ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

日本史 異説!逆説!こぼれ話?コミュの秀次事件考察

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
国学院大の矢部健太郎氏から新説が打ち出されて数年が経ちましたが、いまだに謎の多い事件です。

あくまで僕は豊臣秀吉を尊敬しているので、擁護となってしまうことと、逆説となってしまう二点にはご容赦を。

まず、御湯殿上日記に記されている、
「くわんはくとのきのふ十五日のよつ時に御はらきらせられ候よし申、むしちゆへ、かくの事候のよし申なり」
とありますが、ここで確実に切腹だということがわかります。

かつて戦国後期以前の切腹とは、責任をとるため、自己主張のためでしたが、秀吉が織田家臣時代に備中高松城の清水宗治が行った潔い切腹に感銘を受けて以来、切腹とは名誉ある刑死となりました。
この宗治に通じる名誉ある切腹を秀吉自身が、被告人・秀次に申しつけるのか。
名誉ある刑死にも関わらず、後に秀次悪逆塚と呼ばれ、三十余名の尊い命を一様の塚に乱暴に埋めるのか。
秀吉が秀次を心から憎んでいたならば、斬首を選ぶはずです。

次に、矢部健太郎氏も指摘されていますが、
「秀次を殺すつもりならば、料理人や召し使いを高野山に置かない」

以上の二点から、秀吉は秀次を粗末にしていないと考えられます。

とすれば、秀頼が産まれたから、邪魔になったという説を否定できます。

そもそも、秀頼が産まれるたったの二年前に秀吉は鶴松をわずか三歳の若さで亡くしています。
その後、新たに産まれた拾が秀頼として順風満帆に育つとは秀吉が想像できるはずもありません。
小氷期、疫病と苦難の時代に、拾が天皇の補佐役である関白に就任できるまで生き残れる保証もないでしょう。

となれば、秀次は豊臣政権にとって必要不可欠な存在であった。
矢部健太郎氏の説を拝借させていただきますが、秀次は自害したと考えるのが妥当です。

そして、秀次を失なった豊臣政権は関白の自害という前代未聞の事件隠蔽を迫られる。
さもなければ、豊臣政権への不信、つまり豊臣のブランドである「泰平」と豊臣の安泰そのものが危ぶまれます。
弱体政権は容易に政変を起こされることは室町幕府から学べますので、ただの親バカではなく、豊臣と泰平のため、秀次一族を殺害したという、政治的な意図が見えてきます。

コメント(46)

>>[006]

僕の説明不足をフォローいただきましてありがとうございます。
レスが不躾であったかも知れません。
お気に障られたなら申し訳なく。
特に史料などのご提示でなく、秀次の自殺理由をどのように思われているか、お聞かせいただければ、と。
失礼しました。
いきなり話そらして恐縮だけど、俗に「秀次草子」と言われてあまり知られてない2点の草子があります。愛知県史の付録にカラーでついてますが、これがすごい。

秀次の首が台に置かれて、同時に処刑になった一門の女性たちがそのままの情景で描かれます。
太閤記の影響がないことから、かなり同時代に描かれた稀有の史料とは思いますが、秀次に関心をもたれたならぜひ一度は見るべき史料でしょうか。

当時に死刑はどう行われていたか、ましてや同族一族全て処刑の情景、とは文章でも恐ろしいですが、百聞は一見にしかず、大変な内容ではあると思います。

秀次自殺問題の余話として、秀吉末期暗黒時代を視覚で感じられる問題提起と言うことでお許しを。
>>[008]

いえ、お気になさらずに。

秀吉に関わらず、為政者達は後の政権に貶められるので、秀次事件はある程度脚色されていると思います。

確かに、資料は第一級の証拠になりますので、この説では通説を覆せないでしょう。
しかし、僕は当時の人間の感覚、常識を考察しないと本当の歴史はわからないと思いますので、このような説を打ち出し、書き記しました。
>>[009]

コメントありがとうございます。
秀次草子は正直知らなかったです。勉強になりました。
確かに、蛇攻め、油での釜ゆでなど死刑は残酷ですね。

ただ、秀次は御湯殿上日記では「御はらきらせられ」とあるように、間違いなく切腹して果てています。

その後、斬首されたのかはわかりませんが、いずれにしろ切腹後、秀吉の勘気に触れたと考えるのが自然かと思います。
 興味深く拝読しました。

 部分だけを取り上げた意見になりますが、関白という身分の者(であり、自分の養子でもある者)を斬首するわけにもゆかず、切腹という形で処刑した、と考える余地はないでしょうか。

 また、秀次の首については、切腹後に斬首ということではなく、切腹の際の介錯で首を刎ねたとも考えられそうです。
矢部氏は通説を見直し、「秀次は自ら切腹に及んだのではないか?」という新知見を打ち出したことに関しては敬意を表しますが、全体的に見ると自説・結果ありきの解釈が目立つ印象です。
「秀吉は切腹を命じた→秀次逃亡→秀吉怒り心頭→秀次一族郎党共に斬首」という流れならまだ理解出来ますが、「秀吉は切腹を命じる意思はなかった→秀次勝手に切腹→秀吉怒り心頭→一族郎党斬首」という解釈にはどうも賛成できません。
単に首をのせる台、だったかもしれない・・確認してきますのでしばらくお待ちを。
>>[012]さん

なかなか道理に叶った考察に脱帽しました。確かに、介錯はあり得そうですね。

しかし、秀吉が切腹を命じたとなると、秀次も武士ですので、命を落としてまで守りたい「家」を根絶やしにする理由は秀吉にはないんですよね。

そうなると、秀次のみに厚遇で残りの親族には苛烈すぎます。秀吉が家まで潰したいという憤怒に駆られていれば、「切腹」という気づかいなしに斬首でしょうからね。
>>[014]

コメントありがとうございます。

矢部健太郎氏の見解では、秀次が勝手に切腹したから、豊臣政権は狼狽し、対応に迫られたとあります。
関白の自害は豊臣政権の評価失墜に繋がります。
御湯殿上日記にも書かれているので、天皇家にも知れ渡っていますからね。

それに、秀頼が成人まで生きたというのは結果論でしかありませんので、幼児の死亡率の高い時代、秀次の存在は豊臣にとって必要だったでしょう。
さらに、秀吉自身も幼い三法師を傀儡とし、織田を乗っ取っています。秀吉臨終間際はまさにその時と同じような局面であったとはいえます。

長文失礼しました。
>>[17]

>秀頼が成人まで生きたというのは結果論でしかありません

仰る通りです。しかし、

>秀次に死なれては、豊臣家の弱体化は明らかです。実際、秀吉の死後、家康が台頭し、世は一時乱世に逆戻りしました。

秀吉死後の政局もまた、結果論でしかありません。
いわゆる五大老制の萌芽は文禄4年に生まれています。もし秀吉が家康を警戒していたならば、秀吉は別の方針を取っていた筈です。

>秀吉自身も幼い三法師を傀儡とし、織田を乗っ取っています。

これについても再考の余地があろうかと思います。

矢部説のよく分からない所の一つに、正則の処遇があります。
彼は何故加増されたのでしょう。
三成の言うように最大の「功労者」であるなら、むしろ処罰の対象になってもいいような気もしますが。

また重臣の死は秀吉による粛清なのに、秀次の死は無関係というのも理解できません。
>>[019]

コメントありがとうございます。

>秀吉死後の政局もまた、結果論でしかありません。
まさしくその通りです。
しかし、関東移封、秀頼の後見人に利家などを考えると家康に対して警戒していたと考えられます。

譜代の家臣の少なさも秀吉のウィークポイントといえるでしょう。それだけに、秀次の死は豊臣政権にとっては致命的だと考えるのが自然です。

>秀吉自身も幼い三法師を傀儡とし、織田を乗っ取っています。

確かにおっしゃる通りです。

信忠の嫡子ですから、三法師が家督を継ぐことに異を唱えた勝家は当時の常識からすれば間違っているでしょう。
しかし、後漢末の董卓のように幼君を傀儡とし、政治を行う君主の存在を三国志を通して認知していた武将も多いはずです。

殺生関白は後世の創作ですが、秀次悪逆塚とあるように、豊臣政権は秀次の切腹後、掌を返したように残虐な処刑を行っています。

この塚の存在により、秀次を悪としたのは間違いないはずです。「切腹」という名誉ある刑死の結果、秀次は悪逆だったと政権はしたてあげているので、切腹行為自体が政権にとって痛手だったと考える他ありません。

なので、悪である秀次に荷担すれば、刑死と考えるのが妥当です。

重臣の刑罰、さらには一族処刑も「切腹」後のこの塚の存在によって切腹した秀次を糾弾するものだったと読みとれます。

正則の加増についてはすいませんが、正直わかりません。

福島正則、福原長尭、池田秀雄は秀次高野住山令を伝えた、にも関わらず秀次は切腹。
正則らは秀吉の意向を秀次に伝達するという任務に成功するも、秀次が切腹したため、秀次高野住山という任務には結果的には失敗。

正則の加増については憶測の域を出ないので、割愛させていただきますが、秀次高野住山令の料理人、刀剣の持ち込み禁止など、秀吉が秀次の身を案じていたのは明白です。

長文失礼しました。
>>[20]

家康を警戒していたなら、伏見の政務を委ねる理由が説明できないと思います。

>確かにおっしゃる通りです。

おっしゃる通りと言われても困ります。
「秀吉自身も幼い三法師を傀儡とし、織田を乗っ取っています。」
は私の意見ではありませんよ。
勝家は三法師家督について異を唱えていないと思いますが。
非常に興味をそそられる話題ですし、想像性を刺激する問題でもありますが、
秀次が切腹を命じられた直接の原因や遠因となったものの確実な証拠が出てこない限りは決着付かないし、想像で補ってしまっている部分があるものは歴史学とは少し路線が違うような気もしています。

詳しくはないのですが、悪逆という名前が後代に入ってからついたということはないんでしょうかね?
>>[022]

確かに、秀次切腹の原因は正直、わかりません。
しかし、悪逆は塚に刻まれているので、間違いないと思います。
>>[22]

謀反・逆心という文言は当時の書状にありますね。
悪逆というのは探してみないと、ちょっと分からないです。

論点は
1.秀吉は切腹を命じた、その命令により秀次は切腹した(通説)
2.秀吉は切腹を命じるつもりだったが、その命令の前に秀次が切腹した
3.秀吉は切腹を命じるつもりは無かったが、秀次が自害した
で、矢部氏は3を唱えているという事ですね。

私は矢部氏の新説に触れ、確かに2・3の可能性も否定できないなと思いましたが、いくつもの疑問・矛盾があるのも事実です。
初出論文が出てから結構立ちますが、あまり話題にはならないのはやはり、推測部分、が多いということでしょかね。

通説の見直し、確認と言う意味では貴重だったでしょうし、こういうところでその推測の妥当性を語るというのは面白いところです。

>>[026]

僕自身も皆さんの意見に触れて、やはり一筋縄ではいかない謎だと改めて痛感しましたし、皆さんのおかげで勉強になりました。
>>[24]
>確かに、秀次切腹の原因は正直、わかりません。
>しかし、悪逆は塚に刻まれているので、間違いないと思います。

たかくんさんのご意見を必ずしも全否定するものではないんですが、
その塚は放射性炭素年代測定など、科学的な見地で検証されたものなんでしょうかね?
文献などは後から書き換える事も可能になってきますので、ちょっと信憑性が落ちる可能性がありますが、石塚となるとどうなるんでしょうか?

私の地域にも、石塚のようないわれの古い物がありますが、風雨にさらされて、判読出来ないようなものもございます。

ちょっと、証拠資料としての能力が、現代科学のメスが入っていたりしないものは、間違いないとは言い切れないような気も致します。
>>[022]

すいません
>悪逆は塚に刻まれているので間違いありません。
というのは語弊が生じてしまいますね。

正しくは秀吉サイドは秀次悪逆塚と刻んで秀次を悪逆としたです。
訂正してお詫びします。
>>[29]
すいません。
回りくどかったかもしれませんが、
私の地域では建立江戸期とされる石碑のようなものでさえ、磨耗が激しかったりします。

産業革命以降、昨今は酸性雨問題などもあり、外部に有る石碑の保存運動なども散見されます。

織豊時代の石碑が読み取れるはずないとまでは言いませんが、
読み取れるだけ保存状態が良かったってことでしょうかね???
(と思ってたら、2000年以上前のモンゴルの岸壁?に刻印された文字や歌が発見されたというニュースが入ってきて、残っているもんなんだぁと驚いています。)

保存の観点もありますので、ちょっとその辺の科学的分析もあったら望ましいかな?とは、個人的には考えています。
>>[30]
 先頃「世界の記憶」に登録された上野三碑や、那須国造碑、多賀城碑などのように1300年も経過していてもはっきりと碑文が読めるものもあります。その一方で、仰るように江戸期のものでもすでに判読しづらくなっているものもあります。
 碑文の残り方は、石の素材や文字の彫りの深さ、設置された環境などに大きく左右されると思います。

 なお、放射性同位元素による測定は、生命体が死亡してからどれだけの歳月を経過したかを測定するものですので、木を切ってから何年経ったかは推定できても、石の場合には使えないのではないかと思います。
放射性の年代測定にはいろいろ種類があって、よく使われる炭素14のは有機物にしか応用されませんが、他の方法で鉱物も測定は可能ですね。
つまり、対象物の年代によって適性の検査方法を使うわけで、何万年と何億年では異なる方法を使う、という感じ。

石だと、石自体の古さはおおまかに推定されますが、それを刻んだ「年代」はまた別で、これは科学と言うよりは文系の?考古学や歴史から判定されることが多いでしょうか。

話しそれてしまって恐縮だけど、石に刻まれた記述の信憑性、これは年代とか科学とはまた違った要素が多いでしょうかね。なので、秀次切腹の原因を考えるにあたって、石の記述、これは他の史料とかつけあわせてそこから考えるべきもの、となるでしょか。
振り出しに戻してしまってすいません。
石碑に掘られた文字が判読可能ということで、埋没していた時期が長いと考えていて、
確か、石碑のようなものでも、周辺の土からある程度の推定指標出来たと聞いたことがあったので、早合点で書いてしまいましたが、

再発見されたのが、1595年(鴨川氾濫で流されてから16年後)であり、しかも石塚は弔うために周辺整備もされているということであれば、もう無理ですね。。。(もう少し最近のことかと思いこんでしまっていました。)
https://www.travel.co.jp/guide/article/9976/

近年では付着物が丁寧に保存されて、埋設物の年代測定の指標が微妙に改定された後に再鑑定で、思っていたよりも古かったとかそういうケースもあったりしたので、同様の可能性を考えておりました。
掘られた文字の年代特定は、仰られているように、他文献や書体、様々な周辺情報などにより、照らし合わせて、内容を精査してるようですね?

ちょっと調べてみましたが「悪逆塚」の存在を一次史料で証明するのは難しい感じですね。
ありそうな話ではありますが。
でも「○○寺縁起」なんて大概そんなものなのかも。
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.asahi.com/articles/ASKDT56MZKDTPTFC00Q.html
30で取り上げたモンゴル銘文は後漢書と内容のすり合わせが出来たためのようです。
>モンゴルの岩壁に2千年前の銘文 「後漢書」と同じ内容:朝日新聞デジタル


石では年代測定できないということでしたが、どこかで聞いた覚えがありました。
調べてみると、石英を含む場合、水和層の分析で年代測定できる可能性もあるとのこと。

考古学の空白を埋める新たな年代測定法

https://wired.jp/2004/04/19/%E8%80%83%E5%8F%A4%E5%AD%A6%E3%81%AE%E7%A9%BA%E7%99%BD%E3%82%92%E5%9F%8B%E3%82%81%E3%82%8B%E6%96%B0%E3%81%9F%E3%81%AA%E5%B9%B4%E4%BB%A3%E6%B8%AC%E5%AE%9A%E6%B3%95/
>考古学的な遺物の年代測定には、主に放射性炭素測定法やカリウム−アルゴン法などが用いられているが、これらの方法では5万年〜10万年前の遺物が測定できない。そこで米国とドイツの考古科学者たちが、岩石に含まれる石英の水和層を測定することで、この期間に作られた石器や石像の年代も測定できる手法を開発した。美術品の鑑定や地震の起きた時期の推定など、考古学以外の用途も考えられるという。
<

「悪逆塚」の場合、再発見後に供養のため悪逆の部分を削り取られている点や
そもそもの塚が、刑後に建てられた経緯も有りますので、
謂れのあるものであることは確かですが、どちらかの説の正しさを担保する証拠能力までは行かないものなのかなと思います。



>>[36]
 私は不勉強で、石の年代が測定できるということは知りませんでした。
 御教示ありがとうございました。
 しかしながら、だいぶ筋の違う話と思います。
 その石が誕生したのが何万年前であるのかということが分かったとしても、石に碑文が刻まれたのが420年前なのかそれよりも新しいのかを知る上では意味を持ちませんので。
>>[37]さん
>しかしながら、だいぶ筋の違う話と思います。

まぁ仰られたいことは理解しています。思い出した話をかいただけですので。。。

>石に碑文が刻まれたのが420年前なのかそれよりも新しいのかを知る上では意味を持ちませんので。

保存状態などを加味して、切り出した年代が推定できるようですので、石そのものの古さだけがわかるのでは無いようです。

加工年もある程度の正確さで理解できるとのこと。
石碑の存在そのものは否定出来ないとしても、文言が掘られたのがいつか特定するのは難しいでしょうね。
事件が起こったのが文禄四年(1595)、秀吉の死が慶長3年(1598)なので、流石にそんなに高い精度での検証は無理かと。
横から失礼いたします。

何か石碑の話に行ってますが・・・。
もし秀次公自害説とするなら、やはり秀吉公が激怒する要因が在ったのではないかと・・・。

私の知る限りの事で、お恥ずかしい限りですが。
秀次公、殺生関白や人切将軍、そして女性に対しての執着と言う事を目にします。
もし本当に、その様な人物なら、秀吉公の命を待たずに人を処罰したり、好き勝手なことをしたのでは無いかと。

そして唐突の無い事を言いますが・・・・。
仮に、淀の方と密会していたとしたら・・・・秀吉公の怒りも頂点に達して可笑しくは無いと思います。
事実、秀頼公が生まれたのが1593らしいですから、可能性が無いとは言えない気がします。

そして秀吉公が、それを知ったと福島正則公を通じて知らされた。
当然、秀次公は生きていられないと思うはずで、自害を選んだのでは無いかと。
怒りの矛先を見失った秀吉公が秀次公の死後、一族を処刑するのも分かる気がします。
駆け足で、小和田哲男氏の豊臣秀次「殺生関白」の悲劇を読みましたが、

切腹を言い渡しに来た、福島正則と罪人の逃げ込み場の寺である高野衆の一触即発の事態があったそうで、そのとき秀次が腹を切ると言って争いにならなかったとありました。

2002年の本なので、古いかもしれませんが、初めて秀次関係の本を読んだので、なるほどなぁ、と思いました。
>>[41]

まぁっ、先の方々は私よりも詳しいでしょうから、正説に近いでしょうね。
私のは秀次公関連の諸説諸々を読み。
三戸南部氏の援軍要請に対して、秀吉の派遣した秀次公を総大将とする奥州仕置き軍と戦った。
地元・九戸領主の九戸政実公に関する事もふまえてなので、どちらかと言うと愚説になると思います。

仕置き軍の軍官の蒲生氏郷公や他の副官は、九戸氏を殺すには余りにも惜しいと秀吉公に謁見させようと大阪へ連れて行こうとしたとか・・・。

しかし、宮城県の白川郷辺りに陣を張っていた秀次公にさえ謁見できずに、宮城県の栗原辺りで処刑されてしまったと言う話があります。

一説には、九戸氏を謀反人に仕立て上げて秀吉公に嘆願した事がばれるのを恐れて、三戸南部氏が秀次公に九戸氏の処刑を願ったためとも言われてます。

また、秀次公が女性に対して、凄く執着していた話。
何処の大名かは忘れましたが、その大名の十五、六歳になる姫君を側室として差し出させたとか・・・。

しかし、姫君が大阪に着くなり、秀次公は幽閉されて、その後自害。
結局、その姫君は秀次公に御目通りする事も無く、三条河原で処刑されたそうです。
晩年の秀吉の朝鮮出兵や利休へ切腹を命じたのは、余り政治評価として評判よくないようですね?
利休の件もあるので、秀次の件だけが取り上げられるのもちょっと違和感があります。

三条河原の悲劇の駒姫は出羽(今の秋田・山形)、最上義光公(伊達政宗公の叔父)の娘ということで、

その後の関が原の戦いで東北側が東についたのは遺恨があったからとも一部言われます。
映画「関ヶ原」でも触れられてるようです。
https://sinobi22.com/911.html
>>[43]
千利休が命懸けで、秀吉公に意見したんでしたよね。
どうも羽柴秀長公が亡くなってから、おかしくなった様に思います。
きっと秀吉公の歯止め役や、相談相手だったんでしょう。

そうです。
三条河原で処刑された姫君は駒姫ですね。

それに東北は昔から中央政権に潰されてますからね。
阿弖流為、九戸政実公・・・。
だから秀吉側に付いたのは、津軽氏ぐらいでしょう。
>>[44]
利休の場合ですが、茶道も含めて、キリシタン大名の会合情報交換の場、とも目されていて、それが秀吉のいない所で連携しだすのを恐れたなんて話もありますがね。。。

秀次の件は、
秀吉自身が下克上で追いやってきた過去があり、自身が天下人となってしまったがために、今度は追い落とされる側に回るという大きな矛盾を抱えてしまい、、老齢から来る猜疑心ですか、
ジャパニーズ・カエサルvsブルータス或いはオイディプスみたいな悲劇かなと思っています。(あまり有名ではないところですが、こうした人間模様のドラマは魅力があり、謎が残る分、語り継がれる要因何じゃないですかね?謎は謎のままのほうがロマン有りそうなw。)

戦国時代の東北は複雑で、東北内での群雄割拠もあったようです。
伊達政宗公が有名ですが、伊達家は東北各県に人質として娘を嫁に出していて、血で血を洗うような争いも各種起きてしまっています。

まぁこの頃は対上杉でまとまっていた所有りますけど、それが逆に関が原に出なかったということで、伊達家は外様扱いで幕府成立以降、土木作業をさせられたり、非常に苦労する原因にもなってますけどね。。。
秀次事件は、先ず謀反の信憑性を考えるところを起点とすべきかと思います。

それ以外の要素は殆どが江戸期以降の俗説ばかりですし。

ログインすると、残り6件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

日本史 異説!逆説!こぼれ話? 更新情報

日本史 異説!逆説!こぼれ話?のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。