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C938村〜おえこり村にようこそ〜コミュの行商人 あっちゃん作 SS (長文注意)

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 ―どうやらおれの親父は、音の精霊だったらしい―













 〜プレリュード〜


 おれに父はいなかった。おれの母親は不義の子を生んだとされて断罪された。母の顔も憶えていない。
 残ったおれを育ててくれたのは学者のアルジャーノンという人だった。博識で賢いその人は皆に慕われ、アルビンの愛称で呼ばれていた。
 その人のおかげで、おれは学校に通うこともできた。それはとても素晴らしいことだ。
 だがそれが素晴らしいことであると実感できたのは、帝都の音楽大学に入学できた時だった。






 おれは小学校の時、人を殺した。


 おれには人にはない特別な能力があった。アルジャーノンも驚いていたその力。それは、初めて触るいかなる楽器も弾きこなし、初めて耳にする音楽を完全に複製し、心に降りて来た音を演奏という形に現すことのできる能力。
「不義の母から生まれたためか、この子は音楽の神に選ばれたのかねぇ」
 人はそう言った。アルジャーノンは、その畏怖するような冷ややかな言葉に微笑むだけで、おれを普通の餓鬼として分け隔てなく育てた。

 母親が断罪者。おれは学校でよくいじめられたもんだ。
「お前もかーちゃんみたいに、首吊ってやるよ!」
 よく処刑される真似事をされて俺は苦しんだ。学校は地獄だ。アルジャーノンはおれの様子を見て、学校に手紙を書いたりしてくれたが、おれが学校をやめることを決して許さなかった。今になってはそれがよかったのだが。
 地獄……
 ある日、本当に俺は殺されるところだった。子供のやることと言ったら無邪気なものだ。捕まえた蝶の羽を毟り、足を千切って悪意なく遊び殺すこともできるのだ。
 おれは教室で首を吊られかけた。
 おれは縄に首をかけられるまいと必死で机を蹴り飛ばし、教室中を逃げ回り、自分のロッカーに閉じこもった。
「出て来いよ。お前はツミビトなんだ。悪い奴はしょけいしなきゃ!」
 ロッカーを囲む声を暗闇の中で聞きながら、おれは手に縦笛が触れるのを感じた。
 暗黒の中の死と罪の響き。
 おれの心が闇に支配される「音」を、おれは聞き逃さなかった。
 おれはロッカーの中で、誰にそうしろと言われたわけでもないのに、縦笛を吹いた。
 暗黒の中の死と罪の響き。心が闇に支配される音。
 それは狂気の旋律だった。
 おれが心ここにあらず―本当は、心を別物に支配されていた―の状態で縦笛を吹き続けると、やがてロッカーを包む嘲笑が消えた。おれは構わず笛を吹き続けた。
 それは長い時間だったかもしれないし、実は短かったかもしれない。
 おれが気が付いた時、学校は喧騒に包まれていた。

「子供が四人、屋上から身を投げた―」

 暗黒の旋律。死の誘いのメロディ。
 おれは魔力の音で奴らを『殺した』。それは証拠のない殺害、おれはそれこそ断罪に値する罪を、一切、誰にも、もちろんアルジャーノンにも、咎められることはなかった。
 おれは事件のあった学校を後にし、空を見上げた。風だけが多分、おれの罪を咎めている。








 おれは風が音を乗せてくるのをよく聞いて、時にそれを演奏するのが好きだった。





 おれは何事も無かったように、順調に上級学校を出て音楽大学に入学した。そう、何事も無かったように。
 風だけが知っていたのさ。
 風がアルジャーノンをおれから奪った。
 アルジャーノンはおれが帝都に下宿し始めて間もなく亡くなった。アルジャーノンが死んだと聞いた時、おれはおれのしたことの意味とアルジャーノンがいたことの意味を、身に沁みて思い知った。
 アルジャーノン……アルビンのしたことは正しかった。おれは大きな過ちをした。この対比は何だろう。アルビンは死んだ。おれは人を…殺した。
 風はしかし確実に正しいだろう。
 おれは音楽大学をいい成績で卒業し、プロの演奏家ではなく楽器屋になる道を選んだ。プロになると決まった曲しか演奏出来ないから。色んな楽器で、色んな演奏が出来る楽器屋の方がずっと楽しい。

 おれは音楽を世界各地に広めるため楽器行商となった。いかなる種類の楽器の調律を行えるおれしか出来ない職。おれは風と共に世界を歩くことを決めた。


 行商をやるにつけて、おれは何となしにアルビンを名乗った。根無し草の身、このあてのない身が、あの過去を忘れぬよう。アルジャーノンがいたことを忘れぬよう。

 アルビンを名乗る内。

  いつしかおれの口調も、アルジャーノンのそれに似ていくのだった。
















 〜1〜










 「オエコリ村」



 不思議な名前の村に来たもんじゃのー。
 村人達のキャラこそ濃ゆいが、気さくで気性の穏やかな人ばかりのええ感じのこの村に、わしぁしばらく滞在することに決めた。車内でなく屋根のある場所で寝られる。ばんじゃい。
 村人がよう集まるっつー宿に顔を出す。どもーと片手を挙げると多種多様な人々が挨拶を返してくれよる。ありがてーこっちゃ。
 とりゃえず不愉快な人形抱えた羊飼いのおなごと同じよーな緑色で統一しよった金髪碧眼美形のスカした旅人に楽器を売る。上々。
 …………ん?
 視線の『音』がしよる。
 誰じゃ。見ると短い黒髪で作業用の地味なエプロンを着た奴が立ってこっちを見とった。
 …………男か女かわーらん。男か。多分そうや。きっとそうや。
「どもー」
 俺は片手を上げたが、そやつはちょっと会釈するだけで済ましよった。
 ……何やあいつ?
 もっとこっち来りゃえーのをずっと扉から見とる。しゃーないんでわしも放置した。うん。






 宿を取って商品落ち着かせてトランペットだけ持って村を散策。ええ風が吹いとる。秋めいた清々しさが満ちてきたのぅ。
 ちょっと村の外に出っと小さな湖があるよーじゃった。湖畔を歩く。柳が秋の初めの風と遊び、湖面が規則正しく穏やかに波立つ。
 自然の鏡の上を滑るはええ風に決まっとろー。
 わしは湖畔を一周して村側にいっちゃん近いとこに戻ると、そこでトランペットを構えた。風の音をよーく聞き、形にすっぺよ。

 それはアルジャーノンの訃報を聞いた夜にクラシックギターで奏でた鎮魂歌に良く似た和音じゃった。あまりによー似とるんで、わしの心を支配した喪失感が音になる。あの夜のレクイエム。湖面を滑って虚空に霧散。




「……その人は誰?」




 レクイエムが凍る。
 わしはペットを下ろして振り返った。お前が誰じゃ。
 宿のあのエプロン男やった。







「その人は誰なの? 君の大切だった人?」

 もっかい振り返る。湖面はさっきの風が嘘のように静まり返って一枚の鏡になっとった。誰もおらん。
「……誰のこと言うとるんじゃ? わしじゃねーべや?」
「その人だよ。君のすぐ傍に寄り添ってる人」
 いよいよわしは気分が悪い。わしの半径二メートル以内にぁ誰もおらへん。何やねん。不気味な奴っちゃ。

「君の……そのラッパの音。きっとその音がその人なんだろう」

「……すまんがまぢでおめさんが何言うとんのかわーらん」
 音が人じゃと?
 いよいよ何言うとるんじゃか理解出来ん。

「その人はきっと君が惜しんでる人だね。その人も君のこと大切に思ってくれてたみたい。じゃないとその曲でここまで近くに来ないもの」
 惜しんでいる?
 大切に思ってくれて『いた』?
「……ああ、ようやく判ったよ。その人は君を育ててくれた人だ。ずっと傍にいてくれるんだね。君はいい人にめぐり合えたんだね」
 育ててくれた人。
「……アルジャーノン……?」
 肩越しに振り返る。
 風に撫でられて湖面が揺れていた。

「もう一人いる……? 風が君を『見て』いるよ。君の傍にいるもう一人の人、それは『風だ』」

「おめさん、何か見えるんか……?」
 信じられんくなってわしは訊く。
 何や? こやつにゃ何が見えとるんか?
 風が見えとるんやろうか。わしが風を聞くのと同じよーに。
 そやつはちょっとの間考えた。地味だが実はとてもよく整っている顔の、眉間がほんの少し寄る。

「ああ。その風がそうなんだ。
      君のお父さんは『風』だね」

 わしの親父。
 親父の存在なんて考えたことなかってん。顔も知らぬ親父。お袋を処刑台に追いやって消えた―



「君のお父さんは―音の精霊みたいだ」


「ずっと君の傍にいたんだね」
 エプロン男の声を背に、わしは全身で湖面を振り返っていた。
 急に風が強く吹く。わしは反射的に帽子を押さえた。力強い風が柳を揺らし、湖面を揺らし。

 今更気付いたのかとわしに告げた。


 風に孕んでわしを産んだ母。
 ―どうやらおれの親父は、音の精霊だったらしい―

 エプロン男が控えめに微笑んだ。
 あ、こいつ女や―と、わしは思った。









 〜2〜




 黒い月の落とし子がいる……



「…………」
「……何を気にしているの?」
 例の短い黒髪のおなごと一緒に、湖から村へ戻る途中やった。
 黒い音がしよる。遠くの風から。
「いあ、何やよからぬ予感がの……」
「君もわかる? みんな言ってる。村に人のものでない邪悪な霊に心を奪われた者がいるって」
 わしはオットマリアと名乗ったこのおなごを見た。
 オットーと呼んでいい、男の子みたいだけど、皆そうだから。本人ぁんなこと言うとったがマリアでええんちゃうけと思う。でもオットマリアはオットーで満足しとる。
「男の子みたいに見られるのも、結構楽しいよ」
 そんなもんなんかいのぉ。理解できんが本人がそれでええ言うならそゆ風に呼ぶことにしたが。
「おめーは風が見えるようじゃの……」
「うん。私は色々わかるんだ」
 ふん、体格も喋り口調もホンマに男みたいじゃ。が、近付くとようわかる。ほっそりと背が高いスレンダーなおなごや。
「君は半分音の精霊だから教えちゃうね。でも秘密だよ。私はね、みんなに見えないものが見えるんだ」
 わしが風を聞くように、オットーは他の何かが見える。
「私にはカールっていう双子の兄弟がいたんだけど、十歳の冬に、ひどい肺炎で死んだ。私だけが元気なままで、どうしてカールは死んだんだろう。そればかり考えてたら、十四歳の冬に、カールが来た」
「死んだ兄弟が、かい」
「そうだよ」
 今度はオットーがわしの顔を見上げた。
「カールはぼーっと立っているだけで、何も話してくれない。それから、徐々にだけど、いろんなものが見えるようになってきた」
 双子の兄弟の死か。
 それがきっかけとぁ、何とまぁ因果なことじゃろうか。
「今は随分細かいところまで見える。でも……」

「カールはやっぱり何も話してくれないんだ。十歳の姿のまま」

 オットーはちょっと立ち止まって、風が吹き抜けた方向を見た。わしから顔を背ける形になったんでわしにゃオットーがどーゆー表情をしとるかわーらんかった……
 風が孤独を撫でて過ぎ去った。そして柳がさわさわと話しかけてきた。









「人狼が紛れている……」



「狼がこの面子の中にいるんだって。本当かな」
 ゲルトと名乗る若者が、宿に集まった全員を示してそう言いよった。
 人狼……わしやオットーが風が黒っぽい音を遠巻きに奏でていたんを聞いたあるいは見たんはそのためか。
 こりゃ厄介な村に来てもうたようじゃの……

「オットー、はっきり理由を話さないのは狼だからじゃないか? 占ってみたい」
 わしの目からは、あまりに狼の霊に関して詳しく問い質されたオットーが、自分の能力について話すのを嫌がったのを怪しまれた……という形じゃった。初日の占いは、オットー―


「私……霊能者です」


「……ああ、やっちまった……」
 そう小さく呟く、わしがいた。













「私、やっぱりヘンなのかな」



「どないしたねん」
 あの湖のほとりで、オットーと共に湖の水面をぼんやりと眺めていた。宿の会議の後、叔母夫婦のパン屋で働いとるっつーオットーをわしが誘ったんやけんど、そん時のパン屋の女主人の「微笑ましい二人」を見る視線が腹立たしゅーてしゃーんかった。じゃがわしはオットーと話をせなあかん思うとった。直感に等しい決断やった。
 あのオットーの告白の後、何と村長までもが、「自分も霊が見えるよー」と名乗り出て来よった。そんなわけで、今夜占われるんは神父になった。オットーが真の能力者やとしたら、ここで夜に一度しか出来ん占いを使うのは無駄やから―
 ならば次に怪しい者を。そーゆー考えのようじゃ。何と醜い。
 風が混沌と渦巻いとる。
「私のこの『色々見える能力』っていうのは、皆不気味に思うんだろうなぁ」
「せやったらわしかて同じじゃ」
 オットーは水辺にしゃがみ込んで水を指先で叩いて遊んでいたのをやめ、わしを見上げた。わしはというと、太い柳の木の下に立ち、今日はお気に入りのドブロギターを構えておる。
 わしらの間隔は五メートルくらい離れとる。
「わしは親父が親父じゃからのぅ。お袋は私生子を出産したとされてさっさと処刑されてもうた。わしが両親からもろたんはこの命と」
 自分でも自分の目が虚ろになっているのがよう判る。見てはおらんが、きっとオットーの目もそうなっとるに違ぇねぇ。
「『音の精霊』としての素質だけ。そんだけ」

 ぽろん……

 ドブロギター……アルミニウム製のボディが、華やかでありながらも切ない、だからこそ心を響かせる旋律を奏でよる。
「わしらはどーあがいても、『普通』ではあらんのよ」
 ドブロギターはアコースティックギターやったが、わしはそれでクラシックのアルベジオを奏でた。
「でも、わしゃ別に……『今は、それでも充分じゃ思うとる』」


「アルビン」
 オットーがすっと立ち上がった。湖にささやかな波紋が広がった。
 アルビン……
 オットーが初めて『わしの名前』を真っ向から呼んだ。それはとても新鮮な響きやった。
「アルビンは『狼の鳴き声が判らないの』」
「…………」
 狼の鳴き声……
 そう言われっと、わしにぁわーらん。風は自分の声をわしに届けて走り去るだけじゃけんのぉ。その声ぁ黒かったり、白かったり虹色じゃったりすることもある。
 だがそりゃ風本人の声じゃ。人狼の咆哮やあらん。
「『私には狼の姿が見えるんだよ』」
 オットーは苦しげにぎゅっと眉根を寄せて、湖に視線を投げ下ろした。短い黒髪がぱっと一瞬広がり、すぐ落ち着く。
 その直後、騒がしい風が吹いた。

「怖かったんか、それが。ずっと。でも、他人にも話せずに」

 ああ、風の音が聞こえる。
 なぜか甘美なワルツだ。指がそれを形にしていきよる。
 オットーは水鏡から目を離した。わしを見る目は水晶球のようにつややかに潤んでおった。

 わししかオットーの苦しみを理解するこたぁ出来んよ。

 自分の直感の正しさをこの期で思い知り、今度はわしが湖の上を滑る風を見つめた。


「綺麗な音」


 いつの間にかオットーが近くに来ておって、ワシの指の動きと弦の震える様を、慈しむような目で見守っておった。
「せやろ?」
 わしは面白半分、得意げに笑ってみせた。オットーは初めて見る花に触れるような手付きで、ギターのストリングの辺りをそっと撫でた。

「ヴェンタス?」

「ん?」
「君、アルビンが……本当の名前じゃないね」



 また何か見えたんか……
 じゃがギターの弦と対話するようなオットーの表情は心なしか、明るい。


「せやで。アルビンつーんはわしを育ててくれた人の名前じゃ。今まで名前借りとったが、わしの本当の名前は『ヴェンタス』じゃ」


 おれの本当の名前は、風、という意味だった。


「アルビンって、私が最初に見た人?」
 顔を上げてオットーが聞く。
 笑ってもいなかったが無表情とは違う。純朴な表情が、華やかではなくしかし端整な顔立ちを―艶やかな睫や真直ぐな鼻筋、桜色の唇を際立たせる。
「大当たり」
 ゆったりとそう言うおれの声は、自分でも意外だったほど甘かった。

「綺麗な音……」
 きっと先の議論で精神的に疲れてしまったのだろう。
 オットーは座って演奏を続けるおれの隣にしゃがんだまま、寝てしまった。
 おれの肩に、ごつんと鈍い衝撃が走った。オットマリアは、痛くなかったのだろうか。








 〜3〜




「…今日の処刑は、オットーだ…」




「すんません」
 会議終了後、わしぁパン屋に寄った。パン屋は休業しとったが、女主人であるオットーの叔母はんが対応に出てくれた。目の周りが落ち窪んどった。だが瞳は乾いとった。
「オットマリアさんとお話がしたいんですけんど」
「ああ、オットーね? 今は自分の部屋で身辺の整理して待っているわ」
 身辺の整理……
 自分の世界と区切りをつける作業。わしはその言葉の響きは虚しいと思った…
 ここがオットーの部屋よ…
 女主人ぁわしを案内してくれた。あっがとござんますと帽子を下ろして礼を言い、とりゃえず叔母はんに下がって貰う。


 ドアノブを握ると、それは冷ややかやった。


「オット。わしじゃ。入るで」
 ノックの代わりにそう言うと、しばらくして静かな返事があった。

「うん。ヴェンタス―」

 それはもはや違う世界から響いてくる声に思えた。








 救えたのだろうか。
 救えなかったのは、なぜだろう……






 扉を開いて、おれはその光景に戦いた。
 この世の光景とは思えなかったから。


 オットマリアは、無機的なまでに整理された味気ない部屋の真ん中に、椅子を置いてそれに座っていた。
 ドアの反対側にある窓に、背を向けて座っていた。

 彼女は白いワンピースを着ていた。


 彼女はおれを見ていなかった。
 彼女はあの日の、霊能者だと名乗り出た日の湖で、指で叩いた水の波紋を見ていた目で、虚ろを見ていた。

 何かそこにあるのだろうか。


「カール……」


 虚ろを見てそう言うオットマリアは、もはや見慣れたシャツにパンツにエプロンという男子のような格好とは全く別物で、



 虚ろと調和して美しかった。



 オットマリアの目から、一筋こぼれ落ちた。












「マリア、湖へ行こう」
 おれが反射的に、渾身の力を込めてそう言うと、オットマリアは音もなく立ち上がった。
 その目はまだカールを見ていた。
 おれは駆け寄って彼女の手を取った。
 さぁ、行こう。おれは物言わぬ彼女を連れて、走り出した。
 この、死に最も近い世界から、彼女と共に逃げ出すように。

 湖に風は吹いていなかった。
 おれは彼女のか細い手を取って、いつもの、あの湖のほとりの土を踏んだ。
 おれはそこで冷え切ったマリアの手を放した。マリアは引っ張られるままに走っていたが、そこでぷつりと立ち止まった。
 おれはマリアを振り返った。マリアは両手を祈るように組み合わせて立ち尽くしていた。腕も脚も、彼女は細過ぎた。
 可憐だが虚ろを宿すのに相応しかった。彼女は。



「カールが……」



 ―いつになくはっきり見える……
 最後の方はかすれた声でほとんど聞こえなかったが、その時吹いたささやかな風が俺の耳にそれを届けた。

 カールはきっとまだ、十歳の姿のままで、何も話してくれないのだろう。



 握り締めた両手を食い入るように見つめるマリアの様子を見て、おれは不意に疑問に思ったことを口にした。
 そうだ、彼女はなぜ叔母のパン屋で働いているのだろうか。
 叔母が泣き腫らした様子とは違っていたのはなぜだ。

「マリア、親御さんはどうした?」

 マリアは案の定、弾かれたように顔を上げた。

「……私達が生まれてすぐ、流行病で……」



 そこから先は、彼女は今度こそ声に出来なかった。
 俺はそれを見て思い出した。あの小学校の時に聞いた忌まわしい暗黒の旋律を。
 それが何によってもたらされたかを。





 孤独ゆえに心に空いた穴を吹き抜ける風の音だ。





 おれはジャケットの内側にあった楽器を取り出した。
 それはリコーダーだった。木製の上質なリコーダー。小学校の時のプラスチック製とはものが違う楽器。



 マリアを包む風は、悲嘆を叫ぶエレジーを唄っていた。



 おれはそれをよく聞いて、ノクターンにアレンジして吹いた。闇に浸る悲しみ。寄り添う者を求める願い。黒く塗りつぶされた希望。やっと掴んだ理解者……



 マリアはそれをしばらく聞いていたが、ついに耐え切れなくなった。
 おれは演奏を止め、両手で顔を覆ったマリアに駆け寄った。マリアは膝から崩れ落ちるところだった。
 おれはその体を抱き止めた。驚くほど細いしなやかな身体は、嗚咽と共に震えていた。






「……ごめんね……怖かった……ありがとう……カールが……」

 マリアがオットーと男子の名で呼ばれることをよしとし、死別した双子の兄弟の幻影を求む理由が、彼女の冷えた体温と共に伝わって来て、おれの魂を撫でた。
 彼女は孤独だった。おれはアルジャーノンがいた。この差は何だろう。



 おれに彼女は救えたかもしれない。
 もう少し早ければ。だがもう手遅れだった。
 ありがとうなんて言われるようなことを、おれはしていなかった。

 もう少し早く来ていれば。
 狼よりも、もう少し。早く。







 〜4〜



 逃げる道はもはやないだろう。






 マリアはおれに自分を押し付けて離れなかった。
 彼女はおれのジャケットを両手で握り締めていた。その手はただでさえ白いのに、力を込めているために余計、白くなっている。
 おれは彼女のいいようにさせた。彼女に残された時間は短いだろうから……




 本当にそうだろうか?






「マリア」
 おれの腕の中で、マリアは幽かに顔を動かした。
 おれは彼女を包んでいた腕を開放し、彼女の肩を掴んだ。
「マリア、逃げよう。ここから手の届かない場所に。おれが連れて行く。こんな形で君を逝かせるわけにはいかない」
 そうだ、このまま二人でどこまでも去って行ってしまえばいい。こんな黒くて哀しい悪夢から、共に逃げるんだ。
 マリアは意表を突かれた表情で俺を見上げた。艶やかな睫。真直ぐな鼻梁、淡い唇。
 若い細樹のようにすんなりと細い可憐な彼女は、風にさらわれるのにぴったりだ。そうだ、ヴェンタス、おれは風、彼女をさらって、この世界の果てまで、どこまでも、どこまでも飛び去って、いつまでも一緒にいられればいい―









「…………」








 マリアは何も言わず、おれのジャケットから手を離すと、おれの首に腕を廻した。
 そのままおれの頭を抱き寄せる。
 マリアの長い睫が揺れた。
 伏目になった瞳がおれから逸れる。彼女は、自分の額を、おれのそれにそっと当てた。



「…………」



 近くに死が迫っているというのに、そこまでやっておいて、ためらっているものだから、待っているおれはとても愛おしくて、苦しいじゃないか……

 長い睫の下で落ち着かない瞳を見ながら、おれは彼女の望みを叶えてあげることにした。
 おれは彼女の腰に腕を廻した。やはりか細い。
 抱き寄せると折れてしまいそうで怖かった。
 どこまでも繊細な彼女を壊さぬよう扱うのは、一苦労だった。
 どうか、壊れないで。どうか。





 夕暮れの風が、沈黙に沈んだ甘みを乗せて湖の上を走り去って行った。










 それはとてつもなく永い間だったかもしれないし、実はほんの一瞬だったのかもしれない。

 ただ解っていたのは、離してしまうと、もう取り返しのつかないことになってしまう、ということだ。
 二人とも、よく解っていた。解っていたはずなのに、離したのは、彼女の方だった―





 顔を離した彼女はまだおれの首に腕をかけたまま、ぐっと項垂れて固まった。
 ついにおれ達は離れた。最後が迫っている予感がした。がっくりとうつむいたマリア。黒い髪が、ワンピースよりも白いうなじを引き立てている。

 項垂れた彼女の貌から、一滴落ちた気がした。






「待っててね」

 彼女の声は驚くほどはつらつとしていた。おれはびっくりした。
 一瞬の出来事だった。彼女はおれから腕を放すと、燕のように身を翻して駆け出した。あっけに取られているおれをよそに、彼女はどんどん駆けて行く。
 白いワンピースの裾が花弁のように広がる。マリアは紋白蝶のように、ひたむきに駆けて行く―


 彼女が振り返って、彼女は笑っていた。


 知らぬ間に彼女を追っていたおれはそれを見て止まってしまった。
 おれの前で彼女がこんな風に笑うのは初めてだった。さっき、彼女が涙を落としたのは、きっと目の錯覚だろう。彼女の笑顔はとても幸せそうだった。
 その笑顔こそが、まさしく刹那のものだった。
 彼女はもう振り返らなかった。
 おれは―彼女を、追わなかった―

 彼女が「待ってて」と言ったから。おれには、彼女との約束を守る、義務があったから。
 待っていなければならなかった。



 彼女がもうおしまいなんだと、知っていても。



 彼女は仄赤く輝く光の真っ只中へ走って行った。
 ワンピースが赤を宿して桃色に染まった。神話の世界のように美しい光景だった。

















 彼女を救えただろうか。
 救えたのだろうか。俺は風のはずなのに。


 彼女の兄弟は何か喋ったのだろうか。
 彼女が最期に見たのは何だっただろうか。


 彼女は戻ってくるだろうか。
 おれを置き去りにしてしまっただろうか。


 おれは救えただろうか。
 死者となった彼女の兄弟と違い、おれは彼女を救えたんじゃないだろうか。






 マリアは何も語らなかった










 〜5〜



 おれは漆黒を宿しつつある湖のほとりにしゃがんで、膝に顔を埋めていた。
 そうして彼女を待っていた。秋の夜の空気はかみそりのように冷ややかだった。だがおれは待っていなければならなかった。彼女と約束をしたから。せめておれだけでも、それを破るわけにはいかなかったから。

 いつまでもそうしていると、おれを取り巻く風が―

―ヴェンタス……我が息子よ……

 ―低く遠い声で語り掛けてきた。


―ヴェンタスよ。お前は知っていたはずだ。あの娘がいかなる者であったかを。
―お前は孤独の黒さを知っている。孤独は人の心に、埋め難い穴を作るのだ。
―お前の心の穴を埋めたのは、お前の育ての親だった。
―お前は幸運だった。だが、あの娘は不運だった。

―ヴェンタスよ。人の心に空いた穴に、狼の邪霊は巣食うのだ。

―あの娘は両親を失い、双子の兄弟を失い、また風を見る能力で虚無の幻影に惑わされ、耐え難い孤独によって、心に穴を空けてしまった。
―そして彼女は、孤独だけでなく邪霊にまで魅入られた。
―邪霊にとって、彼女の心は棲み良い穴であったに違いない。
―あの娘は、不運だった。まさしく、狼より先に、お前に出逢うことがなかったために―



 風が去り、おれは立ち上がった。
 左手にしっかりとリコーダーを握った。
 帽子を被り直して、おれは駆け出した。
 優しくも冷ややかな月を映した湖に背を向けて。


 別の風が、走る俺に話しかけてくる。
 若樹のようにすんなりとした娘が、祭壇に捧げられる生贄のように、処刑台に登ったこと。
 太い縄に細い首を捕らえられ、足台を執行者が蹴ろうとすると―
 ―私は自分の意思で風に召されます。足を掛けないで。
 そう決然と言い放ったこと。
 そして彼女はしばらく黙ったまま立ち尽くし、最期に、今は亡き彼女の兄弟の名と風を意味する古い言葉を呟き、ありがとうと呟いて、自らの意思で風に身を任せたこと―

 彼女は彼女自身の手で狼を宿した己を贖罪したと言う。

 おれは左手で帽子をぐっと押さえた。向かうのは彼女が捧げられた処刑台じゃない。
 教会へ。














 純白の棺に横たわった彼女は彫像のように美しかった。

 そっと目をつぶり、胸の上で両手を組み合わせた彼女の周りには、秋に咲く花が敷き詰められていた。
 この可憐な娘が人を喰らう狼であったなんて信じられなかった。
 彼女は安らかだった。本当に眠っているようだった。目が醒めたらおれの元へ戻ってきてくれそうだった。終わっている、なんて、とても信じられなかった―



 どこからか入り込んだ風が、教会の中で反響する。風が大声で唄う。



 おれはリコーダーを構えると、風に合わせて唄を歌った。

 悔しかったし、とても惜しいことをした。もう少し早く、彼女の前に姿を現すことが出来ていたら。彼女の心の穴を、埋めることが出来たなら。
 おれは彼女を救えたかもしれないのに。
 奏でた音楽は、エレジーともレクイエムとも違う調べだ。失われた人を惜しむような、胸に迫る、哀しくて切なくて、でもそれ以上にその人が大切で、その調べはいつまでも二人、ゆったりと踊っているような、
 それはパヴァーヌだった。

 おれはパヴァーヌを吹き終えると、リコーダーをそっと差し出した。
 そして彼女の傍らに、それを捧げた。
 この音楽が、これを宿したこの楽器が、風に召された彼女と共にあり続けることを祈った。
 自分に出来ることはもはやこれだけだった。その意味をおれはようやく身に沁みて理解し、心が耐え切れなくなって、おれは棺にすがって声を上げて泣いた。








 〜6〜



「残った狼は、お前だ、行商人―」



 職業柄弁の立ったわしぁ最後の瞬間まで村人の中に潜んだ狼と戦っとったが、ついに、狼と決め付けられてしもうた。
 心を虚無が支配しとったが、それぁ小学生の時に心を支配した暗黒の旋律ちゃうかった。

 まさしく、「無」やった。心の中に旋律は、奏でられんかった。

 どこかで安心しとったんやもしれん。もうこれ以上、無理をして生にしがみついとる必要がなくなりよった。
 マリアを待たせとったかもしれんかった。



 最後の会議が終了し、わしぁまた、湖に来とった。
 湖は黄昏に染まりかけた青空を映し、その上に風はあらんかった。
 わしぁただ、ぶらぶらとフルートを片手に、湖の周りを歩いとるだけやった。他にすべきことがあらんのじゃ。
 フルートで奏でるべき音楽も、風が吹いておらんけんに、奏でようがあらん。
 虚ろやった。どこまでも虚ろやった。何も考えられん。「身辺の整理」をつけたマリアも、こんなんやったんやろか。

 わしぁ整理すべきものはあらんかった。商品の楽器ぁ、どこか他の楽器商が、引き取ってくれりゃそれでよかってん。



 ただ、心の整理が付かん―いあ、何も心にあらんのやから整理なんかする必要があらんのやもしれんが。
 何も考えられん。何も。



「よう」
 わしが一周して村側の岸辺に戻ると、背後から声がしよった。

「何じゃ。これから処刑されるっつー人間を喰ろうた所で、おめーに意味ぁあらんやろ」
「いやぁ、参ったよ、あっきゅんには。悪ぃが、ああでもしねーと俺が吊られるとこだったからさ、勘弁してくれよな」
 俺はあっきゅんを食いに来たんじゃねえって―と、最後に生き残った人狼はそう言った。
 わしぁ虚ろの目でそやつを見た。燃えるような赤い髪が、絵の具で塗ったような色の、ディーターと呼ばれる村のならず者やった。
 屈託のねー目で、こいつは今まで人を喰らって来たようじゃ。ついにこいつが狼やと見抜けたんはわしだけじゃったが―

「何しに来よった」
「そう構えないでくれって。俺はあっきゅんに話したいことがあって来たんだぜ」
「焦らさんで早う言うてみぃや」
「まぁまぁそう棘のある言い方しないでくれって―」
 ディーターは参ったといわんばかりに両手を挙げて俺を牽制した。
 こいつ、ほんまに狼か。素でただの人のいい野郎にしか見えん。

「オットーが、あっきゅんだけは喰うなって、いつものあいつからは想像出来ない剣幕で、そう言い遺して逝ったんだぜ」

「あいつは、幸せだったな。俺はさ、小さい頃に野盗に家族を殺されてから盗みとか繰り返して生きてかなきゃならなくてさ、それで気付いたら狼になってたんだけど。かれこれ十五年前だったかなぁ、それ。で、今まで人狼として人間食べて生きてきたんだけどさ。オットーは狼になり立ての素人だった。最初の襲撃の時もびくびくしてたんだ。一向に襲撃に慣れないから何だと思ってたら、あいつ、お前に気を掛けてたみたいだな。襲撃対象というよりは、お前に申し訳なかったみたいだぜ。で、処刑される時、あいつは何だかとても安心したような顔をして自分から足台を蹴った。あの顔、ようやく罪を重ねることから逃れられると知ってほっとしたような顔、襲撃慣れした俺には、死に際にも出来ないんだろうなーって思ったぜ…」
 羨ましかったとディーターは言いよった。
「結局、俺はまた生き延びてお前が吊られるわけだけどさ。これって俺にとっていいのかなって思ったわけ。俺はこれからも罪を重ねる。オットーは罪を贖った。それに―」
「ああ、言わんでもええがな」
 わしはこの人食い狼が純朴であることに妙な嫌気を覚えて、ディーターの話をそこで遮った。

「最後にわしを吊って終わるっつーのは、優しさじゃろ?」
「ああ、うん。その通りだ。そう言おうと思ってた」

 で、ディーターはまた朗らかに笑うんじゃが。

「ああ、確かに優しさやの」

 ディーターの髪の色と同じ光が、湖の水鏡に大いに反射して大気中に舞った。
 風が吹いた。穏やかで爽やかな、ここに初めてきた時に吹いとった風と同じ風に思えた。

 このオエコリ村は、狼の邪霊によって、沈黙の中に沈むじゃろう。
 最初から、何事もなかったかのように。それでいいのか、判らないけれど。











 ディーターが去ってから、おれはずっと湖に向かってフルートを奏でていた。
 あのパヴァーヌをおれはいつまでも奏でていた。最後に宿に戻って、おれは紙を用意して貰い、パヴァーヌを譜面にしたためた。
 彼女がいたことを、証明しておきたいと願った。




 繰り返された処刑で見慣れてしまった処刑台は、真っ赤に燃える黄昏に包まれておれを待っていた。
 おれはディーターが急かす中、別に戸惑うでもなく嫌がるでもなく、無が心を埋めるままに、処刑台へと登っていった。
 ちょっと高い位置に立って、おれは得意な気分になった。
 最初にオカリナを売った羊飼いの少女とぢぢぃを、おれは見下ろした。おれが処刑された後、この村は終焉する。それをお前達は知らないだろう。それでいい。
 おれは縄に首を掛け、台の上に立った。
 ディーターがおれを伺いながら、申し訳なさそうに足を台に掛ける―

「蹴んなや! わしぁわしの意志で風になる!」

 やるべきことは済ました。あのパヴァーヌを、あの譜面が滅びた村の宿に置いてあるのを、訪れた旅人が偶然に見つけるといい。
 そうしてマリアがいたことを、音に乗せて知らしめてくれるといい。

 おれはもう遺しておくことはなかった。
「―わしのドブロギターじゃが―わしと一緒に埋めとくれぃよ」
 そう言うとディーターが力強く頷いてくれた。わしは安心して最後の作業に取り掛かることが出来た。








 風がわしを包んで唸った。何だか祝福してくれとるよーに思うた。










































【パヴァーヌ】

16世紀から17世紀にかけての西洋の宮廷舞踊。男女のペアが列を成して踊る優雅なダンス。フランス語でパドヴァ(イタリアの都市)風舞曲の意味といわれる。二拍子系のゆったりした曲で、各種ダンスの初めに踊られた。










































 〜フィナーレ〜



 願いは、聞き届けられた。













 輝かんばかりの緑が黄色を経て朱にならんとする山のふもとに、穏やかで平和な村があった。
 そこにある小さいが手入れの行き届いたパン屋から、パンを焼く香ばしい香りと共に、情緒豊かなピアノの旋律が流れ出す。

 繊細かつ優雅で、優しく穏やかな、けれどもやるせなく、誰かを惜しみ、哀しみ、遠くへ去って逝ってしまったその人を想い、いつまでも想い、魂は常にその人と共に優美な螺旋を描き続ける、その曲は舞踏曲だった。

 パン屋の傍らを過ぎる村人達は、その胸を締め付けるような美しい調べに、ふと足を止めて聞き入る。
 高く澄み渡る青空に響き渡るそれは、今までも何度も耳にした旋律であったけれど、いつでも心を惹き付けてやまぬ極限まで美しい切なさであった。




「……あんたってさー、本当その曲好きね」
 パン屋の中、備え付けられた縦式グランドピアノを叩いていた白い指がようやく止まると、パン屋のサロンテーブルに腰を下ろしていた少女がぶっきらぼうにそう言った。
 ピアノを演奏していた少女は、彼女を振り返って微笑む。
「でも、この曲にまつわるお話も趣深いというか……」
「あんたがこないだ聞かせてくれたあの話?ありえないよ」
 テーブルの少女が、短い茶髪を振り被ってそう言う。
 ピアノの少女は苦笑気味になった。
「ダメかな? 音の妖精の子供と、人狼の女の子の恋物語。何だか物悲しくてこの曲にぴったりじゃない……ヘレナ、そういうの嫌いそう」
「解ってるじゃないの」
 ヘレナと呼ばれた少女は大げさに両手を振って呆れた様子を表した。ヘレナは恋色沙汰を好物としない性格である。
「大体、音の精霊の子供なんてありえないって! その時点で嘘八百。人狼なんてのもいい冗談だわ」
「現実のお話じゃなくたっていいのよ。雰囲気が好きなの」
 ピアノの少女が肩身狭そうにそう言うと、ヘレナはあーあ、と言って両手を下ろした。
「……ま、あの話の雰囲気とあんたのその曲が、ベストマッチしてないって言えば嘘になるけど」
「でしょ?」
 ピアノの少女はにっこりとヘレナに笑いかけた。
 そして少女は再びピアノと向き合う。
 このピアノは少女が最も好きな楽器であった。あの物語の主人公のように全ての楽器を完璧に奏でこなせるわけでもないし、風の音を聴いて即興で演奏するなんて出来るわけでもないのだけれど、少女は音楽に浸っているのが小さい頃から大好きだった。出稼ぎで家を空けがちの父が十歳のプレゼントにと、娘に買い与えたのがこのピアノである。少女はそれはそれは喜んで、手に入れた楽譜や耳にした曲をどんどん鍵盤の上に降ろしていった。今年、少女は十五歳になる。彼女の演奏の腕は村の誰もが認めるまでになり、少女は真剣に帝都の音楽大学を目指そうと密かに決意を固めるまでになった。
 ピアノの譜面台に広がった美しい譜面に、少女は微笑んだ。
 いつ弾いても、何て美しい曲なんだろう。この曲を弾いている間、少女は、恋人を失った者が彼女との想い出を回想し、懐かしむ哀しさと美しさをくぐり抜ける錯覚を覚えるのである。
 きっと素敵な恋人が出来たら、この曲を彼に聞かせてあげよう。
 作曲者の名は時の彼方に過ぎ去ってしまった。ただ、その曲の題名が、作曲者の想いを示唆するものであるだけだ。




 きっと孤独ではなかった。
 少女は確信し、救われたのだと悟った。




「イリーナ、そろそろ夕飯の準備をしましょう。今日はご馳走よ」
 イリーナと呼ばれた少女は譜面から顔を上げて、パン厨房から出て来た母を直視した。
「あ、そうね! 今日はお父さんが帰ってくるんだった」
「え? もうこんな時間? いっけない、私も帰らなきゃ! じゃあね!」
 慌しく秋の夕暮れへ飛び出して行くヘレナを見送り、イリーナはピアノの鍵盤の蓋を閉じ、譜面入れにしまうべく譜面を手に取った。


「The Pavane for the late Maria」





























            『亡きマリアのためのパヴァーヌ』 End

コメント(6)

はい、どうも、お言葉に甘えてずーずーしくも掲載させていただきまし…t…

壁|ミ サッ

お、オットマリアさんとおえこり共有者の皆様に…

どうもありがとうございましたッ(おえこりッシュ)
また読めて本当によかった…っ!!

upありがとうですよー!心からおえこりっ☆
わ、わぁわぁみなさんおえこり!ありがとうございます!(*ノノ)

みなさんにいいおえこりがありますよう…

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