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自分とはなんだろうか?コミュの世界は私の中にある !

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事物の存在、あらゆる現象、それらを感じる主体が「私(=自分 以下省略)」。脳によって私は生まれ、私が消えれば、世界も消える。私を介して事物が生じ、私の視点で展開される。どんな場面や広がりだろうと、どんな想いや観念だろうと私がなければ認識できず、価値や意義さえ消え失せる。必ず私が必要なのです。

あなたは果たして気づいていますか。いつでも視点は同一なのだと。自分の目線で視界を捉え、必ず視点は私にあると。私の角度で世界は映り、私の側しか世界は見えない。どんな時でも私で始まり、どんな時でも私が基軸。いつでも何処でも私を介す。世界は私の内面なのです。

私が見つめ、私が解し、私が想い、私が感じる。私が問い掛け、私が動き、私を基軸に事象が映る。森羅万象、この世のすべて、それさえ私の舞台に過ぎず、例え、愛しい恋人だろうと、脳が創った仮想に過ぎない。

宣言しましょう。客観性など何処にも無いと。私にとっての固有の世界。それがこの世の真相なのだと。私が在って世界は生まれ、私が消えれば、世界も消える。例え、世界が実在しようと、私が無ければ関係し得ない。存在、それを支える要件、それはあくまで認識なのです。脳が織り成す感覚なのです。

しかし、あなたは納得しますか?あなたはそれを受け入れますか?いいえ、あなたは納得できない。そして、あなたは言うでしょう。“事物の存在、在るとか、無いとか、私の認知に関係しないと。事実と認知は別個のものだと。発見されて初めて在ると?いいえ、それは誤りなのです。我らの認知の如何を問わず、在るならそれは前から在った。存在、それはあくまで客体。科学が律する領域なのだと。”

なるほど、それは尤もらしい。“私の認知に影響されず、朝陽は昇り、小鳥はさえずる。私の想いの如何を問わず、世界は動き、事象は流れる。世界と私は別個のものです。事物は勝手に存在し、いつでも私は振り回される。私が私と気づいた時には、既に世界は存在しており、寧ろ、私は世界の一部。海や夕陽や宇宙や生は、客体として確かに在ると。”

しかし、それらは在っても同じ。結果はすべて認識なのです。存在、それは現象なのです。感覚されて其処に在る。五官を介し、五感を用い、認識されて其処に在る。あなたが居ようとあなたが居まいと、あくまでそれは私が決める。認識、それは私のものです。

誰にも知られず存在しようと、誰かが知らねば在るとは言えまい。存在、それは知ることなのです。知らないものなど存在し得ない。どうして脳裏に展開できよう。私があるから存在し、そこから観るしか世界は起きない。私が認めて世界が起きる。認識されて其処に在る。在るとはすべて認識なのです。

どんな事象や物事さえも私にとっての私の世界。私が解し、私が感じ、私が想い、私が動く。主体と客体、それは一見、別個に映る。私とあなたは、それぞれ在ると。確かにそれが物理の世界。しかし、実際、別個に在ろうと、そのこと自体も脳内なのです。

この世の世界、この世の現象、それらは結局、私の内部!個体の脳内、個人の領域、そこで事象が展開される。事物自体は決して知りえず、ただ自らの認知の中で自ら創った仮想を生きる。私の外のあらゆる物ごと、私にとっての感覚・体験、すべては私のバーチャルなのです。

私もあなたも、創られる。私の脳が映し出す。認知の主体は私であるが、客体自体も私と言えます。私と世界は同根なのです。私は世界を体感し、そして世界に命を吹き込む。私の価値観、好みや思考、それらを世界に投影します。私が抱くあなたのイメージ、それさえ私の感想なのです。あなたの像に与える人格、それは私の解釈なのです。

あなたが如何に存在しようと、私の世界であなたは生きる。それしかあなたは存在し得ない。あなたは私の解釈なのです。私の与えたイメージどおりに、私の与えた人格として、私の舞台であなたは生きる。あなたは私のレッテルなのです。

あなたが何を訴えようとも、私の側しかあなたは見えない。私はあなたを解釈し、感じたままにあなたを受け取る。あなたは私の投影なのです。あなたは私の感想なのです。私の中からあなたは生まれ、そして私と会話する。結局、私は、私と語る。自分が想い、自分が感じ、自分が世界を構築します。それが、世界の真相なのです。あなたや私の関係なのです。

しかし、あなたは言うでしょう。“私が抱いたあなたのイメージ、それはあくまで偏見なのだと。私はあなたを創っていない。あなたはあなたの意志を持ち、私は私の意志を持つ。あなたの意志は独立しており、私を殺(あや)める事さえ可能と。

あなたは、自分で行動しており、私はそれを拘束し得ない。それでもあなたは私の世界か。あなたと私はこの世で出会い、現実として互いに交わる。客観的な事実の中であなたと私は存在します。あなたに限らず、あらゆる物事、どんな些細な事件であろうと、それらは独自に変化する。私の意志の有無など皆無。季節は巡り、時代は変わり、周りのものは流転する。私は世界をイメージするが、事物自体は確かに在ると。”

確かにそうです。主体と客体、主観と客観、その認識が私を保つ。だから、あなたは譲れない。客観的な事物を信じる。しかし、それらも脳内現象。脳の中での出来事なのです。すべては私の感覚なのです。

整理をしましょう。

? 私が在るから世界が生まれる。私が消えれば世界も消える。
? 私が世界に意味を与える。いかなる事象も私にとっての意味しか持たない。
? 私は私を体験し、私以外を体験し得ない。私が世界そのものなのです。
? 私の世界が全てであろうと、私はこの世を自由に出来ない。私は私を自 由にできない。関係性が私を保つ。
? 主体と客体、関係性、それらは脳で創られる。私が私を体験するため、それらの世界が創られる。

かくして脳とは、私という名の自覚を創り、自ら私を体験させる。それはすなわち、感動すること。自作自演の自己体験。脳の中で世界が生まれ、関係性が展開される。そこに私が認識されて、私を軸に意味付けされる。私は私を体験すること。それが私(=自分)の役割なのです。

では、私はいったいどこから来たのか。

 興味のある方は覗いてください ↓
        
      http://fukurou946.blog110.fc2.com/blog-entry-5.html

コメント(10)

私の脳はどこから生まれるんでしょうかw
心と魂の違いは?

心は自分でつくるかもしれない。

魂はどっからきたんだろうね??
結論
? 私が在るから世界が生まれる。・・・
? ・・・私が私を体験するため、それらの世界が創られる。

 失礼ですが、あなたの思考は根本的な誤りを犯しています。それは、「興味のある方は
覗いてください ↓」の結論が語っています。「私は無から現れ、そして世界と関係し合う。
私はいったい何者なのか?知る由も無く生きて行く。私は私を判らない。無とは何かを判らない。」
 分からない、分からないお方が何ゆえ結論が提出できる?
 あなたは、あなたの生まれる前に生きておられて存在していたご両親の間に生まれたのでしょ。
世界(私は宇宙の言葉を遣いますが)はあなたの存在に無関係に実在しているのですよ。あなたに
体験させるために世界があるわけではないのですよ。思い上がるな、と言いたい(失礼!)。
あなたは単に、「あなたの世界」だけに拘泥しているに過ぎないのですよ。ご再考を!

 長くなるので詳しくは↓
   http://www31.ocn.ne.jp/~mminoru/
>元投稿者

 自分問題の初歩的なお話です。
大学の哲学教授にとって「さえ」、特に言うまでもない当たり前のことでしかありません。
私の場合は高一の15、6才の頃のステージです。
一大発表するようなお話ではありません。
「脳によって私は生まれ」という表現は元投稿者の限界をあらわしています。
脳が提供するものは機能であって、存在ではありません。


>5

 元投稿者が「どうせこういうレベルの反応が出るのではないか」と言っているレベルの反応です。
コメントする事もありません。

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