター教則本「プレイ・ザ・ブルーズ・ギター」(中央アート社)も好評にて再版を重ねている。レコードのライナー・ノーツ、音楽だけでなく様々な雑誌にエッセイを書いている。

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