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大映「妖怪百物語」3部作コミュの3つの「妖怪大戦争」(3)

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(3)角川映画版「妖怪大戦争」

角川版「妖怪大戦争」というよりは「怪」版「妖怪大戦争といった方がよいだろうか。そこにあるコンセプトは荒俣宏の提唱するように「妖怪は戦わない」であり、「妖怪は勝たない」である。戦わないのだから勝った、負けたとは無縁である。
今回の敵は荒俣宏作「帝都物語」で登場する加藤保憲である。彼は日本先住民の怨念の集合体として描かれ人間や妖怪を根絶やしにしようとする。人間に捨てられた器物の怪「ツクモモノ」と妖怪を融合させ機怪を作り上げ、現日本人と妖怪たちに戦いを挑む。それに対し人間は「見えない」ので関知できず、妖怪たちにはそもそも「戦う」という概念がない。つまりこの映画、タイトルとは裏腹に妖怪は戦争などしないのである。これを「戦争だ!」といったのは人間側であり、加藤と直接対峙できたのはこれもまた人間である。
つまりこの映画で妖怪たちは盆踊りを踊るか、人間の少年を脅かすぐらいである。他には何もしない。彼らは逃げ隠れするだけで関わろうとしない。

クライマックスの機怪との戦いにしても彼らの戦っているという意識はない。これには正直「やられた!」と思ったものだ。
ここで描かれる妖怪たちの多くは物凄く俗物である。まるで人間のように。
それもそのはずであって、そもそも妖怪というものは人が意識するから初めて「妖怪」として現れるわけであり、それはもちろん人間の意識を如実に反映するわけだからである。だから特殊な能力は持っているものの、本質的には人間の姿に似通っているのだ。
ここで現れる川太郎と3部作の河童には共通点も多い。お調子者で、シニカルで、それなりに世話焼きで正義感は強い。河童という妖怪が古くから人間と慣れ親しんできたせいもあって他の妖怪などよりも人間くさいところがある。これも通り。

問題は川姫である。映画版では彼女の受けた屈辱というものがそれほど強く説明されている訳ではないのだが、原作版を読めば彼女は妖怪でありながら特殊な位置付けがなされていることがわかるだろう。彼女は「怒り・憎しみ」といった本来妖怪にはない感情を有している。彼女が妖怪と人間の橋渡しとなるのはそれなりの理由があるわけだ。他の妖怪が加藤に対して怖れを抱くだけで何もしないのと比べ、彼女は自分の感情を押し殺してあえて加藤と対峙しないのであり、川姫の感情が爆発するときがこの映画の一つの主題ともなるべきものだと思う。

怒りや憎しみといった感情をもつ妖怪。これは言い換えれば機怪と、そしてアギと同じステージに彼女が立たされていることを示す。

アギが人間的な愛情をあからさまに示し、そのために加藤に葬られることになったのに対し、「それをしてしまうと人間になる!」という彼女の叫びは妖怪というものの立場を鮮明に表している。

妖怪はやはり自然のままなのである。

妖怪はそのままに自然の具現化なのである。

あるがままに逆らわず、おびえ逃げ回り、適度に助平で俗物である。

だからこそ、妖怪たちは麒麟送子を必要としたのである。自分たちではどうしようもないことを自分たちに近い人間に託したのである。毎年麒麟送子は選ばれる。平時は単なるお祭りごとでいいのだが、時によってはとんでもない祭りに組み込まれることになるのは、御覧の通りである。

この映画のラストで妖怪大翁がいう。「戦争なんてアホらしい。腹が減るだけです。」まさにこの映画はそういった映画である。

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