自作小説交流館コミュの『白雪姫』２

　　　　第４章　～次の日の夜①～

　パタパタパタと、城の中に慌ただしく足音が鳴り響きました。

　足音の主は長い廊下を走りぬけ、限られた者にしか入室の許されない部屋の扉を叩きます。

「どうぞお入りなさい」美しい声が中から答えました。

　この部屋の主であり、城の中を駆けてここまでやってきた使用人の仕える相手でもある王妃様の声です。

「失礼します」

「あら貴女、こんな時間にいったいどうしたのかしら？」

　城の掃除婦も兼ねており、すでに王妃様に顔を知られている使用人は王妃様の顔をまともに見ようとせずに近付き、手に持っていた紙の束を渡しました。

「これは、書類？」

　パラパラと束をめくり、その書類の裏に書かれている何かに王妃様は気が付きました。
　慣れない字に、稚拙な文章で描かれた世界。小さな少女が想像した物語。王妃様は軽い気持ちで、それに目を通しました。

「これは？」読みながら、王妃様は聞きました。

「私は、姫様の力になりたい…」王妃様の問いに答えず、使用人は呟きます。

　その手にはナイフ。

　込めたものは憎悪。

　目に宿した殺気。

　使用人は、王妃様に飛び掛かりました。

　
　その日の夜。
　白雪姫は、母親の訃報を聞いたのです。

　

　　　第５章　～夢と記憶の中～

『白雪姫を殺してしまいなさい！』

　白雪姫はそれが自分の想像だと理解しつつも、少しだけ恐怖を感じてしまいました。
　少々遠回りになってしまったけれど、白雪姫が城を出るキッカケとなる魔女の台詞。
　発した命令は、少女を亡き者にすること。

「本当にそんな事を誰かに言われてしまったら…怖い」

　白雪姫は怯えます。

　そんなことになるのであれば、お話の最初で母親を死なせてしまったのは間違いだったのではないだろうか…と。

「…いや。大丈夫。白雪姫が助かるシナリオは頭の中にある」

　少女は森に連れていかれます。人気のない所で殺される為に…。初めて入る森の中を楽しむ暇もなく少女は頭に銃口を突き付けられるのです。

「大丈夫。焦らなくていい。恐がらなくていい」

「『白雪姫』の殺害を指示された『狩人』を、善い人と設定すればいい」

「彼は可愛らしい少女が、死を恐れ震えて泣いてしまっている姿に同情して、魔女を裏切るの。完璧ではないかしら」

　白雪姫は、自分の脳内に展開される幸福に満足しながら物語を書き上げました。

「明日、またいつもと同じ時刻にやってくる使用人に読ませてあげましょう」

　白雪姫は完成したお話を枕元に置き、ベッドの上で横になります。

「このまま眠れば、夢の中でも私は幸せでいられるのかしら。自由を掴めるのかしら」

　もう一度考えたお話を思い返そうと、脳内で記憶を巻き戻します。

　物語の最初の場面で『白雪姫』は、優しい両親に挟まれて、城の庭で明るく笑っています。

「左に『お父様』」

　現実の、あまり好きではない父親の姿が思い浮かびましたが、それしか知らないのだから仕方がありません。

「右に『お母様』」

　彼女はよく白雪姫を外へと連れ出してくれる、本当に優しく、美しい母親です。「お姿は、こちらも現実の方をお借りするとして…」

「…あれ？」

　白雪姫は母親の顔を思い返せませんでした。

「私…ひょっとして、お母様のお姿を知らないのかしら？」

　そんな筈はない、と、白雪姫は頭を振ります。自分をこんな所へ閉じ込めている張本人。きっと、顔を見たくもない程にキライだから、忘れてしまっただけなのだろう。
　
　白雪姫は、そう考えました。

「多分、魔女程ではないにしても、意地悪で美しくない姿をしているに違いないわ」

「いつも凶暴で狂暴な目を光らせて、口元に下卑た笑みを作って、娘を哀しませることを考えているに違
いないわ」

　白雪姫は、相当に不細工で卑しい女性を想像しました。
　
「…けれども、私は本当にお母様の姿を覚えていないのかしら」

「そもそも、お会いしたことがあったかしら」

　全く思い出すことができません。

「そういえば」白雪姫は記憶の中でいくつかの思い出に出会います。

「まだ乳児だった頃の私に、母乳を与えてくれたのは誰だったかしら…乳母？」

「夜中に眠れずに思わず泣き出してしまった自分をあやしてくれていたのは誰だったかしら…夜の見回
りをする兵士？」

「それでは、物心ついた頃の自分の下へこっそりとやってきて、大好きよ…と、抱き締めながらし囁いてくれたのは誰だったかしら…お父様？」

「いいえ、ありえないわ」

「いったい誰なのかしら。私の記憶の中で、長い髪をふわふわと揺らし、私に微笑んでくれた美しい女性は」

　考えても考えても、白雪姫が答えにたどり着くことはありません。思い出そうとすることに疲れてしまった白雪姫は、静かに目を閉じました。

「…分からないわ。今夜はもう寝ましょう」
　
　白雪姫は、深い眠りに落ちていきます。その夜は、沈んだ先で幸福を見つけることも、現実の母親の思い出に出会うことも出来ませんでした。

　母親の顔を、忘れてしまった白雪姫。

　ですから次の日の夜に、王妃様が病でなくなったと聞いても、嬉しくも、哀しくもないのでした。

　

　　　第６章　～次の日の夜②～

　
　使用人は、ナイフを落としました。

　目の前の、この身から溢れる程に激しい殺意の対象に抉り込む予定であった本気の一撃が、何らかの強い力によって弾かれてしまったのでした。

　小さなナイフは床の上を何度か跳ね、使用人から離れた場所に落ちました。刃の部分に少しだけひびが入っています。

　使用人は驚き、慌ててナイフを拾いに行こうと足を動かしました。
　
　しかし、その動きは王妃様の力に止められてしまいました。

「…っ！？」

　何がどう作用し、こうなってしまっているのか。使用人には思考する余裕などありません。今我が身に絡み付いている不可思議な現象は、どうしても理解の追い付かないモノでした。

　王妃様が右手をかざすだけでまるで金縛りにでもあっているかのように、使用人は動きを完璧に封じられてしまいます。

「これは…一体？」

　使用人は困惑しました。

「このままでは王妃様を殺せない。それどころか…殺される！」

　使用人の身体を、徐々に恐怖が蝕んでいきました。

「…ねぇ」静かに声を発したのは、王妃様でした。「一体、これはなんなのかしら？」

　先ほどの紙の束を持ち、ゆっくりと使用人に歩み近寄る王妃様の口調に凄みはなく、逆上して使用人を容赦なく殺してしまうような雰囲気は見受けられません。使用人は幾分か、落ち着きを取り戻しました。

「姫様が…お書きになったお話です」

　使用人は答え、そしてそうなるに至った経緯も話しました。

「自分が、退屈を持て余していた姫様に、紙の束を渡しました。好きにお使い下さいと申した所、次の日に姫様は、ご自分で作られたお話を持って、掃除に現れた私を迎えて下さったのです。私が最初に読んでいいと、言って下さいました。とても無邪気な言葉と、素直な夢が並べられた紙面を見て、私は胸が張り裂けそうになりました」

「どうか、姫様の願いを叶えてあげたいと思いました」

　使用人の瞳から、大粒の涙が溢れます。

　使用人は白雪姫の願望が現れた物語を読み、この不幸な少女のために自分が出来ることは何かと一生懸命に考えたのでした。

　そして、思いついたのです。『白雪姫』の物語をなぞるということを。
　彼女の話を聞きながら王妃様は、まず哀しげな表情を見せ、そして優しげなお顔になり、途中から考え込むように眉を寄せ、最終的には感情を殺したように冷たい瞳を使用人に向けました。

「貴女は、白雪の力になりたいと思ってくれているの？」王妃様は訊ねます。

「勿論です」使用人は迷いなく答え、「だから王妃様には死んで頂きたいのです」と、心の中で呟きました。

「…そう」王妃様は口元を優しく緩め、嬉しそうに呟きました。

　そして使用人の目の前に、手をかざします。ユラユラと揺らし、それをじっと見つめている使用人の意識をゆっくりと奪っていきました。

　薄れゆく意識の中、使用人は王妃様の口元が微かに動き、何かの言葉を紡いでいることに気が付きました。

「…呪文？」

「だとしたらこれと、先程の金縛りは、王妃様の魔法だったのでしょうか」

「あり得ません、魔法使いなんて…あったとしても時代錯誤でしょう」

　使用人は、半世紀以上前にこの国で行われたという『魔女狩り』の話を思い出し、馬鹿馬鹿しいと心の内で否定しました。

　しかしやがて、使用人の頭は何も考えられなくなっていきます。

　使用人の脳内を、何か得体の知れないモノが巣食っていきます。

　やがて訪れるのは、安らかで、穏やかな、死…。

　　　　第７章　～『魔女狩り』～

　かつては、他愛のない噂話でした。

　やがて時が経つにつれて、それは少数の人のみが語る昔話となりました。様々な語り手に誇張や装飾を繰り返され、真実味は極限まで薄れます。

『魔女狩り』

　この国で半世紀以上前に行われたという、真偽の判別のまるでつかない都市伝説のような出来事です。当時の街の噂では、正義の王の命により、城の兵士達が『魔女の村』へ攻め込んだのだ。と、語られていました。
　
　真実を知るモノは、今は殆ど生き残っておりません。

　皆、異様に早過ぎる寿命を迎え、次々と倒れていったのです。

　何十年も前の話といえ、その出来事の実際の当事者である王妃様にとって、あの悲劇と惨劇はまだまだ記憶に新しく感じられるのでした。

「あの日。いつものように穏やかに暮らしていた私たちの村に、武装した兵の集団が攻め込んできた」

　王妃様にとって、あれは悪夢でした。

「次々と仲間は、何処かへと連れていかれてしまった。私は当時まだ小さかったから、一度は見逃された」

　あの出来事の真実。王の目的。それは、外界からほぼ隔離され、独自の文化をひっそりと繁栄させていた小さな村に住む女性達を城へ妾として連れ込むことでした。その小さな村は周りの村との交流が全くの皆無だったものですから、色々と噂をする者が絶えないのでした。

　あの村の女性は皆美しく・・・・。
　何百年も生き続け・・・・。
　決して美貌を失わない・・・・。
　なんでも、実は魔女だっていう話さ・・・・。

　女遊びの激しかった先々代の王はその噂を耳に入れ、『魔女狩り』と称して村の美女たちを連れ去るよう、兵士たちに申し付けたのでした。

「男たちは殺された。既に老いた女性も一応連れていかれたのだが、やはり王の気に召さず、城で首をくくられた」

「村を滅ぼす為に、家々は焼き払われた」

「私は村から逃げ、呆気なく兵士に捕まった。幼かった私を見て、兵士たちはヒソヒソと相談を交わして
いた」

　まだ小さいぞ・・・・。
　流石にこの娘は・・・・。
　王も決して非情ではないさ・・・・。
　可哀想だ、見逃してあげよう・・・・。

「私を見下ろす兵士の目に、見下すような思いを感じられた。彼らは気まぐれで、私を助けたのだ」
　
　安全な場所へ誘導しようとする兵士の中には、まだまだ花開かぬ年頃ながらも可憐な容姿を持つ当時の少女の身体をふざけて触る者もいました。そのような扱いを受け、少女は
「あぁ、見逃して貰えたとはいえ自分の立場とはこういうモノなのか」と、悲しい気持ちになりました。
泣きそうなのを必死にこらえながら、ニヤニヤと気持ち悪く笑う兵士たちの間をすり抜けてゆこうとした時に、誰かが少女の肩を掴みました。少女が反射的に振り向くと、そこには涼しげな笑みを浮かべた美少年が立っていました。

「…っ！！」

　ガンッと、王妃様は思わず壁を殴りつけていました。城内の長い廊下を進みながら、王妃様は過去の忌々しい記憶を反芻していたのでした。

「あの時、兵士たちの中に興味本意で混じって、無邪気に村を壊していた国の王子に肩を掴まれた時に、自分の心に芽生えた一時の甘い感情が憎たらしい…」
　
　王妃様は唇を噛み締めます。

　全てを無かったことになんて出来ませんし、忘れてしまうことも恐らく叶いません。

「それでも…」

『私は、姫様の力になりたい・・・・』

　使用人の最後の言葉が、記憶の中から鼓膜を揺らします。彼女は既に王妃様の部屋で息絶えています。

　白雪姫の力になりたいと答えてくれた優しい使用人。彼女の想いと死を無駄にしない為、王妃様は歩みをやめませんでした。

　進む先に…『幸福』があることを信じて。

　

　　　第８章　～次の日の夜③～

　使用人たちが集まる専用の休憩室の扉の前に立った王妃様には、まだある程度の迷いや躊躇いがありました。

　上手くいくか分からない。

　実行に移すべきが今なのか、疑わしい。

　それでも、使用人を既に手にかけてしまっている王妃様には最早選択の余地など残っていませんでした。王妃様は決心を固め、ノックもせずに勢いよく部屋の扉を開きます。

　ガチャリと、抵抗なく開く扉。中には老いた庭師と若い洗濯婦数人の姿が見えました。皆、王妃様の姿を見て驚いています。

「お、王妃様！一体、どうなされたのですかっ？」

　庭師が、くわえていたパイプを床に落として驚きました。部屋の隅にいた洗濯婦たちも、どうやら王妃様をこんなに近くに見たのは初めてらしく、目に見えて怯えているのが分かります。

　王妃様はそんな彼女たちを一瞥して、次に全員を見据え、微かに唇を動かし呪文を唱えた後に慌てている口調を演技しながら

「大変です！王妃様が自室で倒れてしまわれています！もう息をしておられません！」と大声で言いました。

「何ぃ。そりゃあ大変だ！！」

　庭師が床に落ちたパイプを拾おうとした手を引っ込めて、慌てて立ち上がります。洗濯婦たちもオロオロと狼狽えます。どうすればいいのか、誰かが医者を呼びに行くべきだなどと話し合いつつも、誰も動くことが出来ないでいます。

「とにかく様子を見に行こう！医者はその後だ！」

　庭師が洗濯婦たちにそう言って落ち着かせ、王妃様に歩み寄りました。

「君も一緒に来てくれ。王妃様のお部屋で合っているんだよな？」

「…はい」王妃様は静かな声で答えます。

　すると、庭師は少し怪訝そうな顔になり

「ところで、なぜ姫様に仕える掃除婦の君が王妃様の部屋に入ったんだい？」と聞きました。

「何を言っているのですか？私は王妃様の側近の使用人ですよ」王妃様は答えます。

　庭師は疑心に満ちた表情を解き、納得したように頷きます。

「そういえば、そうだったねえ」

　王妃様の部屋へ向かって駆け出した庭師は、先程その使用人の唇が細かく言葉を紡いだことに気付いていません。

　王妃様の部屋に到着し、今度は庭師が扉を開きます。

「失礼します」と一応挨拶をし、一歩足を踏み入れた庭師の目に飛び込んだのは、部屋の中央に倒れ伏す女性の姿でした。

「王妃様！！」

　庭師は慌てて駆け寄ります。一瞬、何故だか別の女性のように見えた気がしなくもなかったのですが、きっとそれは只の気のせいで、目の前の女性は紛れもなく王妃様です。三十年近くこの城に仕えてきた彼が、間違える筈などありません。

　王妃様を抱き起こし、首元に手を当て脈の確認をします。悲しいことに、既に止まってしまっていました。

「…ああ、何ということだ」

　うなだれる庭師の視界に、あるものが入ります。それは、一本のナイフ。

　庭師はハッとした表情で入り口の方を振り向き、今はもう使用人でしかない王妃様に問い掛けます。

「まさか…君が王妃様に何かしたんじゃないだろうな…」

　王妃様はナイフについて失念していたことに気付き、慌てて返します。

「いいえ」王妃様は言葉を繋げて「きっと、ご病気か何かでしょう」唇で呪文と嘘を同時に紡ぎだします。

「病気なんてそんな…！」と出しかけた言葉を見えない力に強制的に呑み込まされ、庭師は「…そうか」と落胆するしか出来ませんでした。

　やがて洗濯婦が医者を連れてやってきましたが、彼にも病気と伝え帰ってもらいました。

　王妃様の計画は、ここまで順調に進んでいるのでした。

　

　　　第９章　～お母様とのお別れ～

　王妃様の葬儀は盛大ながらもしめやかに行われました。

　華やかな飾りモノと煌びやかな光りモノに囲まれ、王妃様は大きな棺桶で出棺されます。

　蓋が閉じられお顔が見えなくなるその瞬間まで誰も王妃様から目を逸らそうとせず、
「美しい…」や「まだまだお綺麗なままだ…」などと口々に言っております。

　庭師や洗濯婦も涙を流し、参列していた隣国の権力者も悲しい顔をする中、王様一人だけが顔をしかめさせて不機嫌そうにしていました。

　そんな様子を、白雪姫は部屋の窓から眺めておりました。

　いつもはなるだけ遠くを見ようと身を乗り出すこの窓から、今日は広いお庭を見下ろしています。それはいつもと違う光景ながらも、やはり白雪姫には退屈なモノでした。

「あれが、お母様のお顔かしら？」白雪姫は思いました。

　昨晩。眠りかけていた自分の下に洗濯婦が王妃様の訃報を持ってきました。それを聞いてもやはり白雪姫は、自分の母親の顔を思い出せずにいました。

「想像していたお顔と、随分違う」
　
　思っていたよりも大分優しい顔つきだと、白雪姫は思いました。穏やかに眠る、綺麗なお顔。しかし、少量の違和感も覚えます。

　例えば彼女の纏う雰囲気。一国の主の妻として相応しいような気高さや煌びやかさはなく、良く言えば素朴で、悪く言えば地味な印象を感じさせる女性でした。豪華な装飾品や見事な衣服がどうにも似合っているように思えません。

「使用人の格好が似合いそうな方ね」

　彼女をけなす訳ではなく、白雪姫は彼女なりの評価を下します。そんな白雪姫を、いつの間にか部屋に入ってきていた者がじっと見つめていました。

　白雪姫も自分に向かう視線に気が付きました。振り向き、その存在を確認します。
　
　美しい女性がそこにいました。長い髪をふわふわと揺らし、静かに立っているのです。

「あら使用人さんじゃない。どうしたの？お掃除の時間はまだではないかしら。それに、貴女はあそこへ行かなくていいの？」白雪姫は、窓の外の参列者の群れを指差します。

　使用人と呼ばれた女性は何も答えず、つかつかと白雪姫に歩み寄り、優しく白雪姫を抱き締めました。

「ちょ、ちょっと…！」

　突然のことに慌て、そして怯える白雪姫。そんな彼女を強く抱き寄せ、耳元でそっと
「大好きよ…」と囁きました。

　瞬間、白雪姫の中で記憶が蘇り始めます。

「どんなに多忙でも、育児を他の者に任せようとしなかったお母様」

「夜も私が眠るまでずっとついていてくれたお母様」

「けれどもお父様と喧嘩をし、嫌がらせのように私に会えなくされたお母様。それでも、たまにこっそりと現れては私に愛を囁いて下さった…優しく、素敵なお母様」

「お母様は、もう既に亡くなったの？」

　白雪姫は、棺に納められた死体を思い返します。

「そんな筈はない。だって…この温もりがお母様のモノでないとしたら、一体何が真実と言えるのかしら？」

「お母様！」と、顔を上げ叫ぼうとして、白雪姫の行動は止められます。喉からは声が出ず、身体は思うように動かせません。

　ただ、頭部に触れる母親の手が、そっと優しく白雪姫を撫でてくれている。その感触だけが分かりました。触れる手からは王妃様の願いが形となって発せられ、白雪姫の脳を静かに刺激しました。
　
　やがて意識が保てなくなり、強い眠気に襲われます。

　眠りに就いた白雪姫から、王妃様は名残惜しそうに身体を離し、床にそっと横たえました。

　そして目覚めた白雪姫は、母親に関する殆どの記憶を、もう思い出せなくなってしまっているのでした。