ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

海外に住む☆JAPANESEコミュの『移住と2重国籍」ミクシィ講座(1)

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
自己紹介:米国、カリフォルニア在住30年。
国籍はアメリカ。それまで3カ国で永住権を収得する。
42年前に移民船で南米に45日もかかって移住しました。
そん事で人様よりは、いくらか知っていますので
ここに書いて見ます。

今日から連載致しますこの論文は、『移民と二重国籍』
ミクシィ講座と致します
私が研究テーマとしたのはかなり古い事です。
42年前にアフリカ丸の移民船でのパラグワイ移住途中から
かなりの人に決まった質問をしていました。

1、貴方は日本の真珠湾攻撃時には何をしていましたか?
2、貴方の現在の国籍は日本ですか?
3、それとも居住国に帰化していますか?
4、貴方はもし、日本が二重国籍法を認めるのであれば
  居住国に帰化しますか?

『国籍とは何か!先ず命題として提議しておきます。』

これは現在でも続けていますが興味が有り、かなりその人の考えと
行動と思考的な過去の経歴を見ることが出来ます。その国籍と言う
基本的な考えと、それを法的な関連からする見地から見た国籍と言う
その個人的人間のカテゴリーに分類した国籍法から見た『戸籍、国籍、
住民登録、』の分類からして、人間一人の人格として各自が背負う
ものであります。

以下の論文は 『Yuri Ciperle 女史』が主催する
グローバル市民ネット、二重国籍・外国人市民権キャンペーンに女史が
提議されている戸籍と国籍を、我々が認識しなければならない原点として
提示されている貴重な論文で、ここに紹介しておきますので、HPも是非とも
一度は訪れて見て、読んで、理解して、女史が推し進めている『重国籍容
認運動』に、ご協力をお願い致します。
 
 Yuri Ciperle 女史、執筆論文 『国籍の原点及び定義』

日本国憲法では、国民という言葉が使われていますが、国民という言葉は国籍
法でしか定義されていません。国籍法では国籍のあるものが国民と定義されてい
ます。国籍という言葉の定義はどこにあるのでしょう?現在は戸籍のあるものが
国籍所有者とされています。戸籍に不備がある場合は、法務省が国籍の確認
をしてくれるようです。法務省は何をもとに国籍の確認をするのでしょう?

戸籍ができたのはいつでしょうか?

歴史の教科書を見ると、
中国の唐の律令制度に倣って、文武天皇の701年に大宝律令が完成し、行政
組織や行政区が整備されたのに伴い、人民を戸籍・記帳に登録させたとあります。
戸籍には戸主とその家族の姓名・年齢などが記され、さらにその下にいろいろな
注記があったようです。戸籍は6年ごとにつくられ、それにもとづいて班田収授
法により、6歳以上の男女に一定額の口分田が与えられました。男子が約11.
7アール、女子がその3分の2、私有の奴婢は良民男女のそれぞれ3分の1とさ
れ、家屋やそのまわりの土地は私有を認められたが、口分田は売買を禁止され、
死者の田は6年ごとの班年をまって収公されました。 班田収授法は、豪族の支
配をふせぎ、それらを国家の支配下におき、徴税の対象を確保することをはかっ
たものであった。農民は班田収授法によって最低限の生活を保証されたが、他面、
国家に対して租・調・庸・雑徭などの重い負担を負っていた。

 *大陸からの漢字文化の導入による、「紙に書いた法律」の始まりですね。奴
隷(奴婢)、平民(良民)、貴族などの身分制度の確定や私有財産の制限、強力
な中央集権の始まりです。租はいわゆる収入税、調・庸は特別税、雑徭は強制労
働、強制年金加入のような制度や、国の財源のための国債のような制度、徴兵制
度もありました。その後、身分制度や土地所有制度は何度も変化しますが、戸籍
制度だけは途切れることなく現在まで受け継がれていると思います。

 さて、戸籍制度は文化的にも制度的にも非常によい面もありますが、実際のと
ころ身分制度のなくなった現在でも、血統による差別、異民族差別、部落差別、
遺伝障害差別や、家(家長)意識による差別、女性蔑視、子供や老人、弱者差別
などが、戸籍制度が原因で社会に無意識に根強く存在します。古くは、長いあい
だ大和朝廷系の戸籍に属さなかった先住のアイヌ民族が激しい迫害を受けました
し、世界大戦の時にも、植民地の人たちを「天皇の臣民として」無理に戸籍に組
み入れようという矛盾が行われました。結果的に戦後問題として、大きな国籍問
題が起きています。植民地の人たちを無理に国民と同じ民族と呼ぼうとせず、国
籍ではなく市民権を与えたイギリス、フランスなどでは、殖民地の住民は独立後
も引き続き市民権を与えられ、大きな国籍問題は起きていません。

 戦後の国籍問題だけではなく、日本にもこれからニューカマーの外国人が増え、
日本に帰化する横文字名の人たちも増えるでしょうが、何代も前の祖先の記録が
ない(もしあったとしても、親戚縁者のほとんど全員外国に住んでいる)彼らの
戸籍を作ることには、何の意味もありません。帰化する外国人には戸籍からでは
なく住民票から市民権(または国籍)を与える制度のほうが妥当ではないでしょ
うか?また、日本人にとっても、生まれた土地を動くことのなかった昔と異なり、
現在は本籍地に住んでいない人がほとんどです。本籍地よりも生活の基盤のある
住民票のある土地が重要であり、住民票をもとに有権者登録や社会保険や納税の
義務が適用されることを考えると、住民票により市民権が与えられていることに
なります。戸籍制度を廃止することには異論のある人が多いでしょうが、日本人
についても外国人についても、戸籍や母国籍に重点をおかず、住民票によって市
民権を保証していくシステムが必要だと思います。

 永住外国人に住民票があれば、外国人登録証も必要ありませんし、住民票をも
とに市民権を保証し、外国籍のままでも「国民」と定義することも可能だと思い
ます。「国民」が国籍のある日本人である必要は、必ずしもありません。日本も、
日本人(民族)=戸籍=国籍=国民という神話をそろそろ改めるべきではないで
しょうか? 日本は日本民族だけの国ではありません。もともと大昔からいろい
ろな民族が混血しているのです。

☆「帰化する横文字名」は「帰化するカタカナ名」でなければ変ですね。

☆「市民権の保証」は「市民権の保障」の間違いです。(^^);;

☆日本の場合、戸籍制度がまったくなくなってしまうと困る点もあります。
 日本は遺言による遺産相続の例が少ないので、故人が生前に財産贈与を
 行っていない場合、遺族の遺産相続の配分を決めるときに何代も遡って
 親戚縁者の戸籍が必要になります。
 そういう面では、戸籍制度をまったくなくしてしまうわけにもいかない
 ようです。遺言の習慣のない日本での遺産の分与は、本人の希望どおりに
 行えるように、 生前の財産贈与の税率が低くなればよいかもしれませんね。

Yuri Ciperle女史のHP関連資料です。お時間が有ります時に開いて見て
下さい。有意義な資料が提示されていますし、それと現在、日本での重国籍
問題とその容認運動家としてリーダー的な存在を示しています。

(C) Yuri Ciperle GCNET <yuri.ciperle@netcompany.at>
*************************************************************
グローバル市民ネット   二重国籍・外国人市民権キャンペーン
Tel/Fax: +43-4245-5061 (Time difference: Japan minus 7 hrs)
GCNET : http://www.gcnet.at
SubURL: http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/4037/
GCML : http://www.egroups.co.jp/group/gcml/
*************************************************************

コメント(64)

『移民と二重国籍」(25)ミクシィ講座

  重国籍者の心の変遷と選択する信条(2)

前回の稿での重国籍に到る帰化までの、心理的な行動分析とその要点
を書きましたが、その日本人との比較対象として、流浪の民族と長い間、言
われてきたユダヤ民族の、千年の世界流浪からの格言として彼等が心に刻む

『民族は国家なり』と言う心のよりどころとする、国籍の価値観は42年前に
聞いた時はいささか驚きの心を持った事が有ります。この事は現在のNHK
のドラマ『ハルとナツのドラマ』の中で、太平洋戦争が勃発して、当時のブラジル

社会で『勝ち組み負け組み』の出発点として、原点の思考的な基本と
感じます『ハルとナツ』の父親がブラジルの政府取締りに反抗して、純日本
的な思考で自己判断した国籍感での発言、態度、行動などが集約され、

日本からの貧困農家出身者が『愛国忠臣』的な呪縛を取れ去れなかった
と判断するものであります。それらの信念とした心を維持して、保てた事は
現地での差別的な扱い、人種差別的な過酷な労働条件などから来る、

俺は日本人だと言う自覚と誇りにまで昇華して決して消すことが出来ない
国籍感となったと思います。それに比較して対象物として相対しての相違を
見ると、優劣とか言うのではなく、同じ地球に住む人間としての国籍感を見る
上での研究対象として、ユダヤ民族を観察するものであります。

例(1)、
『己の私利、私欲と打算の心と、思考で国籍が単に物品的な対象物
となり、信念などはひとかけらも無い状態での思考と、環境的な廻りの人
物や、社会条件での影響で自己の思想と思考を合わせて持って判断
している人間。』

例(1)への提唱として掲げた、前回の項目での比較をユダヤ民族のユダヤ系
ロシア人がアメリカに移住してきた経歴とその歴史的な流れで比較すると、
かなり明確な答えが得られると感じます。

ユダヤ系ロシア人がアメリカに来る条件は、当時42年前の建国して余り時間
が経ってはいなかった時代から、ロシア在住のユダヤ人が新建設された祖国の
イスラエルと言う国に、移住を決意して当時の社会主義ロシアからの脱出を

考えていたと感じます、それは祖国イスラエルと言うのでは無く、イスラエルから
またアメリカと言う彼等が目指した最終地は単に国籍や人種を超えて、より良い
世界を目指してアメリカを選択した事は、私には少し利己的に感じました。

単にイスラエルが廻りのイスラム緒国からの対抗上に、人口増加を計る為に
世界各地からのユダヤ民族の集結をして、逆にアメリカからもイスラエルに移住
したアメリカ系ユダヤ人がいた事を考えると、国とか国境とかを超えて単に国籍

を計り、多くの移民を受け入れたと感じますが、私個人としてユダヤ人を見ると、
私が知合ったロシア系ユダヤ人の若者が、彼の信条とする戦争拒否を貫くため
と、より良い生活の場を求めて先ず、イスラエルに移住して、それからアメリカに

家族の縁故を頼ってアメリカに来て大学に通っていました。彼はロシアもイスラエル
も徴兵制度が有り、当時のロシアはアフガン戦争でかなりの損害で死傷者が
出ていた時代でしたし、イスラエルもその頃は廻りのイスラム諸国との紛争でかなり

緊迫した時代で、彼は『祖国の国籍はユダヤ人として持つが、どこも参加はしたく
ない、我々ユダヤ人はイスラエル以外の国で住んでも、そこから祖国を支える事
が出来るし、その方が個人的には、より大きな力を出す事が出来る。』と話して
いました。

私が持つ国籍感とは大きく違う考えです、その話を聞いてから私は『国籍感とは』
と言う命題を持つ事になりました。
彼等が考える国籍とは、重国籍とは、国に対する忠誠とは、何を基準に祖国と
言うのか、疑問と言う大きな塊で、ただ私だけででは解決出来ない事でした。

これまで同じユダヤ民族でも、ロシア赤色革命から、日本経由でのアメリカ移住
者にもカリフォルニアで会った事が有ります、またナチス・ドイツの迫害から当時の
シベリア鉄道を利用して、満州に逃れて、日本や上海経由でアメリカに来ていた
ユダヤ人とも会いました。

戦前のユダヤ人迫害からの難民的な人々が持つ国籍感と戦後、イスラエル建国
してからの南米やヨーロッパからのユダヤ人移民が持つ国籍感、少し私の個人的な
判断ですが少し、異差があったと感じます。

これに比較する対象物として以下のような方々を見ました。
  
戦後ポーランド領となった地域から追い出されたドイツ人が南米のパラグワイに
移住して来ていました。彼等が持つ国籍感は単にドイツ人という感じでした。

戦前の韓国から親が日本に来て、そこで生まれて日本に50年近く住んでから
アメリカに移住してきて、日本では帰化することも無く、アメリカでは5年の資格
期間を過ぎたら直ぐに帰化していた人の国籍感は、ブラジルで戦前の日本人
が感じたと同じ感覚の国籍感と感じました。

日本での差別的な扱い、人種差別的な過酷な労働条件などから来る、
俺は韓国人だと言う自覚と、誇りにまで昇華して決して消すことが出来ない
国籍感となったと思います。
次回も比較検証して、いかなる過程での思考の流れがあったかを見たいと
思っています。
『移民と二重国籍」(26)ミクシィ講座

今日は『国籍とは』と言う原点を見る為にその用語の真意を
探ってみたいと思います。

何気なく『国籍』とは、『日本国民とは』、と言う前に原点として思考
して、その『国籍とは』の提議を論考して、確証として自分の心に納
めて下されば幸いと思います。

そして、論争や批判、比較考証などの場においての正論を得る為に。
また外地での生活と定住にも、日本人の自覚の為に是非とも熟読して下さい。

国籍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(二重国籍 から転送)
移動: ナビゲーション, 検索
国籍(こくせき)とは、特定の国家の構成員としての資格のことをいい、18世紀以降のヨーロッパにおいて市民革命を経て国民国家という概念が生まれたことに対応して形成された概念である。

目次 [非表示]
1 国籍の機能
1.1 国内法的機能
1.2 国際法的機能
2 国籍立法の原則
2.1 国内管轄の原則
2.2 国籍唯一の原則
2.3 国籍自由の原則
3 国籍の取得
3.1 出生による取得
3.2 身分行為による取得
3.3 帰化による取得
4 国籍の喪失
4.1 志望による外国籍取得による喪失
4.2 身分行為による喪失
4.3 国籍離脱の届出による喪失
4.4 国籍選択制度による喪失
5 自然人以外の国籍
5.1 法人の国籍
5.2 船舶の国籍
6 関連項目



[編集]
国籍の機能
[編集]
国内法的機能
かつては自国の国籍を有しない者(外国人)に法律上何らの保護を与えなかった時代、外国人の権利を著しく制限した時代もあったが、今日では一般的には外国人も内国人と同じような法律上の地位が認められ、特に私法上の権利については内外人平等が原則である。

もっとも、いくつかの領域では自国の国籍の有無が権利の享有又は義務の負担の基準となることがある。例えば、参政権はその性質上自国の国籍を有するものしか認められないと解され(ただし、地方自治体レベルでは議論がある)、出入国・居住の権利についても基本的に自国民しか享有主体にはならない。なお、公務就任権については、参政権との関係で自国の国籍を有することが必須と考えることもできるが、全く就任することが不可能と言えるかについては、議論がある(国籍条項を参照)。

また、外国人は経済政策上の理由などにより私法上の権利を制約されることがある(鉱業権、漁業権など)。

国際私法では、特に家族法の領域で準拠法決定のための連結点としての機能を有する場合がある(属人法を参照)。例えば、婚姻の成立要件については、婚姻の当事者が国籍を有する国の法(本国法)の適用が原則とされることがある(もっとも、当事者の住所地法を準拠法とする例もある)。

[編集]
国際法的機能
国籍の国際法的機能の一つとして、国家の外交的保護権、すなわち国家は自国民が他国によって身体や財産の侵害を被った場合に、加害国に対して適切な救済を与えるよう要求することが認められる。

また、何らかの理由により自国民が他国に在留することができなくなった場合には、国家は自国民を自国領域に受け入れる義務がある。

[編集]
国籍立法の原則
[編集]
国内管轄の原則
国際法の原則上、国籍の得喪に関する立法は各国の国内管轄事項であるとされている。もっとも無制限に妥当するものではなく、国籍の決定に関する条約を締結した国家は、国内立法に際して条約による制約を受けるのはもちろんである。

国籍の得喪に関する国内法の存在形態については、憲法典に規定を置く形態(ドミニカ共和国、ジャマイカなど)、民法典に規定を置く形態(フランス、スペインなど)、複数の法典に分散させる形態(ポルトガル、パナマなど)もあるが、多くの国では国籍の得喪に関して規定した一つの法典を制定している(日本、アメリカ合衆国、ドイツ、大韓民国など)。

[編集]
国籍唯一の原則
人は必ず国籍を持ち、かつ唯一の国籍を持つべきとする原則である。国籍単一の原則とも呼ばれる。

二重国籍の場合、複数の国家から国民としての義務の履行を要求されたり、いずれの国家の外交的保護を認めるかという点で紛糾を生じる場合がある。また、無国籍の場合、居住国で不当な扱いをされた場合でもいずれの国家からも外交的保護を与えられないことになるし、外国人を国外退去させる場合に引取要求先となる国家が存在しないことになる。このような不都合を避けるために、立法上の原則として認められている。

もっとも、国籍法の内容が各国により異なるため、無国籍や二重国籍は完全には防止できない。そのため、国内立法においては無国籍や二重国籍をできるだけ防止するようにすべきという一つの理想に過ぎないともいえる。

現在では二重国籍を容認すべきという考え方が広まっており、欧米を中心に容認する国が増加しているため、原則とは言い難い状況になりつつある。

[編集]
国籍自由の原則
かつては永久忠誠の原則が支配し、国籍の変更・離脱は自由には認められていなかったが、その後、国家による国籍の強制は決して望ましいものではないという考え方が支配的になり、国籍離脱を認める国内立法がされるようになった。

もっとも、国籍唯一の原則との関係から、無国籍や二重国籍になる自由を含むものではないので、それらを防止する限度では制約がある。

[編集]
国籍の取得
[編集]
出生による取得
出生による国籍の取得については、親の血統と同じ国籍を子に与える立法、すなわち自国民から生まれた子に自国の国籍の取得を認める血統主義と、出生地の国籍を子に与える立法、すなわち自国で生まれた子に自国の国籍の取得を認める生地主義とがある。

日本、大韓民国、フランスなどは血統主義が原則であるのに対し、アメリカ合衆国、アイルランドなどは生地主義が原則である。

もっとも、いずれの国の立法も一方の主義に徹底しているわけではなく、無国籍防止や子どもの人権擁護の観点から両者を併用しているのが実情である。上記のフランスも含め、EU諸国では血統主義であっても、少なくとも自国に永住する外国人の子や孫には国籍の取得を認めている例が多い。

[編集]
身分行為による取得
国によっては、外国人が自国民との間で婚姻、養子縁組などの身分行為をした場合に国籍の取得を認める立法例がある。このような事由による国籍の取得が認めるのは、家族によって国籍が異なると、国籍を異にする国家間で戦争などがあった場合に家族が崩壊する恐れがあるとの考慮などによる。

もっとも、このような立法例は少なくなっており、日本の国籍法でも準正の場合に届出がされる場合を除き採用されていない。

[編集]
帰化による取得
出生後に国籍を取得すること全てを指す場合もあるが、基本的には、出生後の国籍取得のうち本人の志望に基づき国家が国籍を付与する場合を帰化という。

法律で定められた条件を満たす場合は当然帰化できる立法例(アメリカ)と、定められた条件を満たす場合でもなお帰化の決定について行政機関に一定の裁量が認められる立法例(日本、イギリス)がある。

[編集]
国籍の喪失
[編集]
志望による外国籍取得による喪失
国籍自由の原則から、本人が志望した場合は国籍の離脱を認めるべきとも言えるが、国籍唯一の原則による制約を受ける。そのため、立法例としては志望により外国籍を取得した場合に国籍離脱を認める例が多い。

日本の場合は、本人が志望して外国籍を取得した場合は、法律上当然に日本国籍を失う。

[編集]
身分行為による喪失
このような立法がされる趣旨は身分行為による取得と同旨である。しかし、外国籍の取得が本人の志望によるものではないため(もちろん、外国籍の取得を目的で婚姻等をする場合はある)、このような立法例は少なくなっており、後述の国籍離脱の届出による喪失に吸収されるのが実情である。

[編集]
国籍離脱の届出による喪失
国籍自由の原則から認められるが、無国籍を防止するため、外国籍を有していることを条件とする立法例が多い。日本にも国籍離脱の届出制度が存在するが、外国籍がない場合の離脱を認めていない。

[編集]
国籍選択制度による喪失
国籍選択制度とは、二重国籍者に対し一定の期限までにいずれかの国籍の選択を義務づける制度である。二重国籍を解消することを目的としており、選択がされない場合は国籍を喪失させる措置が採られる立法例が多い。

日本においては、1984年の国籍法改正の時に導入された(施行は1985年)。もっとも、日本国籍を選択した場合は外国籍の離脱に努める義務が生じるが、国籍離脱に関する外国の法制度が様々であることなどを考慮し、その後に外国籍の離脱の手続をとらないことをもって日本国籍喪失事由とはしていない。

[編集]
自然人以外の国籍
国籍は本来は自然人についてのみ認められる概念であるが、法人や船舶についてもいわば擬制的に国籍という概念が用いられる場合がある。

[編集]
法人の国籍
法人に関しては、法人に関する法律関係の準拠法の指定や、ある国の法律に基づいて成立した法人が他国でも法人として権利能力を有するかという問題がある。この点につき考察する場合に法人の国籍という概念を用い、内国法人と外国法人とに区別することが行われる場合がある。

この点については、法人の設立準拠法が内国である場合は内国法人であり、設立準拠法が外国である場合は外国法人であると考えるのが、伝統的な見解である。もっとも、第一次世界大戦の際、内国法に従って設立された法人の経営権が外国人に帰属しているような場合であっても内国法人と言えるかが問題となったことがある。

[編集]
船舶の国籍
船舶の国籍は船籍と呼ばれ、船舶は、当該船舶が登録されている(日本では船舶登記)国の船籍を有する。船籍を取得するための登録要件としては、船舶の製造地が自国であることを要件とする例、船舶の所有者が自国民であることを主要な要件とする例(加えて船員が自国民であることを要求する場合もある)があるが、国際法上は抽象的に、船舶と船籍との間に「真正な関係」が存在しなければならないとされている。

もっとも、自国に船舶の登録を誘致するために、上記の登録要件を緩やかにしたり船舶に関する行政上の規制を緩やかにする国(税の優遇など パナマが有名)があり、そのような国家に船籍を置く船舶があることが問題となっている(いわゆる便宜置籍船)。

なお、船籍は、国際私法上、物権関係の準拠法の指定に際し、所在地に代わる連結点として使用されることが多い(日本の場合は明文の規定がないが、同様に解されている)。

次回に続く。
『移民と二重国籍」(27)ミクシィ講座


今日も『国籍とは』と言う原点を見る為にその用語の真意を
探ってみたいと思います。
簡単に書き、一般社会での必要な事を書き出しておきました。

1、定まった国で生まれて、出生して『国籍』を収得する。

2、本人の志望に基づき国家が国籍を付与する行為(帰化収得国籍)

(これは血統主義と出生地主義とに別れる。その他、婚姻、養子縁組
などによる国籍の取得を認める立法例がある)

国籍はその他、1、法人としての会社などの団体が所属する国籍。
         
         2、船舶などの所属する国家の国旗を掲揚する
           国の国籍。
         
         3、航空機などの国籍識別旗を掲げた国の国籍。

いかなる場合で国籍が失われるか?

国籍離脱の届出による国籍喪失。
国籍選択制度による国籍喪失。

重国籍になる主要因とは、

1、父母が海外に住んで永住して、母国以外での出産による、出生地主義
  による国籍収得と両親の母国に出生届けを出して、二重国籍となる。

2、帰化して、出生国と帰化した国と二重国籍になる。

以下の新聞記事のニユースでは、結婚していなくても胎児の時に日本人が
『お腹の子供は俺の子供だよ!』と認知すれば日本人。
出生して認知すれば、結婚していないから日本国籍は認められないと言う
矛盾の法律でした。
この様に裁判所が憲法に違反すると判決を下すような、違憲を通す法が
いまだに存在した事は、現在社会から遊離した行政と感じます。
これで日本にも良心と常識のある裁判官が存在して、法が守られている
事を示した良き見本と感じました。

朝日新聞インターネット版よりの記事を添付致しますので、眼を通して
下さい。

比女性の子の国籍認める 東京地裁、国籍法は違憲と判断
2006年03月29日

『 フィリピン人女性と日本人男性の間に生まれ、父親の認知を受けたものの、両親が法律上結婚していないことを理由に日本国籍の取得を拒まれた子ら計9人が、国籍確認を求めた訴訟の判決が29日、東京地裁であった。菅野博之裁判長は、生後に日本人男性から認知を受けた子が国籍を取得できるためには両親が法律上婚姻していることを要件としている国籍法3条について、「大きな区別と不利益をもたらしている」として、法の下の平等を定めた憲法14条に違反すると判断。9人全員の日本国籍を認めた。 』
『移民と二重国籍」(28)ミクシィ講座


国籍問題の実例から見る疑問と矛盾。

例1、私の近所にお住まいだった帰米2世の方でした。
去年、高齢で亡くなられましたが、永年日系人社会で活動して、
彼は第2次大戦中は、米軍語学学校の教官をしていました。

多くの日系アメリカ兵士に日本語を教えて、太平洋戦線に
送り出した人でしたが、その中にはニユーギニア戦線で連合艦隊
指令長官、山本五十六元帥の待ち伏せ攻撃のきっかけを作った

部隊間の平文電信交信をキャッチして、首都ワシントンに連絡
した2世兵士を育てた方でした。彼が戦後、サンフランシスコ領事館
に日本国籍放棄届を提出して、用事で日本の郷里を訪ねた時に

町の役場を訪れて戸籍抄本を見たら、何も抹消されてはいなかった
と話していました。たぶん当時でもかなり高い費用を領事館の窓口
で払った覚えがあると話していましたが、『窓口の係官が、手続費用
をポケットに入れて、書類を没にしたのではないか?』と話してくれました。

この件からの疑問。
1、日本政府は公式に抹消した書類のコピーを申請者に送る事を
  しなかったか?  またはしないのか!
  なぜ確認を本人がしてからのみ、判断が出来るという事で
  であれば、申請して手続費用を払い、その後一度も日本に行か
  ない人であれば、申請して闇に没とされても判明する事は無く、
  無意味な申請と疑問に感じました。

この上記の件からして、帰化申請して他国の国籍を収得したら、日本国籍
放棄届を出さなければならないが、そのあいまいな法律条文を強制力なし
で、また罰則など無い状態で放置して『あいまい』さを増徴させている感じは
拭えないと思います。これにより多くの人が、帰化して他国の国籍を収得した
人が海外で居住して生活して、帰化した国において活動して、母国日本には

『日本国籍放棄届』を提出する事無く、裏で二重国籍として不正な状態で
行使して、日本政府は真面目に、正直に届けた人のみが『馬鹿を見る』状態
としている事は、日本政府が暗に、二重国籍を認めていると言うことになり、
時代的な流れを見て、適切に対処して解決しなくてはならない問題と感じます。
『移民と二重国籍」(29)ミクシィ講座


   国籍問題の実例から見る疑問と矛盾。

例2、二重国籍を南米在住の日本人と日系人が、かなりの数の二世と、
三世の親が、日本大使館、または領事館に出生届けを出して、日本
国籍を登録しています。日本人の父親または、母親が現地人との結婚

においても、将来の日本出稼ぎの条件をそろえる為に近年は行なわれて
います、それは出稼ぎが始まり、そろそろ20年近い年月が経過して、日本
国籍と言う価値が再認識されて、三世まででしたら無条件での長期滞在

と、就労許可が貰えて、日本の社会保険まで加入することが出来る事な
ど、多くの日本人としての恩典を受ける事が出来ることが広く知れ渡って、
これからも、ブラジルやアルゼンチン、パラグワイ、ペルー、チリーなどから

日本に就労と言う事の将来の投資として、出生届けをする事が増えてい
ます、それと日本人が多く移住した南米各国では、二重国籍を認めて、
居住国の国籍と、日本の国籍を合わせて持つ事は何も不思議な事では

無いのです、アルゼンチン在住の二世でしたが、三世の子供の母親は
イタリア人で、出生届けをブエノスのイタリア大使館に届け出て、父親はまた
その子供を同じくブエノスの日本大使館に出生届けを出していました。

まさに三重国籍です、これはEUのヨーロッパ連合の影響を感じますが、
連合内では自由にイタリアのパスポートで移動出来るから、また勉学や
長期滞在もイタリア国内では何も問題がないからと話していました。

両親が子供の将来を考えて、親の母国に出生届けを出していると感じます。
しかしながら、日本では22歳までは重国籍を認めていますが、その後は
どちらかを選択しなくてはなりません、しかし南米各国はに重国籍を認め

ていますので、日本が禁止しても余り意味がなく、不合理な国籍条項
を日本人だけが受けなくてはならず、その差と国籍条項の恩典を同じ
外地滞在また、永住日本人、日系人とで大きな異差と思います。

以上の件で、疑問として・・・、
南米では徴兵制度が残っている国が有り、18歳で兵役に服すと言う事
もあり、他国の軍務に付いたら問題が起きる可能性が高い。

徴兵制度の軍務も問題。
租税の居住国と重国籍となった対象国との問題。
所得税に関する重国籍関係者の問題。
年金、社会保障問題。
以上の諸問題を解決して、近年は100カ国近い国が重国籍
を承認または、黙認しているのです、日本政府はなぜ認め様
としないのか?

フジモリは日系人であり、ペルーと日本の二重国籍者である。
1985年の国籍法改正前に日本国籍が認められているため、
日本政府は事実上二重国籍を一部容認しているが、しかし
1985年以降は認めず、拒否的な態度を表面上はしてるが、
実質はうやむやの中で、適正な法の解釈はなされてはいない、なぜか?

22歳での重国籍者の国籍選択においても、日本人の平均寿命83歳
を考えると、その全ての重国籍者の人生4分の1は認めており、それ以降
は認めないと言う不合理さ?

貴方はこの事を、どう感じますか?
『移民と二重国籍」(30)ミクシィ講座
   
  国籍問題の実例から見る疑問と矛盾。

アルベルト・フジモリ氏の経歴から見た重国籍の疑問点。

先ずフジモリ氏の詳しい経歴を、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
から検索して見てみると、かなり私らが知らなかった事も出てきます。
重国籍に関する問題で、一番多く指摘される人物で、かつ有名な名前です
からその件で、引用される事が多いと感じます。
詳しく記載されている事項を読んで下さい。この最終稿に疑問点を5題載せ
ています。皆様も以下をお読みの上に、疑問点を検証して下さい。


アルベルト・フジモリ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
アルベルト・ケンヤ・フジモリ(Alberto Ken'ya Fujimori, 日本名藤森 謙也 (ふじもり けんや)、 1938年7月28日 - )はペルーの元大統領(在職:1990年7月28日 - 2000年11月17日)。ペルーの公用語であるスペイン語では"j"は「ハ行」の発音になるため、ペルーではもっぱら「フヒモリ」と呼ばれている(アクセントは"モ")。

フジモリはアラン・ガルシア政権時代に混迷を深めたペルー経済を立て直し、麻薬組織および左翼ゲリラを中心としたペルー国内の混乱に一定の歯止めをかけた実績が評価されている。しかし、1993年の自己クーデター以後に顕著となった権威主義的な統治を批判する者も多い。2000年の大統領選挙を機に巻き起こったスキャンダルと政治的混乱により、ブルネイのAPECサミットに出席していた彼は日本に亡命し辞任を申し出た(ペルー国会は辞任を認めず逆に罷免した)。

2005年10月、彼は2006年に行われる大統領選挙に出馬するために日本を離れ、先ずチリに向かったが、11月7日チリの警察に逮捕された。現在ペルー政府はチリに対し身柄の引き渡しを求めている。2006年1月、ペルー中央選管は大統領選出馬を認めない旨最終決定。

アルベルト・フジモリ
職名: ペルー共和国大統領
任期: 1990年7月28日 - 2000年11月26日
前任: アラン・ガルシア
後任: バレンティン・パニアグア
生年: 1938年7月28日
政党: 改革90・新多数
本職: 大学教授
目次 [非表示]
1 来歴
2 大統領職(1990年 - 1992年)
3 1992年の自己クーデター
4 大統領職(1992年 - 2000年)
5 日本への亡命
6 外部リンク



[編集]
来歴
アルベルト・フジモリは1938年ペルーの首都リマに生まれた。両親は日本の熊本県出身であり、ペルーに1934年に移住した移民である。彼が誕生すると両親は日本の領事館に出生を届け出たため、フジモリは日本国籍を保有することになった。彼は成長するとColegio Nuestra Señora de la Merced, La Rectoraで教育を受け、リマのLa gran unidad escolar Alfonso Ugarteを卒業した。その後1957年にはラ・モリナ国立農業大学の大学院課程に進学し、1961年農業工学専攻をクラス一位の成績で卒業した。翌年同大学で数学の講師、1968年に助教授、1971年に教授に昇進。その間、1964年にはフランスのストラスブール

大学に留学、さらにフォード奨学金を得てアメリカ合衆国のウィスコンシン大学大学院に留学。一般数学と物理学の修士号を取得ている。その後母校である国立農業大学の理学部長に就任し、1984年には同大学総長に任命された。ペルー大学評議会の議長を二期務めている。1987年から1989年にはTV番組"Concertando"の司会も務め、この番組はペルー国有放送のチャンネルで放映された。

1990年の大統領選挙に新党Cambio 90(カンビオ・ノベンタ "cambio"は変革の意)を結成して出馬したフジモリは当初ダークホース的存在であったが、対立候補の世界的作家マリオ・バルガス=リョサを破り当選した。国民は前大統領アラン・ガルシア政権に対し失望感を抱いており、それと同時に、有力候補であったリョサの提唱した政策"新自由主義経済"を疑いの目で見ていたエスタブリッシュメント層を味方につけることにも成功した。選挙期間中フジモリにはel chino (東洋人)のニックネームがつけられた。多くの評者はフジモリが日系であったために、国民の大多数を占めるインディオと一部の裕福なスペイン系国民が対立するペルーにおいて有利に働いたと考えている。

東アジア出身者またはその子がラテンアメリカ諸国の元首となったのは彼が初めてである。ただし1977年にガイアナで中国系のアーサー・チャンが大統領に就任しているが、当時のガイアナ大統領は名誉職的な存在であった。日系人が大統領になったことにより、日本との外交も積極的に行われ日本からの融資なども多く引き入れることに成功した。

[編集]
大統領職(1990年 - 1992年)
選挙中は"仕事、科学技術、勤勉"といったあいまいなポピュリスト的スローガンを掲げていたフジモリは、大統領に就任すると後にフジショックと名付けられることになる大規模な経済改革を実行した。国際通貨基金(IMF)による詳細な指導を基に、様々な国有財産の売却、国内法の改正、外国資本の石油、天然ガス、鉱物資源への投資を積極的に誘致した。これらの政策によってペルーのマクロ経済は安定を取り戻し、ガルシア政権下で落ち込んでいた外国との貿易額も劇的に改善した。

これらの政策を円滑に進める為、鉱物・石油資源の開発計画を指導する部局を政府に設置した。それまでは環境法により一元的に決定されていた化学物質の排出規制、廃棄物の処理手続きなどは、この組織によって開発プロジェクトごとに決定された。同時に国立公園、アンデス山脈地域、アマゾン川流域など保護地区での開発規制を撤廃している。

[編集]
1992年の自己クーデター
フジモリは大統領に就任したものの、議会はAPRAとFREDEMOの政党が上下院ともに支配していた。自身の政策を円滑に進める為の新法立法を望んだ彼は、1992年4月5日に自身の政府に対してクーデター(アウトゴルペ)を実行した。フジモリの目的は大統領の権限を強化し、政府と国会の改革を断行することにあった。フジモリの支持者にはこれがクーデターではなく、政府業務の効率化の為の改革にすぎないと主張する者もいるが、国内外においてはより急進的で権威主義的なクーデターであるとみなされている。

フジモリは議会を解散し、新たに設けた民主憲法議会の選挙を招集した。翌年議会により1993年憲法が制定されている。同時に国家非常事態宣言と戒厳令をしき、裁判所と憲法下の権利を制限、テロリズムに対処する為に"severe emergency laws"を制定した。自己クーデターに反対する動きがわずかにあったものの、国民の大多数はこれを歓迎した。直後に行われた調査では、フジモリによる国会解散と司法制度の改革を国民の73%が支持している。

しかし自己クーデターに対する国外の反応はこれとは異なっていた。世界銀行などの国際組織は貸し付け計画を延期し、アメリカ合衆国はペルーに対する援助を人道的なもの以外中止、ドイツ、スペインもこれに続いた。ベネズエラはペルーとの外交関係を停止し、アルゼンチンは大使館員をリマから引き上げさせた。チリはアルゼンチンと共にペルーが米州機構から脱退するように求めた。

クーデター以前から、ペルーとアメリカの関係は良好とは言えない状態であった。アメリカは麻薬組織に対処するための軍事協力を求めていたが、フジモリはこの協定に積極的でなく、経済援助を見返りとして1991年5月にようやく調印した(一般的に南米では麻薬はアメリカ合衆国の問題であると見なす傾向がある)。両国間の関係にはしこりが残っており、これに加えてセンデロ・ルミノソ、MRTAの活動、コレラの流行による食料品の輸入停止によってペルーの孤立化が懸念された。

しかし自己クーデターから二週間後、アメリカのブッシュ政権はフジモリをペルーの元首として認めた。米州機構とアメリカは、今回のクーデターは急進的にすぎるがペルーが以前のような混乱へと回帰することは欲しないことで一致した。アメリカの政策転換は、当時勢力を拡大しつつあったセンデロ・ルミノソの動きを懸念した為であると言われている。

フジモリ自身は、自己クーデターがガルシア政権に端を発するペルーのカオス的混乱を収束させるために必要であったと述べている。評論家たちは、クーデタによる国会解散がなければその後の更なる改革が不可能であっただろうと見なしている。

[編集]
大統領職(1992年 - 2000年)
1995年4月の大統領選挙で圧勝したが、この頃からフジモリ大統領の人気は陰りを見せ、1996年12月17日にはトゥパクアマル革命運動による日本大使公邸人質事件が発生した。この事件は1997年4月22日ペルー軍コマンド部隊が公邸に突入して解決したが、フジモリ大統領の独裁的権力に対する批判は次第に高まっていった。

1993年に改正されたペルー憲法では大統領の三選を禁止していたが、フジモリ大統領は第一期は旧憲法体制下のため、自身の三選は可能であるとの憲法解釈をし、国会で承認させた。 憲法裁判所はこれを違憲としたが、最終的に最高裁で三選出馬支持する判決が下り、フジモリの三選が可能となった。

2000年、三選目の大統領選挙に立候補する。4月初めの投票ではフジモリ候補も他の候補も過半数に届かず、5月に決選投票ということになった。第1回目の投票で開票作業に不正操作があったことを、選挙の監視に来ていたOAS、ペルー国内のオンブズマン、トレド陣営から指摘され、5月28日に予定されていた決選投票を延期し、その間に透明性のある開票方法をとるように要請が出された。フジモリ大統領は開票作業の透明性に問題はないとして、内外の要請を拒否する。予定通り5月末の選挙を強行するとしたので、OASは選挙監視の意味がなくなったとしてペルーを引き上げ、2位の候補も大統領に抗議する形で決選投票をボイコットすると発表した。実質的には大統領信任投票となった決選投票では、フジモリ大統領が過半数を獲得し、三選を果たす。

[編集]
日本への亡命
2000年9月、フジモリ大統領の側近が国会議員の一人に現金を手渡している映像が映されているビデオを、別の野党議員たちが公開する。この側近の問題をきっかけにフジモリ大統領の疑惑も浮上し、ペルー国会は反フジモリに傾いていった。

11月13日、フジモリ大統領はブルネイで開催されるAPECに出席のためペルーを出国し、11月16日に来日した。翌17日にペルー政府宛てに大統領辞任の申し出を送付し、事実上の亡命をした。ペルー国会は辞任を受理せず、「精神的無能力」を理由に罷免をした。日本政府はフジモリ元大統領は日本国籍保持者であるため、日本滞在には何の問題もないとしている。

フジモリ大統領が事実上の亡命を選んだのは、暗殺計画を察知したからと言われている。またその後出来た「反フジモリ政権」も情報機関による拉致・暗殺などを計画しているとも言われている。

2001年9月にはペルーの司法長官が殺人罪で起訴し、2003年3月にはICPOを通じ人道犯罪の罪で国際手配の依頼が行われた。日本大使公邸事件の際、投降したゲリラを射殺した容疑である。ペルー政府はその他の権力乱用罪でも日本に身柄引渡しをたびたび求めているが、これに関して日本政府は引き渡しを拒否し続けている。

フジモリは日系人であり、ペルーと日本の二重国籍者である。1985年の国籍法改正前に日本国籍が認めら

れているため、日本政府は事実上二重国籍を容認している。

2005年6月、フジモリ元大統領はペルー国営テレビの政見放送を通じて次期大統領選挙への出馬の意向を表明した。現職のアレハンドロ・トレド大統領を始めとする次期大統領候補の不人気もあり、90年代の景気好転の時期の大統領であったフジモリ元大統領は、特に貧困層の国民から非常に高い支持を受けている。

以上は出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より。

以上のフリー百科事典より感じた疑問点。

1、もし政府が正式に日本国籍を認めて、日本人として保護して日本国民
  として権利を認める場合は、現在のペルー政府が殺人などに関与したと
  立件してチリー政府で拘留されているフジモリ氏の引渡しをペルーが請求
  したら、日本政府はどう動くか?

2、チリー政府が事件立証されたフジモリ氏をペルー政府に引渡しを中止したら、
  日本政府は、日本人の国外犯罪者として日本に引渡しを求めて、拘束して
  日本人の国外犯として、裁判して日本国憲法で裁く事が出来るか?

3、フジモリ氏がチリー政府から身柄を解放されて、有罪と立件され、国外追放
  されたとした身柄で日本政府はフジモリ氏を受け入れ、保護するか?
 
4、もし、ペルー国内で有罪が立証され、ペルー国内へ護送され、極刑の
  反逆罪で死刑などを受けたら、日本政府はフジモリ氏を日本国民として
  擁護して保護するか? 

5、日本政府は1985年前の法改正以前の移住者などは、やむなき事情で
  日本大使館や、領事館などに出生届けを出せなかった移住者の貧困家庭
  の子供達はなぜ切り捨てて、嘆願の願いも受け入れ様としないのか???
次回も続きます。 
『移民と二重国籍」(31)ミクシィ講座

国籍問題の実例から見る疑問と矛盾(2)

アルベルト・フジモリ氏の経歴から見た重国籍の疑問点。

日本は法律上原則として二重国籍を認めていません。フジモリ氏は
日本国籍離脱の手続きを、まだ行っていない以上はまだ日本国民である。
よって、 日本国民であるから日本政府は彼を擁護するという日本政府
の見解であるが、二重国籍については、国籍法、戸籍法などによって
規制されているので、その中からの抜け道を見てみたいと思います。

今日はアルベルト・フジモリ氏の関連から見た重要な事柄を書き出して
おりますので、注目して読んで下さい。


二重国籍になる原因としては、主に次の2つが考えられます。

1、父母が海外に住んで永住して、母国以外での出産による、出生地主義
  による国籍収得と両親の母国に出生届けを出して、二重国籍となる。
   (出生により外国の国籍を取得してしまった場合)

2、帰化して、出生国と帰化した国と二重国籍になる。
    (みずからの意思で外国籍を取得した場合)

ここで国籍法を確認して見ると:

「出生により外国の国籍を取得した日本国民で国外で生まれたものは、
戸籍法 (昭和二十二年法律第二百二十四号)の定めるところにより
日本の国籍を留保する意思を表示しなければ、その出生の時にさか
のぼつて日本の国籍を失う。」
(国籍法第12条)

「日本国民は、自己の志望によつて外国の国籍を取得したときは、
日本の国籍を失う。外国の国籍を有する日本国民は、その外国の
法令によりその国の国籍を選択したときは、日本の国籍を失う。」
(国籍法第11条1,2項)

本人の意思で外国籍を取得した場合、日本国籍は失うことになり、
また、出生によって外国籍を取得した場合で日本国籍を継続したいな
らば、22歳までに日本の国籍を選択し、かつ外国の国籍を放棄する
旨の宣言(選択の宣言)を行わなければなりません。
(国籍法第14条2項)

以上の事より発生する疑問は重要な要件となっている。
その疑問とは:
1、以上の法規から、国籍法という重要な法律である事が推察できます。
  しかし,この国籍法は重要であるが、罰則規定も無し、これは刑事法
  でも無いので、日本国政府が要求する規定に違反して選択や、宣言、
  自己の意思表示を明確にしなくても、逮捕、起訴、裁判、投獄される
  事は有りません。 
これは実に穏やかな表現で一応は国籍法によって規定されています。
次の条文となります、

「法務大臣は、外国の国籍を有する日本国民で前条第一項に定める
期限内に日本の国籍の選択をしないものに対して、書面により、国籍の
選択をすべきことを催告することができる。」
(国籍法第15条1項)

「催告を受けた者は、催告を受けた日から一月以内に日本の国籍の
選択をしなければ、その期間が経過した時に日本の国籍を失う。」
(国籍法第15条3項)

11,12条は「剥奪」されると言う法の強制力は無く、15条の法務大臣
による『催告』によって初めて国籍を消失する事になり、実に緩やかな規制
となっている、法務大臣の勧告がなされないのであれば、いつまでも重国籍
のままで一生を終える事も可能である。

日本の国籍法は実に緩やかな規制となっているので、それならば二重国籍
を認める事をすれば良いと思うのですが、これは意外と知られない重要な
要素がある事を、政治家から45年近く前に聞いた事を書き残して置きたい。

大学であるゼミの講演会での後に、偶然に私が質問した事に答えてくれた
重要な答弁は以下の如きものでした。

『戦前の朝鮮、韓国日本統治時代の在日朝鮮人や台湾の日本統治時代
から日本に居住する台湾人など、それと、戦前の官僚出身者が死に絶え
る2020年までは日本は二重国籍は承認しないであろう』と言明した。

この言葉は私が心に刻んで、絶対に忘れる事が出来ない言葉です。

アルベルト・フジモリ氏の国籍選択の重要な要素は日本国政府が
握っていると確信していますが、これは政府の意向が強く政治的に作用
して決定するものであり、我々,市中の野次馬如き評論では『暖簾に
腕推し』の感じと成り果てている。

「国籍選択の宣言をした日本国民は、外国の国籍の離脱に努めなけれ
ばならない。法務大臣は選択の宣言をした日本国民で外国の国籍を失
つていないものが自己の志望によりその外国の公務員の職(その国の
国籍を有しない者であつても就任することができる職を除く)に就任した
場合において、その就任が日本の国籍を選択した趣旨に著しく反すると
認めるときは、その者に対し日本の国籍の喪失の宣告をすることができる。」
(国籍法第16条1項2項)

以上の法律条文を読むと、アルベルト・フジモリ氏の国籍選択は政府が
『日本国籍でいたいなら、ペルー国籍離脱を努力してくださいね!』という
事で、法務大臣が『国籍喪失の宣言』をするかは大臣が『前向きに善処
致したいと考えております・・・』となる言葉では、実質は『何もしない・・』と
言うことになり、『黙秘・・・、ダンマリでそのまま、放置する措置と感じます。

政府として国は国家の義務事項として国民の民権保護、安全の確保、
健康で平和な生活を営む事が出来る様にしているので、フジモリ氏クラス
では、国としても見捨てる事が出来ないと感じます。これも一種の日本式
人道主義支援と私は感じます。
『移民と二重国籍」(32)ミクシィ講座


   国籍問題の実例から見る疑問と矛盾

私がアルゼンチンに居た42年ぐらい前です、私の友人がセドラと言う
身分証明を貰うので、翻訳を日系二世に頼んで戸籍抄本を翻訳
に出して、それと無犯罪証明書などと移民局に提出して出来てきた
セドラが驚くなかれ・・・、翻訳でも直訳の『満州生まれ』となって、

『チャイニーズ・ペロ・ハポネス』と国籍に欄に記入してあり、まさに直訳
の『中国系日本人』となり、アルゼンチンの出生地主義での幼稚な判
断翻訳であり、直訳での被害でした。彼はそれが非常にショックだった
様で、アルゼンチンに骨を埋めると話した居た彼が、しばらくしたら帰国
してしまいました。

友人が持っていた祖国の国籍感ではとても、これから一生涯これが付い
て廻りますので、結婚しても子供に残ります事を考えて、彼には耐えら
れない屈辱だった様です。私はその事を知って居ましたので、私が翻訳
を頼む時は、日本から来てアルゼンチンに永住して居た、日本の大学

を出て、戦時中の日本統治時代を良く知っていた人で、簡単に承諾し
て翻訳は福岡県の本籍を書いてくれました。私も台湾、台北市と戦前の
日本統治時代の住所直訳でしたら、彼と同じく『中国系日本人』とセドラ
に記載されていたと感じます。彼はアルゼンチンに自分の人生を掛けてい

ましたので、裁判で訂正してもらうと力んでいました。しかしそれは膨大な
弁護士費用と時間とが掛ります、一度決めた国籍条項を訂正する事は、
たぶん無理と聞かされて、彼はきっぱりとあきらめました。そしてメキシコに
行きました。それからの事は知りませんが、彼にとっては貴重な国籍に関す
る教訓となった様です。

この同じような事がアメリカで私達家族が永住権を収得する時にも有り
ました。それは私が弁護士に全部委任して手続してもらっていましたので、
私の戸籍の翻訳を見て、直ぐに気が付いて『問題になる!』と教えてくれ
ました。日本のアメリカ大使館に提出する書類の審査は日本人スタフが

書類の点検と検査を行なうので翻訳の誤魔化しは効かないと教えてくれ
ました。それと言うのもアメリカでは永住権を申請するのも、国別割り当て
枠があり、中国人国籍となると枠が一杯で、何年も待機させられる事が
ある様で、日本人の枠は簡単に貰えると言う事でした。

弁護士がアメリカ移民法の専門家でしたから、直ぐに憲法の条項から該当
する条件を見付けて来ました。それはかなり前でしたので、どんな条項かは
全部は覚えてはいませんが、1880年頃に制定された条項でした。
アメリカ市民が海外で国家公務員として在職していたら、そこで家族が出生

しても、出生地主義を採用するアメリカでも簡単にアメリカ市民として書類を
作る事が出来ると言うことでした。これは兵役に出て、海外の基地、勤務地
なども含まれ、また海外のアメリカ軍の基地内の病院で出生しても、無条件
にアメリカ市民となります。私にはそのアメリカ国籍条項が適用され、私の母

親が所持していた、父親が日本統治時代の台湾専売公社タバコ工場の支配
人として勤務していた公務員技師としての引き揚げ時の在職証明を所持して
いましたので、それを翻訳して提出しました。その事は厚生省にも引き揚げ証明
として記録が残されていますので、簡単に受理されて、私の出生がアメリカ憲法

の1880年ぐらいに制定された条文での解釈で、日本人として『認定と解釈』さ
れ受理処理されました。一時はこれでアメリカの永住権は無理かと感じていま
したが、弁護士の機転で事無きを得ました。アメリカではアメリカ国籍で生活する
人が海外に沢山居ますので、その救済策と感じます。アメリカ軍、政府職員など

の人はアメリカ軍や大使館の付属病院などで出産しても、海外であっても、無
条件で市民権としてのアメリカ国籍を貰えると言うことです。アメリカ市民の一般人
もアメリカ軍の病院で出産すればそれが適用されると聞きました。
『移民と二重国籍」(33)ミクシィ講座


  国籍問題の兵役実例から見る疑問と矛盾

移民した当事国での兵役が重要な問題となる事が有ります。
それは兵役拒否や、忌避の為に外国に移住する事を考えている人が
居るからです。特に裕福層という一部特権階級の子弟がその行為を
すると話しを聞きました。ある国では16歳になると兵役を済ませないと

出国が禁止されている国が有ります、また海外居住者、大学進学者
海外留学者、公務員として政府関連の団体やそれに勤務している人
物も、兵役免除の特典が有る事が有ります。現在はオリンピック選手
で入賞して三位までは、兵役の免除と政府の体育振興の為に働けば

良いと言う特典を与えられる事が有ります。また逆に兵役を進んで受け
ることにより、たとえばアメリカの場合は兵役志願して軍務に付けば、直ぐ
に除隊後にアメリカ市民権の申請を許可される特典が有ります。
アメリカでヒスパニックの青年がアフガン紛争やイラク紛争で戦死して、死

後に市民権の証書を家族に送られたケースが有ります、家族はその息子
の市民権でアメリカ永住申請をして許可されたケースが有りました。
兵役終了での特典はGI学資奨学金などの特典があり、貧しい移民や
学生で滞在して軍隊に入隊した若者も知っています。特に韓国人の青年

は昔は農業実習生で来て、帰国することをいやがり帰国しても本国で兵役
猶予で入隊が待っているので、アメリカ軍に志願して入隊して市民権とそれ
からGI学資奨学金も貰い、アメリカ市民として自分の将来を勝ち取った若
者を知っています。大学を出て自分が夢見ていたアメリカ―ン・ドリームを
得たと言う事です。

私がパラグワイ出身者で、コルメナ移住地から出てきた若者でしたが姉が
アルゼンチンのミッショネス州に嫁に来ていましたので、そこでアルゼンチンの
兵役に志願して海軍に在籍してアルゼンチンの市民権を収得していました。
また、パラグワイで出生してまだ一歳にもなら無い時にアルゼンチンに再移住

して来て、そこで育ち母親は息子の将来を考えて、自宅で出産したと言う事
にして出生届けを出していました。その息子はアルゼンチン陸軍の兵役にも
服して、今ではアルゼンチンのパスポートで日本に出稼ぎに出ていると聞き
ました。そろそろ40年近く前です、アルゼンチンの田舎では難しいことは言わ

ないで、簡単に書類が作られた様です。それと兵役に服している事が何より
もアルゼンチン社会での特に、田舎の村社会では何よりも重要だった様です。
同じ地域の町から、同じ陸軍の師団に入隊して、同じカマの飯を食べ、行軍
のつらい道中にお互いが助け合って、最後まで歩き通した仲間意識が、連帯

となって、自分の郷土を守ると言う意識が、仲間意識の中から生まれたと感じ
ます。私がアメリカで知合った帰米二世でしたが、日本で戦時中は予科練に
居たと話していましたが、戦後アメリカに帰国を許されてサンフランシスコの親元
に帰ったら、直ぐに徴兵制度で呼び出され、初年兵訓練を終えると直ぐに朝鮮

戦争の激戦の真っ只中に送りこまれて、自分は沖縄の駐留軍の通訳に行き
助かったが、他の仲間の友人は激戦の戦場で2週間で戦死したと聞きました。
激しい朝鮮戦争時代には多くの日本人の重国籍者は、アメリカに帰国を躊躇
していたと聞きました。アメリカに帰国した帰米二世は廻りの家族に徴兵検査

で行くと時に『英語が全然話せないと、それで押し通してしまえ・・!』と言われ
アメリカに戻ったばかりで本当に話せなかったので、試験官があきれて、徴兵猶予
となり命拾いしたと話していました。彼が話していましたが,『たぶん馬鹿に思われた
と自分では感じていた』と感想を聞いた事が有ります。

それにしても、色々な人がこの世の中には居るのですが、私が一番驚いたのは
日露戦争でロシア側の捕虜となり、日本には帰国する事も無く、アルゼンチンに
移住してきて、一生涯、日本人と名乗る事無く、奥さんの名前を使い日本とは
一切に縁を切り、ひつそりと生涯を終えた方も居ます。その方のパスポートは、
どこの国だったか、知りたいものでした。
『移民と二重国籍」(34)ミクシィ講座


  国籍から来る、租税問題の実例から見る在住国との格差。

今日は海外に移住して、また在住して、その当事国と日本の租税
の徴収や課税範囲、対象物などの租税条約を政府の事務運営指針
となる、国税庁長官の通達から見てみる。
まだ日本と外国との租税条約締結の国は少ないが、その現在の基本
となる事務運営指針を理解して、これからの重国籍者や外地での生活、
ビジネスに関る重要な租税の基本方針を覚えておかなければならない。

参考の為に、ご自身のファイルに保存してください。




官際 1-20
課総 5-15
課個 7-3
課資 6-1
課法 6-8
査調 5-14
平成15年4月7日


国  税  局  長  
沖縄国税事務所長 殿 

国税庁長官



租税条約に基づく相手国との情報交換手続について(事務運営指針)

 
 租税条約の規定に基づく情報交換のうち、個別的情報交換及び自発的情報交換に関する事務手続について、別添のとおり定めたから、今後はこれによられたい。
 なお、平成12年7月7日付官際1−45ほか6課共同「租税条約に基づく外国税務当局との情報交換手続について」(事務運営指針)は、廃止する。

 
(趣旨)
 平成15年度税制改正により租税条約実施特例法の一部が改正され、租税条約の規定に基づき、相手国から情報提供の要請があった場合の質問検査権が創設された。そこで、相手国との情報交換の一層の迅速化、効率化を促進するために、事務手続の整備を行ったものである。


(別添) 第 一 定義
 この事務運営指針において、次に掲げる用語の定義は、それぞれ次に定めるところによる。1  租税条約実施特例法
 租税条約の実施に伴う所得税法、法人税法及び地方税法の特例等に関する法律(昭和44年法律第46号)をいう。
2  租税条約
 租税条約実施特例法第2条第1号に規定する条約をいう。
3  相手国
 我が国が租税条約を締結した国(租税条約に情報交換規定がない国を除く。)をいう。
4  個別的情報交換
 特定の事案に関連して、租税条約の一方の締約国から情報提供の要請があった場合に、他方の締約国が要請された情報を当該一方の締約国に提供することをいう。
5  自発的情報交換
 租税条約の一方の締約国が調査等の過程で入手した情報で、他方の締約国にとって有効と認められるものを当該他方の締約国に自発的に提供することをいう。
6  情報提供のための質問検査権
 租税条約実施特例法第9条に定める質問検査権をいう。
7  質問検査権の不行使事由
 相手国から情報提供の要請があった場合に、当該要請に応じるために情報提供のための質問検査権を行使できないとされる事由をいう。
8  庁国際業務課
 国税庁長官官房国際業務課をいう。
9  庁主管課
 国税庁において情報交換事案を担当する課をいう。
10  局管理者
 国税局(沖縄国税事務所を含む。以下同じ。)において情報交換事案を担当する事務系統の主務課長又は庁主管課があらかじめ情報交換管理担当課長として定めた者をいう。
11  署管理者
 情報交換事案を担当する事務系統の第一部門の統括国税調査官(第一部門の統括国税調査官が設置されていない署にあっては、これに相当する統括国税調査官)をいう。 
12  情報収集担当者
 国税局あるいは税務署において、相手国からの情報提供の要請に応じるために情報収集を行う者をいう。



第 二 個別的情報交換に係る事務手続1  相手国への情報提供要請 (1)  情報提供要請の進達及び回付
 税務署又は国税局の調査等において、相手国へ次に掲げる情報の提供を要請する必要が生じた場合には、局管理者は(署管理者にあっては局管理者を経由して)、当該要請を別紙様式1により庁主管課へ進達する。庁主管課は、当該進達を庁国際業務課へ回付する。 イ  相手国における取引の相手方又は海外事業所等が保有する帳簿書類の記載内容
ロ  相手国における取引の第三者である金融機関等が保有する帳簿書類の記載内容
ハ  相手国における取引の相手方等の申告の内容
ニ  その他調査等のために必要な情報
 なお、局(署)管理者は、進達に際し、相手国が当該要請のために情報を収集する際に、我が国から要請があった事実又は当該要請の内容を情報収集先に開示すれば、調査等に支障を及ぼすおそれがあると認める場合には、理由を付した上、その旨を記載する。
(2)  相手国への情報提供要請
 庁国際業務課は、庁主管課から回付を受けた進達について、租税条約の規定に適合するか否かの検討を行い、必要に応じて英訳の上、速やかに相手国へ情報提供を要請する。
 その際、我が国から要請があった事実等を情報収集先に開示すれば調査等に支障を及ぼすおそれがあるとされている場合には、理由を付した上、当該事実等を情報収集先に開示すべきでない旨を記載する。
 また、庁国際業務課は、庁主管課から特に依頼があった事案又は争訟手続等のために特に回答期限を付す必要のある事案等の緊急を要する事案については、優先して相手国へ要請するものとし、要請文書において早急な対応を依頼する旨を記載する。
(3)  相手国から受領した情報の回付
 (2)の要請により相手国から情報を受領した場合には、庁国際業務課は、当該情報を別紙様式2により速やかに庁主管課へ回付し、庁主管課は、局管理者へ当該情報を回付する。当該情報が署管理者からの進達に基づく要請により受領したものである場合には、局管理者は、署管理者へ回付する。
(4)  相手国から受領した情報の納税者への開示
 調査担当者等は、調査等の対象となっている納税者に相手国から受領した情報を開示することができる。
 ただし、当該相手国からの回答文書に納税者に開示すべきでない旨の記載等がある情報は、当該納税者に開示してはならない。
(5)  相手国への開示の可否についての照会
 局(署)管理者は、相手国からの回答文書に開示すべきでない旨の記載がある情報を納税者に開示せざるを得ないと認める場合には、理由を付した上、庁主管課を経由して、庁国際業務課に対し、開示の可否について当該相手国への照会を依頼する。庁国際業務課は、庁主管課と協議の上、開示が必要と認める場合には、その旨を当該相手国に照会し、確認する。
(6)  相手国への要請事案の管理
 署管理者、局管理者及び庁主管課は、別紙様式3(1)の「管理簿」を用いて、また、庁国際業務課は別紙様式4(1)の「整理簿」を用いて、相手国への要請事案の管理を行う。
 なお、庁国際業務課は庁主管課との間で、毎年6月末及び12月末に整理簿と管理簿の照合を行う。
(7)  相手国の回答準備状況に関する照会等
 庁国際業務課は、回答の遅延が著しい事案については、庁主管課と協議の上、相手国に対し回答準備状況を照会し、又は回答を督促する。
(8)  相手国から受領した情報の活用事績の報告
 局(署)管理者は、相手国から受領した情報を活用した場合には、当該情報を端緒とした増差所得等の有無にかかわらず、当該事案を処理した月の翌月の末日までに別紙様式5により当該活用の事績を庁主管課へ報告する。庁主管課は当該報告を庁国際業務課へ回付する。



2  相手国からの情報提供要請(1)  租税条約上の情報提供義務の有無の検討
 相手国から情報提供の要請があった場合、庁国際業務課は、当該要請について租税条約上の情報提供義務があるか否かを検討する。
 その際、庁国際業務課は、当該要請が、例えば、以下のいずれかに該当する場合には、情報提供義務が課されないことに留意する。 イ  当該要請が租税条約の規定する情報交換の対象税目に関するものでないとき。
ロ  当該要請に応じることにより、相手国若しくは我が国の法令又はその行政上の慣行に抵触するとき。
ハ  当該要請に応じることにより、相手国若しくは我が国の法令の下において又はその行政の通常の運営において入手することのできない情報を提供することとなるとき。
ニ  当該要請に応じることにより、営業上、事業上、産業上、商業上若しくは職業上の秘密若しくは取引の過程を明らかにするような情報又は公開することが公の秩序に反することになる情報を提供することとなるとき。

 庁国際業務課は、検討の結果、租税条約上の情報提供義務がないと判断した場合には、理由を付した上、相手国へその旨を回答する。
(注)
1  「営業上、事業上、産業上、商業上の秘密」とは、秘密として管理され公然と知られていない事業活動上の情報であり、かつ、秘密として保護に値するものをいう。これには、例えば、秘密として管理されいまだ公にされていない、特別の事業活動上の価値を有するノーハウ、機械・設備等の設計、生産方式又は顧客リストが含まれる。
2  「職業上の秘密」とは、医師、弁護士、公証人等又はこれらの職にあった者が、その業務上知り得た情報であって、公然と知られておらず、秘密として保護に値するものをいう。
3  「取引の過程を明らかにするような情報」とは、取引に関する交渉過程等を明らかにするような情報であって、公然と知られておらず、秘密として保護に値するものをいう。
4  「公開することが公の秩序に反することになる情報」とは、情報を提供する国の極めて重要な利益にかかわる秘密をいい、例えば、外交機密、安全保障上の秘密、治安の確保又は犯罪捜査にかかわる秘密が含まれる。

(2)  情報提供のための質問検査権の行使の可否の検討
 庁国際業務課は、租税条約上の情報提供義務があると判断した要請について、更に、以下の質問検査権の不行使事由のいずれかに該当するか否かを検討する。 イ  当該要請が刑事事件の捜査を目的とするとき。
ロ  我が国からの情報の提供要請に応じるために、相手国が、当該情報を収集する措置をとることができないと認められるとき。
ハ  当該要請に応じることが、我が国の租税に関する法令の執行に支障を及ぼし、その他我が国の利益を害するおそれがあると認められるとき。
ニ  提供の要請のあった情報を相手国において入手することが困難であると認められないとき。
(注)
1  「我が国の租税に関する法令の執行に支障を及ぼすおそれがあると認められるとき」とは、我が国の税法の執行に関連する事務の全部又は一部に支障が及ぶと認められる場合をいい、例えば、要請に係る情報収集に相当の事務量を要し他の調査に支障が出る場合が含まれる。
2  「その他我が国の利益を害するおそれがあると認められるとき」とは、例えば、我が国の外交上・安全保障上の利益に影響が及ぶと認められる場合又は治安の確保や犯罪捜査に支障を及ぼすと認められる場合が含まれる。

(3)  相手国への要請内容等についての照会
 (1)及び(2)の検討に当たり、庁国際業務課は、要請内容、相手国における情報交換のための国内制度、相手国における刑事事件の捜査に関する手続等について、必要に応じて、相手国に照会する。
 また、庁国際業務課は、相手国からの要請文書に情報収集先に開示すべきでない旨の記載がある事項について、これを開示しなければ、情報収集に支障があると認めるときは、当該相手国へ開示の可否について照会する。
(4)  情報提供要請の回付
 庁国際業務課は、(1)、(2)及び(3)の検討の後、必要に応じて和訳の上、情報提供の要請を別紙様式6により速やかに庁主管課に回付する。その際、庁国際業務課は(1)及び(2)の検討結果を別紙様式6に記載する。
 庁主管課は、当該検討結果について確認の後、局管理者へ当該要請を回付する。局管理者は、必要に応じて、署管理者へ回付する。
(5)  庁国際業務課と庁主管課の協議
 庁主管課は、要請を局管理者に回付する際、庁国際業務課が情報提供のための質問検査権を行使できると判断した要請であっても、当該要請に応じることが我が国の租税に関する法令の執行に支障を及ぼすおそれがあると認めるときには、庁国際業務課と協議する。
(6)  情報収集担当者の指名
 局(署)管理者は、収集すべき情報の内容を確認し、必要に応じ関係課等との調整を行い、情報収集担当者を指名する。
(7)  情報収集の手続
 情報収集担当者は、次に定める手続に従い、速やかに情報収集を行う。 イ  収集すべき情報が部内資料から把握できる場合 
 情報収集担当者は、情報提供のための質問検査権は行使せず、申告書等の部内資料から把握する。
ロ  収集すべき情報が部内資料から把握できない場合
 情報収集担当者は、要請が質問検査権の不行使事由に該当しないことを、別紙様式6により確認した上、情報収集を行う。
 なお、情報収集担当者は、当該要請が質問検査権の不行使事由に該当するおそれがあると認める場合又は当該要請により収集する情報が(1)ニに規定する営業上の秘密等を明らかにするような情報に該当するおそれがあると認める場合には、局(署)管理者を経由して、その旨を庁主管課に連絡し、庁主管課と庁国際業務課で協議を行う。また、情報提供のための質問検査権を行使するに当たっては、相手国が開示すべきでないとしているものを除き、情報収集先に対して、適宜次の事項を説明する。 (イ)  相手国への情報提供のための質問検査権の行使である旨
(ロ)  当該要請を行った相手国
(ハ)  当該要請を行った相手国における調査対象者
(ニ)  当該情報収集先が当該要請において特定されている旨
(ホ)  相手国から提供を要請されている情報
(ヘ)  当該要請が、租税条約上の情報提供義務があるものであり、かつ、質問検査権の不行使事由に該当しない旨


(8)  収集した情報の報告及び回付
 局管理者は(署管理者にあっては、局管理者を経由して)、情報収集担当者が収集した情報を庁主管課へ別紙様式7により報告する。その際、相手国において当該情報を納税者へ開示することに支障があると認める場合には、理由を付した上、その旨を記載する。
 庁主管課は、当該情報を庁国際業務課へ回付する。
(9)  収集した情報の相手国への提供
 庁国際業務課は、庁主管課から回付を受けた情報を速やかに相手国へ提供する。その際、庁国際業務課は、当該情報が営業上の秘密等を明らかにするようなものでない等租税条約上の情報提供義務がない情報に該当しないことを確認する。
 また、相手国において当該情報を納税者に開示することに支障があるとされている場合には、理由を付した上、その旨を記載する。
(10)  相手国からの要請事案の管理
 署管理者、局管理者及び庁主管課は、別紙様式3(2)の「管理簿」を用いて、また、庁国際業務課は別紙様式4(2)の「整理簿」を用いて、これらの事案の管理を行う。
 なお、庁国際業務課は庁主管課との間で、毎年6月末及び12月末に整理簿と管理簿の照合を行う。




第 三 自発的情報交換に係る事務手続1  相手国への自発的な情報提供
 局(署)管理者は、調査等の過程で収集された外国の納税者に関する情報で相手国にとって有効と認めるものを把握した場合には、局管理者は(署管理者にあっては、局管理者を経由して)、当該情報を庁主管課へ別紙様式8により進達する。その際、相手国において当該情報を当該外国の納税者へ開示することに支障があると認める場合には、理由を付した上、その旨を記載する。
 庁主管課は、当該情報を庁国際業務課へ回付し、庁国際業務課は、第二2(9)の「収集した情報の相手国への提供」に準じて、相手国へ情報を提供する。
 なお、これらの事案の管理については、第二2(10)の「相手国からの要請事案の管理」に準ずる。
2  相手国からの自発的な情報提供
 庁国際業務課は、相手国から自発的な情報の提供があった場合には、当該情報を別紙様式9により速やかに庁主管課へ回付し、庁主管課は、局管理者へ当該情報を回付する。
 当該情報に係る納税者を税務署が所管する場合には、局管理者は、署管理者へ回付する。局(署)管理者は、情報の内容に応じて、当該納税者を実地調査の対象とする等、当該情報の早期の活用を図る。
 また、受領した情報の納税者への開示等については、第二1(4)の「相手国から受領した情報の納税者への開示」及び(5)「相手国への開示の可否についての照会」に準ずる。
 なお、これらの事案の管理については第二1(6)の「相手国への要請事案の管理」に準じ、また、受領した情報の活用事績の報告については、第二1(8)の「相手国から受領した情報の活用事績の報告」に準ずる。



第 四 相手国税務職員に対する顕彰1  相手国税務職員の顕彰
 相手国から個別的情報交換又は自発的情報交換に基づき受領した情報のうち、その活用により顕著な事績を挙げることができたものについては、当該情報を収集した相手国の税務職員を感謝状の贈呈等により顕彰する。
2  顕彰対象者の選定
 庁国際業務課は、別紙様式5の「相手国から受領した情報の活用事績の報告」により報告を受けた活用事績のうち、特に顕彰に値すると認めるものに係る情報を収集した相手国の税務職員を顕彰対象者として選定する。



第 五 情報交換に係る守秘義務
 租税条約の規定に基づく情報提供のための調査に関する事務に関して知ることができた秘密については、租税条約実施特例法上の守秘義務が課されていることに留意する。
 また、情報交換により相手国から提供を受けた情報の活用に当たっては、各税法上の守秘義務に加えて租税条約上の守秘義務も課されていることに留意する。

以上。
『移民と二重国籍」(35)ミクシィ講座

日本の法務官僚、大臣の発言からの「移民と国籍問題」の検証。


以下は前の河野太郎法務副大臣の送ったメールからです。

このメールに対しての反論、弁護などの返信は一切ありません
でした。

拝啓、河野太郎法務副大臣殿。

今般では、時勢の変わりの早き事なりで、河野法務副大臣殿の
お言葉が各新聞、マスコミでの報道で日本国に広く伝わりまして
貴殿の発言、各部問題の深部からの取り上げられた問題では
なくて、表面に出ている、ありきたりの問題が、一般世論に融合す

るごとき態での、世論喚起的提言の有様は貴殿の経歴を知る
者として苦言を啓上致したく一筆認めております。先ず貴殿の
経歴から精察すると、戦後の繁栄期の申し子で、移民、移住
などは一度も肌で感じたことも無くて、貴殿がメリケンで勉学さ

れた比較政治学は政治形態における社会学の相互比較と検証
の学問では、移住行政で、過去の移住事業団での警察官僚の
天下り人が、場違い的な場所で、場違い的な推察と検索とでの
比較対象した理論観と同じ判断では無いかと疑るのであります。

貴殿が養育受けた慶応ボーイ的な幼年教育からして、生活にその
日の糧を得る為に、地を這うようにして生きて来た人種の生き様を
計る天秤を、お持ちでは無いと確信いたします。

ブラジルで二世になり、また三世になりながら貧乏と貧困と言う環境
から抜け出せない日系人が多くいる事もご存知無い様で、これ遺憾
と言わざる事に成ります。貴方の発言は、多くの国民の信託を受けて
公になる言葉です。もしかすると百年もの後に残る言葉かも知れません。

もはや貴殿のお言葉は、国家としての 国家が考えること、外国人入国
管理の改革を検討している法務省のプロジェクト・チームの河野太郎副
大臣の発言となります、1923年10月にブラジルでレイス国会議員が
下院に提出した移民法案とまさに同じ排他的、差別的と証された法案の
数価とまさに同じ『3%』です。

同法案は、黒人の入国は全面禁止、アジア系黄色人種は当時1923年 での数価の3%に制限するというものであり、河野太郎副大臣の率いる委員 会の試案は総人口に対する定住外国人の上限を、3%にするというもので あるが、これはまさに国家が考える、また政府が試案するという数価が、3%と
と同じ事は、まさに、この案件をご利用になったかと疑りたくなります。

この様な、排他的、差別的な法案をご利用になれば、言う事はまさに驚きの限り です。そして軽軽しく『日系人の受け入れは失敗だった』などと言及したのは、公人 としての資質もこれ疑わしい限りといわざるを得ません。

なすべき事も果さず、なすべき問題も研究する事無く、対応も無くて、この事は すでに20年と言う月日の積み重ねの上に有る事などです。20年前といえば貴殿 は親のスネをかじって優雅に勉学に励んでおられた時代です。その頃から日系人は 日本人がやりたがらない3Kという仕事をして、『棄民の出稼ぎ』と陰口を言われな がら日本国、日本の社会を底辺で支えていた事を忘れないで下さい。

ブラジルのレイス国会議員の提案は、欧州系の移民についてはおかまいなしだったから、背景にあるのは公然とした『人種差別』と感じられるが、貴殿の言葉は端から、三世などの家族としての非日系人の混同が、日本国内の治安を悪化させる者としての、排斥理由と感じられます。それにより『日本語を話し、定職を持つ者で且つ又、ブラジルなどで無犯罪の経歴を持つ者』と試案が成ったと勘ぐられていますが、あながち外れとは思えない感じが致します。

貴殿のお言葉はすでに公人としての発言となり、いかに試案と言えどもすでに日本国内だけで、ブラジルからの出稼ぎ労務者は27万人近くとなり、簡単に言葉でのの提案としては、無作法と思います。なぜかと言えば貴殿の言葉を聞く大多数の

日本人は『その話しを真に受けて』貴殿が世論を不当に形成して、信じさせる役割を果したと感じられるからです。いかに大臣と言えども『言は選んで、謹んで発言しなくては成りません』それが公人としての責務ですから!

以下は前河野太郎法務副大臣のインターネット検索からの経歴です。

河野太郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
河野 太郎(こうの たろう、昭和38年(1963年)1月10日 - )は、平成期の政治家。
衆議院議員。
自由民主党所属。父は、衆議院議長の河野洋平。河野一郎は祖父、河野謙三は大叔父
に当たる。

衆議院議員 河野太郎 生年月日 1963年1月10日 出生地 神奈川県平塚市 出身校 ジョージタウン大学卒業 学位・資格   前職 日本端子社員 国会・内閣役職(現在) 法務副大臣 世襲の有無 三世
祖父・河野一郎
父・河野洋平 選出(立候補)選挙区 神奈川15区 当選回数 4回 所属党派(現在) 自由民主党(河野グループ) 党役職(現在) - 会館部屋番号 衆・第二議員会館206号室 ウェブサイト 河野太郎オフィシャルウェブサイト [編集]
概要
昭和38年(1963年)1月10日河野洋平の長男として生まれる。慶應義塾中等部、慶應 義塾高等学校時代は、祖父、大叔父、父と同様、陸上競技を部活に選択する。昭和56 年(1981年)慶應義塾大学経済学部に入学。慶應を中退して翌昭和57(1982年)アメリカ・ジョージタウン大学に留学。比較政治学専攻。議員のスタッフを務めたり、ポーランドに渡ったりする。昭和60年(1985年)ジョージタウン大学を卒業する。

帰国後、昭和61年(1986年)富士ゼロックスに入社。平成5年(1993年)日本端子に 入社。サラリーマン生活を送る。小選挙区比例代表並立制の導入に伴い、父洋平の選 挙区が、二分されたのを機会に、平成8年(1996年)第41回衆議院総選挙に神奈川県 第15区から自民党公認で立候補し、当選する。当初自民党では、宮澤派(宏池会)に 所属していたが、平成10年(1996年)父に従い同派を離脱し、河野グループ(大勇
会)に移った。平成12年(2000年)第42回総選挙で再選、平成15年(2003年)第43回 総選挙で三選。

名門河野家の四代目ということでマスコミからも当初から注目され、本人も積極的に マスコミに出て発言をしている。うるさ型で、平成14年(2002年)12月には、川口順子外相が「国民に対して説明責任を果たしていない」と非難し、衆議院外務委員会理事を辞任した。また、それに先立つ同年4月には、父洋平の肝臓病悪化に伴い、生体肝移植のドナーになって肝臓移植手術が行われ、話題となった。

総務大臣政務官を経て、現在、法務副大臣、自民党神奈川県連会長。

2005年総選挙の際、小泉純一郎首相へ比例代表南関東ブロックに重複立候補するよう要請したが、公職選挙法により、ブロック内に張ってある首相の名前や写真が入った政党ポスターをはがす必要があることが判明。そのため、首相は重複立候補を断念した。

2006年5月11日に自民党本部で会見を開き9月に行われる自由民主党総裁選挙に立候補を表明し、消費税を8%に引き上げ基礎年金に当てることや教育の地方分権を政策の柱にすることを会見で明らかにしたが、鈴木恒夫からは「推薦人が集まらない場合は麻生太郎の支持に戻るように」と忠告された。
『移民と二重国籍」(36)ミクシィ講座

  会社の国籍から見る、租税問題の実例対応条項。

日本の国際課税に関する資料を政府の財務省からのHPで見る。

国籍には会社としての法人が含まれる事を忘れてはいけません。
現在は多国籍企業という、会社の重国籍化は小国の経済を
左右する力を持っています。アジアのタイ国で起きた経済破綻の
原因も、多国籍企業の結束した集中投資での攻勢に曝された
事によるものでした。その多国籍企業をコントロールを出来る税制
の租税の課税状態などを知る上でご覧下さい。

法人国籍としての義務事項として『納税義務』が挙げられます。
今日はその納税義務の各種の事務手続きなどの各項の条文に
おいて詳しく財務省資料としての公示説明がなされていますので、
その件において、各自がご自身の教養と、関連するビジネスに為に
是非とも一度目を通しておいて下さい。

http://www.mof.go.jp/jouhou/syuzei/siryou/kokusai.htm

世界経済の多国籍化において、法人としての会社国籍から来る
租税回避と課税の逃避を計る事を合法的に研究が現代ではなされ
ています。財務省との比較検証及び研究の為にも両方を見てください。
現在国際ビジネスに関係されている方、またご自分の知的参考としても
有意義と感じます。

総合研究開発機構(NIRA) : 出版物情報
国際租税回避の法政策的研究

http://www.nira.go.jp/pubj/output/dat/2365.html
『移民と二重国籍」(37)ミクシィ講座

  会社企業の国籍から見る、租税問題の実例対応条項。

岡田 至康 先生の『国際租税』からの御教授され得る科目を
紹介致します。先生が順次並べた各項目を見ても、法人として
の企業が関連する諸問題の数々に驚かされます。

人間一人の国籍問題はその出生地主義と父母系主義に大きく
2分されるが、それに関連した重国籍は、関連性から見ても簡単
の分類して考査できるのである。

しかしながら法人としての企業の国籍は『法人税法』、『国際租税法』
『所得税法』などの総体的な知識がなければ解明と理解は出来ない。

租税が無ければ、国家は無り立たない。国家財源が国力であり、それ
を納める国民としての民族が集団として『力』として、納税義務としての
国籍を背負うのである。

重国籍者は、そのはざ間での義務事項の明確化と、簡素化、省略化を
して、当事国間の法的な義務としての使命を果さなければならないと
感じる。

以下は岡田 至康 先生の教科の項目を見て、いかに多くの事が関連
して国際租税という事が成り立つのか注目して下さい。
―――――――――――――――――――――――――――――――――


国際租税

岡田 至康
概 要
科目のねらい
 企業活動等の国際化の進展とともに、いわば必然的に各国で移転価格・PE・タックスへイブン等に係る国際税務上の諸問題が増大し、地理的広がりもみせています。各国税務当局は自国課税権の維持を図ろうとする一方、企業側ではいわゆるタックスシェルター等を利用した租税回避を図る動きも見られます。このような中で、国際機関等は各国共通ルールの策定、紛争解決・予防手段の確立等を目指して積極的に活動しています。OECDモデル条約・ガイドライン等を参照しつつ、国際租税をわが国での取扱いを踏まえて幅広い視点から検討します。

教科書・参考書
 ・「国際租税法」本庄資著(財団法人大蔵財務協会)
 ・「OECDモデル租税条約」川端康之監訳(社団法人日本租税研究協会)
 ・「OECD新移転価格ガイドライン」岡田至康監修(社団法人日本租税研究協会)

先修条件など
 法人税法を履修しておくことが望ましい。

授業の概要
第1回:国際課税問題の発生 非居住者概念
     グローバリゼーションと国際課税問題
     非居住者・非永住者の意義
     双方居住者の取扱い(OECDモデル条約)
     シチズンシップ(市民権)課税
第2回:外国法人 国内源泉所得
     内国法人の意義:設立準拠法主義と管理支配地主義
     外国法人の意義
     国内法上の国内源泉所得の区分、所得を認識しない行為
     租税条約と国内源泉所得・所得源泉の置きかえ
第3回:恒久的施設(PE)
     恒久的施設の意義
     国内源泉所得の種類と源泉徴収・申告納税の要否
     事業所得と“PE(恒久的施設)なければ課税なし”
     代理人PE、建設PE(OECDモデル条約)
第4回:PEと所得算定
     国内法と条約上の取扱いの差違(総合主義と帰属主義)
     single entityアプローチとseparate entityアプローチ
第5回:移転価格税制一般
     移転価格の意義と独立企業間価格(ALP)
     基本三法の内容と特色、その他の方法(プロフィットスプリット法)とユニタリー・タックス
     日本企業の取引形態の変化と利益法(TNMMとCPM)
第6回:OECD移転価格ガイドライン 移転価格と無形資産
     各算定手法の特色と適用方法
     無形資産取引、CCA(費用分担取極)
     グループ内役務提供取引
     グローバルトレーディング
第7回:移転価格課税と紛争予防――事前確認(APA) 文書化
     APAの意義とAPAの増大(特に二国間APA)
     幅の概念とcritical assumption
     事前確認報告書の内容
     各国での文書化の動きと意義
第8回:タックスヘイブン対策税制
     タックスヘイブン対策税制の経緯とその内容(適用除外要件等)、地下経済、マネーロンダリング、銀行秘密規定、有害な租税競争プロジェクトとOECDの対応
第9回:外国課税との調整――外国税額控除
     国外所得免除方式との差違・・・資本の輸出入中立性
     外税控除対象税目と限度計算、源泉吸収ローン、間接外国税額控除
     みなし外国税額控除
第10回:租税条約一般
     租税条約の意義、締結状況
     OECDモデル条約と同コメンタリーの内容
     トリーティショッピング(条約漁り)へのアプローチ(条約と国内法)
第11回:新日米租税条約
     新日米租税条約のポイント
      投資所得に対する源泉地国課税の軽減
      課税上の取扱いが異なる事業体への条約適用
      特典制限条項(LOB)、等
第12回:国際間の紛争解決手段――相互協議
     相互協議の意義、CA(権限ある当局)と相互協議合意
     対応的調整と関連する問題
     仲裁条項の意義と問題点
第13回:今日的課題
     電子商取引と課税問題(所得分類、消費課税、税務執行上の問題)
     居住地国課題への動きと評価
     税制の多国間調和と国際税務協力
『移民と二重国籍」(38)ミクシィ講座


不法滞在と難民認定申請者の入国管理局の長期不法拘留。

普通、日本人が余り関知していない事項で、日本人が犯罪者と決めつける
事柄で、不法滞在と難民申請者の入国管理局の長期不法拘留が現実
に行なわれ続いている。長期収容者は三年以上も長期拘留されている
収容者も居ると言う事を認識しなければならない。

日本国憲法に違反して、三年間の実刑となればかなりの犯罪者として扱わ
れるが、彼等は正式な裁判無しで、裁判官の判決主文をも明示されては
いない拘留である、様々な事例があるが半年以上の長期収容者の約25%
は日本人の配偶者がいる外国人である、国籍は様々な国から来日している。

日本政府はこの様な収容事例を長い年月を持ちなが、改善し様とはしない
で、現代の社会通念で計ると、真に由々しき事である。
この件で国際的人権擁護団体アムネスティ・インターナショナルが告発している
が日本政府は改善し様とは考えていないと思われる。収容者には政治力も

日本国民の支援も余り期待出来なく、多くの日本人の常識として、犯罪者と
言うレッテルを張って差別して、『そのような犯罪者を、ただちに国外退去させろ!』
と言う単純な思考での判断で決め付けている。国際社会は動き、社会の仕組み
も組み替えられ、日本の都会では場所により、結婚する十人の内、一人は配偶

者が外国人との結婚形態に変化して来ているが、その様な社会的変化を政府
は認識する事無く、純粋日本人としての大和民族純血主義思想の保守化した
政府官僚の思考で判断、法を解釈して施行して、永続させている。
日本全国に有る入国管理局の収容施設も、収容者を保証人とボンド(仮保釈金)

のシステムに替えて家族のもとに仮釈放すれば、多大な国税の節約となり、施設
の閉鎖での巨額な経費節減にもなる。この様にシステムを変化させ、改善すれば
国際社会からの批判と、人権侵害の疑惑から避ける事ができ、日本国憲法の
法の精神にも適うと確信するものである。

難民申請に入国管理局拘置所に収容し監禁して、子供も居る家族から分離し
て申請させなければならないか、疑問と、不審感と、疑惑と、差別とを抱かせる
この政策に、国際社会からの批判を、日本国政府関係官庁は耳を貸す事を
すべきである。また、しなくてはならないー!

そして何の憲法条項での基準で、彼等長期収容者の監禁を行なうか、明確に
国際社会に表明して、長期収容者の家族との面会も、法の温情と配慮を持って
適切に処理して、100年も前の監獄法の精神では現代では通用しないと言う
事を政府関係者は認識しなくてはならない。彼等は政治力も発言力も無く、

狭い監獄に収容され、不安と人生の貴重な時間とをストレスの中に抱え込んで
判決と決定を待たなければならない事を推察してやら無ければならない。
日本国の司法、立法、行政と、三権分離が機能している民主主義社会を、
一部の保守的、閉鎖的官僚の権威で、世界の国際社会に恥じをさらしては
ならないと確信するものである。
『移民と二重国籍」(39)ミクシィ講座


  航空機・船舶の国籍を見る、識別実例対応条項。

この国籍識別装置は現在は高度化され。IT化されて瞬時の識別判断
がなされると言う、軍用では敵味方識別装置と言われ、戦闘での相手
国の識別に必ず電波、国旗、アルハベットなどの国際記号として、国籍
が表示されている。
中東紛争で紅海において、アメリカの軍艦に旅客機が応答しなくて、ミサイル
で撃墜された悲劇があります、それは国籍識別装置に反応する電波の相
違 が悲劇となりました。他国の上空を飛行する旅客機には国籍識別装置

は乗客の命を守る重要な装置なのであります、近年でもロシア・サハリン
上空で、戦闘機による対空ミサイルで大韓航空機の撃墜では乗客全員の
死亡となりました。

現在のイラク紛争の日本政府イラク派遣部隊は全員が制服に国旗を腕
にマークとして縫いつけ、鉄兜の正面と横に同じく日本国旗をマークを入れて
いる。全ての装甲車両、トラックなど前後左右に識別として日本国旗を表示
して国籍を示している。

船舶において、乗客が出産すれば、その当事国が出生地主義であればその
船舶の国籍を得ることが出来る、またその船舶の船長及び、飛行機の機長は
はその船舶や航空機の国籍の司法権を所持して、本国に帰国するまで本国
の指令により、司法の権限を揮う事が出来るようになっている。ベトナム陥落
の時期にアメリカ艦船に逃れた難民が艦艇での出産で、子供がアメリカ市民
として受け入れられた事が有ります。

私の経験でも、ブエノス・アイレス入港で、アルゼンチン領海に入る前に、船舶
電信で、日本に南米到着の電報を両親に打電したら、日本国内と同じ電報
料金で地球の裏側でも、日本国内電報料金であった事は、日本国籍船舶が
日本国領土と同じと実感したことがあります。

今日は以下のホーム・ページに用語解説や、国籍識別装置の要点を書いて
有りますので、注目して参考に目を通しておいて下さい。


――――――――――――――――――――――――――――――
国土交通省の用語解説表より、

航空機、船舶識別装置の用語解説。

http://www.mlit.go.jp/yougo/e-a.html

トランスポンダ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
トランスポンダ(Transponder)はTRANSmitter(送信機)とresPONDer(応答機)からの合成語で、受信した電気信号を中継送信したり、受信信号に何らかの応答を返す機器の総称である。 通信分野では中継器、電波応用分野では応答装置とも呼ばれる。

目次 [非表示]
1 無線通信
2 有線通信
3 ATCトランスポンダ(民間航空用)
3.1 スコーク
3.2 作動
3.3 その他
4 船舶など
5 RFID
6 関連項目

[編集]
無線通信
通信衛星、放送衛星などの人工衛星に搭載し、地上から送られた微弱な電波を受信し、地上に送り返すために電力増幅するための中継器である。使用する周波数帯は地上から衛星向け(アップリンク)と衛星から地上向け(ダウンリンク)の組み合わせが国際的な取り決めによって規定されている。またトランスポンダによって帯域幅が決まっており、大容量の通信衛星ではトランスポンダを数十台搭載して合計の帯域幅を確保している。通信・放送衛星の運用事業者はトランスポンダの帯域を通信事業者や放送事業者などに販売することで事業を行う。

技術的には、アップリンク周波数の受信機能と、周波数変換機能、ダウンリンク周波数の送信機能からなり、そのほか各種制御機能、機器の監視機能を持つ。送信機用電力増幅器は静止衛星用の大電力のものは殆ど進行波管(TWT)を使用し、中小電力のものでは半導体素子を用いた固体増幅器(SSPA)を用いるものもある。

[編集]
有線通信
光通信においては、光ファイバと電気信号との双方向変換を行う機能部のことをトランスポンダと呼ぶ。

[編集]
ATCトランスポンダ(民間航空用)
航空交通管制 (ATC: Air Traffic Control) においては、二次監視レーダ (SSR) システムを使用して飛行中の航空機を識別している。このために航空機側に搭載する応答装置(応答機)をATCトランスポンダ(ATC Transponder, ATC XPDR、航空交通管制用自動応答装置)という。

[編集]
スコーク
航空機を識別するためにトランスポンダに設定する4桁の数字を、ATCコードあるいはスコークという(0000〜7777)。ふつう管制官により指定され、パイロットが装置に入力する。いくつかのスコークの例を挙げると:

有視界飛行方式 (VFR) 時:
1200:高度10,000 ft未満を飛行するとき
1400:高度10,000 ft以上を飛行するとき
計器飛行方式 (IFR) 時:管制官により指示される
緊急事態など:以下のようなスコークにセットする
7700:緊急事態 (EMERGENCY)
7600:無線通信不能 (COMMUNICATION FAIL)
7500:ハイジャックされたとき (HIJACK)
[編集]
作動
地上のSSRから1,030 MHz帯の電波で送られた質問用信号を機上のATCトランスポンダが受信すると、1,090 MHz帯の応答信号を十数個のパルスで返信する。この信号と一次監視レーダー映像を組み合わせることにより、管制官はレーダースクリーン上の輝点がどの航空機を表すのか、その航空機が高度何ftを飛行しているか、という情報を得ることができる。

上記のような、常時働いている機能の他に、特定の航空機を目立たせる機能がある。管制官の要請に応じてアイデントボタン(ふつう装置だけでなく操縦桿にもついている)を押すと、20秒間だけ応答パルスにIDパルスが追加され、地上のレーダスコープ上ではその航空機が明るく表示される。

[編集]
その他
航空機衝突防止装置(ACAS: Airborne Collision Avoidance System. しばしばTCASとも)にはモードSが利用されている。

参照URI:航空局による資料 (PDF)
軍用では敵味方識別装置 (IFF: Identification Friend or Foe) がATCトランスポンダと同様の機能を持っている。
[編集]
船舶など
また、同様な応答装置は船舶に装備される国際船舶自動識別装置 (Universal Automatic Identification System)や捜索救助用レーダートランスポンダ (SART) などのシステムでも用いられる。

電気信号だけでなく、音響信号に対して応答するソーナー・トランスポンダーも捜索救助などのために用いられる。

[編集]
RFID
RFID(ICタグ)システムにおいて、RFIDを内蔵したICカードなどのタグもまたトランスポンダと呼ばれる。
『移民と二重国籍」(40)ミクシィ講座

移民『入国管理行政』改革の危険な落とし穴。


政府は今回の入菅行政の改革を検討しているが、この原案
を見ると、正に改悪としか言えない。

先ず法務省のプロジェクトチームの責任者が以前は河野太郎副大臣。
その下には、法務省内の入管、刑事、民事各局担当者での
組織であり、そのメンバーで構成されている。

1、この組織には民間の有識者などは含まれていない。

2、政府サイドの一方的な僅かな構成委員での価値判断で、
 日本国の法律として制定され様としている。

3、彼等が今回の基本条件としているのは、定住外国人の
 割合を総人口の3%ととして上限を定め様としている。
 『現在の05年時点での在日韓国・朝鮮人の特別永住者を
  除いて、定住外国人の割合は1・2%に止まっている。』

4、今回政府が対象とした国の総人口からの割合は統計の
  年代が古く、現在ではもっと高い%となっているのに、
  例:
   ドイツ・・・01年、   8・9%
   アメリカ・・01年、  11・1%
   フランス・・1999年、 5・6% 
  この参考割合は、各国定住外国人の割合急増を考えると無理な
  設定と感じられる。

5、どの様にして3%と言う数の設定をしたか、これから日本の人口
  減少を考えると、10年単位で、総人口の減少を視野に入れれば
  直ぐに実質的には3%以上と言う数字になってしまう。
  無理な数字設定である。

6、南米などからの現在では三世までの、世代での入国許可が、この
  法改正があれば、日系人の在留条件が『定職を持ち、日本語
  能力がある者』として改正の準備検討の段階に来ている。
  この事は正に『日本に来て自営で事業を日系人が起す事も制限
  される事態と考えられる、ブラジルなどでは家族の同伴者の妻や
  夫はブラジル人の割合が多くて、日本語の理解度は低い。』
  
  これに法改正があれば、日系人の在留条件が『定職を持ち、日本語
  能力がある者』となれば同伴者の就労や定住などは大きな問題となる。

政府はもっと時間を掛けて、諸問題のあらゆる観点からの分析と、比較と、
過去の諸問題と付き合わせて、再考をしなくてはならない。

これは定住外国人が3%となれば、帰化した定住者が、親族・家族を本国
から呼び寄せる事になり。昔にカナダで、一人のイラン人が帰化して10年間
で70名近い人数の呼び寄せを行なった事例がある。

そのような事例を忘れてはいけない事である。政府はもっと将来の100年の
基本計画を立て、その時代・時代の情勢を見ながら修正と検討する余裕
のある政策設計を持たなくてはならない。

日本の移民行政の根本を考えて、改善と改革の原案を政府関係者と官僚での主導には疑問が残る。
『移民と二重国籍」(41)ミクシィ講座
 

  国家における国民としての国籍の条件。

この地球上に国家として国が存在する事は、国民としての義務が
一個人として、多種に渡って科せられると言う事になります。

我々が現在の世界で、多国籍化した国際社会と経済を見て、限り
ある動植物、鉱物資源とエネルギー資源、環境資源などを見ると

もはや、この過去百年が激変の世紀であった事を示している。

この事を考えて理解すると、『もはや日本国家の将来はいかに・・!』
と言う事を真剣に各自の心に受けとめて考えて、思考の根本とせねば
ならないと感じる。もはや垣根という国境が崩れ始めた国家間では、

45年も前に、故杉野忠夫氏が論文の中で述べられていた世界が到来
して来た。その予測の真剣な声は無視され、その解決を託した『種子』を
この世に播いて40年も前に亡くなられたが、それが現実となり見えて来た。

人間と言う個人的集団の民族的な人間関係が国家を超えて巨大な
権力と政治力を発揮する様に成った事は見逃す事は出来ない。
中国人が現在海外で移住して居を構えて生活している数は約3千5百万
と言われ、華僑、客家という集団は国家と言う権力も手に入れている。

インド人としても約2千万人が海外で居住して世界各国での勢力を増
している、今では日本の大手町でインド人と昼休みにすれ違う事は珍しくは
ない、殆どがIT関連の専門家である。日本でソフト開発をして居ると話しを
聞いた事がある。アメリカでは現在約100万人のインド人ソフトウエア―の

技術者が仕事をしている。シリコン・バレーでも新規創業7社に1社はインド
人の会社ある事を考えると、いかに現代社会の根幹のITを担う世代を握って
いるかと言う事である。全米のIT中小企業企業の25%は米系インド人の
創業で運営されている。これからの世界が政治が、経済が、また軍事力が、
そして核の開発研究においてITが無ければ何も用はなされない。

海外で、世界での民族移動と言う事は自国を軍事力を無くして勢力拡張
出来る一番の平和的な道である。ユダヤ民族もそうであるが決して見過ごし
てはなら無い。彼等が世界のあらゆる地域で『印僑』『華僑』を相手に見え
ない戦いをしている、彼等が背負っているのは『民族的な国籍』である。

日本人は決してその事を忘れてはいけない・・!『民族とは国家なり!』

彼等が居住する国の国籍を持っても、DNAという遺伝子に組み込まれた祖国
の国籍はいかにしても消す事は出来無いのである。

しかし日本ではそれを否定して、拒否して、うやむやの道に先送りして、
もはや経済では人的不足と知的資源の貧困とを兼ね備え、
亡国の道を歩き始めている。

もはや移民国家の到来の警鐘が鳴り響いているが、政治の世界では
防音壁という法律の鉄壁を作り、耳を塞ぎ、目を閉じて、
2050年には人口半減の危機さえ見ようとはしない。

全ては戦後教育の『その場主義、ことなかれ主義、先送り主義、官僚の
権威主義』の悪癖に『ゆとり教育』『教育時間削減』国家・国民を教えない官尊
民卑の根幹教育がもはや救いが無い状況となっていると思われて来た。

現在の日本社会が『勝ち組みと負け組み』とに分類されて、格差社会の富の
アンバランスを助長して、政府の経済回復の余裕は全て裕福層に吸い取られ、
貯蓄も無い世帯の激増は、縦並び社会で、ネット株長者が1000億稼いでも

10%の分離課税で済ませられる日本は、給料所得者が最高税率50%をも
源泉徴収でもぎ取り、(1800万円以上の所得者)。会社企業の国外脱出を
見過ごし、移民、技術労働者の制限をして、もはや日本に何が残るか

爺と成り果てた老移民が叫ぶ言葉ではもう有り得無い。

もう一度考えなおして、教育の原点に戻り、
これからの世代を育て、新しい教育を施さなければならないと考える。
『移民と二重国籍」(42)ミクシィ講座

拓殖学・移民歴史感から見たNHK『ハルとナツ』のドラマ研究(前編)

これは私が純粋に今までの人生での経験から、戦前の移住者と、戦後にブラジル・アルゼンチン・パラグワイ・ボリビアなどに契約移住や、雇用移民移住事業団などのへの入植した募集移民、呼び寄せ農業移民などの戦前から、戦後の移住者の動向からして、その移住者として同伴してきた子供達や、その移住した現地で生まれた2世達のテレビを見た感想は、それぞれ少しずつ違った考えがあると感じます。

日本で放映されるTVドラマとしては成功していると感じますが、その題材の主題が現在の日本人が見る理解度はそれぞれ移民=ブラジルという観念が染み込んでいますので、それと現在での南米出稼ぎの印象が強い感じで日系人とその構成家族のブラジル人やヨーロッパ系、その混血での人種的な偏見から見る日本人が増えた現在での、TVドラマではかなりの南米在住者

が見るTVと、日本でお茶の間での観賞とはかなりの感覚的な差が有ると感じます。工業・技術者としての農業経験が現地でのまったく無い人が感じる観賞レベルと、実際にコーヒー園などでの農奴的な契約、搾取からの何も日本政府や、移住外郭団体からの援助も無かった人々が見たドラマとしての理解度はかなりの差があると感じます。

まったく架空の題材からの脚本から、ドラマ構成として、NHKが大きな資金を投入して企画、立案、製作され、その放送の前宣伝、ブラジル移民社会でのエキストラ募集などを通じての前宣。国際衛星TVでの放映などを加味しての巨大な日本中の放送権を握る、NHKが狙う視聴者獲得。作者を選定したNHK幹部の持つ製作意図。『おしん』の放映効果を知る知名度か

らの作者依頼などを見て、海外での移民社会へのドラマ放映権の販売獲得を含めて、多角的視野での視聴率を考えた感動ドラマとして、ひとつの商業ベースのドラマ放映と企画されたのか、それに乗せられて涙して観賞する聴取者か、それぞれの意味合いでの交差する思量があったと感じます。

『ハルとナツ』のドラマ化された経歴は、NHKと言う日本の法で規制された放送法での枠内で、企画、立案、製作されたドラマですが、この日本とブラジル両方での撮影という大掛かりなロケには、それと日本国内での長期に渡る、季節を通しての撮影となると、かなりの経費が掛かる事は専門家が判断しなくても、素人が見ても分る事です。

まず企画された原案は選考委員での経過を経て、原作を選定するか、原作の作家と脚本家が相互して、ホテルや自宅での共同での脚本化となります。『おしん』のドラマは海外でかなりの視聴者を獲得して、その原作から脚本化、ドラマ制作費まで全てをペイしてNHKとしてはかなりの余禄的な収入を得ています。お隣り中国では日本の連続ドラマとしては破格の視聴者と興行成績を収めています。

『ハルとナツ』のドラマ制作でもその規模からして、作者選定からして、同じ柳木の下の2匹目の泥鰌(どじょう)』と勘ぐるその道に詳しい人が居ますが片方は連続ドラマ、もうひとつは単発の大型ドラマですから、そう同じと見る事は出来ませんが、NHKがかなりの力を入れていた事は間違いない事と思います。

原作と脚本の関係は、二人三脚の関係で、題材として一番に肝心な事はどのような題材を選定して、原作から脚本化するかと言う事です。

私は上京して、大学生活はは勤労学生として、自活しての生活でしたから、その当時にかなりの良き条件で住込みの書生として、映画監督の成城にあった千坪の邸宅に書生家業として入り、そこの主人が監督兼脚本家として、売れっ子の仕事をしていましたので、大きな書庫が有り、かなりの昔からの脚本が収集されていました。かなりの脚本は絵コンテと言う撮影の画面を略図化して、マンガの様に描いてある副絵コンテ脚本が付いていました。

当時の日活映画の石原裕次郎や小林旭などと言う、有名な俳優を使った日活アクション映画でしたから、それと夏休みなどの半分はアルバイトで旅費稼ぎで撮影所に付いて行き、脚本とイス、メガホンを持って後ろに控えている書生家業をしましたので、かなり脚本とドラマとの関係、題材と原作からの関係などを理解することが出来ました。

今回の『ハルとナツ』のNHKのドラマ化において盗作疑惑が浮上したことは、かなりの関連性があると指摘されますが、私がそこの書生家業を約四ヵ年間した体験からした経験で、贋作と原作はかなりのきわどい類似性を持つ事が有ります。題材は分厚い原作の探偵小説や冒険小説からの拾い読みからやTVで

のアメリカ・ドラマからのヒントから、題材として用いられるのですから、過去に同じ様なドラマをTVで放映されていたら、簡単にその粗筋や総体的な流れから来る『筋』として、柱にして、構成されて行くことは簡単と感じます。

ですから、その原稿を書いた本人か、その企画を立て、立案した選考委員がこれは『筋』の骨格ですと白状しない限りは、あくまで盗作疑惑は騒げば騒ぐほどに宣伝活動となり、ドラマ製作者側は『痛くも痒くも無い』立場を取れますし、それと、『対岸の火事』と言う第三者的な高見の見物が出来ます。
だからこそ大きな反論も、弁解も、勿論のことに謝罪などと言う『腹切り行為』をする事は有りません。

『ハルとナツ』の物語のドラマのストーリーは、皆様が良くご存知ですから省略いたしまして、原作者が一度もブラジルで居住した事もなく、農場という生活の場での24時間の朝起きて、寝るまでの労働をした事もなく、その昔のコーヒー園で、手で草をクワで削り取る単調で、キツク、暑い夏の労働など一度もどの様にしてするか作者の目で、現場に一日立ち通しの仕事

を、後を付いて歩いた経験もなく、実際に家族雇用者の小屋で生活した事も無い状態での執筆ですから、どこかでドギュメンタリーとしての記録映画やTVなどからの情報を得なくては書けるものでは有りません。
原作者の今の年齢や、健康状態などからして、とても以上の様な取材とインタビユーをして、過去のコーヒー園での契約家族労働者などをブラジル中を訪ね歩く事は出来ません。

私は自己の過去の横浜からサントス経由でブエノスまで移民船に乗船した経験から、45日間の乗船中に、乗客から長い航海中の間に聞いた戦前のブラジルでのコーヒー契約家族移民の赤らな血と汗と、涙の経験談を膝を交えて聞き、その中には笠戸丸でのブラジル第一回目の移住者の話も聞く事が出来ました。サントス港に到着して、ブラジルの暑い太陽に昔の農民がするタオルで頬かむりをして、着物のすそを絡み上げ、扇子で涼を取ったと聞きました。

この話は祖国に最後のお別れの墓参りに行った一世からの話しで、タルに入れて持ちこんだ醤油も荷物の中に有ったと話していました。その様な詳しい詳細な出来事をこの耳で聞き、記憶のヒダとして頭に残した事は現在のこのような事を書く上で最高の参考となっています。笠戸丸より前にペルー砂糖キビ労務者として南米に来て、アンデス山脈を歩いて、当時のアマゾンのゴム景気に引かれて、アルゼンチンまで国境警備隊の荷駄のラバに掴まり越えてきた人からも話を聞いた事が有ります。

私自身も原始林の伐採も経験して、農場の売店での掛売りを支配人として、物資をブエノスから直接現金で仕入れて、販売していた経験も有ります。労務者の小屋がどの様なものかも知っていますし、その小屋を建設した経験も有り、そこで寝泊まりした事も有ります。私は大農場の経営と運営がどのようなもの

であるかも覚えています。その事は『ハルとナツ』の物語のドラマに、批判と言う対象物を持っていると言うことです。南米の移民歴史からの原点を見て、聞いて、そこからのこの文章が、分析されたいう事を、まとめあげた研究と思っています。

岡村氏の「60年目の東京物語」と今回、NHKで日本全国と世界に衛星放送での『ハルとナツ』の放映からして、その疑惑が表に出てきた事は、製作者と原作者の経歴比較を先ずして見ます。これはこの研究での重要な事で、そのポイントとなると思います。

『ハルとナツ』のプロデューサーが『60年目の東京物語』の他に岡村淳の『ブラジル最後の勝ち組老人』というのも『参考』にしていると述べていると言う事は、やはりフィクションに実話を織り込む手法は遺憾ながら盗作疑惑として、専門家や移住実態の経験とその専門的な知識がある者でしたら、批判力が前後の『ハルとナツ』の経歴などを精査出来ますので、これは原作者がいかなる舌を使えども、NHKと言う組織からの情報漏れがあり、疑惑が一層深まった感じがします。

NHKと言えどもその運営は僅かな首脳部が関与して遂行、運営されていると思います。先にNHK会長の辞任などという、内部の運営のずざんさも抱えている、彼等の狭い偏屈な理念での現在の疑惑問題で岡村氏への対応がいっかは変化することが有ると確信していまが、それは岡村氏の信念にもとずいた発言

と行動が、彼が実際に歩き、見て、検証して、レンズを覗き、撮影した事実は移住歴史の真実を写していますので、誰もそれを指差して非難や事実にツバ吐くような事は出来ないと思うのであります。私がこの『ハルとナツ』の物語を精査してみて、移住史という歴史は体験して、それを身体に刻んだ人が初めて語れるものと思います。

いつかは世の多くの賛同者と理解者が得られ、そして「ハルとナツ」疑惑告発の突破口が必ずや移住史とそれを真実として撮影した画面から得られると感じています。そして・・・

NHKから依託されて脚本を書いた人物の関連性とその裏側の流れと、真実がこの世の中に白日の前に曝される日が来ると確信しています、またそしてその暁には、この世は必ずや不正義と虚偽とそれを計り、遂行した人間達への神の審判が降りると確信しております。


橋田壽賀子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(橋田寿賀子 から転送)
橋田 壽賀子(はしだ すがこ、1925年5月10日 - )は、脚本家、劇作家である。韓国の京城(ソウル)出身。
略歴
大阪府立泉陽高等学校、日本女子大学国文科を卒業後、早稲田大学文学部芸術科中退。
1949年松竹に入社し脚本部所属。1959年にフリーとなる。
1966年に岩崎嘉一と結婚。
1992年には、橋田文化財団を設立し理事に就任。
代表作は、おしん(1983年-1984年:NHK)、春日局(1989年:NHK)、渡る世間は鬼ばかり(1991年-:TBS)、他多数。
主な作品
ドラマ
となりの芝生(1976年:NHK)
女たちの忠臣蔵(1979年:TBS)
おんな太閤記(1981年:NHK大河ドラマ)
おしん(1983年-1984年:NHK朝の連続テレビ小説)
いのち(1986年:NHK大河ドラマ)
おんなは一生懸命(1987年:TBS)
春日局(1989年:NHK大河ドラマ)
おんなは度胸(1992年:NHK朝の連続テレビ小説)
春よ、来い(1994年-1995年:NHK朝の連続テレビ小説 “ホン(脚本)を任されたのをいい事に自伝をドラマ化した”との批判も)
番茶も出花(1997年:TBS)
ハルとナツ 届かなかった手紙(2005年10月2日-6日:NHK)
涙そうそう この愛に生きて(2005年10月9日:TBS)
渡る世間は鬼ばかり(1991年-:TBS)
著書
渡る世間に鬼千匹(1997年:PHP研究所)
受賞
NHK放送文化賞(1979年)
松尾芸能大賞
菊池寛賞(1984年)
紫綬褒章(1988年)
勲三等瑞宝章
東京都文化章
毎日芸術賞特別賞
劇中セリフの特徴
ドラマの脚本執筆の際、役者に喋らせる台詞が長い事で有名。加えて助詞(いわゆる「てにおは」)一字の発音違いも許されないと言われている。
橋田脚本の作品では最早死語となったような上品なセリフが多く発せられる。
主なものに「作る」というところを必ず「拵える(こしらえる)」と言わせる、「味噌汁」を「御御御付(おみおつけ)」と言い換える、など。

岡村 淳(おかむら じゅん)プロフィール(2005年11月版)
1958年11月7日生まれ。東京都目黒区出身。
1982年、早稲田大学第一文学部日本史学専攻卒業。
考古学・民俗学・人類学などから、現代日本文化に潜む縄文文化の痕跡を研究。
同年、日本映像記録センター(映像記録)入社。
牛山純一代表プロデュ―サーにテレビ・ドキュメンタリー作りを叩き込まれる。
処女作はシンガポールにロケした「すばらしい世界旅行」『ナメクジの空中サーカス 廃屋に潜む大群』(1983年)。
以後、「すばらしい世界旅行」「知られざる世界」(いずれも日本テレビで放送)の番組ディレクターを担当し、ブラジルを始めとする中南米を主に取材。
特にアマゾン取材が多く、「すばらしい世界旅行」『大アマゾンの浮気女 最後の裸族地帯』(1984年)などインディオの生活や大逆流ポロロッカ、吸血コウモリの生態などをお茶の間に紹介する。
1987年、フリーランスとなり、ブラジルに移住。
その後「すばらしい世界旅行」の他に「新世界紀行」(TBS)、「スーパーテレビ情報最前線」(日本テレビ)などのディレクターを担当。
1991年、「フリーゾーン2000」(衛星チャンネル)の取材を契機に、小型ビデオカメラを用いた単独取材によるドキュメンタリー作りに開眼。
以降、記録映像作家としてNHK、朝日ニュースター、東京MXテレビなどで作品を放送。
1997年より自主制作によるドキュメンタリー作りを始める。
ブラジルの日本人移民、そして社会・環境問題をテーマとした作品の制作を継続中。
自主制作の代表作に「郷愁は夢のなかで」(1998年)、「ブラジルの土に生きて」(2000年)、「赤い大地の仲間たち フマニタス25年の歩み」(2002年)、5時間15分の長編「アマゾンの読経」(2005年)など。
最新作として橋本梧郎シリーズ第3作目の「ギアナ高地の伝言 橋本梧郎南米博物誌」を2005年11月、完成。

(後編に続く)
『移民と二重国籍」(43)ミクシィ講座


拓殖学・移民歴史観から見たNHK『ハルとナツ』のドラマ研究(後編)


『ハルとナツ』の物語が繰り広げられたドラマのブラジルでは、昔の統治国ポルトガルの影響はまさに、ブラジルのあらゆる所に染み渡っていますが、このポルトガルの植民地であったアフリカのモザンビークに、昔の中国からポルトガルが借地していた、マカオから連れて来られた広東人が居ました。

丁度私がモザンビークを訪れた頃は、モザンビーク解放戦線とポルトガル軍が激しい戦いをしていた時期でした。ここにモザンビークとブラジルを比較して見ます。当時1967年頃でしたが、内戦を避けて中国人達が首都のマプトに集まって住んで居た頃でした。

彼等中国人が日本人移民と違う事は、農業雇用移民では無く、昔の農奴的な状態で、半ば売られて来た感じでした。彼等が当時の職業は三刃職と言う、調理刃、理髪剃刀刃、呉服鋏刃と彼等が洗濯板と炭火アイロンで仕事が出来る、投資資本の要らない職業でした。

彼等中国人がその職業で蓄えた資本で始めた商売は、中華レストラン、商店などでした。彼等が当時の内戦から逃れる為に、香港、シンガポールなどを目指していましたが、彼等が考えていた移住という観念は日本人とは少し違っていた感じでした。日本人以上の過酷な運命を担ってモザンビークに来ていた中国人には、広東系の人が多く居ました。

モザンビーク共和国 
(Republic of Mozambique)
一般事情
1.面積 80.2万km2(日本の約2.1倍)
2.人口 1,910万人(2004年:世銀)
3.首都 マプト(人口約110万人、2004年)
4.人種 マクア・ロムウェ族など43部族
5.言語 ポルトガル語
6.宗教 キリスト教(41%)、イスラム教(17.8%)、原始宗教
7.国祭日 6月25日
8.略史 1544年 ポルトガルの貿易商人ロレンソ・マルケスが
現在のマプトに貿易基地を設け植民地活動本格化
1629年 ポルトガルの支配権確立
1900年 反ポルトガル蜂起続発
1962年 モザンビーク解放戦線(FRELIMO,現政府の母体)結成

国 名: ブラジル連邦共和国 
(Federative Republic of Brazil)
2005年12月 現在
一般事情
1.面積 851.2万km2(我が国の22.5倍)
2.人口 1億8,352万人(2005年地理統計院推定)
3.首都 ブラジリア
4.人種 欧州系(55%)、混血(38%)、その他(アフリカ系東洋系等)
5.言語 ポルトガル語
6.宗教 カトリック教徒約90%
7.略史 1500年 ポルトガル人カブラルによるブラジル発見
1822年 ポルトガルより独立(9月7日)
1889年 共和制樹立(11月15日)

ブラジルが色々な人種とその混血で成り立つのに対して、モザンビークがアフリカ黒人種の43部族からの主構成で成り立っています。そこに少数の広東系の中国人達が住んで居た事は、

ブラジルの日本人以上の苦難があり、歴史的に見ても、地理的に見ても彼等が安住の地では無かったと思います。彼等中国人達と、日本人雇用移民との格差などを『ハルとナツ』のドラマを見ていて、ふと思い出して考えていました。

アメリカでも大陸横断鉄道工事工夫として連れて来られた中国人達が、工事終了後、サンフランシスコに集まり、そこで町を作り、彼等の集団の社会を育てて行った中で、一生涯結婚も出来ずに、中国大陸から連れて来られた娼婦達に休日に長い列を作り、慰めを求めていた男達が居た事は、ブラジルのサンパウ

ロ市に当時栄えた日本町がリベルダーデ区内で多くの商店や旅館、飲み屋など日本で存在していたと同じ職種の店があった様に、移民歴史の流れは同じ道筋をたどって来たと感じます。その様な歴史感での、この『ハルとナツ』のドラマを見ていた人は、1%も居ないと感じますが、それは当然な流れと思います。

次に『ハルとナツ』のドラマを一般的な通俗的鑑賞として思考してみます。

このドラマを精査して行く内に感ずる所は、NHKが開局いらい最大のヒットをした連続ドラマ『おしん』の人生ドラマです。このドラマは日本国内でも最大のヒットを掴みましたが、海外でもその視聴率は記録的なレコードを作りました。海外で60カ国でTVでの放映がなされ、NHKが開局以来の快挙記録です。

最高はイランで放送された最高視聴率は82%でタイ国でも81.6%と、かなり同じ率の視聴率となりました。中国北京では75.9%と、ここでも日本の連続ドラマとしては驚異の記録です。ポーランドでは70%とヨーロッパでは日本の連続ドラマとしては最高の記録を作った様です。

一連の作品が同じ系列のNHKのプロデューサーが関係している事は、今回の『ハルとナツ』のドラマが企画、立案、実行との一連の関連した製作に類似した『おしん的な脚本の粗筋』となり、『お涙頂戴、感動のドラマ』としての日本全国のNHK放送網を通じて放映となった経緯も、海外衛星放送網を通じて流された経過を見ても、視聴率最優先の為ならいかなる筋合いでも、たとえ『毒を食らっても』と言う発想があったのではないかと勘ぐりたくなります。

事実、NHKがドラマ化した映像をTVで鑑賞して感じる事は、作者がそこまで精査して、ドラマを制作の脚本を製作出来たかという疑問でした。現在の年齢と行動力、一部かなり正確なブラジルの戦前の雇用移民の実態やその行動、過去の雇用者との経緯、また当時、日本の移住形態などからの分析をしてみれば、何か正確な参考資料と助言者と体験、経験者からの面接聞き取りなどが無ければ脚本の構成は無理と感じます。そのような各編を構成する『筋』は、はたしてどこからヒントを得たか?、

企画、立案、製作までの過程から来る原作から脚本構成まで、そこから俳優や撮影スタッフの選定、現地ロケなどの手配、あらゆる要因を考査すると、私が感じる事はあれだけの単発大作にしては、時間的に短い時間での製作となったと感じます。

原作から脚本製作までの流れが短いほど、原作者の時間的な余裕は無くなりますから、実質的には原作者の名前は飾りとなり、NHKが主導としての製作では無かったか?と疑問が湧いて来ます。確かにドラマとしては単に娯楽作品として、『おしん』の原作者としてのタイトルを掲げて、『ハルとナツ』の

ドラマが放映されたのですから、視聴者としては興味と、ドラマの前宣伝での予告編に、胸をときめかせていたと感じますので、一篇のドラマとして、それ以外の思考を持たない人は『涙して、感動して』,ブラジル移民と言う戦前の苦難とその歴史を実話のごとく感じて見ていたと思います。

しかし、日本でブラジルや南米の各地から出稼ぎで来ていた人が見た思いと、同じくブラジルやアルゼンチン、パラグワイ、ボリビアなどの移住地で衛星放送での鑑賞とは大きく意味合いが、そして感じる割合が違っていたと思います。そして私の様な目で見ていた人もほんの僅かですが居たと感じます。

次にNHKの『ハルとナツ』の物語のHPをを紹介致します。
そこの掲示板を覗いて見て下さい。
かなり一般的、通俗的な感想と感動のコメントが載っています。
放映されたストーリーを事実の物語と誤認している感じも伺えます。

NHKの掲示板での感想はあくまでNHKがコントロールする掲示です。
最初には書き入れの注意書きが掲載されていて、それを読んでから掲示板に入ります。
また600文字という短文での感想となっていますので、過去ログを読んで見ますと、同じ文面となり、NHK協賛会の賛同文と思われる感じも受けます。どこを読んでも『盗作疑惑』などの事は書いては有りません。

おそらく書いても、掲載はさせないと感じます。その様に下に注意書がして有ります。公的な中立の放送機関として、批判的な文面がひとつも無いと言うのは少しおかしいと感じます。
貴方もこの研究の一環として覗いて下さい。
NHKの掲示板のアドレスは下です。クリックすると閲覧できます。
http://www3.nhk.or.jp/drama/drames/drama/117/page_001.html
なお、この『 ハルとナツ 届かなかった手紙 』のドラマはアマゾンで販売しています。
もう一度見たい人はどうぞー!

最後にこの『ハルとナツ』のドラマ研究から見た、総体的な結論をまとめて
この研究の締めくくりをしたいと思います。

NHKは公共放送局としての立場と、中立と公正を理念とする放送媒介の情報網を維持、管理、運営して、僻地と言われる場所でも視聴者の便宜として、難視聴区という場所を解消している、まさに公器としての放送を維持している事は、日本国民が認める所で有ります。

しかしながら、現在ではかなりの番組製作時点での疑惑と不正が有る事は法で起訴され、有罪を裁判所から言い渡された事を考えると、内部番組製作の企画時点での、透明性と番組の企画、立案時点でのそれを鑑査する体制がいかなるものであったか、疑問が有る事はNHKでも重要な番組製作担当プロデューサーが、リベート的な金銭の受け渡しで逮捕された事は、記憶に新しい事です・・・、と言う事は内部鑑査システムが働いていなかった事です。

現在では番組製作は他の民放との熾烈な視聴率競争となっていますので、それを視野に入れると、かなりの単発ドラマ制作、大河ドラマ、記念番組制作、ドギュメンタリー記録番組制作、などにおいて多くの競争の中での視聴率獲得競争のレースに立たされている番組制作者達が、己のプライドと番組制作上の面子に賭けて制作されたのが『ハルとナツ』のドラマです。

NHKの80年記念制作ドラマですが、作者と制作者のコメントが下のHPに出ていますので、是非とも読んで下さい。制作者自身が『おしん』との関連性について言葉を残しています。
http://www.nhk.or.jp/drama/harutonatsu/html_haru_midokoro.html

ドラマの焦点がブラジル移民と言う戦前の貧農達が、夢と希望を賭けた移民という選択をするか、都会へ仕事を求めて奉公に出るか、第二次大戦を挟んでのドラマ展開は『おしん』の影を色濃く残して居る事は、ドラマを見て直ぐに気が付く事です、

しかし80年記念番組として、日本の移住の一番主要な国、ブラジル移民の苦難の歴史を題材とした事は、これは真に有意義であったと感じます。そしてその移住歴史を世にNHKと言う公器を持って広く放送された事は、視聴率と多くの人がドラマを見る機会でもあったと感じます。

この事は拓殖学・移民歴史に関って来た人間としても、賛同と感謝を持つものでありますが、このドラマをただの娯楽作品として、『お涙頂戴、感動のドラマ』としてだけ見る事もない人間からすると、そして精査して、公証して、体験からの観察眼で鑑賞して、そこから批判と言う評論を引き出して見ると、これはまったくの私の偏見と個人的な主観からの結論として・・・・、

『そして現時点でのブラジル及び南米各地での取材活動、報道取材からの、移住者、移民歴史、日系社会、ブラジルの環境問題などを日本から移住して精力的な活動を持って、経歴から見ても拓殖学・移民歴史を充分に理解できる能力を感じる岡村淳氏(おかむら・じゅん)早稲田大学日本史学専攻卒業、考古学

と民俗学を学んだ専門家の見た視野での数々の記録フイルムから、NHKが参考資料として岡村氏撮影のドギュメンタリー記録番組作品から『筋』として、一部分で『ハルとナツ』のドラマを制作したと感じます。

私の個人的な考えですが、NHKはドラマの少なくとも巻頭のタイトルの中に『参考資料』として、『岡村氏撮影のドギュメンタリー記録番組作品から』と一筆入れる事は、恥じでもなく、虚偽でもなく、真実として、多くの周知の事実として、同様な作品がすでに過去に上映されていた事があると言う事は、すでにこの世では誰もが認める事であるから、現代の常識からして、少しもおかしくはない事と感じます。

そうする事で、NHKと言う公器の放送機関が疑惑と言う様な不祥事を感じさせる事は無かったと、この『ハルとナツ』のドラマ研究から感じました。
『移民と二重国籍」(44)ミクシィ講座

 南米からの出稼ぎ日系人と国籍から来る緒問題。

1990年の入管法改正により定住査証発給が容易となったことからブラジル、
アルゼンチン、ペルー、ボリビア、パラグワイなどから、過去に大量に移住した
国からの出稼ぎ労働者としての日本人、日系人、その同伴者と家族達の
日本居住の長期滞在、定住化及び帰化して日本国籍収得して、永住と

しての日本定住が起きているが、年齢的に20代から30代が一番多い年齢
層である。その率は約50%となり、毎年、日本で出産して誕生する新生児は、
約4千人と言われ。現在ではブラジルからだけで27万人が住んで居ると言わ
れる。各地でその日系人の集約的な多民族集団が日本国内で起きている、

東京近郊、神奈川、群馬、浜松、名古屋などは集団的な南米からの出稼ぎ
労働者が長期滞在から定住化に移行する状況は、もはや国籍問題を避けては
通れません、20歳から30歳までが約50%も占める割合は出生率としてはかなり

高い比率となります。日本滞在出稼ぎ労働者のどちらか片方が日本国籍を
所持していたら、自動的にその出生して来る子供には日本国籍を所有する事が
日本の国籍法で認められます。親がブラジル大使館に出生届けをすれば、同じ
くブラジル国籍も認められる事になります。

ブラジルからの出稼ぎ者の来日が恒常化して、また家族同伴や再来日する人
の数が激増して居る背景にはブラジルや、アルゼンチンの通貨危機が大きな引き
金となり、特にサラリーマンをしていた、ブラジルの二世や三世などが、日本との
賃金格差を見て、1980年代の日本のバブル経済時代に出稼ぎに出ていた

人達が、本国で家を建て、新車を買い、ビジネスを起して大きく事業的に成功
して居る事が現実の目の前に有り、確かな証拠としての出稼ぎ現象を引き起こ
したと推測される。しかしながら多くの問題と解決しなければならない勘案事項
が引き起こされた。来日前の事前の心の準備教育・心構え・予備知識不足、などから来る

1、健康問題とそれに関連する精神疾病衛生問題。

2、同伴家族の修学教育問題。
  関連する教育・不就学から来る青少年犯罪の問題。

3、各種の労働問題(賃金、就労待遇、社会権利、事故、解雇、退職)

4、各種の健康保険や年金問題。

5、一般的な生活問題(運転免許、出生登録、委任状、在職・在学証明
  人種偏見、納税、確定申告、本国との二重課税、ビザ取得・更新、
  帰化日本国籍取得)などがある。

幾多の問題が、日本国籍と連動して各国との本国の関連法との難しい
兼ね合いを計って調整して、すり合わせして解決して行かなければならない。
この総合した緒問題の頂点にあるのは日本人子孫の三世までの就労を
認めた、定住査証発給が容易になった事である。

現在では日本国籍が南米日系人に取っては数々の諸問題は有れど、
将来の大きな希望と夢の実現を掴む第一歩となる様だ。
この事に関して日本政府は早急に出稼ぎ労働者が来る相手国の重国籍
との関連と、その格差を解消せねばならない。

その事は日本国憲法の条項に照らしても不平等に等しいと感じるものである。
『移民と二重国籍」(45)ミクシィ講座


重国籍問題の総集編と反省。

重国籍問題は幅が広くて、また深く、幾重にも跨ってその領域を
広げています。私が昔、この重国籍問題に首を突っ込んだ時は
まだ30カ国ぐらいの国が重国籍を承認していました。
それから直ぐに60カ国ぐらいに増えていました。
現在では100カ国を越えています。

それはインターネットの導入で瞬時に情報が広がるからです。また
情報が簡単に紙を使う事無く情報伝達に使われるようになったか
らです。またインターネットに載せないと情報としての価値が無くなり
誰でも自分のパソコンから、ホーム・ページの中から自分が調べて
研究した項目を披露して、一般公開する様になり、より多くの情報

が簡単、瞬時に伝達が出来る様になったから、この問題研究がより
多くの情報を前に討論、検討され、またその不適当な項目を指摘
して、批判する様になりました。この重国籍問題も国境が無くなり、多
くの国別に比較することが、簡単にインターネット上で瞬時に出来る

様になりまして、その問題解明が大きく前進しました。各国とも時代の
推移には逆らえず、移民の多い国ほど利害が編著となりますので、
その対応として政府が動きだしたのです。メキシコを見ても、推定で
1200万と言うアメリカ国内のメキシコ系住民が政府に圧力を掛けて

重国籍と言う国としての新法が承認されたと思います。これにより、
多くのメキシコ系アメリカ人が今まではアメリカ国籍だけでは土地所有
が困難でしたがこれにより、故郷に土地を買い、家を建てて、農場を
持ち、アメリカンーン・ドリームを実現することが出来る様になりました。

その重国籍の恩典は家族やその子供達も受ける事が出来ますので、
永続して、これからの将来も生活設計が容易になり、隣国のメキシコ
がもっと緊密な隣りの国となりました。しかし現在の日本を見ると現在の
日本人の海外居住で留学、ビジネス、短期滞在などを含めても、将来
は日本に帰国すると言う前提での生活で、たとえ永住しても日本国籍

を捨てて、帰化する人は余り居ません。アメリカでは日本人の帰化率が
全米で最低と言われています、これは民族的なDNAから来ると思います。
しかしながら、帰化する人が居る事を考えると、日本もこの問題を解決
して、安心して帰化宣誓を受ける事が出来るようにしなくてはなりません。

もはや、格差と言う法律のギャップは日本国内で南米から出稼ぎに着ている
日本人や日系人達と、日本国内法の国籍条項を対等にする事が必要
なりました。南米から来ている出稼ぎ日本人、日系人は重国籍を認められ、
片方はいったん帰化したら日本に一時帰国しても、これからは指紋と写真
を撮られ、長期滞在となると、いっも外国人登録証を持ち歩かなければ

ならなくなり、不携帯では罰則と拘留される危険性も多いに有ります。
現在の日本国政府は国籍法を緩い取り締まりの様にしているが、いったん
事が起きれば、いかように小さな法律条文でもそれを拡大解釈しても拘留
して、起訴出来る事になります、そして外国人として扱い、国外退去とする
事も可能です。その様に強権としての隠れミノを持っているのです。

私は『なぜ・・・』と心に感じます、排他的思考で日本の選挙も海外
在留者の選挙権を認めてはいませんでした。やっと近年になり裁判での
訴えにより政府が認めた事により海外在留邦人の選挙が確立しました。
全て、形式的に比例代表選挙だけを認めました。なぜ日本はそのような
枠を作り、囲い、守らなければならないか、官僚が策定する思考の狭さ

は日本国の未来を殺いでいます。前、小泉政権が行政改革を推し進めて
はいたが、開かれた未来ある日本の将来は
―誰が政策立案するのか?
ー誰が築くか?
ー誰が進めるか?
ー誰がどの様にして永続させるか?
ー誰がどの様にして改革して、既存の法や規制事実とすり合わせるか?
ー誰れでもが恩恵を受けれれるか?
私が個人的な偏見での見方は『教育改革』なくして『社会変革』は起
こらないと感じるのであります。
『移民と二重国籍」(46)ミクシィ講座

アメリカの不法移民滞在就労者と日本の比較研究。

アメリカの不法移民は推定で1200万人は滞在していると言われ
一年間にこれも推定で、85万人が不法にアメリカ国境を超えて
進入して、違法滞在して、就労しています、中には正式にビザを

持ってアメリカに入国して、期限が切れても滞在している人々もかな
りいますが、アメリカの『ピユー・ヒスパニック・センター』の調査で公表
した不法移民調査を見てみると、

不法移民の出身国内訳は以下のとうりです:
1、メキシコ・・・・・・・・・・・・・・・56%
2、その他ラテン・アメリカ・・・・・22%
3、アジア諸国・・・・・・・・・・・・13%
4、ヨーロッパ・カナダ・・・・・・・・・・・6%

となっていると公表された。
アメリカ国内、不法移民の就労者はアメリカ国内の労働力の5%を
占めているとされている、推定で750万の不法移民が就労している。

アメリカ国内での就労職種別に見ると:
1、農業・・・・・・・・・・・・・・25%
2、清掃業・・・・・・・・・・・・17%
3、建築業・・・・・・・・・・・・14%
4、調理、レストラン業・・・・12%

と推定されているが、アメリカに仕事と就労機会が有る限り、不法入国は
止まることは無い、中でもカリフォルニア州では推定で240万人が違法
滞在して、生活しているものと見られているが、ロサンゼルスの新聞が報じ
るニユースを見ると、アメリカでも驚きの声が上がっている・・・、

カリフォルニア州南部のメーウッド市が不法滞在者、及び不法移民の優遇
策として、多くの融和策を打ち出して、今ではその地が『聖域』として、不法
移民の市となり、議論を呼び、討議されている。

ロスアンゼルスに連接する約人口3万の小都市ですが、驚く無かれ人口の
中南米系が全体の96%を占めているので、カリフォルニア州でいくら移民が
多いと言っても、飛び抜けて高く、白人は2%の超少数民族として数にも入
らないと言う、商店の看板は殆どがスペイン語で書いてあり、メキシコかと感
じると、そこを訪れた人が話している。

その市には推定で1万5千人程度の不法移民が住み付いていると言われ、
もう追い出す事は出来ない状態となっている。市議会では不法移民から市民
に帰化した人が多くて、市議会では不法移民容認波が多数で、数々の不法

移民対策を許可している。その事例を見てみると:
1、免許証が無いので駐車違反してもレッカー移動はしない。
  (理由は・・・不法滞在で、免許も無いので取りに行けないから!)
2、人口の増加で狭い住居の増改築認可を緩くして簡単にした。
  (それだけ不法移民が住み付いて聖域となっている)

そんな事で、皆様宜しいですか覚えて居て下さい!
メーウッド市は不法移民が運転免許や車両の登録書類も無く、と言う事は
自動車保険も買えないと言うことで、ロスに遊びに行っても近寄る事は避けて
下さい・・、お分かり頂けましたかな?
いくら名古屋市近くの団地で、南米からの出稼労務者が
沢山居ても、こんな市は日本にはありませんからね!
『移民と二重国籍」(47)ミクシィ講座

日本の移民政策と入国管理法からの矛盾と問題点。

日本の入国管理法の改正が、1990年に運営されだして15年
が経ち、その間でも多数の不法残留者が増えている。バルブ時期
に日本の繁栄の恩恵を目指して来日した多くの、アジア諸国や南米
諸国からの違法労働者と言われる、季節雇用労働者的な人々も

バルブが弾けてからも、景気調整労働力としての雇用を甘んじて受
け入れ、家族での滞在を日本で過ごす内に、もはや本国に引き返す
事の出来ない時期を逃して、帰国を断念した家族が増えている。
子供の日本語学習で、日本語しか話せなくなり、帰国しても自国で

の生活環境が無くなり、労働者として日本人が敬遠する労働を支えた
家族も長年の日本滞在での、本国への帰国を断念して日本定住を
希望しだしたが、現在は地方自治体は外人登録を認め、IDカードを
発行するが、中に書かれている「滞在資格無し」の注意事項が有るだ

けで同じIDカードである。そのIDカードで修学も出来るが、大学、就職
となると大きな壁となってくる。現在の不法滞在者が日本に正式に滞在
を認めて貰う事は、家族で入国管理局に出頭し、滞在を正式に申請
して、入国管理官の審査を受けて、法務大臣の特別残留許可を貰い、

日本での正式滞在許可を受けると言う、根気のいるストレスに満ちた
長い道程を歩かなければならない。しかし残留を不許可となった家族や、
個人は出頭した入国管理局での、その場での収監となる危険性も多分
に有る。その基準となる指針は現在は日本には存在しないと言われている。

収監されても、その収監された本人に収監の理由さえ告げる事は法務局
からは無い。また法務官僚がそれをNHKのTVでも明言している。
『なぜ特別滞在許可申請が却下されたかと言う理由を、明確に口頭で、
文書で法務局は話さないのか、日本の憲法にも抵触する様な事が現実に
起きている』

特別滞在許可は法務大臣の特例事項で、大臣の采慮となると憲法で決め、
記載され、今まで多くの事例を処理して来た。しかし時代は変わり、時代は
動き、現代社会は国際化した他国との連動した動きでの連帯国際社会を
築いているが、日本政府の難民対策を見ても、受け入れ難民には資金は

出すが、難民受け入れの実際行動は消極的で、申し訳程度の人員を受け
入れ、適正事実としている、由々しき事である。アメリカでは新しい町が出来る
ほどにべトナム難民を受け入れ、対処して来ている。
戦前の官僚が口にしてはばからなかった『棄民政策』、戦後の『余剰人口対策』
の流れを汲む、政策としか移民事情を解釈していないと感じる。

私の42年間の経歴から体験した・・、

初期のブラジル笠戸丸移住者。
ペルー初期砂糖きび労務者としてペルーに移住して、のちにアンデス山脈を
徒歩で歩いてアルゼンチンに来た移住者。
アルゼンチン、ブエノスに最初に家族で移住した人。
ボリビア計画初期移民の移住者が再転住したアルゼンチンで会った人。
パラグワイ最初の移住者で、コルメナからのアルゼンチン再転住者。
戦後のパラグワイ、イグワス移住者でのアルゼンチン再移住者。
中米のドミニカ移住者でアルゼンチン再移住者及び、パラグワイ再移住者。
メキシコ移住からアメリカに不法移住してきた日本人。

それらに関係して移住して、また転住して日本から遠く離れて生活していた
人々と会い、お話をする事が出来て、詳しい事情も聞く事ができ、
多くの日本人の移住の歴史を見た事が、現在ではその証人として、あと僅か
になった人生において、声高くして、矛盾と問題点を表明するものであります。

日本政府は最初に移住した国の移民政策の失敗、破綻において再転住や
夜逃げ同然の他国に移動した日本人が、不法滞在でのスタートをした時点
での援助や支援活動は少数の事例を除いて、無に等しい感じを拭いきれな
いのである。日本政府官僚の根本に有る学閥、天下りの現実から見て、過去

の移住事業団において、警察官僚の天下りの場として引き継がれていた事は、
移住行政を根本からの門外としての、官僚指導の間違いと失敗の歴史の積み
重ねが有ったと言う、この道に詳しい専門家の批判を見逃す事は出来ない。
現在の日本での違法滞在者の中には戦前、戦後の移住者の三世、四世など
多くの日系人だ含まれ出した事を、政府は認識すべきである。

日本政府の政権交代や派閥人事での頻繁な大臣交替などで法務大臣の
采慮とされる事項の『違法滞在者の特別在留許可』が適正か疑問視され、
大臣個人の感情での采慮されるのであれば、遺憾な事である。これに代わる
第三者的な諮問機関での公正な審理と、入国管理局に自主出頭の恩典と

して、審理が終るまでの強制収監、国外退去処分の禁止、2ヵ年ほどの公式
な労働許可、滞在許可を認めて、その間の生活状態と社会生活活動を見極
めて、正式な滞在証の発行、各種社会保険の加入を認め、日本国憲法の
基本的人件を認める事は、現代の日本社会が不法残留者がイコール、犯罪

者と言う認識を減らす事にも役に立ち、国際社会での日本の理解が得られると
感じるしだいです。
『移民と二重国籍」(48)ミクシィ講座

『ドミニカ移民訴訟の研究』

先日、11月14日に衆院本会議で全会一致での賛成で可決
され、『ドミニカ救済法』が成立した。
これで永いドミニカ移住者の過酷な歴史の区切りが出来た。
裁判では移住の違法性を認めたが、損害賠償は退けたので、
小泉首相がお詫びの談話を発表して、今回の決着となったが、

そのドミニカ移民訴訟の研究は、移住者の正義を勝ち取る為の研究です、拓殖学原論を学んだ者として、責務として行なっていました。
青バナナを塩で煮て食するまで追い詰められた生活を余儀なくされた移住者の悲惨な結果に、政府官僚の無知、無能とその後の対応の無策での結果から、悲惨な失敗を繰り返した。

昭和29(1954)年から被告(政府の官僚)が企画、立案、推進実行した。ドミニカ移民は凄惨な苦難を与えられたが、その
官僚達は何一つ罰せられる事も無く、多大な退職金を貰って
引退して安穏と生活していた。

私はその者達に、いつの日か、神の審判が降りると確信している。
以下はドミニカ移住者達が政府を相手取り起こした訴訟の
原文です。

ドミニカ移住者訴訟経過)  訴訟内容 (訴状 pdf 217kb)
 原告最終準備書面(pdf 920kb) 被告準備書面(pdf 392kb) 弁護団報告(2/14 第19回 口頭弁論)  弁護団名簿  杉本弁護士に聞く  大沼弁
護士に聞く ドミニカ原告物故者名簿  


訴訟内容

 日本政府は、今から45年前(1955[昭和31]年から1959[昭和35]年にかけて)、「カ
リブ海の楽園」での大農場経営と銘打ち、ドミニカ共和国への移民を企画・立案・推
進しました。しかし、「楽園」は実際は「生き地獄」でした。大部分が塩の砂漠や
ジャングルや石ころの山だったのです。

 しかも、日本弁護士連合会の調査で、政府は事前に殆ど現地調査もせず、移住者保
護のための外交交渉も全く不十分なまま、移住者を地獄へ陥れることがわかっていな
がら、大量の移民を送り込んだ事実が判明しています。 この悲劇は、一旦始めた
ことは、どんなに間違っていても、国民に被害が及ぶことがわかっていても、それを
強行した結果ですから、エイズ被害や多くの薬害禍と同じ、行政被害に他なりませ
ん。

 移住者たちはこれまで一丸となって、40数年政府に責任を求めてきましたが、何ら
誠意ある態度は見られません。それどころか、ドミニカ政府に責任をなすりつけ、40
数年前より、もっとひどい土地を最近になって提供すると言い出したのです。

 私たちは絶望しました。すでに、移住者の家長夫婦の多くがこの世を去る中で、も
う待てません。そこで、日本政府に対して、これまでに受けた死にも価する精神的、
物質的損害の賠償を求めて訴えを提起することにしたのです。

請 求 の 趣 旨 請求の価額
金24億9000万円 貼用印紙額 金509万7500円 原告 125名 被告 国 請求の趣旨 1. 被告は原告ら各自に対し、別紙目録記載の請求額欄記載の金員
(1人あたり1000万円乃至3000万円)を支払え。
2. 訴訟費用は被告の負担とする。
 との判決並びに仮執行宣言を求める。 訴 状 (pdf 217kb)

第1 事件の概要と本件訴訟にかける原告らの心情 1〜5 第2 請求原因の概要(総論)
1 ドミニカ共和国について
2 原告らについて
3 原告らと被告との法律関係及び被告の契約上の義務
4 ドミニカ共和国政府の日本からの移住者受け入れ計画と受入態勢
5 被告の債務不履行責任
6 被告の原告らに対する保護義務違反
7 国家賠償法1条に基づく国の責任
8 原告らの損害 第3 請求原因事実の詳細(各論1)
1 戦後における被告の移住政策とその行政機関
2 行政機構
3 ドミニカ移住に関する外交交渉と事前の宣伝活動
4 各移住地の調査の程度
5 移住地の性格と移民のドミニカでの地位
6 コロニア法下での生活と移住地の所有権
7 入植先毎の募集要項の概要
8 各地区の現実
9 以上の総括
十 被告の違法な移民送出しの継続とその中止 第4 結論(1部請求) 第5 まとめ



第1 事件の概要と本件訴訟にかける原告らの心情 1
 第2次大戦後、日本は、敗戦によって台湾、樺太などの全ての海外領土を失い、産
業基盤も破壊され、狭小な国土に700万人にも達する海外引揚者と復員軍人を抱え、
巨大な人口圧力に苦しんでいた。そこで、被告はサンフランシスコ講和条約が発効し
たのを機に、海外移住に人口圧力のはけ口を求めて、昭和28年初頭から国策として年
間数万人単位で、長期にわたって大量に海外へ移住者を送り出すことを計画した。そ
のために、同年、被告は閣議決定をもって行政機構を整備し、海外移住に関する主務
官庁は外務省とし、海外農業移民の募集、選考、訓練、及び現地技術調査は、外務
省、農林省の共同所管とし、あわせて大量に移民船を建造することも計画された。こ
の閣議決定を受け、翌29年には外務省に移住局が設置され、本格的な国策移住が動き
出した。 2
 この国策移民の嚆矢として、被告は、昭和29年(1954年)初頭よりドミニカ共和国
への大量移住者送り出しを計画し、同国政府との外交交渉に着手した。同時に、マス
コミや政府関係諸機関を通じて、それまで1般には知られていなかったドミニカ共和
国を「カリブ海の楽園」と形容し、同国が無償で広大な優良農地を数万家族の日本人
に与える計画を持っているなどと虚偽誇大宣伝して、日本全国にドミニカ移住熱を
煽った。
 そして、現実には、ドミニカ政府に具体的移住者受け入れの準備も整っておらず、
両国間に移住条件についての合意すらないにもかかわらず、被告は、まず、ダハボン
地区の募集要項を作成して昭和31年(1956年)3月から全国の都道府県を通じて移住
者募集を開始した。そこに示された移住条件の概要は、独立自営農を前提として、

1. 1所帯当たり300タレア(18ヘクタール)の土地が無償譲渡され、そのうち150タ
レアは開墾済で直ちに耕作できる。
2.入植地は中程度の肥沃度であり、灌漑施設の整備も予定されているなどというもの
であった。  その後も昭和34年まで、他の6つの移住地についても、土地面積に違いはあるもの
の、同様の募集要項を作成交付して、全国から移住者を募り、選抜して、移住者をド
ミニカに送り続けた。 3
 原告らは、被告が昭和28年末ころから始めたマスメディアを通じた事前の大宣伝と
移住者募集要項を信じて、「カリブ海の楽園」の豊かな土地での大農場経営を夢見
て、同国への永住を決意して、移住者募集に応募し、激しい競争を勝ち残って選抜さ
れ、全財産を処分しあるいは大きな借財をして多額の携行資金を手に、同伴者たる家
族を帯同して次々と現地に赴いた。
 しかし、そこに待ち受けていたのは、「楽園」ならぬ、ハイチ国境のドミニカの最
貧困地の「地獄」であった。被告の事前の説明とは全く異なり、移住地の大部分は炎
熱の塩が地表に吹き出る透水性の乏しい粘土性の土壌であったり(ドベルへ)、大量
の礫を含有する石ころだらけの土地であったり(ネイバ)、集約的な生産の不可能な
樹林に覆われた傾斜地であったり(アグアネグラ、アルタグラシア)、大規模のな整
地ないし灌漑排水設備の設置抜きには利用の困難な茨の生い茂る乾燥地(ダハボン)
であった。しかも、その荒れ地ですら約束の土地面積(300タレア〜100タレア=18ヘ
クタール〜6ヘクタール)には程遠いものであった。また、原告らの中には、全く土
地を与えられなかったものも数多くいた。
 そして、かろうじて耕作できた狭い土地も、国営の入植地であり、所有権でないば
かりか、将来1定の条件のもとで耕作権を付与されるという期待権に過ぎないもので
あった。そして旧コロニア法のもと耕作の自由も、移動の自由も許されなかった。ま
た、わずかに出来た作物も、首都サント・ドミンゴからは数百キロも離れた交通不便
な辺境の人口過疎地帯では売る市場はわずかで、その経済的価値は極めて限られた。

 それに加えて、移住地の社会環境は、およそ文明世界に暮らしていた原告ら移民に
とって実に過酷であった。水道施設も電気もない移住地が多くあったのを始め、まと
もな医療施設も教育施設も近隣にはなかったりした。移住者の子弟は、日本語教育は
受けられず、現地での教育機関での教育も受ける機会すらない者もいた。 4
 そうした状況下で1961年から翌年にかけて、約200家族が日本に引き揚げ、あるい
は南米に移住した。その結果ドミニカに残留するのは原告ら50数家族となった。
 残留した原告らは被告が募集要領に謳った約束の履行をひたすら待ち続けてきた。
これに対し被告は、今日まで地権(移住地の土地所有権)の取得や特別融資を含む
様々な救済策を講じようと試みてきたものの、すべて移民保護よりは自らの責任回避
が目的の弥縫策であり、ことごとく失敗した。
 そのため、原告らは一褸の望みを託して日本弁護士連合会に「人権救済申立」をな
し、1996年に「政府による補償と移住条件の履行を求める救済決定」を得た。また、
原告らは、国会議員に呼びかけて超党派の「ドミニカ移住問題の解決を支援する国会
議員の会」の結成を得て、議員を通じて外務大臣との直接交渉を含む政府交渉を重ね
てきた。
 こうした動きに突き動かされ、被告は、ドミニカ政府とODAを梃子として強引な外
交交渉を行ない、1999年に口上書を取り交わして、ドミニカ政府をして、募集要項で
約束した農地の不足分を無償譲渡させようとした(いわゆる「ラ・ルイサ」の土地問
題)。
 しかし、この土地は、40数年前に原告らが味わった悪夢の再来ともいうべき劣悪な
土地であり、かつ、国の所有地であったため、完全な所有権を取得できず、原告らの
絶望は深かった。

5
 入植以来、約40年の歳月は一家の主(家長)とその妻たる原告らを老齢にも追いや
り、問題解決のために残された時間は残り少なくなった。もちろん既に他界した者も
多い(残留者347名のうち85名が他界した)。そのため、止むに止まれぬ思いで、本
件訴訟提起に踏み切った次第である。

第二 請求原因の概要(総論) 一 ドミニカ共和国について
 ドミニカ共和国(首都サントドミンゴ)はキューバの南、カリブ海に浮かぶエス
パーニョーラ島の東部分約三分の二(面積約4万8440平方メートル-およそ九州と高知
県を合わせた面積に匹敵する。)を占める農業と観光の島国である。現在の人口は約
800万人(1999年現在)、原告らが移住した当時は約225万人であった。原告らが移住
した当時の一人当たりの国民総生産は約800ドル、現在は約1600ドルである。
 エスパニョーラ島は、コロンブスが初めて上陸した新大陸の島として有名である。
スペイン人たちは、島の先住民たちを皆殺しにしてアフリカ大陸から奴隷労働者を導
入して、砂糖プランテーション経営にいそしみ莫大な富を祖国にもたらした。人口構
成は黒人と白人の混血が73%、白人が16%、黒人が11%である。
 同国は、スペイン統治を経て1865年に独立したが、その後、隣国ハイチとの国境紛
争を抱えて政情は不安定であった。しかし、1930年にトルヒーヨ将軍が軍事クーデ
ターを起こして政権の座について以来は、政情は一応の安定をみた。同将軍の事実上
の独裁政治が1961年(昭和36年)まで続いていたが、同将軍の統治は反共政策に彩ら
れた強権一色で、間もなく国際社会からの反発を招き国際的孤立の道を歩み、ついに
は、1961年には民衆革命が勃発し殺害されて、その長い統治にピリオドが打たれたの
である。
  後述するように、原告らは、同将軍の、国防政策の一環として、ハイチ国境の開
発を担い、国境の盾としての役割が課されていた。

二 原告らについて
 原告らは、右のように昭和29(1954)年から被告が企画、立案、推進したドミニカ
共和国移住者募集に応募して選抜され、昭和31(1956)年7月から同34(1959)年9月
にかけて別紙目録記載の年月日に、同目録記載の移住日に各移住地に移住した249家
族のうち、現地に残留した家族のうちの次に述べる126名(尚、本来存命であれば損
害賠償の主体となるべき物故者も掲げている)である。(上の数字は家族単位を表
す)。

氏名・年齢 続柄等 入植日 ダハボン地区 1 井口義春 家長 1957・3・8 井口シズ 妻 井口義博 長男 大瀬良正夫 同伴 大瀬良勲 同伴 2 井上安友 家長 1956・7・29 井上ミチヨ 妻 藤本哲也 同伴 3 上之純夫(死亡) 家長 1956・7・29 上之静枝(死亡) 妻 上之克俊 二男 (神前)和子 長女 嶽釜 徹 同伴 4 宇田忠一 家長 1956・7・29 宇田フジエ(死亡) 妻 宇田好一 長男 (嶽釜)律子 長女 (荒井)ヒロコ 二女 5 笠原清次 家長 1956・7・29 笠原サキ(死亡) 妻 笠原義昭 長男 笠原和彦 二男 笠原ハルエ 同伴 6 亀田清(死亡) 家長 1956・7・29 亀田吉将 長男 (安岡)順子 二女 7 (亀田)フヂ子

(旧姓:牛ノ浜) 同伴 1956・7・29 8 川畑俊克 同伴 1956・7・29 9 木村庫人 家長 1956・7・29 木村磯代 妻 10 國松五郎(死亡) 家長 1957・3・8 國松とし江 妻 (能代)みどり 長女 11 國分義人 家長 1956・7・29 國分儀法 同伴 12 小松一雄(死亡) 家長 1956・7・29 小松君恵(死亡) 妻 小松富士雄 長男 (立山)真弓 長女 13 齋藤雄吉 家長 1956・7・29 齋藤冨美代 妻 齋藤 長男 14 酒本忠義 同伴 1957・3・8 15 佐竹末子 三女 1956・7・29 15 重留大作(死亡) 家長 1956・7・29 重留シズエ(死亡) 妻 (竹中)弘子 長女 (上之)節子 二女 17 白木正夫 同伴 1957・8・3 18 竹中友喜 家長 1956・7・29 竹中正子 妻 竹中正顕 長男 竹中敏明 二男 19 田尻茂(死亡) 家長 1956・7・29 田尻ミハル(死亡) 妻

田尻新一 長男 田尻親雄 二男 (國分)テル子 長女 20 谷岡重利(死亡) 家長 1957・3・8 谷岡豊子 妻 谷岡秀美 長女 (小松)宣子 同伴(小松豊重の妻) 21 谷岡義一(死亡) 家長 1956・7・29 谷岡梅(死亡) 妻 (宮之脇)英子 長女 谷岡雅彦 長男 22 谷 佳夫 家長 1956・7・29 谷 久生 妻 (荒井)律子 長女 谷 登志男 長男 23 玉手秀雄 家長 1957・3・8 玉手和子 妻 24 中平正衛 家長 1957・3・8 中平正

衛 妻 中平 和 長女 (山中)香代 二女 25 (中平)恒徳(旧姓:加藤) 同伴 1957・3・8 25 平田 保 家長 1956・7・29 平田雪子 妻 27 広光麿智子 五女 1956・7・29 28 安岡誠吉 家長 1956・7・29 安岡三惠 妻 安岡敬裕 同伴 山本亮子 妻妹 29 矢野政達(死亡) 家長 1957・3・8 矢野久子 妻 (藤本)雅三 長女

氏名・年齢 続柄等 入植日 コンスタンサ地区 30 八巻恵介 長男 1957・3・8 31 山中正雄(死亡) 家長 1956・7・29 山中清寿 妻 山中新市 長男 32 小松豊重(死亡) 同伴 1956・7・29 33 山本福槌 家長 1956・7・29 山本シゲコ 妻 山本英雄 長男 山本新二 二男 山本健蔵 三男 山本憲造 同伴 (1956・10・2) 34 荒井達美(死亡) 家長 1956・10・3 荒井マツエ 妻 荒井理元 長男 荒井久之 二男 荒井守之 三男 荒井哲 四男 35 有山新三郎(死亡) 家長 1956・12・31 有山伸一 長男 有山稔 二男 神前亭 同伴 35 大庭明雄(死亡) 家長 195

6・10・2 大庭定子(死亡) 妻 大庭賢政 長男 (川代)久子 長女 37 立山吉之助(死亡) 家長 1956・10・2 立山フサコ(死亡) 妻 (川畑)澄代 三女 立山義行 二男 立山忠輔 三男 (浜田)忠幸 五男 立山吉宗 六男 38 高田国広 同伴 1956・10・2 39 星川末治郎 家長 1956・12・31 星川トク(死亡) 妻 星川忠義 二男 星川和行 三男 星川美嘉子 長女 40 宮之脇寛義 同伴 1956・10・2 ハラバコア地区 41 浜田松男(死亡) 家長 1958・1・24 浜田トキ 妻 (立山)節子 長女 (日高)ミヨ子

二女 浜田京子 三女 42 日高恒安(死亡) 家長 1958・1・24 日高モル 妻 日高武昭 長男 日高俊恵 二女 日高守 二男 ドゥベルヘ地区 43 高田静雄(死亡) 家長 1957・12・3 高田トミ(死亡) 妻 高田鉄哉 長男 高田輝夫 二男 44 高吉勝美(死亡) 家長 1958・1・24 高吉ミサ子 妻 高吉良一 長男 高吉ミヨ子 長女 高吉清文 二男 45 中川利雄(死亡) 家長 1957・12・3 中川ツギ(死亡) 妻 中川淳美 長女 中川末寛 長男 中

川 潤 二男 45 福永常吉(死亡) 家長 1957・12・3 福永ヒネ 妻 福永正彦 長男 47 丸山1美 家長 1957・12・3 丸山ミチ子 妻 丸山富士雄 長男 48 吉元酉雄 家長 1957・12・3 吉元澄子 妻 アグアネグラ地区 49 内藤林造(死亡) 家長 1958・5・29 内藤 智(死亡) 妻 (大瀬良)知子 二女 アルタグラシア地区 50 濱谷貞市(死亡) 家長 1958・6・29 濱谷はつよ(死亡) 妻 濱谷 均 三男 ダハボン地区 51 川代鉄右エ門(死亡) 家長 1958・6・29 川代鉄治 長男



第3 請求原因事実の詳細(各論1) 1 戦後における被告の移住政策とその行政機関 ●1 戦後における被告の移住政策
 第2次大戦の敗戦により、海外移住に関しては、全く停止した。それどころか、海
外旅行することすら、極東委員会の監視下におかれた。
 これは、戦前の日本の植民地政策等を背景として、軍国主義、侵略主義の復活を抑
圧することを目的とし、敗戦国として当然のことであった。また、海外諸国からも、
移民に関し、警戒と猜疑の念が表明されていた。
 しかし、その1方で、海外引揚者や戦争の終結による死亡率の低下などから、戦後4
年間に1000万人近い人口増加があり、戦争による日本経済の壊滅的打撃や食料事情の
悪化は危急の課題として被告にのしかかるようになった。
 そこで、このような人口抑圧や経済復興及び食料事情の改善等から国外移住の再開
の動きが始まった。
 総司令部の移住に対する厳しい目をかいくぐり、各種移住団体が結成され、また、
官庁においても海外移住に関する調査研究が進められた。
 例えば、1947年10月には、当時の衆議院議長松岡駒吉を会長とする「海外移住協
会」が発足している。
 また、外務省は通商審議委員会を設け、1949年2月、同委員会の作業報告第2部とし
て「旅券・移民」を出している。
 さらには、1949年5月、衆議院本会議において、「人口問題に関する議決案」が満
場一致で可決されている。
 その他にも、海外移住中央協会、海外渡航促進協議会等の各種団体が設立された
が、いずれも、海外移住が厳しい監視下におかれる中での設置であり、当時いかに海
外移住に対する期待が大きかったかを示すものである。


2 「人口問題に関する」国会決議=国策移民の開始  1949年5月21日、衆議院本会議で、「人口問題に関する議決案」が可決された。
 その中で、海外移住に関連する議決を抜粋すると  将来海外移民に関し、研究調査の準備を行う
 移民による過剰人口解決は困難であるが、将来移民が認められることは、単に国民
生活の向上に役立つのみならず、わが国の世界に対する感謝と国民感情に対する満足
とを招来するのであって、わが国の再建に寄与すること多大である。
 過去の移民に相当の欠陥があったことを深く反省し、日本国民が今後世界に歓迎さ
れ、世界の福祉増進に寄与することのできるような移民たり得よう。 右の議決は、はからずもドミニカ移民に見られるように、移住者そのものの基本的人
権や幸福追求権の充足というような、移民自らの生活の向上という視点を欠き、「日
本国内の生活改善」「世界の福祉増進」ということが中心に捉えられている。


3 「国策」としての大量移民送出移民計画 ●閣議了解
 必ずしも、過剰人口の抜本的解決にならないとしても、右議決にみるように、大量
の移住者送出が過剰人口を緩和するものとして国の基本姿勢となった。
 そして、1955年4月には海外移住振興に関する閣議により、「最近の日本移民に対
する国際情勢の有利なる進展に即応するため、この際速やかに移民の大量送出を可能
ならしめる諸政策を実施するものとする」との了解がなされ、国策移民として大量の
移民送り出しが政府の了解事項となった。 ●外務省の移民計画 ●移民5カ年計画
 海外移住の再開の翌年1953年9月、外務省欧米局移民課は、「移民5カ年計画」を立
案した。
 この計画によると、4年次・5年次の年間送出数は1万3000名となっている。そして
これに対応するため、移民船の新造(定員各1000名のものを4隻)、在外公館の移民
担当官の増派が計画されている。 ●海外移住10カ年計画
 移民5カ年計画の立案の翌1954年12月には、同じ移民課において、海外移住10カ年
計画が作成された。
 それによれば、
 (1) 初年度移民送出数1万2000名、4年度5万名、爾後恒常的 に年5万名を送出す
る。
 (2) 新造船を初年度7隻、3年度5隻、4年度4隻
 (3) 予算総額497億400万円
 であった。 ●移住5カ年計画
 外務省には、1955年4月、「移民局」が新設さたが、移民局は1958年3月に移住5カ
年計画を発表した。
 総送出予定人員は1959年〜63年の間に10万1000名である。
 この計画の中では海外移住の意義として
 「我が国の人口増加率は近年幾分低下の傾向にあるが、生産年齢増加率は依然とし
て年19%の高率を示し、・・・・従ってこれらの新規労働力をできる限り吸収する
他、年々増大する農村次3男に移住の機会を与え、同時に農家の経営規模を適正化す
るためには、海外移住を国策として強力に遂行する必要がある。
とある。  さらに1955年3月外務省の「移民国策の確立と当面の重要施策」には「現在の好機
は永続しないから急がねばならない」「現在の好機を逸せず出来るだけ大量に」など
とあり、「国策」として大量の移民送出が国の重要施策になっていたことも示してい
る。
 ところで右のとおり、国は、大量の移住者送出を国策として推進する計画であった
が、世界的にみれば、農業移民の大量移住は1930年代に終焉を迎え、戦後1時難民処
理の観点より増大したことはあったものの、1950年代初頭には既にこれも峠を越して
いた。
 ヨーロッパ諸国では、具体的施策として、ハイレベルな少数精鋭の移住が提唱され
ており、右にみるような日本の大量移住計画はもはや時代遅れであり、世界の趨勢と
逆行するものであった。 4 永住思想と受入国主義  既に、人口問題に関する衆議院議決に見られるとおり、日本の移住政策は「移民中
心」ではなく「受入国中心」の卑屈なものであった。
 これは、敗戦国日本の国策たる移住を承認してもらうためのものであり、大量の移
民を受入れてくれるのであれば、移住条件や移民の幸福追求権よりも移住受入国の利
益を尊重するものであったといっても過言ではない。
 また、移住に関し「永住」を基本としている点に、戦後の国策移民は世界的に見て
も珍奇である。
 戦前の移住は出稼ぎを目的としていたし、通常は、1時的移住により、富を築き
「故郷に錦を飾る」というのが、移住の根本的発想である。
 確かにブラジル等においては結果的に見れば、現地永住型もあるが、これは、ブラ
ジルの賃金の僅少のため、資金的に帰国が不可能な状態のもと、子弟の成長等にとも
ない帰国が困難となったというのが実情である。
 しかしながら、戦後移民はこれら移住の基本とはことなり、「永住」を移民に強制
した。しかも「永住」は移民の義務であり、1時帰国を希望したとしても自由意思に
よる帰国は出来なかった。
 ドミニカ移民において交わされた「移住契約書」の中にも、移住者の責任及び義務
として、「入植後は現地に永住し・・・現地社会に同化し・・・移住国開発に寄与す
るよう努力しなければならない」とある。
 なぜこのように移住に「永住」が強制されたかと言えば、それは、移民が、国内の
人口抑圧からの開放、就業先の増大、等に寄与するものと捉えられたからであり、衆
議院議決の中に「移民は我が国の再建に寄与すること多大である」とか、海外移民に
関する当面の諸施策(案)が移民の日本国にもたらす経済的効果を力説していること
からも明らかである。

5 移民らに対する欺罔  このように、戦後の移住政策は、「国策」として「本国の復興を第1義」として企
画立案されたものであり、移民らの幸福追求権や人権は後方へと押しやられ、受入国
の実情や現地の状況などの条件を検討するより、早急にかつ大量に移住者を送出する
ことが急務とされてきた。
 それ故、事前にマスコミ等を利用して移住熱を煽り、不十分な調査に基づく虚偽の
広告や、現地の実情を秘匿した広告、善良で招来の夢と希望を有する移住希望者を欺
くことが当然のこととして行われたのである。
 一度移住地に送り込めば、既に日本国内の全ての財産と将来を処分した移住者らに
は帰国の道は事実上閉ざされるのであり、地球の裏側にある現地の窮状を訴える移民
の声はもはや国内には届くことは希であるという現実を十分に承知した上での、ま
た、移民らの悲惨な結末を承知した上での、移民募集であり、無謀な移住計画であっ
たのである。
 国にとって、移民の末路は、全く無関心、無関係な要素であったといっても過言で
はない。

第4 結論(1部請求)

 このように原告らドミニカ移民は将来における大きな夢と希望を抱き、日本を旅
立ったものであるが、その突きつけられた現実は前述のとおり苛酷なものであり、し
かも長年にわたる被告への要求についても、被告はその実行を約束したにもかかわら
ず、反故にしたため、移民らの被った入植から訴え提起時までに不断に発生している
経済的損害と、精神的損害の賠償を求めて、債務不履行ない国家賠償法1条に基づき
本訴を提起するものである。
 しかし、原告らの困窮した現状故に、現時点では、全損害額に対応した訴訟費用
(印紙代)を捻出することが出来ない。
 そのため、現時点で原告らが準備出来る最大限の訴訟費用に対応する損害額であ
る、別紙目録請求金額欄の金員額を1部請求として被告に対し請求する。



第5 まとめ

以上のように、被告は原告ら移民募集にあたり、十分な調査や情報開示を怠り、ただ
漫然と人口抑圧等の政策の目的のため、原告ら移民をドミニカに送り出したのであ
り、当然のことながら募集要項の内容を実現させることはなく、または、原告らのド
ミニカ移住に関する判断を誤らせ、意思決定の自由を奪い移住を決意させた結果、日
本国民として日本国憲法が保障する、生存権等の基本的人権の享受させることもな
かった。
 結局ドミニカ移民は不成功の中で終了を迎えたものであり、本件移住政策に関し、
原告らドミニカ移民が被りなおも日々発生する損害に関し、被告は賠償を行う義務が
あることは明らかである。

証  拠  方  法 別紙証拠説明書記載のとおり。

●付  属  書  類

 1、甲号証の写し 各1通
 1、訴訟委任状 各1通
  以上

平成12年7月18日

原告ら訴訟代理人
弁護士 菅野 庄一

ドミニカ日本人移民裁判支援基金 Copyright (C) 2004 All Rights Reserved.


-------------------------------------------------------------------------------

【BRASIL NEWS】ニッケイ新聞より。
■戦後移住の暗部、白日の下に=若槻氏証言=ドミニカ移民裁判
-2月27日(金)

  【東京支社】二〇〇〇年七月十八日、ドミニカ日本人移民の提訴が行われ、同裁
判(主任弁護士菅野庄一氏)も三年余がたった。
 裁判中に死亡した原告もおり、現在の原告数は百七十四名。
 昨年七月には超党派国会議員たちによる「ドミニカ日本人移住者問題解決を進める
国会議員懇談会」(会長・尾辻秀久=自民)を設立。本年二月二十四日には、鹿児島市
内で「ドミニカ移民訴訟を支える会」の設立大会が開かれた。
 二月二十三日、東京地裁七〇三号法廷で午前十時半から開かれた第十七回口頭弁論
には、元玉川大学教授の若槻泰雄氏(八〇)が原告側証人として法廷にたった。  
 同氏は、東京大学法学部卒。農林中央金庫を経て一九五四年から一九六三年まで日
本海外協会連合会(国際協力事業団の前身)に勤務。その後、玉川大学農学部教授とな
る。『海外移住政策史論』、『発展途上国への移住の研究』、『外務省が消した日本
人―南米移民の半世紀―』などの著者としてもよく知られる。 
 一九五二年、講和条約発効の年、戦後第一回のブラジル・アマゾン地方に対する集
団移住が実現し、政府の手による「計画移民」が開始。外務省欧米局第二課にあった
移民係りが移民課に拡充され、その実務を担当として「財団法人日本海外協会連合
会」(海協連)、その下部組織として各県に地方海外協会が結成された。
 海協連の仕事は、広報宣伝、移民募集、選考、送出など実務を政府の委託による実
施だった。
 若槻氏は、海協連職員として、戦後移住の実態を知る貴重な証言者である。
 当時、明治時代につくられた「移民保護法」が存続しており、斡旋人である「移民
取扱人」への責任が厳しい問われていた。「計画移民のなかでもとくに開拓移民への
政府関与は強く、戦後の開拓移民の移民取扱人は日本政府である」と若槻氏は指摘す
る。
 戦後移民の送り出しは、
満州移民とそっくりだった。海外移民の権限をめぐり、外務省と農林省の権限争い
は、すさまじいものであり、当時の文書にも明記されている。それらからも、移民送
り出しが日本政府の手で行われたことは明白である。
 一九五四〜五五年には、よく「国策」という言葉使われている。
 海協連には、何事にも決定権はなく、雑用係りに過ぎなかった。理事の多くが官僚
の天下りであり、当時、理事会が開かれたのも創立時ぐらいだった、と若槻氏は証言
した。
 海協連は、選挙時には選挙事務所につかわれ、また幹部による寄付金横領があった
り、まさに腐敗した組織だった。
 もちろん移住地の調査もずさんそのものだった。ブラジル・アマゾンに関する分厚
い上塚司報告書(約三十三万字)に比べ、ドミニカ移住のための吉岡調査書は数枚(約
九千字)に過ぎなかった。調査項目も欠落だらけであった。そんな調査書をもとに企
画が立てられ、広報が行われたのである。
 若槻氏の証言は、ドミニカ移民にかぎらず、まさに戦後日本の海外移民の暗部を白
日のもとにさらすものであった。
 被告側弁護団による反論は、到着したばかりのドミニカ移民の希望に満ちた言葉を
掲載した新聞記事の引用をはじめ、傍聴者の失笑を買うものだった。
 地裁の判決は、早ければ本年前半にも、と推測される。
 ドミニカ移民の原告側にはブラジル、パラグァイ、ボリビア、アルゼンチンなど南
米諸国の移住者たちから、激励の言葉が多数寄せられている。
『移民と二重国籍」(49)ミクシィ講座

『ドミニカ移民訴訟の研究』

皆様
 このドミニカ移住者の悲惨な移民の歴史を忘れない為と、
 その記録を残す為の研究レポートです。
 

ドミニカ移民訴訟が結審 来日の原告「祖国とは…」
2005年10月17日、 以下の資料は朝日新聞記事より,

東京地裁に向かう嶽釜徹さん(中央)ら原告団=17日午前9時15分、東京・霞が
関で

 1950年代後半に日本政府の募集に応じてドミニカ共和国に渡った移住者が、日
本政府が約束した優良な土地の譲渡を受けられなかったとして国家賠償を求めている
ドミニカ移民訴訟が17日、東京地裁で結審した。原告団事務局長でドミニカ日系人
協会会長の嶽釜(たけがま)徹さん(67)らが来日。嶽釜さんが最後の意見陳述を
した。

 計177人の原告は高齢化しており、00年7月の提訴以降、14人が世を去っ
た。

 サントドミンゴ市在住で、一行20人で来日した嶽釜さんは法廷で「国側は時効を
主張するが、消えてしまったのは日本政府の良心と罪の意識だけだ。入植以来49年
間の移住者の苦しみや心の傷に時効はない」と述べた。

 56年7月、一家7人でドミニカ共和国に渡った。父親は戦前、朝鮮総督府の要職
を務めた農業技術者。戦後は鹿児島県で農業高校の教頭をしていたが、「約18ヘク
タールの肥沃(ひよく)な土地を無償譲渡する」という募集に応じた。大学進学を決
めていた嶽釜さんは猛反対したが、父親に説得されて同行した。

 入植したハイチ国境近くは石ころが多く、乾燥した荒れ地。しかも、監督官がいる
国営地で指示された作物を作る農奴のような生活だった。絶望した嶽釜さんは父親に
殴りかかったこともある。

 父親は日本大使館に通ったが、相手にされなかった。「まさか政府にだまされると
は……」と言い残し、87年に亡くなった。

 嶽釜さんは何度も来日し、政府に謝罪と補償を求めた末、提訴に踏み切った。国は
「ドミニカ共和国政府が企画し、入植させた。日本政府への賠償請求は成立しない」
と反論している。嶽釜さんは話す。「裁判で責任逃れする国の主張を聞けば聞くほ
ど、祖国とは何なのかと思わざるを得ない」

    ◇

 〈ドミニカ移民〉 1956〜59年に「最大18ヘクタールの優良農地を無償譲
渡する」などの募集要項に応じ、約250家族1300人が移住。実際に配分された
土地は約束の3分の1から半分で、多くは塩が噴き出したり、石ころだらけだったり
して耕作に適さなかった。しかも、譲渡されたのは耕作権だけで所有権はなく、約8
割が帰国するか、ほかの国へ再移住した。原告は00年7月の第1次提訴から第3次
までで計177人。請求総額は31億7000万円余。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


これからの論文に含まれる要点を読み説いて、政府、関係官庁
それに関わる政府官僚、外郭団体などが詭弁を持ち、本筋を
捻じ曲げ、歪曲的な判断と見識での対応などが国会速記録など
からの答弁から、おのずと判断できる思うので有ります。

たびたびの長論文で真に申し訳有りませんが、真実を叫ぶ為に
お許し下さい。
 
第1 ドミニカ共和国移住問題
 本ODA調査団は、メキシコにおいて、いわゆるドミニカ共和国移住問題につき、岡
本治男ドミニカ共和国特命全権大使より、これまでの経緯、我が国政府の対応、現地
の状況等について以下の説明を聴取した後、意見交換を行った。

 派遣議員団からは、「半世紀にも及ぶ問題であり早期解決を図るべき」、「この問
題が日系移民の方々にマイナスの影響を与えることが懸念される」、「生身の人間に
関わる問題であり政治判断が必要」などの指摘がなされ、また、これまでの外務省の
対応が質された。その上で、多くの苦しみを余儀なくされたドミニカ移住者の方々の
心情を理解し、参議院予算委員会での小泉総理の発言を踏まえ、政治判断に基づき早
期解決に向け一層議論を深めるべきであるとの要望が強く述べられた。

1.問題の経緯

 永年の政治・経済の混乱を収束してドミニカ(共)に安定をもたらしたトルヒー
リョ元帥より日本人移住者を受け入れたいとの提案があり、その後、現地調査、日本
人移住者の受入条件に関する日・ドミニカ(共)政府間の交渉を経て、1956年に日本
海外協会連合会(海協連)の募集により、ドミニカ(共)移住が開始され、1959年ま
でに計249世帯、1,319名が入植した。

 その後、1960年8月の米州機構による経済封鎖・国交断絶措置、1961年5月のトル
ヒーリョ元帥暗殺などによりドミニカ(共)の政治・経済情勢が悪化した。移住者の
生活環境も悪化し、大きな困難や苦労に直面し、様々な要望が日本政府に寄せられる
ようになった。


2.我が国政府の対応

 我が国政府は、1961年12月の閣議決定に基づき、各移住者に、(1)日本への帰国、
(2)南米への転住、(3)ドミニカ(共)への残留のいずれかの措置の選択を提示した上
で、それぞれに対し援護・支援措置を実施した。

 上記閣議決定を受けて、ドミニカ(共)への残留を選択された移住者の方々に対
し、政府はJICA 等の仕組みを活用してその定着・安定のための支援を実施した。

 また、ダハボン移住地などにおける配分農地面積が募集要項に記載されていた面積
を下回っていたという問題についても、政府は、ドミニカ(共)政府に善処方を働き
かけ、1998年にドミニカ(共)政府は、入植当時の農地の面積不足を補うものとして
ラ・ルイサ地区(首都サント・ドミンゴ市郊外)の土地の無償譲渡措置を発表し、こ
れに対し27世帯が同土地の受領意思を表明した。


3.損害賠償訴訟

 ドミニカ(共)移住問題については、1962年の国会で集中的に議論された後、1982
年に一部の移住者から政府の責任を追及する声が上がり、その後、2000年7月、移住
者126名(47世帯)が損害賠償請求訴訟を東京地方裁判所に提起した。2001年には現
地移住者(21名)、帰国移住者(30名)が新たに訴訟を提起し、現在、併合審理が行
われている。

 原告側の主張は、以下のとおり。
(1)移住に国が深く関与している以上、国は移住者との間に「移住送出契約」を結ん
だものと考えるべきであり、国は、この「契約」の履行を怠った。
(2)国の不法行為責任(土地の調査や移住関連情報の供与が不適切であった等)。
(3)契約不履行、不法行為に基づく損害賠償として総額約32億円を請求。

 被告(国)の主張は以下のとおり。
(1)国は移住の斡旋は行ったが、原告が指摘する「移民送出契約」のようなものはそ
もそも存在しない。
(2)把握し得る限り正確な情報を提供しており、不法行為も成立せず。


4.今後の我が国政府の対応

 日本政府としては、ドミニカ日系人社会が日本とドミニカとの架け橋として両国関
係の発展にとって極めて重要な役割を果たしていることを十分認識している。

 裁判で議論されている法的問題については、引き続き、裁判所の判断に委ねること
が適当であるとの立場ではあるが、国会での小泉総理の発言をも体して、今後ともド
ミニカ(共)の日系人社会全体の発展、日・ドミニカ(共)友好関係の発展のため
に、政府としてどのような対応ができるかについて、引き続き検討を進める。

(参考)2004年3月10の参議院予算委員会における小泉総理発言
「過去のこととはいえ、外務省としては多々反省すべきことがあったと。今後、この
ような不手際を認め、移住者に対してどのような対応ができるか。またドミニカとの
間にどのような友好関係を維持発展させていくことができるか。そういう中でしかる
べき対応を考えたいと思います。」

ドミニカ移住者問題に関するする質問主意書

提出者  川内博史
ドミニカ移住者問題に関して過去の政府の答弁を踏まえたうえで、見解を問う。

一 ドミニカ移住者募集要項、あるいは募集要領には「三百タレアの土地を無償譲渡
する」と書いてあることに関して、平成十六年五月十七日決算行政監視委員会の質疑
において政府は、「メルカード書簡には確かに土地を供与する、こう書いてございま
す」あるいは「メルカード書簡及びそれに先立ちますドミニカ政府と日本政府との協
議、これを踏まえまして書かれたものでございます」あるいは「ドミニカ移住という
のは、トルヒーリョ元帥の強い指導力に端を発したわけでございますが(中略)土地
を無償提供するということを述べております。」ある

いは「スペイン人移住者は無償供与を受けておりましたけど・・・。」等の答弁を踏
まえたうえで、最終的に政府は「メルカード書簡における供与というのは無償譲渡で
あると考えております。」と答弁している。一方、平成十六年五月二十六日外務委員
会において、政府は「スペイン語でも、供与とそれから無償譲渡という言葉は違う言
葉であると思います。」と答弁している。これらの答弁を前提として「メルカード書
簡における供与というのは無償譲渡であると考えております。」との解釈は一九五六
年当時の政府の解釈か、あるいはそれとも現在の

政府解釈か。当時の政府の解釈であるとするならば、スペイン語においても違う言葉
である供与と無償譲渡が同じ意味に解釈できるとする、当時の外交文書は存在する
か。もしくは供与と無償譲渡の解釈の違いについて記述した外交文書は存在するか。
これらを明らかにされたうえで、あらためて政府の見解を問う。あるいは、そもそも
外交文書、外交交渉において使われる、供与、提供と言う言葉と譲渡という言葉が同
じ意味であるとの政府見解をあらためて問う。

二 平成十六年五月二十六日外務委員会の政府答弁によれば、「供与の対象とする権
利は、土地でございます。土地の所有権であると考えております」と答弁している。
そもそも供与という言葉の中に所有権の移転の意味を包含させることに関してあらた
めて政府の見解を問う。また同委員会において「コロニア法に基づけば

土地の所有権は直ちに移転されるわけではなくて、八年ないし十年、その後に移転さ
れる。それで、確かに募集要項については(中略)そういう時間的な要素が書いてな
かったことは事実でございます。」と述べている。二の冒頭に引用した政府答弁とあ
わせて考えるならば、政府は、ある一定期間経過後に所有権が発生する権利に関して
も所有権と表現する、と解釈されるが見解を問う。

三 二の質問に関連して、平成十六年五月二十六日外務委員会において、政府は「所
有権取得の時期が記載されていなかったとしてもそれが、不当とまでは言えない」あ
るいは、平成十六年三月三十一日外務委員会においても「直ちに入植地の所有権が得
られないこと、すなわち所有権を取得する時期について記載しなかった、こういう点
については当方としても記載した方がより親切だったのではないかと考えておりま
す。」等々の答弁をしている。しかし、移住者募集要項によれば、政府は「開拓自営
農」として移住者を募集しているのであっ

て、自ら所有する土地を耕し、作物を収穫する農業従事者を自営農と解釈するとすれ
ば、所有権の取得の時期について記載しなかったことは、募集要項と矛盾するのでは
ないか。そこで問う。「開拓自営農」の定義を明らかにされたい。更に平成十一年七
月二十三日外務委員会において、高村外務大臣は「外務省設置法第四条十五号に基づ
く海外移住のあっせんの一環として移住者がドミニカ共和国へ移住する際の募集要項


に記載する情報について、当時ドミニカ共和国から提供された情報や、調査により得
た情報に基づいてこれを提供したわけであります。」と答弁している。当時の政府が
知り得た情報の中で、「自営農」として移住する移住者にとって、もっとも大切であ
ると思われる、土地の所有権について、その取得の時期の情報を移住者に提供しな
かった事に関して、政府の不手際であると考えるが、見解を問う。

 右質問する。
答弁本文情報
経過へ | 質問本文へ
 平成十六年八月三十一日受領
答弁第七〇号

  内閣衆質一六〇第七〇号
  平成十六年八月三十一日

内閣総理大臣 小泉純一郎

       衆議院議長 河野洋平 殿

衆議院議員川内博史君提出ドミニカ移住者問題に関する質問に対し、別紙答弁書を送
付する。-


衆議院議員川内博史君提出ドミニカ移住者問題に関する質問に対する答弁書

一について

 一般論として、スミニストロ又はエントレガすなわち提供又は供与という言葉は、
スペイン語においても日本語においても、有償か無償かを問うものではなく、また、
エナヘナシオンすなわち譲渡という意味で用いられることを排除するものではない。
他方、外交文書や外交交渉において使われるこれらの文言の意味については、通常、
当事国の意図や交渉の経緯等についても考慮し、個別にこれを判断する必要があると
考える。
 
我が国政府としては、昭和二十九年十一月の会談において、ドミニカ共和国のトル
ヒーリョ元帥から上塚司衆議院外務委員長に対し、日本人移住者をドミニカ共和国に
受け入れたいとの申出があり、土地を無償提供すること等の表明がなされたこと、翌
昭和三十年九月のトルヒーリョ元帥といわゆる吉岡調査団との会談にお

いて、トルヒーリョ元帥から吉岡調査団長に対し、スペイン人移住者と対等な条件を
与えることの表明がなされたこと、スペイン人移住者は入植後一定期間経過後、土地
の無償譲渡を受けることになっていたこと等にかんがみ、日本人移住者が雇用農では
なく開拓自営農として自ら土地を所有して農業を営むことを前提として、

受入条件等につきドミニカ共和国政府と累次にわたる協議を行った。その結果、昭和
三十一年三月十二日に、在ドミニカ共和国日本国公使館吉田公使がドミニカ共和国の
メルカード農務大臣と会談し、日本人移住者の具体的な受入条件等につき大筋で合意
に達した。その後、同月二十七日付けのメルカード農務大臣発

吉田公使あて書簡が発出された段階で、両国政府間の合意内容が実質的に確定され
た。お尋ねの供与の意味について明示的に記した外交文書は見当たらないが、このよ
うな経緯にかんがみ、我が国政府としては、同書簡においてドミニカ共和国側が日本
人移住者に約束した土地の供与とは、土地の所有権を移住者に無償譲渡することを意
味すると理解している。これは、当時から現在まで一貫した政府の考え方である。

二について

 一についてで述べたとおり、我が国政府としては、ドミニカ共和国側が日本人移住
者に約束した土地の供与とは、土地の所有権を移住者に無償譲渡することを意味する
と理解している。日本人移住者が入植後、直ちに土地の所有権を得られたわけでない
ことは御指摘のとおりであるが、所有権という言葉をお尋ねのように「ある一定期間
経過後に所有権が発生する権利」という意味で用いたわけではない。

三について

 「開拓自営農」という言葉に一般的に確立した定義は無いが、雇用農ではなく自ら
土地を所有して農業を営む者というような意味で用いた。
 ドミニカ共和国への移住のための募集要項のうち、ダハボン地区の第一次の募集要
項において、土地の所有権が譲渡されることとなる時期に関する言及が無かったこと
は御指摘のとおりであるが、日本人移住者は入

植後相当期間農業に従事することが前提とされており、また、ドミニカ共和国政府と
しても、日本人移住者に対して土地の所有権を無償譲渡する意図を有していたこと
は、その後の我が国政府とドミニカ共和国政府との間の協議においても明らかである
ので、御指摘のような言及が無かったことが不当であるとまでは言えないと考える。

参考書籍、 真実を読む事が出来ます。
アディオス・ミ・サント・ドミンゴ―欺かれた一ドミニカ移住者の記録
上田 秋助 (著)
価格: ¥1,890 (税込)

ドミニカ移住の国家犯罪 移民という名の偽装「海外派兵」 著者名 小林忠太郎/著
価格(税込) 1,785円
『移民と二重国籍」(50)ミクシィ講座

『ドミニカ移民訴訟の研究』


今から半世紀前、海を渡ったドミニカ移民がなぜ、祖国・日本を相手に訴訟を起こさ
なければならなかったのか?彼らを突き動かすその思いとは一体、何かを考える。

FNNドキュメンタリー大賞ノミネート作品
『そこに楽園は無かった〜ドミニカ移民 苦闘の半世紀〜』
(鹿児島テレビ放送)

2000年7月、東京地方裁判所。この日、遠い異国の地から"ある覚悟"を持ってやって
きた日本人たちの姿があった。今から半世紀前、海を渡ったドミニカ移民たちであ
る。訴えた相手は、祖国「日本」。10月15日(金)放送のFNNドキュメンタリー大
賞ノミネート作品『そこに楽園は無かった〜ドミニカ移民苦闘の半世紀〜』(鹿児島
テレビ放送)<27時50分〜28時45分>では、なぜ彼らは、祖国を相手に訴訟を起こさ
なければならなかったのか?彼らを突き動かすその思いとは一体、何かを考える。

 戦後、日本は戦地からの引き揚げ者、失業者など国中に人が溢れかえっていた。そ
の数、600万人。日本政府はこの人口の増加などによる社会混乱の解消を目的とし
て、直接、戦火を交えなかった国々への「移民政策」を積極的に推進していく。その
一つがドミニカへの移住。国が示した条件は「300タレア(東京ドーム4つ分)の土地
を無償譲渡、さらにその土地は肥沃」だった。
 ドミニカへの移民は1956年から行われ、全国から約1300人が応募、うち、鹿児島県
出身者は約280人と全体の1/5を占めていた。
 ブラジルを始めとする他の移住地に比べ、格段、好条件の募集内容に移住者は胸を
躍らせた。付いた名が「カリブの楽園」―。しかし、実際に彼らを待ち受けていたの
は地獄のような日々だった。無償譲渡されたのは日本政府が約束した土地の1/3。し
かも、その土地たるや岩や石ころだらけの不毛の荒地、塩の一面の砂漠など、そのほ
とんどが農業に適さない耕作不適地で、さらに深刻な水不足も追い打ちをかけた。土
地の所有権も認められていなかった。
 「カリブの楽園で広大な農地を無償譲渡」。この日本政府の言葉を信じ、半世紀
前、海を渡った約1300人の日本人の夢と希望は一瞬にして打ち砕かれた。入植時のド
ミニカはトルヒーヨ独裁政権下で、半強制的に収用した土地も多かったため、日本人
移民を見る現地の目は冷たかった。悲劇は続き、政権の崩壊とともに略奪の対象とさ
れ、わずかな収穫物や農具さえ強奪された。移住者の中には逃げ出し、生活苦の末、
自殺した人々も少なくなかったという。
 そんなドミニカ移民の悲惨な半生を如実に描写した唄が女性たちの間で歌われ続け
ている。

<浦島太郎の替え歌>
   むかし むかし 母ちゃんは
   ぶらじる丸に乗せられて
   ドミニカ移住をしてきたら
   難儀、苦労が待っていた

   オヤジ殿が 移住など
   考え付いたばっかりに
   若き時代は夢の間に
   今は白髪のお婆さん

 “竜宮城”のような楽園を夢見て、遠い異国の地に渡った移民たち、しかし、“現
実”という玉手箱を開けてみると、楽園など何処にもなかった。

 2000年7月、移住者177人は半世紀に及ぶドミニカ移民の窮状に何ら有効な対策をと
らなかったとして、国を相手に総額31億円の損害賠償を求める訴訟を起こした。
 177人の移民たちは国の示した募集要領は全くのデタラメで、約束の土地や条件が
与えられなかったと謝罪を要求。これに対し、国はドミニカ移民は“国策”で行なっ
たのではなく、ただ「斡旋」しただけだという。
 手続きは、JICAが行い、配分地が募集内容と違った点については「ドミニカ政府の
問題」と、両者の意見は平行線をたどる。
 裁判の最大の争点は移民政策が「国策」であるか、どうか。

 裁判が進むにつれ、移民計画を立案した外務省のずさんで、信じ難い移民交渉の始
終が浮き掘りとなる。土地の所有権を事実上、認めないドミニカ共和国の植民政策な
どについて、しっかりと調査せず、政策を推進、しかも、石ころだらけや塩の荒地の
条件の悪さを知っていたのである。移住者の一人、原告団の事務局長を務める嶽釜徹
(66)さんは次のように話す。
「私達はカリブ海の島に棄てられたんですよ。棄民なんです」
 提訴から4年。未だ解決の糸口さえ見つからないドミニカ移民問題。「戦後移民史
上、最悪のケース」、棄民政策ともいわれるドミニカ移民政策について、移民たちの
証言とこれまでの外交記録を交えながら、検証。戦後の急速な経済復興の中で、歴史
の陰に追いやられたドミニカ移民の現状を明らかにしながら、国が行った移民政策と
は何かを考える。

<四元良隆ディレクターのコメント>

 このドミニカ移民問題に関しては自分が報道記者時代からずっと着目していた問題
でした。提訴から4年。なかなか解決へ向け、事態が動かない現状、その間、平均年
齢が80歳を超える移民1世の方々がこの世を去っていく中、「何か自分にできること
はないか。この現状を多くの人々に知ってもらいたい」と思って始めたのがこの取材
に本格的に入った大きなきっかけです。
 取材を進めていくと、そこにはいまだに何一つ変わらないドミニカ移民たちの苦境
にあえぐ姿がありました。7つの入植地は今も48年前と変わらない荒涼とした荒地が
広がっています。
 視察に来た外務省職員に『石も3年経てば、肥料になる』といわれた移住者もいま
した。移住者たちが必死に農地を確保しようと集めた石の小山も無数に広がっていま
した。そこには半世紀経った今も移住者たちの嘆きが聞こえる現状が確かにありまし
た。
 この番組ではただドミニカ移民の方々が悲惨というだけでなく、“彼らがなぜ、そ
ういった現状になったのか。なぜ、半世紀近く経った今、解決へ向け動かないの
か”、その一部始終をしっかりと見て欲しいと思います。
 今年3月、小泉純一郎首相が国に不手際があったことを公式の場で認めました。そ
して、「移住者の方々にはしっかりとした対応をしたい」と言明しました。しかし、
外務省は「首相発言は法的なものでなく、和解の意思はない」ことを示しました。
 一国の首相が不手際を認めたのにも関わらず、なぜ、解決に至らないのか。そこに
は何があるのか。自国民さえ守らないこの国は一体、何処へ進もうとしているのか!

 この番組を通して、多くの世代の方々に今、あらためて自分たちにとって“国”と
は何なんだろうか本当に考えるきっかけにしてほしいと思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

以上のFNNドキュメンタリー大賞ノミネート作品 の言葉が
いかに政府、関係官庁が官僚達との連携で騙し、隠し、隠匿
した関係書類などの関連性が欺瞞として、下の速記録に隠されています、読み解いて理解して下さい。

真実は一つしか有りません・・・!


「第16回外交記録公開」について 平成12年12月20日(水)

外務省では、昭和51年(1976年)以来、30年を経過した戦後外交記録の公開をこれま
で15回にわたって行ってきました(注)。このたび、「第16回外交記録公開」とし
て、新たに公開を行いました。
 今回の公開は、本年5月29日の第15回公開に引き続き行われるものであり、本年二
度目の公開です。
 公開された記録は、従来と同じく、外交史料館(港区麻布台1−5−3、電話:03−
3585−4511)において、原則としてマイクロ・フィルムにより、閲覧できます。

(注)外交記録公開制度とは
 戦後の外交記録のうち、原則として30年を経たものにつき案件ごとに審査を行い、
公開基準に従って秘密指定を解除し、一般公開する制度です。
 従来より、次のとおりの公開基準により審査しています。
(1)その公開により、(イ)国の重大な利益が害される場合又は(ロ)個人の利益
が損なわれるような記録は、30年を経過していても公開しません。
(2)「国の重大な利益が害される場合」とは、例えば、(A)国の安全、(B)相手
国との信頼関係、(C)交渉上の利益等が害される場合又はそのおそれがある場合を
指します。


今回公開された外交記録は、前回と同じく、主要案件と一般案件とに分けられてお
り、主要案件は8件、15冊、一般案件は306件、665冊で、合計314件、680冊です。 (1)今回公開された主要案件(8件、15冊)は、以下のとおりです。


(イ)日本・ビルマ賠償及び経済協力協定関係(5冊) (ロ)日本・ビルマ平和条約関係(4冊)
 (同時並行的に行われた我が国とビルマとの平和条約及び賠償協定の交渉に関する
記録。)

(ハ)日本・ドミニカ移住協定関係(1冊)
 (昭和32年から33年にかけて行われた日本とドミニカ共和国との移住協定交渉の事
前交渉にかかわる記録。)

(ニ)核爆発実験関係(4冊)
 (昭和28年から42年までの核爆発実験に関する我が国官民双方及び国連での対応ぶ
りに関する記録。)

(ホ)対ラオス経済技術協力関係(1冊)
 (ラオスが、昭和31年(1956年)から約10年間にわたって我が国に対して行った
様々な援助要請及びこれに対する日本側の対応を示す記録。)

(2)今回公開された一般案件記録としては、(1)戦後移住関係(24件、62冊)及び
(2)戦後引揚関係(282件、603冊)の記録があります。


(イ)移住関係では、前回、未整理のため公開できなかったドミニカ共和国、ボリ
ヴィア、ペルー、エクアドル、ウルグァイ、キューバ、グァテマラ、ヴェネズエラ及
びメキシコへの戦後移住(昭和27年の戦後移住再開から、昭和40年代にかけての移
住)の経緯を示す記録が取り上げられており、各国別の具体的な移住者の状況等に関
する記録が含まれています。

(ロ)引揚関係では、昭和20年代から30年代半ばにかけて、終戦の結果、当時外地に
あった約600万人の邦人の内地引揚の記録であり、東南アジアや中国大陸などの外地
からの邦人の引揚状況に関する記録をはじめとして、戦没者の遺骨収集、未引揚邦人
の調査の記録なども含まれています。


公開された各案件のより詳細な内容については、「主要案件の概要」及び「一般案件
の概要」をそれぞれ御参照ください。  なお、これまでに公開された記録についても、併せて外交史料館において閲覧でき
ます。  因みに第1回(昭和51年)から前回(第15回)までに公開された記録は、計10,145
冊です。したがって、今回の公開分を併せると、総冊数は10,825冊となります。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

159回国会 衆議院 決算行政監視委員会 平成16年5月17日

○川内分科員 川内博史でございます。

今回、また引き続きまして、私がずっと取り組んでおりますドミニカの移住問題につ
いて、幾つかの点について確認をさせていただきたいというふうに思います。私ど
も、ドミニカ移民問題の最終解決を進める国会議員懇談会というものを超党派で組織
しておりまして、きょうは会長の尾辻秀久先生にもお運びをいただいております。
しっかりと気合いを入れて質問をさせていただきますので、ぜひ誠実な御答弁をいた
だきたいというふうに思います。

 事実関係を確認させていただきます。

 昭和三十一年の三月二十七日に、通称メルカード書簡、ドミニカの農務大臣であり
ますが、このメルカード書簡というものが日本政府に対して交付をされた。そして、
昭和三十一年の三月二十九日、その二日後に募集要項によるドミニカへの移民募集が
開始をされた。

 しかし、ドミニカと我が国との移住条件の交渉というものは交換公文という外交の
形式をとっていたそうで、一方からの文書だけでは国際約束は成立をしない。事実、
このメルカード書簡には、日本政府からの返事をもって移住条件は合意に達するもの
といたしますという趣旨の一文も入れられております。

 したがって、昭和三十一年の三月二十七日のメルカード書簡に対する返簡として、
昭和三十一年四月二十四日付で日本政府からドミニカ政府に対して書簡が出されてい
る、この書簡の往復によって日本からドミニカに移住をする移住者の皆さんの移住条
件というものが国際約束に達したというふうに外交上は見るべきだということを私ど
もは主張させていただいておりまして、この件に関しては、この間の質疑の中で外務
省もそれをお認めになっていらっしゃいます。国際約束が成立をしたのは、昭和三十
一年四月二十四日付の日本からドミニカ政府に対してあてた返簡によってである。

 先ほど申し上げたように、昭和三十一年三月二十九日に移民の、移住者の募集の開
始というものが行われている。ということは、改めて確認をさせていただきますが、
昭和三十一年四月二十四日に国際約束が成立をする以前に日本政府は、あるいは外務
省は、あるいは海協連は移民の募集を開始したことを認めますか。

○鹿取政府参考人 今先生から御指摘のありましたように、このメルカード書簡、三
月二十七日で日本側に渡りまして、それに対する返簡は四月二十四日にやっておりま
す。その段階で両政府間を拘束する合意となった、それはそのとおりであると思いま
す。

 また、募集を開始したのが四月初めであるということも事実でございます。

○川内分科員 私がお聞きしたのは、国際約束が両国間によって成立をする昭和三十
一年四月二十四日より以前に移民の募集を開始したことを認めますかということをお
聞きしました。認めるのか認めないのかということをお答えいただきたいと思いま
す。

○鹿取政府参考人 四月初めに募集を開始したことはそのとおりでございます。
 また、四月二十四日の返簡によって日本政府とドミニカ政府の合意が拘束力を持つ
に至ったということもそのとおりでございます。

○川内分科員 国際約束が成立をする前に移民の募集を開始したということを認める
ということですね。

○鹿取政府参考人 形式的な意味において、メルカード書簡が日本とそれからドミニ
カ政府との間で確定するというのは四月二十四日の返簡によってでございます。

 また、募集を開始したのは四月でございます。もしも、なぜそこで募集を開始した
ということの御質問であれば、またお答えいたします。

○川内分科員 いや、私がお聞きしているのは、なぜ募集を開始したんですかという
ことをお聞きしているのではなくて、事実関係を確認させていただいております。

 昭和三十一年の四月二十四日、両国政府を拘束する国際約束が成立をする以前に、
移民の募集を三月二十九日付でお始めになられましたね、これをお認めになられます
かということをお聞きしています。

○鹿取政府参考人 募集の開始が四月初めに行われたことはそのとおりでございまし
て、その段階で、先生が御指摘のとおり形式的な意味、厳密な意味でメルカード書簡
に対する日本政府の返簡がなく、したがって、両政府間の合意が形式的に成立してい
なかったということは事実でございますが、日本政府は、三月二十七日の段階で移住
に関する基本的な枠組みについて実質的な合意に達した、そう考えていたわけでござ
います。

○川内分科員 部長、私の聞いたことに誠実にお答えをいただきたいんですけれど
も、私が聞いているのは、募集を開始したのはいつですかということを聞いているん
じゃないんです。募集を開始した日付は、募集要項の日付は昭和三十一年三月二十九
日ということで私も存じ上げております。そのことを確認しているわけではなくて、
国際約束が成立をする前に募集を開始したことを認めますかということを聞いており
ます。

○鹿取政府参考人 募集を開始したのが日本とドミニカ政府間の合意が形式的に固ま
る前、そういう御質問であれば、そのとおりでございます。

○川内分科員 お認めになられました。

 では、続いて、募集要項とメルカード書簡。

 この募集要項には、移住条件として三百タレアの土地が無償譲渡をされるというふ
うに書いてございます。三百タレアというのは十八ヘクタール、無償譲渡というの
は、所有権の移転を伴うあるいは財産権の移転を伴う物の譲渡というものがその意味
合いだと思いますが、募集要項には、十八ヘクタールの土地が所有権の移転を伴って
譲渡をされるというふうに書いてございます。

 しかし、昭和三十一年三月二十七日付のこのメルカード書簡には、三百タレアま
で、十八ヘクタールまでの土地が供与される、あるいは耕作権を与えられるというよ
うな書きぶりであったかと思いますが、なぜ募集要項とメルカード書簡に食い違いが
出たんでしょうか。

○鹿取政府参考人 今先生が御指摘のとおり、募集要領あるいは募集要項の表現、そ
れからメルカード書簡の表現、これは表現においては相違が見られますが、私ども、
前にも一度御答弁したことがありますが、三月二十七日のメルカード書簡において、
これは受け入れの条件に関してでございます、受け入れの条件というのは基本的にド
ミニカ政府の意向が重要でございますが、ドミニカ政府の意向というのは三月二十七
日のメルカード書簡の接到によって明らかになった、こう考えております。

 したがいまして、そこで我々としては実質的な合意が確保されたと考えておりま
す。また、メルカード書簡に至る過程で、日本政府とドミニカ政府との間ではいろい
ろな話し合いがございました。私どもとしては、その日本政府とドミニカ政府の基本
的な合意、これを踏まえて募集要領また募集要項、これが作成されたと考えておりま
す。

 今、一つ一つ御説明いたします。

 今先生が御指摘のとおり、メルカード書簡では、まず三百タレアについて御説明し
ますが、三百タレアまでと書いてあります。また、募集要項、募集要領では、三百タ
レアと書いてあります。この相違でございます。

 まず、御承知のとおり、ドミニカの移民が行われたきっかけというのは、親日家の
トルヒーリョ元帥が、ドミニカの発展のために日本移民を受け入れたい、こういう意
向を表明したことに端を発しておりますが、トルヒーリョ元帥は、昭和三十年の九
月、ドミニカを訪問した吉岡調査団に対し、一家族当たり三百タレア与える、こうい
うことを述べております。

 また、翌年の昭和三十一年三月十二日でございますが、当時の吉田公使がメルカー
ド農務大臣と会談しております。その中で、日本人移住者の具体的な受け入れ条件等
を話し合い、大筋で合意に達しましたが、この会談においても、ダハボンについて日
本人移住者に三百タレアの土地が与えられることについて、ドミニカ政府側の意向が
確認されております。

 また、それでは、メルカード書簡で三百タレアまでと書いてあるのはどうしてかと
いうことでございますが、これは裁判でも争点になっておりまして、準備書面でも私
たちは説明しておりますけれども、三月十二日の会談においてドミニカ側とのやりと
りで明らかにされているとおり、入植と同時に三百タレアの土地全体を配分するとい
うことではなくて、入植後の耕作状況に応じて漸次増配し、最終的には三百タレアを
供与する、こういう意味である、こういうふうに私どもは考えておりますし、また、
その旨は募集要項あるいは募集要領のただし書きにも記載されている、こう考えてお
ります。

 次に、供与とそれから無償譲渡の問題でございますが、メルカード書簡には確かに
土地を供与する、こう書いてございます。これに対して募集要項、募集要領には、土
地を無償譲渡する、こう書いてあります。

 また、これは、ドミニカ移住というのはトルヒーリョ元帥の強い指導力に端を発し
たわけでございますが、昭和二十九年の十一月に当時の上塚衆議院外務委員長もトル
ヒーリョ元帥とお会いしておりますが、そのときにも、トルヒーリョ元帥は土地を無
償提供するということを述べております。

 また、昭和三十年九月に吉岡調査団がトルヒーリョ元帥と会いました。そのときに
も、三百タレアの土地が与えられる旨述べられるとともに、日本人移住者については
スペイン移住者と対等な条件を与える、スペイン人移住者は無償供与を受けておりま
したけれども、対等な条件を与えると述べております。

 こういうようないろいろな経緯及びメルカード書簡、こういうものを踏まえまし
て、日本政府としては、募集要領あるいは募集要項に三百タレアの土地が無償譲渡さ
れる、こう書いたわけでございます。

 日本政府とドミニカ政府との間で、この問題については私どもは意思のそごという
ものはなかったと考えておりますし、一九九八年、ラ・ルイサの土地という問題がご
ざいましたけれども、そこでもドミニカ政府は、過去の負担、負債、この問題を解決
するということで、ダハボンにつきましては、三百タレアに満たない分については無
償譲渡する、こういうことを決断しております。これもまた、ドミニカ政府と日本政
府との間で意思のそごがなかった、こういうことのあらわれであると考えておりま
す。

○川内分科員 今、長々と御説明をいただきました。

 お聞きをしておりますと、要するにメルカード書簡とは別に、メルカード書簡に至
る過程の中で、ドミニカ政府と我が国政府並びに政府の関係者が長い交渉をした経緯
があった、その書簡とは別の、それ以前の交渉の結果として募集要領あるいは募集要
項というものが作成をされたということでよろしいですか。

○鹿取政府参考人 メルカード書簡及びそれに先立ちますドミニカ政府と日本政府と
の協議、これを踏まえまして書かれたものでございます。

○川内分科員 よく日本人の民族性とあるいは欧米の人たちの民族性の違いというも
のを言いあらわすときの笑い話に、日本というのは、交渉するときに弁護士を同席さ
せると、何てこいつは不誠実なやつだ、弁護士を連れてきやがったというふうに思
う。ところが欧米人というのは、弁護士を同席させると、何て誠実なんだというふう
にお互いに評価し合う。要するに、お互いのいろいろなやりとりはあるけれども、最
後書面になったものだけを信用する、最後言葉になったものだけが大事なんだ、欧米
人というのはそういう考え方なのかなというふうに思うのですね。

 今の鹿取部長の御答弁を聞いていると、何か極めて日本的だというか、国際約束の
もとになるメルカード書簡以外に募集の条件の根拠を求めようとしているように思え
るのです。

 それでは、募集要項が、ある一定程度はメルカード書簡が日本政府に対して明らか
にされる前に作成をされていた、もうある程度作成をされていたということはお認め
になられますか。

○鹿取政府参考人 私どもがメルカード書簡を受けたのは昭和三十一年三月二十七日
でございます。

○川内分科員 だから、私が聞いているのは、メルカード書簡と募集要項には言葉遣
いあるいは所有の形態等について明らかに違いがあるわけですから、その違いが生じ
ていることの原因はなぜですかということを部長にお伺いをしました。そうすると、
部長は、書簡以前のいろいろな交渉の経緯を踏まえて募集要項は作成をされたんだと
いうふうに御答弁になられた。

 したがって、メルカード書簡より以前のドミニカ政府と我が国政府との交渉の経緯
が募集要項に反映をされているんですね、メルカード書簡とは関係なく反映をされて
いるんですねということをお聞きしているんです。

○鹿取政府参考人 募集要項、募集要領を作成したのは基本的にメルカード書簡を基
礎としております。
 メルカード書簡には、先ほど御説明しましたように、三百タレアまで、ただこれ
は、一時にではないけれども、漸次三百タレアまでということが書かれております
し、これを供与するということが書かれております。

 また、例えば供与するということについて、無償譲渡と書きましたけれども、その
点については、例えば三月十二日のメルカード大臣との協議、そういうこれまでの協
議も踏まえて書いたことは事実でございます。

○川内分科員 メルカード書簡を踏まえて募集要項は作成をされたと御主張されるの
であれば、募集要項がメルカード書簡に書かれている文言と違う、あるいは若干の相
違があるということに関して私がなぜですかと聞いたときに、部長は、これこれこう
いう理由だから相違ができましたということを御答弁になられました。メルカード書
簡と募集要項に食い違いはない、一致しているというのであれば一致しているという
ふうに御答弁されればよかったと思うのですが、なぜ食い違っているのですかと私が
聞いたらば、過去の交渉の経緯がこうだった、だから食い違ったということをお答え
になられましたよね。違いますか。

○鹿取政府参考人 メルカード書簡とそれから募集要領、募集要項、表現において相
違があるということは事実であります。これは、表現において相違があるというのは
事実でございますが、その意味する内容、実質において、日本政府の考え方とドミニ
カ政府との考え方、これについて私どもは相違はない、そう考えております。

○川内分科員 今、部長は重要なことをおっしゃられたと思うのです。表現というの
は、意味をあらわすから表現なんですよね。そして、ドミニカ政府と日本政府との間
に意思のそごはなかったはずであるということもあわせておっしゃられた。

 メルカード書簡と募集要項に、百歩譲りましょう、表現に違いがあった。しかし、
その表現は重要な意味を持つものであるとするならば、メルカード書簡が日本に提示
をされたときに、なぜこの部分の表現については、あるいはこの部分が意味するとこ
ろについては、我々両国間で交渉してきたことと若干違いがあるようであるが確認を
したいというような確認の作業をおとりにならなかったのかということを、では、聞
かせてください。

○鹿取政府参考人 メルカード書簡の内容と募集要項の内容は、先ほど御説明しまし
たように、実質においては私ども相違はないと考えている次第でございます。

 また、募集要領、募集要項の案文を作成するに当たっては、メルカード書簡を踏ま
え、それ以前のメルカード大臣との会談を踏まえ、政府の責任において、政府の理解
している日本それからドミニカ政府との間の合意、その内容を募集要領、募集要項に
書いた次第でございます。

○川内分科員 部長、私が、きょうは決算行政監視委員会ですから、おとなしく質問
しているから、ちょっと図に乗って、ばかにしているんじゃないですか。

 募集要項とメルカード書簡に食い違いがあるということを最初認めたじゃないです
か。それを今になって内容は一緒だ、どういうことですか。まず認めたでしょう、募
集要項とメルカード書簡は違うと。表現も違うし、意味も違うということを認めてい
るじゃないですか、最初に。今になって内容が一緒だ、どういうことですか。

○鹿取政府参考人 表現が違うということは、私は先ほど申し上げました。意味につ
いては、実質的に日本政府の理解とドミニカ政府との理解の間に相違はない、こうい
うことを申し上げたと思っております。

○川内分科員 表現が違うということは、重要な意味の内容が違っているということ
を意味するのじゃないんですか。てにをはが違うとか、そういうことじゃないと思い
ますよ。では、供与と無償譲渡は同じ意味だということですか。

○鹿取政府参考人 私どもが募集要領、募集要項……(川内分科員「聞いたことに答
えてよ。供与と無償譲渡は一緒かと聞いたんです」と呼ぶ)私どもが募集要領、募集
要項で無償譲渡と書いたのは、供与という言葉、それからそれに至る交渉、協議、そ
れを踏まえて無償譲渡と書いた次第です。

○川内分科員 供与と無償譲渡が同じですかということを聞いたんです。

○鹿取政府参考人 メルカード書簡における供与というのは無償譲渡であると考えて
おります。

○川内分科員 ちょっと余りにも強引な議論じゃないですか、それは。供与と無償譲
渡が同じだ、メルカード書簡においては。自分たちはどうとでも解釈しますというこ
とを今言ったんですよ。役所に帰って国語辞典を引いたらどうですか。供与と無償譲
渡は明らかに意味するところが違いますよ。それを、メルカード書簡においては供与
は無償譲渡と一緒だと。一体どういうことですか、外務大臣。

○鹿取政府参考人 先ほども御説明しましたように、ドミニカ政府としては、日本の
移住者に対して土地を無償譲渡する、こういう意向でございましたし、メルカード書
簡における供与というのは、日本政府としては無償譲渡と理解したわけでございま
す。

○川内分科員 では、そうすると、こういうことですか。それまでの交渉の経緯の中
で、無償譲渡をされると日本政府としては思い込んでいた、したがって募集要項にも
無償譲渡と書いた。メルカード書簡には供与と書いてあったけれども、その供与の言
葉の意味も確かめずにそのまま募集を開始したということですか。

○鹿取政府参考人 日本政府としては、メルカード書簡を受領した段階で、日本政府
の責任として募集要領、募集要項、この作成に関与したわけでございますが、日本政
府の責任として、無償譲渡、こう書いた次第でございます。

○川内分科員 いや、私が聞いているのは、供与と無償譲渡というのは明らかに言葉
の意味が違うんだから、なぜその時点で確かめなかったのですかということを聞いて
いるんですよ。なぜその時点で、これはちょっとおかしいぞ、メルカード書簡を見
て、明らかに今まで話し合ってきたことと違う、これは一体どういうことだとなぜド
ミニカ政府に対して確認をしなかったのかということを聞いているんです。

○鹿取政府参考人 日本政府としては、それまでの間のドミニカ政府との会談それか
らメルカード大臣との会談、これを踏まえて、ドミニカ政府としては日本の移住者の
方々に対して土地を無償譲渡する意向である、こう考えておりました。

○川内分科員 日本政府の意向を聞いているわけじゃないんですよ。ドミニカ政府と
日本政府が交渉をした結果として、交換公文によって移住条件というのは合意に達し
ているわけですよ、国際約束は、両国政府を法的に拘束する。日本政府の思い込みで
ドミニカに移住者を送ったとあなたは今言っているんですよ。いいですか。ちょっと
発言には気をつけられた方がいいと思うけれども。

 鹿取部長が今おっしゃっているのは、日本政府の勝手な思い込みで移住者をドミニ
カに送りましたということを言っているんですよ。私が聞いているのは、供与と無償
譲渡というのは意味が違うんです、表現も違っている、当然意味も違うんですよ、な
ぜ確認をしなかったかということを聞いているんですよ。記録がないんでしょう。記
録がないと言いたいんでしょう。どうですか。

○鹿取政府参考人 三月二十七日のメルカード書簡に至る前にドミニカ政府との間で
種々協議が行われたということは申し上げました。三月十二日にも、メルカード大臣
と当時の吉田公使との間で話し合いが行われております。それ以前にも話し合いが行
われております。

 また、先ほど申し上げましたように、このドミニカ移住の話、この直接のきっかけ
となったのは当時のトルヒーリョ元帥の強い意向でございます。当初から、ドミニカ
政府は、日本の移住者に対しては土地を無償譲渡する、こういうことで話が進められ
てきたわけでございます。

 また、現に、先ほど私も申し上げましたけれども、日本政府とそれからドミニカ政
府との間で考え方にそごはなかったという一つ一つのあらわれというのは、一九九八
年、ラ・ルイサの土地において、足りない分は無償譲渡しなくてはならない、こうい
うことをドミニカ政府が判断したということもまた一つでございますし、それ以前の
段階でも、私どもは、土地の供与の問題について、ドミニカ政府とそれから日本政府
との間で意思のそごはなかった、こう考えております。

○川内分科員 もうおっしゃっていることがほとんど意味をなさないですね。

 国際間の拘束力を持つ約束をしたのは、三月二十七日付のメルカード書簡と四月二
十四日付の日本からドミニカ政府にあてた返簡ですと外務省は認めているじゃないで
すか。法的に拘束力を持つ移住条件というのは、この交換公文でしかないんですよ。
それを認めているんですよ。

 それ以前の交渉をいろいろしていることは私も存じ上げています、いろいろな人た
ちがいろいろなレベルでね。では、その交渉の結果と、最も大事な法的な拘束力を持
つ文書と、なぜ違っていたのか、なぜそれを確認しなかったのかということを私は聞
いているわけです。

 また、きょうは決算行政監視委員会でありますから、他の質問者に迷惑をかけるわ
けにまいりませんので、水曜日の外務委員会でこの続きはやらせていただきますが、
なぜメルカード書簡とそれまでの交渉の経緯の結果が違っていたかということを確認
しなかったのか、あるいはその記録を私は提出を求めさせていただきたいというふう
に思います。

 これは大変な大ごとだったわけですからね。今までやってきたことと文書が来たら
違っている、これは一体どういうことだと大騒ぎにならないわけがないんですよ。そ
のことだけ申し上げさせていただいて、きょうは終わらせていただきます。

 ありがとうございました。
『移民と二重国籍」(51)ミクシィ講座

『ドミニカ移民訴訟の研究』


これはドミニカ問題に関しての国会質疑の抜粋です。
重要なポイントが見えています。注意して読んで下さい。
前回の(1) (2) (3)の関連も有りますから。

第3号 平成11年3月3日(水曜日) 会議録本文へ
平成十一年三月三日(水曜日)
    午前九時開議
  出席委員
   委員長 中馬 弘毅君
   理事 福田 康夫君 理事 牧野 隆守君
   理事 茂木 敏充君 理事 上原 康助君
   理事 玄葉光一郎君 理事 赤松 正雄君
   理事 東  祥三君
      大村 秀章君    柿澤 弘治君
      瓦   力君    河野 太郎君
      阪上 善秀君    櫻内 義雄君
      中谷  元君    額賀福志郎君
      深谷 隆司君    細田 博之君
      吉川 貴盛君    川内 博史君
      中野 寛成君    藤田 幸久君
      坂口  力君    山中あき子君
      井上 一成君    藤井 裕久君
      古堅 実吉君    松本 善明君
      伊藤  茂君
 出席国務大臣
        外務大臣    高村 正彦君
 出席政府委員
        外務大臣官房長 浦部 和好君
        外務省欧亜局長 西村 六善君
        外務省経済協力
        局長      大島 賢三君
        外務省条約局長 東郷 和彦君
        自治省行政局選
        挙部長     片木  淳君
 委員外の出席者
        外務大臣官房審
        議官      田中 信明君
        外務委員会専門
        員       宮本 吉範君

みに関して、その御決意の一端を伺わせていただければと思います。
○高村国務大臣 外務省は、昭和五十一年から外交記録公開制度を設け、自発的な情
報公開努力を払っており、情報公開の分野では既に長年の経験を積んでいるわけであ
ります。今回の情報公開制度の法制化に当たっては、外務省としては、このような外
交記録公開において既に蓄積された経験やノウハウを生かしつつ、新たな制度に備え
るための体制強化を図り、情報公開努力を行っていく考えであります。
 
今までもやってきたのですが、何せ法律のない中でやってきていると、予算もとりに
くい、体制もできない。そういう中で、人手が足りない、公開していい情報と公開し
ていけない情報の仕分けをするのにも人手が足りなくて、後手後手に回って遅くなっ
ていたということは否めない事実でありますので、これから、こういう法律ができた
ことを機会に体制をしっかりつくって、情報公開を積極的に行っていきたい、こうい
うふうに考えております。

○川内委員 情報公開を積極的に行っていきたいという大臣の前向きな御答弁をいた
だいて、大変ありがたく思っております。
 今大臣からも御答弁あったように、一九七六年からですか外交文書の公開というも
のがスタートして、原則三十年を経過した文書については、国の安全を害する、ある
いは相手国との信頼関係を損なう、個人のプライバシーを侵害するなどの場合は非公
開、それを判断するのがだれかという問題はあったわけですけれども、原則としてそ
ういう形で、外務省さんは先駆けて情報公開について前向きに取り組んでいらっ
しゃった。
 
今回、情報公開法が衆議院では成立をして、その第五条第三号に、不開示とする情報
の一つに、公にすることにより、国の安全が害されるおそれ、他国もしくは国際機関
との信頼関係が損なわれるおそれ、または他国もしくは国際機関との交渉上不利益を
こうむるおそれがある情報というのが不開示情報になるというふうに規定が設けられ
ています。
 
安全保障上の理由で情報が開示できないというのはなるほどなという気もするのです
が、信頼関係が損なわれるとかあるいは交渉上不利益をこうむるという理由で情報を
開示できないということになると、何を基準に信頼関係が損なわれるということにな
るのか、何が基準で交渉上不利益になるということになるのか、ちょっと判断する方
の非常に恣意的な判断に任されてしまうのではないかという危惧もあるわけですけれ
ども、例えば具体的に、こういう情報は非開示、こういう情報は開示するというよう
なガイドラインみたいなものがあるのか、また今検討されているのかということをお
尋ねさせていただきたいと思います。

○高村国務大臣 外交にかかわる情報のうち、情報公開法案においては不開示情報と
して規定されている、今御指摘あった他国もしくは国際機関との交渉上不利益をこう
むるおそれや他国もしくは国際機関との信頼関係が損なわれるおそれがある情報が具
体的に何を指すかということについては、いろいろなケースが想定されるわけであり
ますから、あらかじめ具体的にああだこうだというのは大変難しいということはぜひ
御理解をいただきたいと思うのです。
 
そういう前提であえて申し上げれば、他国もしくは国際機関との交渉上不利益をこう
むるおそれがある情報について言えば、例えば、ある外交交渉のために準備した我が
国の交渉方針などはそれに当たるのだろうと思います。こっちの外交方針が全部相手
に筒抜けになっていたら、これは交渉が大変難しくなる。
 
また、他国もしくは国際機関との信頼関係が損なわれるおそれがある情報としては、
情報を他国からもらうことがあるわけですね、その情報源が、これは公にしないでく
れよと言ってくれた情報を公にしちゃうと、次からもうその国は出さなくなる。そう
いったことがあるわけで、例えばといえば、そういうことがありますということは言
えるわけでありますが、情報公開ということからいえば、ガイドラインというのがで
きればいいなという考えもあるけれども、本当にそういう一律にガイドラインを公に
できるのかなということもありますが、内部でいろいろ検討してまいりたい、こうい
うふうに思います。

○川内委員 ぜひ、原則として年数がある程度、一定期間経過したものはすべて公開
するといったようなことにしていただけると、二十年、三十年たったものについて
は、それほど影響のある文書というのはよっぽど重要な案件の文書以外は、かえって
国民の関心とか国民とともに歩む外交という意味では、外交に関する国民の皆様方の
関心を呼び起こすという意味でも、ある程度の年数がたったものはもうどんどん公開
して、だれでも見られますよというようなぐあいにしておく方が、例外規定を設けな
い方がかえっていいのではないかなというふうに私などは思います。私はまだ外交に
関しては素人ですから、素人の考えとしてお聞きとどめをいただければと思います。

 
そこで、外交文書の公開、具体的にお伺いをしたいのですけれども、実は私、前回の
臨時国会でドミニカ共和国のことをお尋ねさせていただいて、私自身は大変に重要な
文書であるというふうに思っているのです。
 一九五六年、昭和三十一年三月二十七日付のドミニカ政府ルイス・メルカード農務
大臣から吉田公使にあてた書簡、文書ナンバー三二六六を見せていただけますかと前
回臨時国会でお伺いをしたら、それは見せら

れないという話だったんですが、一九五六年からもう既に四十三年が経過をしており
ますし、日本とドミニカとの関係というのも大変に現在は良好に推移をしているとい
うふうに聞いております。これ以外の文書というのはすべて私も自分で手に入れてい
るのですけれども、実は、ドミニカのこの公文書を保管している建物が火災で焼け

ちゃって、この三二六六というのがどこか行っちゃったらしいのですね。それで、こ
の三二六六だけがどうしても、ドミニカの政府の方が、ないないと、火災で焼け
ちゃったのでということなので、多分外務省さんは保管をしていらっしゃると思うの
で、これをぜひ見せていただきたいなというふうに思うのですが、公開をしていただ
けますでしょうか。

○高村国務大臣 外交文書の記録公開は、三十年以上経過した文書を原則公開してい
く方針で手続が行われているわけですが、先ほど言ったような理由で現時点ではおく
れにおくれているということはあるわけであります。
 ドミニカ移住あっせんに関する文書についても、通常の手続に従い公開すべく現在
審査中でありまして、審査が終了次第、公開する予定であります。そして、この文
書、まさに委員から御指摘になっているわけですから、審査を急がせます。

○川内委員 ありがとうございます。審査を急いでいただけるという御答弁をいただ
きましたけれども、大体いつごろまでとか、具体的にちょっと教えていただけると私
も大変うれしゅうございますが。

○高村国務大臣 いつごろまでというのはちょっとわかりません。わかりませんが、
私がこの場所で急がせますと言ったということは、そう軽くないことだと考えていた
だいて結構であります。

○川内委員 ありがとうございます。大臣、お気にさわったら本当に申しわけなかっ
たのですけれども。
 この三二六六という文書がなぜ大事なのかということをもう一度説明させていただ
きますと、三二六六の文書で、ドミニカ政府から日本政府に対して移住の条件提示が
行われた。それに対する日本からの返事が同じく一

九五六年の四月二十四日に出ているのですね。文書ナンバー三二六六をいただきまし
た、おおむね日本国政府としてもナンバー三二六六のドミニカ政府提示の条件で移民
を送り出したいと思いますというような手紙が四月二十四日付で出ている。その四月
二十四日付の日本からの手紙に対して、今度は五月十二日付で、

またドミニカ政府から吉田公使にあてて、日本国からの移民の条件についておおむね
両国政府で合意できましたねという確認を五月十二日付でしているのですね。
 
だから、三、四、五と手紙が、ドミニカから日本に来て、日本からドミニカに行っ
て、ドミニカから日本に来てということで、交渉の条件がほぼ煮詰まったわけです。
ところが、移民の募集は、まだこの手紙のやりとりをしている間にもう既に行われて
いたということがありまして、私もスペイン語ができるわけではないのですけれど
も、スペイン語の辞書などを引きますと、例えば、渡す、農地を渡すという意味のエ
ントレガンドという単語が使われているのですけれども、このエントレガンドを、移
民の募集要項の中では無償譲渡するというような訳にしている。
 
ところが、このエントレガンドというのは、スペインの方にお伺いをすると、ただ単
に提供するといったような意味で、その所有権が発生をするというような意味合い
は、また別な、Pから始まる言葉だったと思います、私も全然スペイン語はわからな
いもので、ちょっと忘れてしまったのです。また別の言葉があるというふうにもお聞
きしまして、

その交渉をしているさなか、あるいは訳がどうだったのかというさなかに移民の募集
を進めているという事実だけは、これは間違いのない事実だと思うので、そのことを
明らかにする上でも、この三二六六というのは、今大臣から大変重い重い御答弁をい
ただきましたので、ぜひよろしくお願いをしたいというふうに思うわけでございま
す。
 
また、もう一つ、外務省設置法という法律の中に、外務省の任務として、具体的に、
移民のあっせんをするということが出ているのですね、移住のあっせんという言葉
で。この移住のあっせんというのは、具体的には、外務省設置法の「外務省の所掌事
務」、第四条の十四号、十五号、「海外移住に関する事務処理のための企画立案に関
すること。」「海外移住に関するあつせん、保護、促進その他必要な措置に関するこ
と。」十六号、「海外移住に関する関係行政機関の事務の連絡調整に関すること。」
というふうに、海外移住のあっせんというものが外務省の具体的な事務として設置法
の中に出ている。
 
したがって、従来のこのドミニカ問題における外務省さんの御答弁で、あっせんをし
ただけであって、我々が提供した情報を最終的に判断したのはドミニカに渡られた一
人一人の移民の皆様方の判断であって、外務省は情報を提供しただけだという言い方
を今までの国会答弁の中ではされてきているようなんですけれども、ちょっとそ

れは違うんじゃないかなというふうに私は思っていまして、設置法の中でしっかりと
あっせんをするというそのことが出ているわけですから、そのあっせんに関して忠実
に、誠実に、その情報が確かなものであるかということに責任をしっかりと外務省さ
んというのは持っていなければならないと思うのです。
 まず、外務省として移住をあっせんした責任についてどう考えるかということをお
伺いしたいというふうに思います。

○高村国務大臣 政府といたしましては、外務省設置法第四条十五号に基づく海外移
住のあっせんの一環として、移住者がドミニカ共和国へ移住する際の募集要項に記載
する情報について、当時ドミニカ共和国から提供された情報や調査により得た情報に
基づき誠実にこれを提供するように努めた、こう思っているわけであります。
 
その後、個々の移住について問題が生じた際には、これを改善するため、現地大使館
を通じ、ドミニカ共和国政府に対し、かんがい設備の整備、土地増配、換地の提供等
の措置を交渉し、ドミニカ共和国政府側からはこれらの改善措置につき一定の前向き
な反応を得ておりました。しかしながら、必ずしも移住当初においては想定していな
かったような問題も生じ、結果として移住者の方々は大変苦労された、こういう認識
をしております。
 
日本政府としては、このような状況を踏まえ、昭和三十六年、閣議決定を行い、移住
者の希望に即して帰国等への援護措置を講ずることで一つの区切りをつけたと考えて
いるわけであります。それで、なお昭和三十六年当時、残られることとされた移住者
の方々に対しても、政府としては現地での定着と安定のために種々の措置をとってま
いってきている次第であります。
 
責任というのはなかなか難しい言葉でありまして、いろいろな責任があるわけで、外
務省があっせんしたということ、その事実を申し上げているので、そこに何らの責任
がなかったとか、あるいは逆に法的責任があったとか、そういういろいろな難しい話
があるので、事実としての立場はあっせんであったということを申し上げているわけ
で、あっせんは誠実にやらなければいけないというのも当然のことだと思いますし、
そういう中で、私たちは誠実にやったつもりではありますが、いろいろ問題が起きて
いるということも十分承知しているところでございます。

○川内委員 例えば、不動産を商う方たちは、自分が商う不動産の土地にしても建物
にしても、その内容に関して顧客に対して正確に情報を伝えなければならないという
ふうに法律で定められておりますね。例えば、自分が提供した情報に間違いがあった
ならば、その不動産屋さんが罰せられるわけでありまして、不動産屋さんも

あっせんですから、AからBに不動産を移すときに、買い方のBさんに不動産屋さん
が情報を伝える場合に、Aさんから与えられた情報が実際のものとは違っていたもの
をBさんに伝えたら、この不動産屋さんが、あなたが悪いんですよということに世間
で一般的にはなるわけでありまして、あっせんというのは大体そういう意味なのでは
ないかな。
 
私もスペイン語の辞書は買ったんですが、あっせんについてちょっと広辞苑を調べて
こなかったので詳しいことを申し上げられないのですけれども、何かそんな感じがし
て、今大臣がおっしゃるように、大変複雑な問題があるのでちょっと一言では答えら
れないということも私もよく理解をいたしますけれども、このドミニカの問題につい
ては、

それこそまだ、昭和三十六年で政府としては一つの区切りをつけたつもりであるとい
うことでありますが、この四十年間、まだドミニカにいらっしゃる方々、また日本に
引き揚げてきて御苦労されていらっしゃる方々、たくさんいらっしゃいますので、引
き続きのもちろん御努力を賜れるというふうに思っておりますので、よろしくお願い
をしたいと思います。
 
その一環として、内藤部長が一月にドミニカまでわざわざ御訪問をいただいてドミニ
カ政府と日本人移民に関するお話し合いをされてきたというふうに聞いております
が、余り時間もございませんので、ドミニカ政府から今回提供の申し出のあったラ・
ルイーサ地区の土地の問題に関して御報告をいただきたいというふうに思います。

○高村国務大臣 現地政府が日本人移住者に譲渡しようとしている土地の地権に関し
ては、内藤部長が現地を訪問した際に、ドミニカ農地庁の次官から問題はないという
言質を得ているわけであります。本件土地無償譲渡については、ドミニカ共和国政府
の移住者に対する誠意あふれる措置であると理解をしております。政府としては、今
後とも、ドミニカ共和国政府による地権の譲渡が確保されるよう、ドミニカ政府と緊
密な連絡をとってまいる考えでございます。

○川内委員 ちょうど内藤部長がドミニカへ行っていらっしゃる間、ドミニカの方か
らは農地庁の長官が日本にいらっしゃっていまして、私もお会いをしてお話をいろい
ろとさせていただいたんですが、農地庁の長官も地権に関してはすべて根回しは終
わっているので心配はないというようなことをおっしゃっていただいたんです。この
土地に関して移民の方たちの間でもいろいろなお考えがあるようでございまして、一
体この土地がどんな土地なのかということが具体的には問題になってこようかという
ふうに思うわけでございます。
 
実際にその土地が役に立つかどうかということを私もこの土地を見に行かせていただ
いたんですが、サトウキビが放置されておりまして、果たしてどうなのかなというふ
うにぱっと見は思ったわけですけれども、外務省さんはこの土地に関して開発の調査
をしているということでございますが、具体的にはどんな調査が行われているのか。


た、その調査に基づいて、外務省としてその土地を、ただ移民の皆さん方にドミニカ
政府から譲渡されるので受け取りなさい、いい土地だから受け取りなさいと言うだけ
なのか。それとも、全然かんがいの施設も何もないところですから、かんがいの施設
なりあるいは一連の農業をするための施設の整備なりについては日本の政府として前
向きに考えていきますよということまで考えていらっしゃるのか。最後に、そのあた
りの御答弁をいただきたいというふうに思います。

○高村国務大臣 現地政府が日本人移住者に譲渡する土地の調査でありますが、日本
政府が現地のローカルコンサルタントに委託して行っているわけであります。この調
査においては、土質、土壌、水利等の農業基礎条件を調べ、いかなる作物を栽培する
のが適しているかだけではなくて、農牧畜業以外にもどのような有効な利用法がある
のか等についても報告してもらうことにしております。本件調査は現在実施中であり
まして、三月下旬ごろまでには報告書が提出される見込みであります。
 
ODAによる開発支援につきましては、例えば移住者を含む地域の経済社会インフラ
整備のための協力などが考えられますが、基本的には、この調査結果等も踏まえ、先
方政府の要請に基づいて検討することになるわけであります。日本政府としても先方
政府と密接な連絡をとってまいります。
○川内委員 ありがとうございます。
 終わります。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
参考資料としての著作。
カリブ海の「楽園」―ドミニカ移住30年の軌跡
高橋 幸春 (著)
価格: ¥1,260 (税込)
『移民と二重国籍」(52)ミクシィ講座

『ドミニカ移民訴訟の研究』


ドミニカ日本人移民の詳しい歴史を読む事が出来ますHPです。
沢山の写真により、細部の様子を知ることが出来ます。
是非ご覧下さいまして、ドミニカ移住者の悲惨な歴史を認識して下さい。

ドミニカよりの再移住者がパラグワイのイグワス移住地に入植した事や、
アルゼンチンのガルアッぺ移住地に入植した事も知る事が出来ます。  

http://www.geocities.co.jp/NatureLand-Sky/8951/imin4.html

参考書籍の紹介、
『ドミニカ移民は棄民だった」(高橋幸春、今野敏彦:赤石書店)
「ドミニカ物語」(日下部弘:朝日新聞東京本社出版サービス)
「再びドミニカへー我が紀行、ドミニカ移民は今ー」(高石秋助:南の風社)
『移民と二重国籍」(53)ミクシィ講座

『ドミニカ移民訴訟の研究』

山本 浩氏(フリーライター)が執筆された貴重なレポートです、
ドミニカ移住問題の根幹の諸問題を書いておられ、重要な
政府訴訟問題にも関連する貴重なレポートとなっています。

ドミニカ移民訴訟問題の研究の上で、この山本氏の視点は
重要な位置ずけとされるレポートと感じまして、皆様に紹介
致します。


定例会報告(第42回、2001年1月27日) ドミニカ移民問題から見た日本の移民政策                                       

ジャーナリスト 高橋 幸春(たかはし ゆきはる)さん  1965年から3年間で、およそ250家族が農業移民としてドミニカ共和国に渡って
いった。ブラジルをはじめとする他の移住地と比べても格段に好条件の募集に胸を躍
らせて。だが、「カリブ海の楽園」との宣伝とは裏腹に耕作に不向きな土地ばかりの
ドミニカで、移民たちは食べることさえ困難な過酷な生活を余儀なくされた。そし
て、約束されていた優良農地を得ることができた者は未だひとりとしていない。

 このドミニカ移民問題について、『カリブ海の「楽園」』などの著述をはじめとし
て、日本政府の移民政策を問う活動を続ける高橋幸春さんに話していただいた。日本
政府に対して損害賠償請求訴訟を起こすにいたるドミニカ移民の運動に自ら深く関
わってきた高橋さんの話は、ドミニカ移民問題を見る新たな視点を与えてくれる。

  ドミニカ移民入植の経緯

 戦後、失業人口の増加などによる社会の混乱の解消を目的として、日本政府は移民
政策を積極的に推進していた。こうした動きの中でドミニカ移民も生まれることにな
る。

 もともと農業移民を受け入れられるほどの肥沃な土地を持たないドミニカが日本人
移民導入を表明した裏には幾つかの思惑があった。日本の農業移民は優秀で国家の発
展に寄与することができるとのアメリカからの伝聞や、砂糖の輸出先として日本が期
待できるといった要素が当時の独裁者を動かしたのだ。受け入れを表明した独裁者の
一言でどんどん話が進んでいった、と高橋さんはいう。しかし、事務レベルに計画が
具体化されると、ドミニカ側も受け入れの環境が整っているとはいえないと考え、日
本人移民導入に難色を示した。にも関わらず、日本側が拝み倒して送り出していく、
といった状況が当時あったようだ。日本側としては受け入れてくれさえすれば何処で
もよかった、と高橋さんは見ている。

 そんな状況にも関わらず、住居の提供、最大で18ヘクタールの土地の無償譲渡、自
立するまで生活給付金支給といった驚くほどの好条件に集まった250家族が移住して
いくことになる。条件が格段に良いだけに選考も非常に厳しく、「ドミニカ移民は移
民の中でエリート」とさえいわれたという。

「あっという間に食えなくなる」移住地
 ブラジルをはじめとして数々の日本人入植地を訪れてきた高橋さんが、「ドミニカ
ほど酷いところはなかった」という移住地は岩の露出した急斜面であったり、一面に
塩分が浮かび上がった真っ白な砂漠であったりと、とても農地と呼べるようなもので
はなかった。また、もともと水源が乏しいうえに、灌漑設備も整備されておらず、と
ても耕作が始められるような状態ではなかったという。移住者の生活が「食うや食わ
ず」の状態になるまでに時間はかからなかった。

 困窮した生活に苦しむ移民の姿は、当時南米の日本人入植地ではいたるところに見
られた。しかし、高橋さんはドミニカ移民の生活の過酷さを強調する。例えばブラジ
ルでは飢えるということはまずない。長大なアマゾン川の流れる、いわば自然の恵み
に溢れた土地では、潤った生活には程遠いにしても食べるものは手に入れることがで
きる。これに比べて、ドミニカの移住者たちは日々の糧を得ることすらままならない
生活を強いられた。昼バナナ1本、夜バナナ1本といったまさに「食うや食わず」の
生活だった、と高橋さんはいう。

 移住者たちは、華々しい宣伝とはかけ離れたドミニカの現実にすぐに抗議の声をあ
げた。しかし、大使館や海外協会連合会(現国際協力事業団)に抗議の文書を送りつ
けてもいっこうに取りあげらることはなかった。次に移住者たちは、新聞社などのマ
スコミに窮状を訴える手紙を送る。これが功を奏して、日本国内でもドミニカ移民問
題が取り上げられ、1961年の集団帰国へと繋がっていくことになる。帰国者が語るド
ミニカの現実は社会党を中心に国会でも取り上げられ、ドミニカ移民問題は大きな社
会問題となった。これに危機感を感じた日本政府は、集団帰草ュ策から、移民をブラ
ジルやパラグアイに振り分ける再移住政策を採るようになる。

 政府の移民政策を問う動きも長くは続かなかった。何しろ帰国者自身が、財産を使
い果たして着のみ着のまま帰り着いた日本での生活の確立に努めることだけで精一杯
だったのである。それぞれの地方に帰って泣き寝入りが現実、と高橋さんはいう。

 1961年以後、133世帯が集団帰国し、70世帯が再移住していった。そして、47世帯
がドミニカに残った。残った移住者たちは、移民受け入れを決めた独裁政権が倒れた
あと、以前にも増した苦況に立たされながらも、引き続きドミニカから日本政府に向
けて抗議を続けることになる。

 独裁政権が倒れると、各地に日本人排斥の動きが起こった。移民を受け入れるため
に独裁者が用意した土地は、現地の所有者からろくな補償もせずに奪い取ったもの
だったのだ。小屋が壊され農機具を盗まれることはもとより、収穫間近の耕作地に牛
などを入れて収穫物を食い荒らされるといった嫌がらせさえも受けたという。

 ドミニカが隣国ハイチとの紛争や、相次ぐ政治紛争を経て、国家の体裁を整えるよ
うになるのは1970年代に入ってからのことである。ちょうどその頃から移住者の間で
も日本人会などがつくられるようになって、土地の配分を会として要求するようにな
る。だが、ドミニカには、そもそも国有地は絶対に私有地にはならないという法律が
ある。融資を得るための銀行の担保にすらならない耕作権だけが移住者に譲渡され
た。募集要項にあった土地の無償譲渡はでたらめで、開拓した土地はあくまでも国有
地のままだったのである。

移住者への融資の実態
 相変わらず「食うや食わず」の生活を強いられたまま移住者たちは、1987年には東
京弁護士会に人権侵害の申し立てを行い、これが受理される。法的な効果は期待でき
ないにしても、人権侵害の裁定が下れば外務省や国際協力事業団に勧告ができるよう
になる。さらに翌年には日本弁護士会へ審理がいわば格上げされ、マスコミにも頻繁
に取り上げられるようになった。現地調査団が組織され、日本政府を訴える訴訟も視
野に入れた移住者たちの運動はいっそう活発になっていった。日本人会は団結して、
公式な謝罪、募集要項通りの土地の配分、学校や日系人会館の建設、日系社会育成基
金の設立を求めた。

 活発化する動きにあわてた日本政府は事業団を通して移住者への融資を積極的に行
うことでこれに対応した。これまでは融資を受けられないという差別をあからさまに
受けてきた、日本政府の責任を厳しく追及するグループにも、日弁連の審理が始まっ
た年から融資が行われるようになる。「それで黙らせようとしたんだと思います」と
高橋さんはいう。困窮した生活を送る移住者たちは、こうした融資に飛びついた。

 日弁連の裁定を求める動きが活発になるにつれて、融資の額は大きくなっていく。
1993年には外務省の調査団がドミニカに派遣されたが、このときもこれまでにないほ
どの高額な融資が移住者たちに提示される。これまでは数百万円の融資額だったのに
対して、1000万単位で、最高で2400万円の融資が持ちかけられた。それはドミニカの
分価は日本の約10分の1、私たちが1億円、あるいは2億4千万円を借りたのと同じ
ことになる。ドミニカでは成功した人でも200万円ほどの年収である。移住者の間で
も100万円稼げればいい方とされた。そこに途方もない金額の融資が行われたのであ
る。これには、運動の先頭に立ってきた日本人会幹部も手を出してしまう。

●裁判との決別 「あっという間に、200世帯ほどになっている日系人社会に6億円以上の金がばらま
かれた」と高橋さんはいう。高橋さん自身、ドミニカ移民救済活動に積極的に関与す
る中で、インフレの進むドミニカで、返済に窮する移住者を見てきているだけに「融
資は毒饅頭」だと訴え続けてきた。だが、知らないうちに多くの移住者たちが返済不
可能な融資に手を出している現実に大きな失望を覚えたという。融資の回収率は低
く、8%ほどに落ち込むこともあって、9割の移住者が返済していない。これでは
「返す気がないと思われても仕方がない」と高橋さんはいう。

 さらに農業融資であるはずの資金が転用されている事例も高橋さんは確認している
という。1800万円もの融資金をプエルトリコの銀行に預けてその利子で生活費を捻出
する、といった現実が高額な融資の裏に潜んでいるのだ。他にも、似たような噂が日
系人社会を覆っているという。高額の融資を求めて、日系人会などの幹部になりたが
る者が殺到した。日本政府の責任追及のリーダーシップをとる者に向けて、事業団の
融資はばらまかれたのだ。

 こうした状況に、高橋さんを含めた学者や弁護士の支援グループは訴訟に向けた支
援活動との決別を決める。「移民としての誇りもなく、あまりにもやっていることが
えげつない。こうした運動には世論のバックアップが必要なのに、とてもじゃないけ
ど支持は得られない」と憤りを込めた口調で高橋さんはいう。その裏には、著書『蒼
氓の大地』に描かれた、ブラジル移民の子孫である夫人の家系を顧みた思いも含まれ
ている。

「ブラジルにもボロ雑巾のようにのたれ死んでいる移民はたくさんいる。その人たち
の思いもひっくるめてドミニカ移民に声を大にして日本政府を告発して貰いたいと考
えていたが、結局、裁判は借金、踏み倒しと思われてもしかたのないものになってし
まった」とその思いを高橋さんは語った。

 融資のやり方も含めて日本の移民政策の告発は続けていくという高橋さんは、係争
中の裁判の結果を見据えてまた書いてみたい、と最後に付け加えた。

(山本 浩・フリーライター)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

■外交・防衛議事録 よりドミニカ移住問題の質疑応答。
 
 重要なポイントが隠されています、ご自分で読み解いて
 下さい。前編からの(1)〜(5)までのデーターの要点と比
 べて見ると政府側の隠された意図が分ります。
 


_委員長(山本一太君)
御異議ないと認め、さよう取り計らいます。
これより質疑に入ります。
質疑のある方は順次御発言願います。

_尾辻秀久君
まず、JICAの問題から片付けましょう。
 今日、理事長に出席をお願いしましたけれども、御出席でありません。理由を教え
てください。

_参考人(畠中篤君)
JICAの理事長の出席要求をいただきましたが、本日はどうしてもよんどころない
事情で出席することができなくなりました。大変申し訳なく思っております。

_尾辻秀久君
お差し支えなかったら、よんどころない事情をお教えください。
 なぜ私がこだわるかというと、先日、予算委員会でも出席をお願いいたしました。
海外にお出掛けだということでおいでになりませんでした。今日で二回目でありま
す。したがって、こだわります。どうぞ。

_参考人(畠中篤君)
 前回お呼びいただきましたときには、お話しのとおり、海外出張中でございまし
た。今回は、出張から戻ってまいりました直後でございますけれども、ちょっと事情
がございまして、ちょうど体調を崩しておりまして、ちょっと病院の方に行かざるを
得ないということでございます。御了承いただきたいと思います。

_尾辻秀久君
今、理事長はどのぐらいの頻度で海外にお出掛けになりますか。

_参考人(畠中篤君)
これまで、最近の例で申し上げますと、三月に一度出張をいたしました。それから、
四月に今予定されておりますのは二回ほど出張する予定がございます。そのほかに、
五月、六月に一回ないし二回出張することが今検討されております。

_尾辻秀久君
 海外には月に二回お出掛けになるけれども、国会には出てこない、こういうことで
すね。

_参考人(畠中篤君)
 大変申し訳ございません。そういう趣旨ではございませんで、先回御要求をいただ
きましたときに既に海外に出ておりましたので、そういうことで御了承をいただいた
経緯がございます。

_尾辻秀久君
 そのことを言っているんじゃないんです。今日おいでにならなかったことを聞いて
いるんです。
 これ以上はもう言いませんが、皆さんもお聞きのとおりでありますから、国会をこ
ういうふうに軽視されても困ります。
 改めて、委員長、参考人として呼んでいただきますようにお願いをいたします。

_委員長(山本一太君)
ただいまの件につきましては、追って理事会においてその取り計らいを協議したいと
存じます。

_尾辻秀久君
したがって、今日はJICAへの質問はいたしません。ただ、どうぞ、JICAへの
質問につながる議論でありますから、議論だけは聞いて帰ってください。
 改めまして、予算委員会に引き続いてドミニカ移民問題について外務省の責任をた
だします。
 当委員会での質問は初めてでございますので、この問題での質問は初めてでござい
ますので、ドミニカ移民といいましても御存じない先生方もおありかと思いまして、
お手元に新聞のコピーをお配りしてございます。ごらんいただければ有り難いです。

 まず、移住部長に聞きます。
 先日の予算委員会での私への答弁をもう一度よくチェックしてください、こういう
ふうに言いました。大きな虚偽の答弁があったことにお気付きですか。

_政府参考人(鹿取克章君)
先回、ドミニカ移住問題について予算委員会で御答弁いたしました。そのときには、
まず当時の移住政策の位置付け、例えばこれが国策であったか否か、こういうような
議論から始まったと存じております。

_尾辻秀久君
 時間がないんで、余計なことは答えないで結構です。
 虚偽答弁があったことに気付きましたか、気付きませんでしたかと聞いたんです。
答えてください。

_政府参考人(鹿取克章君)
 虚偽答弁というもの、申し訳ございません、今どの点についてお尋ねなのかノノ。

_尾辻秀久君
それでは、私から指摘をいたしましょう。
 最終案文までありながら移住協定をなぜ結ばなかったんですかと聞きました。あな
たは何と答えたかというと、当初のドミニカの事情。それは何だと聞いたら、当時、
移住を非常に積極的に推進したトルヒーリョ大統領も暗殺された、そういう事情でご
ざいますと、こう答えました。
 じゃ、移住協定を結ばずに移住を始めたのは何年ですか。

_政府参考人(鹿取克章君)
 一九五六年でございます。

_尾辻秀久君
 昭和三十一年ですね。
 トルヒーリョ大統領の暗殺、何年ですか。

_政府参考人(鹿取克章君)
 一九六一年、昭和三十六年でございます。

_尾辻秀久君
 あなたは五年後のことを理由にしたんですよ。こんなのふざけた答弁と言わずに何
と言うんですか。まさしく虚偽ですよ。

_政府参考人(鹿取克章君)
 先生よく御承知のとおり、ドミニカについては移住協定についての交渉が行われま
して、また移住協定の案というものもできました。しかし、最終的に移住協定が結ば
れなかった背景には、その後ドミニカのいろいろな状況があって、結局、移住協定の
締結には至りませんでした。
 また、当時いろいろな国、例えばブラジルであるとかボリビアであるとか移民が行
われておりましたけれども、そういうような国、ボリビア、失礼いたします、ブラジ
ル等移民が行われておりましたけれども、そういう国々との間におきましてもまず移
住は行われました。

_尾辻秀久君
 さっきから言っているように、余計なことを答えなくて結構です。
 あなたは、この前の私の答弁で、なぜ移住協定を結ばなかったのと聞いたら、トル
ヒーリョ大統領が暗殺されたからですとちゃんと答えているじゃない。議事録にあり
ますよ。それ認めますか、認めませんか。それから答えてください。

_政府参考人(鹿取克章君)
そういう御答弁をしたことはそのとおりでございます。

_尾辻秀久君
五年の差があるんですよ。ここでなぜそうなったと言ったら五年後の話をして、これ
が理由ですと。世の中そんなことが通りますか。

_政府参考人(鹿取克章君)
当時、ドミニカにつきましては、今先生御指摘のとおり、移住協定についても交渉が
行われ、話合いが行われ、案文もできたことは事実でございます。

_尾辻秀久君
だから、案文ができたことなんか知っているから、こっちから言っているから、そん
なこと繰り返さなくていいですよ。
 五年後のことを何で理由にしたのと聞いているんだから、それ答えてくださいよ。


_政府参考人(鹿取克章君)
当時、ドミニカとのその交渉に当たるに当たってドミニカ政府と話合いを進めたわけ
でございますけれども、ドミニカ側におけるいろいろな状況が変わったということで
結局協定は結ばれませんでした。その変わった背景の一つとして大統領の暗殺をも述
べた次第でございます。

_尾辻秀久君
だから、その大統領の暗殺は五年後だって言っているじゃない。五年前のことと何の
五年後のことが関係があるの。あなたはそれを絡めて答えたんだよ。そんないい加減
なこと言わぬでくださいよ。

_政府参考人(鹿取克章君)
 当時の日本政府の考え方と申しますのは、ドミニカ移住については、先生御指摘の
とおり昭和三十一年に開始いたしました。その時点ではまだドミニカとの移住協定は
ございませんでした。しかし、日本政府としては、一定の実績を積み上げつつドミニ
カ政府と交渉して移住協定を結ぶと、こういう方針でございました。そして、先ほど
先生が御指摘のとおり、案文も作ったわけでございます。

_尾辻秀久君
 もうここで引っ掛かり出したら、これで全部時間使いますよ、もう。本当にそんな
ばかばかしい話はない。皆さんも聞いてくださいよ。五年後に起こったことを理由に
して、ここで駄目でしたって、そんなのは通る説明じゃないということをもう自ら
悟ってくださいよ。そして、あなた方はもういつもこの繰り返しなんだ。何を聞いて
もこれ言うんですよ。
 じゃ、次の質問に行きますよ。いいですよ、もう、今も一つうそ言ったというのが
ばれたんだから。次またどうせうそ言うんですから、聞いておいてください、皆さ
ん。
 長い間逃げ回ってきたけれども、先日、ついに国策移民であったことは認めました
よね。これは認めた。認めましたね。

_政府参考人(鹿取克章君)
 当時、戦後の移住政策が外交政策の重要な柱であるという意味において、それが国
策であったと表現されたことを御説明申し上げました。

_尾辻秀久君
 国策だと言った途端に都合が悪くなるものだから、今まで国策だとは死んでも言わ
ぬぐらいで言ってこなかった。しかし、どんどんばれてきた。
 もう一杯あり過ぎるから、今日も一つだけ御紹介しておきますよ。
 昭和三十年三月二十一日、外務省移住参事官、移民を国策として確立しなければな
らない、高らかにうたい上げていますよ。言っておるんですね。だから、これはもう
あなた方も逃げようがないから認めた。ところが、今度は何と言い訳するか、重要な
外交政策という意味で。
 じゃ、改めて聞きますよ。外務省にとって重要な外交政策というのはどんな位置付
けになりますか。外務省にとって一番大事な仕事じゃありませんか、外交政策という
のは。違いますか。それを答えてくださいよ。

_委員長(山本一太君)
どなたに御答弁。

_政府参考人(鹿取克章君)
重要な外交政策と申し上げましたけれども、例えば、昭和三十六年、あるいはその当
時の外交青書を例えば見ましても、当時、戦後、海外移住ということで非常に大きな
比重が置かれておりました。それを踏まえて、私、先般の委員会で重要な外交政策と
申し上げた次第でございます。

_尾辻秀久君
 またここで止まっていてもしようがないから行きますけれども、重要な外交政策と
外務省が言ったんでしょう。それは一番大事な仕事としてやりましたということを取
りも直さず言ったんですよ。それで、変なもう言い訳しないでくださいよ。
 関連してもう一つ聞いておきますよ。
 昭和三十七年三月、決算委員会であなた方は何と答えているか。「これからの移住
の推進の仕事は、役所の行政よりも、むしろ行政はできるだけ簡素にして、海外移住
の実務機関である海外協会連合会に仕事の重点を置いていくということが、一番実際
的ではないかと思います。」、こう答えていますね、昭和三十七年に。
 ということは、昭和三十七年以前は行政が主体的に実務をやってきたということを
ここで言っているわけですよ、裏返せば。そうですよね。違いますか。

_政府参考人(鹿取克章君)
 戦後の移住政策につきましては、外務省が主務官庁としていろいろ携わってきたと
いうことは御指摘のとおりでございます。

_副大臣(阿部正俊君)
 委員長。

_尾辻秀久君
 いや、あの、副大臣答えないでください。いいですから。仲間内が出てこられると
矛先鈍るので、申し訳ないけれども最後にお願いしますから、よろしくお願いしま
す。
 まあここでも止まらないけれどもね。あなたが言っていることは、もう何聞いても
めちゃくちゃなんですよ。実務としてやっているということはここでちゃんと認めて
いるじゃないですか。それで、その実務をできるだけ海外協会連合会に移そうと、こ
う言っているんだから。実務やってきたということで、実務までやっているというこ
とをあなた方は認めておるんです。そこも言っておきます。
 それから、もうあなた方が言うことで私にさっぱり分からぬことが一つある。それ
は何か。あっせんしただけだから国に責任がないと、こう、もう繰り返し繰り返し言
う。あっせんというのはそんな責任のないことなんですか。私は、国があっせんした
から責任があると思うんですよ。移住部長、どう思います。

_政府参考人(鹿取克章君)
 今先生御指摘のとおり、海外移住については外務省があっせんを行ってきました。
そういう意味で、政府として移住政策にかかわっていたことは事実でございます。ま
た、移住者の方々が志を遂げることができず帰国に至ったこと等については、従来か
ら外務省としても責任を感じているということを申し上げております。
 なお、先生よく御承知のとおり、法的な問題については今裁判で議論されておりま
すので、その問題については裁判で引き続き議論されることと思いますけれども、従
来から外務省としても責任を認めているということは申し上げております。

_尾辻秀久君
責任は認めたんですね。認めていますね。これ確認しますよ。

_政府参考人(鹿取克章君)
 移住者の方々が所期の目的を達成しなかった、そういうことについて責任を認めた
ということは申し上げております。

_尾辻秀久君
 責任を認めるときにごちょごちょ言っちゃいけないんですよ。本当にごめんなさい
と言った方が分かりがいい。余計なこと言う必要ないと私は思います。しかし、これ
がまた外務省のやり口なんです。
 次に、また聞いておきましょう。
 この前の質問で、あなた方は、募集要領は国が作りました、で、募集要項は海協連
が作ったんですと、こう言いましたね。要領は国が作った、要項は海協連。そして、
要項を作ったのが、この要項で募集をしたから、あなた方の逃げ口上で、海協連が
作った要項なんであって我々には責任がありませんと、こう言ってきましたよね。
 そこで、この前、私は質問をした。要領と要項、どこが違いがあるかといったら、
全く同じですと答えましたよね。要領と要項、この前、川内先生が衆議院で一字一句
違わないかって聞いたら、まあ、あなたなんかも答えるもので、写し間違いがありま
すから字がちょっと違っていますなんてばかな答弁していたけれども。そんなのはど
うでもいい話で、要するに、ああいうのは日本語では普通一字一句同じという話なん
ですよ。写し間違いがありますなんというのは、そんなのはもうどうでもいいことな
んだ。要するに同じものなんですよ。
 それじゃ、要項が要領と同じものだったら、要領を作ったあなた方に責任があるわ
けじゃないですか。もうここのところもあなた方の言うことは分からぬ。答えてくだ
さい。

_政府参考人(鹿取克章君)
 今先生が御指摘のとおり、政府の作った要領と海協連が作った要項は、内容は同じ
ものでございます。また、その要項に含まれている、あるいは要領に含まれている情
報というのは、政府が地元で収集したり、あるいはドミニカ政府に聞いたり、調査し
たり、そういう情報も含まれておりますし、もしもその情報についての責任というこ
とであれば、その情報を収集したそれぞれ、例えば外務省が収集した情報であれば、
それはその情報については外務省が責任を持つべきだと考えております。

_尾辻秀久君
 違うんですよ。あなた方はそうは言っていないんだよ。これまた、平成十年十月、
外務委員会、衆議院ですけれども、何と答えているか。「募集要項、その表現につき
ましては、日本政府が直接書いたものではないという意味においては、仮に誤解が生
じたとすれば、その日本政府の伝達した情報が募集要項に書かれた際に不十分な解釈
が行われたと考えます。」なんて、こんなことをしゃあしゃあと言っているんです
よ。
 じゃ、同じものなのにどうやって不十分な解釈が起こり得るんですか。説明してく
ださいよ。

_政府参考人(鹿取克章君)
先般、尾辻先生からその答弁について御指摘があって、私もその表現について、もし
も誤解を招く点があったらそれは申し訳ないと申し上げた次第でございますが、当時
の答弁を考えますに、制度としては、政府が作る募集要領というものがありまして、
また海協連が作る募集要項というものがございます。海協連は、その政府の募集要領
に基づいて募集要項を作ります。そういう仕組みを念頭に発言したのではないかと私
は思っておりますけれども、先生御指摘のとおり、募集要領と募集要項は内容は同じ
ものでございます。

_尾辻秀久君
だから、この答弁は明らかにごまかした答弁じゃないですか。うそ言っていますよ、
ここでも。
 しかも、今のあなたのその言い方なら、これは募集要項を外務省が指示して作らせ
たという資料は一杯ありますよ。今日はそこまであなたが言うとは思わないから持っ
てこなかったけれども。皆さんにしつこいと言われるだろうけれども、また出てきて
私やりますよ、今のあなたのその答弁じゃ納得できないから。募集要項そのものも外
務省が作らしていますよ。作らしたという証拠は幾らでも出せる。
 それじゃ、次に行きますよ。この前、あなたは答弁で、あなた方の事情で三月二十
七日にどうしても交換公文が固まっていなきゃいけないんですよね。なぜかという
と、三月二十九日に募集を始めちゃったから。三月二十九日に募集を始めたから、そ
の二日前の三月二十七日にどうしても交換公文が固まっていなきゃ都合が悪い。だか
ら、固まった、固まったと言うんだけれども、これはこの前の質問で確認しましたよ
ね。「本書簡に対する返簡との交換によって確定される」と書いてある。だから、確
定されるとは書いていない。その「書簡に対する返簡との交換によって確定される」
と書いてあって、その返簡を出したのが四月二十四日であるということもあなたは認
めた、この前。これでもまだ三月二十七日に確定されたと言いますか。

_政府参考人(鹿取克章君)
先生御指摘のとおり、日本政府が返簡を出したのは四月二十四日でございます。た
だ、当時その段階で私が御説明したのは、三月二十七日の書簡で、日本側として日本
側の関心事項については固まっていましたと。それに基づいて日本側は募集を、募集
要項を作り募集を開始いたしました。それはなぜかといえば、その三月二十七日の書
簡に至るまでにドミニカ政府と様々な協議があって、三月二十七日にドミニカ政府か
ら書簡を入手したときにはおおむね日本政府として考慮していた点が合意されてい
て、固まっていたからでございます。

_尾辻秀久君
あなた方はそういういい加減な外交をいつもしているんですか。交換公文でこれ、
こっちから返簡して確定しますよって向こうが言ってきているのを、そしてその手紙
出したのが四月二十四日だって認めていて、その前に確定されましたなんて、そんな
外交をしているから北朝鮮になめられるんですよ。
 もうだんだん頭にきたから、もう言わずに済まそうと思ったことまで言いますよ。
この前も言った、アルベルト・E・デスベラデルという人、ドミニカのキャリア外交
官ですよ。日本の駐日大使を五年もした人。この人が何と言っているか、この辺のい
きさつを。日本国側が急速に事を、事を進める、進める余り、移民の送り出しと入植
のペースがうまく合っていなかったのは明らかであった。日本政府官僚はその場限り
の対応で過失を犯してしまった。日本外交政策の悔やまれる過ちであり、国家主権間
外交術を知る者にとっては理解、理解し難いことである。ここまで言われているんで
すよ。この前も言いましたけれども、もう日本外務省、本当に恥知ってください。
 それから、これは私への質問の答弁じゃないんだけれども、今日も来ていただいて
いる衆議院の川内先生への答弁で何とあなたは答えているか。政府の調査がずさんだ
とは考えておりません、政府の調査がずさんだったとは考えておりませんと答えてい
ますよ。あなたは本当にそう思っていますか、もう一回聞く。

_政府参考人(鹿取克章君)
この点については、訴訟においてもいろいろ問題が提起されたところでございます
が、我々、準備書面においても、政府の調査がずさんであったとは考えていないと、
こういう趣旨で議論しております。

_尾辻秀久君
 それでそのとき、中田技官の調査もありますと言っていますよ。もうこの辺から私
も座っておるわけいかぬから、立ちます。
 このあなたがこの調査もありますと言った中田さんが何と書いているか。この本物
はこんなぼろぼろのがあるんですけれどもね。コピーした方で読みますよ、この中田
さんが何と言っているか。当時私が政府の役人という立場でネイバを調査に行きまし
たが、本当を申しますと、私が調査に出る二か月前に既に貴殿方の入植が決まってお
りましたので、こんなのをずさんと言わずに何と言うんですか。そんな先入観、つま
り、そんな気持ちで調査をいたしましたので、その当時のことを聞かれましても調査
を十分にやったと私も言えません。大変気の毒なことであって、謝っても申し訳あり
ませんと、ここまで言っているんですよ。私も大それたことをやったものですと本人
が言っているんだ。あなたはこれで十分な調査をしたという根拠にしているんです
よ。
 移住部長、もう一回聞く。あなたの良心で答えてほしい。本当に十分な調査が行わ
れていたか。

_政府参考人(鹿取克章君)
この調査の問題については、今先生が御指摘のとおり、大きな議論の対象にこれまで
もなっておりまして、昭和三十七年、例えば国会では中田技官も自ら答弁に立ってお
ります。そのときにもいろいろ経緯がございました。
 私どもとしては、裁判所の準備書面に書いてあります、裁判所の準備書面において
も主張しておりますとおり、この調査がずさんであったとは考えておりません。

_委員長(山本一太君)
 尾辻委員に申し上げます。外交防衛委員会は着席のまま質問することがルールに
なっておりますので、そのまま御質問をお願いしたいと思います。

_尾辻秀久君
 分かりました。
 立ち上がらずにおれないような答弁しないでください。
 更に聞きます。それじゃ聞きますよ。この前あなたに読んでもらったくだりがあ
る。これは池田支部長の報告。当時のドミニカの池田支部長の報告。何と報告してい
るか。小職、先年視察したブラジル、パラグアイ、ボリビア、アルゼンチンなどの日
本人移住地や青森、岩手、山梨、宮崎各県下の戦後の開拓地などと比較して、諸種の
悪条件がこれほど重なっている移住地はほかにちょっと思い当たらぬぐらいであっ
て、同行の飯島事務官も同様の所感を述べられていた。もちろん、同行の移住者たち
に対してはかかる所感は述べなかったが、内心彼らもよく今日まで頑張ったものであ
ると感じざるを得なかった。ネイバのあるバルコ県はドミニカの小学校用地図にも明
記されているごとく、年間雨量五百ミリ以下でドミニカにおける最高の乾燥地帯であ
る。
 こんなところに、あなたではないけれども、あなたの先輩たちは同胞を送ったんで
すよ。そして、はっきり言わせてもらうけれども、見殺しにしたんですよ。
 もう一回、移住部長としてのあなたには聞かない。鹿取さん、あなたに聞く。あな
たの良心で、の呵責はありませんか。

_政府参考人(鹿取克章君)
 私もこのときの状況を、今先生がお読みになりましたものを読みまして、また昭和
三十七年当時の国会の記録なども振り返ってみました。
 私としては、準備書面で述べておりますとおり、政府の調査についてはずさんでは
なかったと考えております。

_尾辻秀久君
 つくづく宮仕えは悲しいものだと思います。
 宮仕えでない方の方に聞きます。大臣に聞きます。この前いろいろ御答弁いただい
た。気になるところを二点だけ聞きます。
 大臣、何と言ったか。非常に現地に行かれて成功していらっしゃる方もいらっしゃ
いますと、こう言っておられます。例を挙げてください。

_国務大臣(川口順子君)
 その発言を私がいたしましたときに幾つかのことが頭にありました。阿部副大臣に
御出張に行っていただいてその御報告を私が聞きましたときに、阿部副大臣がメヒー
ア大統領に表敬をなさった。そのときに先方からお話があった中で、在ドミニカの日
系人社会、これが非常に活躍をしているということについての評価があったという御
報告をいただいています。
 それから、同じようなことを私は今から一年半ぐらい前に、ドミニカの外務大臣が
日本にお見えになられたときにお目に掛からせていただいて、そのときも幾つかの土
地の問題等についてお話をさせていただきましたが、そのときにもそのドミニカの外
務大臣から、日本の移住者はドミニカ共和国社会を尊重して、またドミニカの社会か
ら尊敬をされる存在である、そして有益な貢献をしていると、そういう評価をしてい
ただいたわけです。
 移住先の国の大統領、そして移住先の国の外務大臣からそういう高い評価をしてい
ただける日系人社会というのは私はすばらしいと思いました。それで、そういう評価
をしていただけること自体成功をしているということであると私は評価をいたしてお
ります。もちろん、あのときに申し上げましたように、その中には全員がそういうこ
とではないであろうということも、これも副大臣から御報告をいただいているわけで
す。
 それから、あの答弁のときにも私申し上げたと思いますけれども、そういう成功を
なさった方もそうでない方も、それは大変な苦労をなさった。それから、志を抱いて
行かれてそういうことにならなかった方もいらっしゃるわけで、それはお気の毒であ
るとあのときも申しましたけれども、お気の毒であるとしか申し上げようがないとい
うことであるわけです。それから、その方々がドミニカの異国において厳しい環境の
中で正に御自分の努力を積み重ねられてそういう社会の中で地位に立たれた、そうい
うことも私は十分に認識をしているつもりです。
 そういったことが頭にあって、成功なさった方もいらっしゃった、また不幸にして
そうでない方もいらっしゃった、そしてそれらについて、後は繰り返しませんけれど
も、そういうことを申し上げたということでございます。

_尾辻秀久君
 外務省の答弁というのは、ずっと聞いていて、非常にずるいんです。
 いろんなずるさがあるんだけれども、今の答弁もそのずるさの一つなんです。なぜ
かというと、都合が悪くなると裁判の争点だからといって裁判のせいにして逃げる。
私が、そうじゃない、裁判の話じゃないといって質問しても、いや、裁判ですからと
逃げる。
 今の話も正にそうで、もしあなた方が言うように裁判の争点にするのであれば、そ
の成功したという人たちが入植した地で頑張られて、そこで成功したというんならそ
れはいいんです。今の裁判の争点、そうじゃないでしょう。あなた方が何の責任も果
たさずに流浪の民になったということで争われている。その流浪の民が必死になっ
て、正にあなた方にどん底に突き落とされて、そのどん底からはい上がってきて、頑
張って、やっと成功した人たちのそれをとらえて結果としていいだろうと言ったら、
それは裁判の話とは別じゃないですか。
 ですから、改めて聞きますよ、あなた方が裁判裁判と言うから。本当に入植地に
残って成功した人が一人でもいるんなら教えてくださいと聞いているんです。大臣、
答えてください。

_国務大臣(川口順子君)
 私の申し上げようであるいは誤解をいただいているようなことになっているのかも
しれないと今思いながら伺っておりましたけれども、私が申し上げたのは、成功して
いる人がいらっしゃる、すばらしいことだと思いますが、あるいはそうならなかった
方もいらっしゃる、それ が裁判の争点であるということを申し上げたわけでは全く
ないわけです。

_尾辻秀久君
ですから、いいですよ、ごしゃごしゃ言わなくても。入植した土地で最後まで頑張ら
れて成功した人の例を言ってくださいと聞いているんです。一人でもありますか。
言ってください。

_副大臣(阿部正俊君)
 私が大臣に御報告申し上げたのは、率直に申し上げまして、農業といいましょう
か、入植の当初の目的に沿って大成功と、大きな成功を収められた方というのはまあ
非常に、まあまずないだろうなという感じはいたしました。むしろ、これは国内でも
どこでも同じようなところはありますけれども、開拓地ということになりますと、と
いうことですけれども、それはやっぱり相当違った形でのその後の、数年、数十年
たっていますし、いろんなほかの分野に進まれたりして大活躍されている方々もおら
れるなという、そんな印象を大臣に率直に申し上げたところでございます。

_尾辻秀久君
 そう答えてもらえばみんな納得しますよ。
 そのとおりなんですよ。あなた方が送り込んだ入植地じゃだれも食えなかったんで
すよ。みんな流浪の民になったんです。それで、町の中に、言葉は悪いかもしれぬけ
れども、浮浪者みたいにして行っちゃったんですよ。それで、一浮浪者から頑張って
たたき上げてきたんです。それは、あなた方がカリブの楽園といううたい文句で募集
したから、本当に今行って話をすると優秀な皆さんだったというのが分かりますよ、
すさまじい競争率の中から送られた人だから。あのころ、カリブの楽園といううたい
文句で募集すりゃ、それは殺到したんですよ。
 そういう優秀な人たちが送り込まれたから流浪の民になったけれどもはい上がった
んですよ。それを、成功した人もいるからいいでしょうと言われたら、それはたまら
ぬ。そのセリフだけはやめてほしい。それは、ここにも関係の皆さんおられるけれど
も、怒り心頭に発しられるから、もういい。__大臣、黙ってください。もういい。聞
いたら、なお腹立つ。
 それで、もう一つ大臣の発言で気になるところを言っておきますよ。何と言ってい
るか。同じ移住者同士がけんかになって、表現はちょっと違うけれども、悲しいこと
ですと。仲良くやっていけるように現地の大使も今一生懸命にやっておりますと答え
ていますよね。
 何やってんのか答えてください。

_国務大臣(川口順子君)
私が理解をいたしておりますのは、これは大使としてその日系人社会の融合が大事で
あるという観点で、例えばその日系人社会を対象にしたいろいろな催し事、新年会で
すとか、新年会兼成人式ですね、あとは敬老会、そういったものを主催をするという
ふうにしているということと、日系団体が主催をしている、盆踊りですとかスポーツ
の会合があるということのようですけれども、そういった行事に積極的に参加をする
というふうに心掛けているということを聞いておりまして、私はこの大使の日系人社
会とのかかわり合いというのは、これはほかのどこの国でもそうですが、非常に重要
であると思っていまして、引き続き、特に先ほど、この前の予算委員会で私が申し上
げたという問題意識をずっと阿部副大臣から報告も聞いて持っております。
 したがいまして、それについて、大使としてもっとやるべきことを引き続きやって
いくようにと、まだ私はそれが十分になされているというふうには思っておりません
けれども、それを引き続きやるようにという指示も出しております。この間、予算委
員会で申し上げた幾つかのことというのは、そういう問題意識を申し上げたわけで
す。

_尾辻秀久君
私も大臣にある面は同情するんです。ただ、現地に行っておられないことは残念だと
思います。是非行ってくださいよとお勧めしたけれども、行っておられない。だから
そんな答弁になるんです。どうせ十分聞いておられない。事務方が上げるものだけで
お読みになるからそうなるんだろうなと。そこの部分には同情します。
 しかし、今の大臣の御答弁というのは、これはもう事実と全く実は違うんです。こ
れは、更にまたしつこいと言われるだろうけれども、それが事実とどう違うかという
のは今後やっていきます。これがJICAにもかかわり合うし、草の根無償援助にも
かかわり合うんです。大使館が意図的に二つに分けたんです。全く事実が違う。
 まあ今日はそこまでに止めておきます。ここまで言い切ったんですから、ちゃんと
どこかの委員会でそのことを私はきっちり証明をいたします。
 それでは、余り時間がなくなったんで、前に国会決議がありました。私が国会決議
と言えばお分かりでしょう。どういう決議かというと、これ、国会決議ですよ。ちゃ
んと改めて自分たちも聞いてください。
 事前調査が不十分であった等のため、引き揚げ等のやむなきに至ったものと考えら
れるので、これら帰国者に対する援護、更生等に十分の措置を講じて、早急に再起を
はかるようするとともに、今後、このような事態が再び繰り返されないよう、その防
止に努力すべきである。
 衆議院の決算委員会の決議です。どういう対応をされたか教えてください。

_政府参考人(鹿取克章君)
 今御指摘の決議は昭和三十七年三月三日の決議であると承知しておりますが、その
点に、その四点目につきましては、政府は集団帰国者に対する一連の支援を実施いた
しました。まず、これはその段階でも既に実施しておりましたし、更に継続いたしま
した。それは、例えば帰国される方については帰国旅費の支給、あるいは帰国された
方については関係省庁、農林省、建設省、労働省、厚生省、大蔵省等において支援を
実施いたしました。その支援の中には、住宅の優先的あっせんであるとか、生活補助
金の支給であるとか、また雇用のあっせん、そういう支援を実施いたしました。

_尾辻秀久君
 もう具体的に聞くと腹立つから今日はここでやめておきますけれども、あなた方が
本当に何かをしましたか。よく恥ずかしくもなく言えるよという答弁を今あなたはし
たんです。
 最後に聞きます。阿部副大臣、現地にお行きになりました。そして、自分も農家の
息子に生まれたから、随分言葉を選ばれたんだろうと思います、お立場上。しかし、
はっきりと、とても実がたわわになるような土地ではなかったというふうに言ってい
ただきました。その辺の率直な御感想を最後にお述べをいただきたいと思います。

_副大臣(阿部正俊君)
 御指摘いただきましてありがとうございます。
 私自身、大臣ともお話をした上で、昨年十二月にドミニカにお邪魔をいたしまし
た。私の気持ちとしては、訴訟にもなっておるということではございますけれども、
あらかじめ予断を持たずに、言わば白紙の状態で皆さん方にお目に掛かりたいという
ふうなことで、土地を見て、そんな思いでお邪魔いたしました。
 そのときに、七か所の移住地があるわけでございますけれども、原則、七か所全部
回らせていただきました。ただ、残念ながら最後の土地だけちょっと気候条件が悪く
て、空港までおいでいただいてお話を伺ったという形でございますが、全部回らせて
いただきました。
 それで、移住者の方とできるだけの時間、わずかでございますけれども、懇談をさ
せていただきました。そんな中で、率直な、これは印象というふうに言った方がいい
かもしれませんけれども、やはり大変御苦労されたなというふうなことを率直に感じ
ました。と同時に、あと、土地の問題等につきましても、ダハボンであり、ほかの土
地にも、何というんでしょうか、相当やはり、黙っていてもたくさん実がなる土地で
はないなという感じは、率直に申し上げまして、言わばある種の開拓地でございます
ので、他のところにも似たようなところがあるのかもしれませんけれども、相当しん
どい土地だなと、相当やっぱり開拓という困難な行為を続けないといい土地にはなら
ぬという土地ではないのかなと、そんなイメージを持ったのも事実でございます。
 したがって、現に、先ほど言いましたように、七か所のうちでもうだれも残ってい
ない開拓予定地が数か所あるわけでございまして、大半の方々が首都に今移住され
て、そこで他の仕事になったりしている方もおられるわけでございますので、当初の
予定した、あるいは一部マスコミ等で出ていました、先生のお配りの中にもありま
しょうか、カリブの楽園というふうな意味での表現から想定されたような状況からす
ると、相当やはり皆さん方は違ったイメージを持たれたんじゃないのかなと、こうい
うふうに思いました。
 そのことで、せんだっては官房長官と総理大臣にもお目に掛かりまして、それは、
法的な問題については裁判所に判断をゆだねざるを得ないと思うけれども、それとは
別途といいましょうか、それはそれとしてといいましょうかね、何か友好に、日ドの
関係の友好といいましょうか、と同時に、日系人社会のより一層の、何というんで
しょうか、発展といいましょうか、みんなの結束と、あれのためにやれること何かな
いだろうかということを別途考えてみたらどうかというふうな話を、総理並びに官房
長官の御示唆もいただいたところでございます。
 以上でございます。

_尾辻秀久君
 終わります。
『移民と二重国籍」(54)ミクシィ講座

『ドミニカ移民訴訟の研究』

予算委員会議事録 の速記録より。
この中の質疑応答にドミニカ移住問題の本質を見る事が出来ます。
この速記録は長文ですが、貴重な記録です是非とも全部目を通し
て、ご自分の目で検証して、ご批判下さい。


_委員長(片山虎之助君)
昨日に引き続き、質疑を行います。尾辻秀久君。

_尾辻秀久君
おはようございます。
今朝は外務省に集中的に質問をいたします。まず、ドミニカ移民問題について外務省
の責任をただします。この問題は過去二回当委員会で質問をいたしましたけれども、
いずれも時間切れで中途半端に終わっておりますので、今日は中途半端にならないよ
うに真っ先にこの問題から始めさせていただきます。資料として新聞のコピーをお配
りしてございます。ドミニカ移民と言ってもお分かりにならない先生方、おありかも
と思いましたので、お読みいただきながらお聞きをいただければと思います。改め
て、ドミニカ移民が行われたのはいつですか。

_政府参考人(鹿取克章君)
一九五六年から一九五九年の間でございます。

_尾辻秀久君
昭和三十年代の初めであります。前半であります。
そのころ日本は狭い国土から人間があふれ出るのではないかと心配をしていたころで
ありますから、国策として移民が行われました。これは常識であります。目の前にお
られるんで、谷垣大臣、申し訳ないんですが、そうお思いになりませんか。常識とし
て。三十年代前半、常識として移民は国策であった、そう思われませんかという質問
を、申し訳ありません、目の前におられたので質問したんであります。

_国務大臣(谷垣禎一君)
記事を読んでおりまして、ちょっと済みません。
そのように私は子供心に理解しておりました。

_尾辻秀久君
日本の良識を代表してお答えをいただきました。
全くそのとおりなんです。ただ、外務省だけがいつも変なことを言う。例えばです。
平成十年十月十四日、このことについてどんな答弁しましたか。繰り返してくださ
い。どなたでも結構です。

_国務大臣(川口順子君)
私がその点について前にどのような答弁をしたかということを今正確にまた再生する
ことはできないんですけれども、恐らく申し上げたこととしては、これは昭和三十年
代前半におきまして、戦前と違って、移住の在り方、戦前の移民とは違った考え方を
していたということであるかと思います。
 それで、国策移民という言葉がそもそもどういうことかということについて、まあ
これはいろんな考え方があると思いますけれども、例えばかつて満州に向けられてい
たような移民の政策、これはその国の強力な保護と指導の下で移民政策が行われて、
二十か年で五百万人を満州へという計画があったわけでございますけれども、そう
いったことを考えて国策移民というふうに使われるということはあるかと思いますけ
れども、戦後の移民については、そういう意味での国策移民ということではないとい
うふうに考えております。
 ドミニカ、国策の移民の意味にも関係しますけれども、ドミニカ移民、これに関し
まして外務省あるいは農林水産省が現地の調査ですとか、あるいは募集要領の作成で
すとか、そういったことに関与をしていたという事実はありますけれども、当時考え
られていた移住というのは、我が国としての海外への発展、こういったことを図る上
で移住というのが、例えばその友好関係を増進するとか、それから我が国の海外への
発展への寄与とか、そういった観点で外交の重要な柱として認識をされていたという
ことであろうかと思います。
 ただ、政府の役割というのは、これは戦後、憲法が二十二条の下で、この規定で、
移住というのは個人の基本的な人権である、人権としての自由な意思によって決定さ
れるべきものであるということを前提にいたしまして、その自由を保障するというこ
ととともに、国民に対して必要な支援、援助を行うということでございました。
 いずれにいたしましても、二〇〇〇年からこの件については訴訟が今起こって、行
われているわけでございまして、そういった点につきましては、これは外務省といた
しましても準備書面で指摘をさせていただいております。政府として支援、援助、そ
れを超える関与はできないし、また現に行っていないということであるわけでござい
ます。

_尾辻秀久君
相も変わらぬ答弁であります。特に私が許せないと思っているのは、この平成十年十
月の答弁で、「国策とおっしゃいますのは今先生が表現されたことでございますけれ
ども、」と、初耳であるかのごとく答えています。
 それじゃ、聞きます。昭和二十九年、ドミニカの代理公使が岡崎大臣にあてた、正
確に言いましょう、昭和二十九年八月三十一日、在ドミニカ代理公使が岡崎大臣にあ
てた電報があります。最初に何と書いてありますか。

_委員長(片山虎之助君)
ちゃんと用意してきていなきゃ駄目じゃないか。通告あったんだろう。

_尾辻秀久君
通告しました。

_政府参考人(鹿取克章君)
今、昭和二十九年の文書は手元にすぐ出ないんですが、今、先ほど御指摘のありまし
た平成十年十月十四日の内藤当時の領事移住部長の発言は、今、先生がおっしゃった
とおりでございます。

_委員長(片山虎之助君)
駄目じゃないか、電報を言えと言ったんじゃないか。何を聞いているんだ。

_尾辻秀久君
私が怒るべきところを委員長に怒っていただきましてありがとうございました。
 もう怒っていてもしようがないから、私が読みます。何と書いているか。「海外移
住の促進は現下国策の一として朝野をあげて実現に努力中である」、自分たちの電報
で、朝野をあげて国策としてやっていると書いているじゃないですか。国策じゃない
んですか、どうなんですか。もう一回答えてください。

_政府参考人(鹿取克章君)
当初、外務省が移住問題を考えるに当たりまして、移住というのは外交政策の極めて
重要な柱であったことは事実でございます。そういう意味からして国策という表現が
使われたこともあると思います。
 ただ、我々、常に国策と言う場合は、先ほど大臣から御説明ありましたように、満
州において二十年間で例えば五百万人の移民を図るとか、そのように国が強い指導を
発揮して移民政策を遂行したと、そういう経緯がございます。
 そういう、非常に国が強い指導を発揮して実現した移民について従来国策という表
現を使っておりましたので、そういう移民と区別する上で戦後の移民は、ほかの立場
から、すなわち二国間関係であるとか、そういう人口問題という背景は当時ありまし
たけれども、より二国間関係の発展、あるいは世界に開くと、そういう観点から移民
を遂行したということがございます。

_尾辻秀久君
それでは、そんな言い訳をしていますが、あなた方が作った、外務省中南米局移住局
が昭和四十一年五月に作った「戦後の海外移住と移住業務のあと」、あなたなんかが
作ったものですよ。この中に、移住促進、移住者の大量送出は政府の方針であり国策
である、はっきり書いている。ここで言う国策というのはどういう意味ですか。

_政府参考人(鹿取克章君)
重要な外交政策であると、そういうふうに私、理解しております。

_尾辻秀久君
それじゃ、国策じゃあるんですかないんですか。自分たちで国策と書いたんだ。だか
ら、国策なのか違うのか、もう一回言ってください。

_政府参考人(鹿取克章君)
舌足らずで申し訳ございませんが、我々、国策という言葉をしばしば使ったのは、戦
前の満州におけるような、国が強い指導力を発揮して、例えば二十年間に五百万人の
移民を実現すると、そういう観点から国策という表現をしばしば使っておりました。

 そういう戦前の移民と区別する上で、先ほど大臣からも御説明ありましたように、
戦後の移民につきましては、憲法第二十二条二項に基づいて、個人の自由意思に基づ
いて実現すると。また、その目的としては、その目的としてはもちろんその背景とし
て人口問題というものがございましたけれども、二国間関係の発展、あるいは世界に
開くと、そういう理念を持って実現しておりましたので、重要な外交政策ということ
でございます。

_尾辻秀久君
だから、自分たちで国策と書いているんだから、国策なのか違うのかと聞いているん
ですよ。答えてくださいよ。

_政府参考人(鹿取克章君)
重要な外交政策という意味では国策と言えると思います。

_尾辻秀久君
それじゃ国策なんじゃないですか。何で国策だということを否定するんですか。もう
一回、国策であったということをちゃんと認めてください。

_政府参考人(鹿取克章君)
重要な外交政策という意味で国策だという表現は使ったと思います。

_尾辻秀久君
もうこんなところで引っ掛かってもしゃあないけれども、国策だったんですね、認め
ましたね。そのことだけを確認しておきます。
 次に、改めてですが、ドミニカ移民が悲惨な失敗であった、このことは幾ら外務省
でも認めるでしょう。

_政府参考人(鹿取克章君)
ドミニカについて、ドミニカの移民について、いろいろな経緯またいろいろな理由が
複合して移民された方々が所期の目的を達しなかったということはそのとおりでござ
います。

_尾辻秀久君
失敗だったということを認めるんですね。もう一回聞きます。

_政府参考人(鹿取克章君)
移民された多くの方々が、やはり現実と自分、皆様の期待されたこととの乖離、そう
いうものもありましたし、また、最終的に当時所期の目的を達することができなかっ
たと、こういう事実はございました。

_尾辻秀久君
その責任は外務省にありますね。

_政府参考人(鹿取克章君)
このドミニカ移民問題については、今裁判の争点になっております。様々な観点から
今御承知のとおり裁判が進められております。当時、外務省あるいは当時農林省です
か、昭和三十六年あるいは三十七年、国会でもかなり議論がございました。その中
で、移民された方々が実際、最終的には所期の目的を達せられなかった、そういうこ
とについては責任を感じていると、そういうことを述べた答弁はございます。

_尾辻秀久君
そんな抽象的なこと聞いているんじゃないんですよ。外務省に責任があるかないかを
聞いているんです。今まであなた方が何と答弁してきたか。これまで、今日で多分延
べ二十三人目の質問になると思いますよ、このドミニカ移民問題は。その過去二十、
今日を外せば二十二回、あなた方が何と答えてきたかをそれじゃ答えてください。

_政府参考人(鹿取克章君)
ドミニカ移民の問題につきましては、その移民された方々が当初の目的を達すること
ができず、かなりの方が帰国されたと。そういう所期の目的を達成されなかったこと
については非常に残念であるし、また責任も感じていると、こういうことはこれまで
も申し上げてまいりました。ただし、法的責任の問題につきましては、今裁判で訴訟
中でございまして、政府としては政府の立場を述べているところでございます。

_尾辻秀久君
あなた方がどういう答弁を繰り返してきたかということを聞いているんです。

_政府参考人(鹿取克章君)
この問題は、昭和三十六年、三十七年、それ以降も国会で度々議論になりました。そ
の過程でいろんな角度からいろんな質問がございまして、それに対して我々もいろい
ろな回答、答弁をしております。
 今、責任の問題につきましては、今私が申し上げましたように、移住者の方々が所
期の目的を達成できず帰国された、あるいは所期の目的を達成できなかったことにつ
いては責任を感じていると、こういう答弁をしております。また、こういうふうに考
えております。
 ただし、責任の問題については今裁判で争われている案件でございまして、法的責
任の問題については、今裁判において政府としては政府の立場を述べているところで
ございます。

_尾辻秀久君
私は何も法的責任を聞いているわけじゃないです。私もこの質問するのに過去の議事
録三回読み直してきたんです、全部。だから、そこに何と書いてあるか、何と答えて
きたかを答えなさいと言っているんです。

_政府参考人(鹿取克章君)
今、先ほど申し上げましたように、我々この問題についていろいろな答弁を行ってお
ります。昭和三十六年以降、国会審議でいろいろ答弁しておりますが、申し訳ござい
ません、どの問題について・・・・・・。
 幾つか申し上げますと、昭和三十六年八月一日参議院外務委員会、我々としても責
任を感じております、外務省としても責任は十分あると思います、こういう答弁をし
ております。

_尾辻秀久君
あなたなんか私の質問に対してまともに準備してくださいよ。
 じゃ、私が代わりに答えてあげる。大きく二つ言い訳しているんだよ。一つは、単
なるあっせんだから責任ないんですと。こう何回答えていますか。もう繰り返し繰り
返し山ほどありますよ、私、これ出せば。一つは、あなた方、単なるあっせんだから
責任ないと言っているんですよ。国が単なるあっせんだから責任がないと、そんな非
常識な話がありますか。国があっせんしたから逆に責任があるんでしょう。国が悪徳
不動産屋みたいなことを言わぬでくださいよ。外務省の言うことさっぱり分からぬ。
我々の常識と違い過ぎる。
 私があの瀋陽の総領事館事件を聞きたいと思って外務省に問い合わせたら、外務省
というのは誠に冷たいところだ、ホームページで調べてくれと、こう言いましたよ。
しようがないから私、ホームページ出したよ、資料をくれと言ったらホームページで
出せと言ったんだから、しゃあないから出した。
 そこで、ここで正確に聞くからね、今度はホームページで見ろとは言わぬでくださ
いよ。待合室に入り込んだ男性二名が取り押さえられた際の状況、取り押さえられた
んじゃないよ、連れ出されたんだよ、あれは。だけれども、この状況をもう一回説明
してください。

_委員長(片山虎之助君)
だれですか。通告しているんだよ。

_尾辻秀久君
通告している、している、これなんかもう。大きく通告しているよ。

_国務大臣(川口順子君)
二年前の五月でございましたけれども、このときの、その連れ出されたときの状況と
いうことですが、正門前から総領事館の事務所に駆け戻った査証担当副領事が、中国
側の警察官が背後から総領事館敷地内に入ってきたことには気付いていませんでし
た。また、この副領事が査証待合室の長いすに二名の男性が座っているのを確認した
瞬間、五、六名の中国側警察官が副領事の横をすり抜け、二名の男性を後ろ手に押さ
え連行していったものでございます。というのが当時の状況でございます。

_尾辻秀久君
総理を煩わして申し訳ないんですが、総理、聞いてください。
 今の説明、こういうことを言っているんですよ。副領事がこう歩いていったと。後
ろから五人の武装警官がわきを通り過ぎていった。今度は、向こうに行った二人を
引っ張って、わきを通って帰って、そのわきを外に出て行った。この間、一言も発す
る間もなく、手を上げて制する暇もありませんでしたと言っているんですよ。こんな
人間が電光石火の荒業、五人一緒にできますか。しかも、二人連れ出すんですよ。こ
の二人が喜んで付いていったとしても、横通っていって、また二人連れて帰ってくる
間に、一言も言葉を発する間がなく、手で制する間もなかったなんて説明を、あなた
方は平気でやっているんだよ。
 これ、常識じゃないですよ。もう全くあなた方の言うのは常識に反する。総理、そ
う思われませんか。

_内閣総理大臣(小泉純一郎君)
外地の大使館に勤務するという使命感とか、あるいは自らの役割ということに対して
認識を欠いていた面が多々あったと思います。

_尾辻秀久君
総理に常識どおりの答えしていただいて本当に救われる思いがいたします。
 そこで、外務省がまた二つ目の理由を言っているんです。責任がない二つ目の理
由、これ何か。ここはよく聞いてくださいよ。募集要項を作ったのが海協連で、略し
て海協連で、自分たちは募集要項を作っていないから責任は海協連にある、これが説
明でしょう。そうですよね。こう繰り返し言ってきたことをまず確認します。

_政府参考人(鹿取克章君)
この点は、先生御指摘のとおり、私どもの裁判所に対する準備書面にも書いてござい
ますが、当時、募集、あっせん等を直接携わったのは海協連であると、こういうこと
を述べております。

_尾辻秀久君
それじゃ、その募集要項ができる手順を説明してください。

_政府参考人(鹿取克章君)
募集要項につきましては、現地の大使館が地元の状況を調査しその報告を受ける、あ
るいはドミニカ政府から情報を得る、また調査団を派遣してその調査を行う、そうい
う様々な活動を総合しましてまず農林省が募集要領というものを作成いたします。そ
の募集要領を海協連に伝達いたしまして海協連が募集要項を作成いたしました。

_尾辻秀久君
今言うように、募集要領を政府が作って、それに基づいて募集要項ができているんで
すね。そして、その募集要項に過ちがあったから、まあいろんな表現していますよ、
募集要項に過ちがあったから、我々にはその募集要項には責任がないから責任がな
い、こう言っているんですよ、いいですね、こう繰り返し答えている。
 今、私はここに、例えばハラバコアの募集要領と募集要項、両方持っていますよ。
この募集要領と募集要項のどこに違いがあるかを説明してください。

_政府参考人(鹿取克章君)
募集要領と募集要項は同じ表現であると思います。

_尾辻秀久君
そうしたら、今まであなた方が言ってきたことはうそじゃないですか。募集要領と募
集要項、同じものなんですよ。それで、募集要項に過ちがあったから我々に責任がな
いと言ったって、それじゃ、募集要領と募集要項が一緒なら募集要領に責任がある
じゃないですか。政府に責任があるじゃないですか。どこに責任がないんですか。も
う一回言ってください。

_政府参考人(鹿取克章君)
募集要項の内容につきましては、我々も、今裁判で正にいろいろ議論をされておりま
す。募集要項の内容について誤りがあるというふうには政府の立場としては考えてお
りません。

_尾辻秀久君
それじゃ、あなた、今そんなこと言うけれども、また平成十年十月、どう答えている
か。募集要項、その表現につきましては、日本政府が直接書いたものではないので政
府は一切責任がないと、こう言っているじゃない。この答弁と違うじゃないですか、
あなたが今言っていることは。

_副大臣(阿部正俊君)
私も、実はせんだってドミニカに行ってまいりました。それで実情を拝見いたしまし
て、相当難しい状況の中で皆さん苦労されたなというふうな感じを持ちました。
 ただ、責任問題云々というような話がございますが、私、全体的な責任といいま
しょうか、政府のかかわりというのは否定できないし、現実にあったんだろうと思い
ます。であればこそ、様々な、三十数年以降、三十二、三年から始まったわけでござ
いますけれども、ドミニカ移住の実情を考慮いたしまして、三十六年に、その窮状に
やや、言わば様々な問題を解決すべく、三十六年に、相変わらずドミニカにお残りに
なるか、あるいは南米のブラジルその他に移住されるか、帰国されるか、どちらかの
道を選ぶようにしようじゃないかと、それぞれについて、しかも対策を取ってです
ね、いうふうなことを閣議決定をしてやっているわけです。
 ということを考えますと、全体的な言わば政策論としては国の関与というのはあっ
ただろうと。であればこそ、そういったふうな閣議決定をして、言わば、まあ言葉は
適当かどうか知りませんけれども、政策のリセットをやっているわけでございますの
で、それ以降の問題としてどうなのかという、今度は別にいたしまして、当初のドミ
ニカ政策の移住の政策というものが当初の予期どおり進まなかったということは先生
の御指摘のとおりだと思います。

_尾辻秀久君
いや、副大臣がおっしゃることはそのとおりだろうと思うけれども、私が今聞いてい
るのは、今までうその答弁を繰り返してきただろうと言って指摘しているんだから、
うその答弁してきたかしてきていないのかを答えてくださいと言っているんですよ。
移住部長、答えてくださいよ。

_政府参考人(鹿取克章君)
今、先生の御指摘の平成十年十月十四日の衆議院の議事録を手元でチェックしており
ます。その中で、政府側の答弁といたしましては、「一方で、募集要項、その表現に
つきましては、日本政府が直接書いたものではないという意味においては、仮に誤解
が生じたとすれば、その日本政府の伝達した情報が募集要項に書かれた際に不十分な
解釈が行われたと考えます。」と、こういう答弁はございます。

_尾辻秀久君
だから、そうじゃない。自分たちが出した情報というのが募集要領じゃない。それが
そっくりそのまま募集要項になった。どこでどういう誤解があったの。どこで間違っ
たの。

_政府参考人(鹿取克章君)
先ほど一度御答弁しましたように、本来、政府が、農林省が当時募集要領を作りまし
た。それを海協連に伝達しまして、それで募集要項ができました。当時、海協連は財
団法人として独立の主体としてございましたから、海協連として農林省から伝達を受
けた募集要領に基づいて募集要項を書くということはできたことだと思います。
 ただし、実際には、当時、海協連としては農林省が作成した募集要領をそのまま募
集要項として出したと。したがって、ベースは、それはベースは募集要領でございま
して、その募集要領に基づいて海協連が募集要項を作ったと、こういう一つの仕組み
はございました。ただ、結果としては募集要領と募集要項は同じものでございます。


_尾辻秀久君
今、最後にあなた言ったじゃない。募集要領と募集要項は一言一句違わないんだ。全
く一緒なんだよ。
 それで、募集要項が間違いでしたから我々には責任がありませんと繰り返し繰り返
し言っているんだけれども、ということは募集要領が間違っていたんじゃない。自分
たちの根本が間違っていたんじゃない。それを今までずっとその答弁繰り返してきて
いるんですよ。うその答弁しましたと言って謝りなさいよ、もう。

_政府参考人(鹿取克章君)
当時の答弁が誤解をもしも招いたということなら本当に申し訳なく存じます。
 ただし、先ほど申し上げましたように、当時できていた仕組みというのは、農林省
が募集要領を作り、それを基に、それを基に海協連が募集要項を作ると、こういうこ
とでございました。

_尾辻秀久君
もう言うことは一杯あるからこんなところで止まりませんけれども、本当に、(発言
する者あり)与党の理事が止めたくなっていますよ。
 これ、もう一つ読んでおきますけれども、あなたなんか本当、白々しい。募集要項
によりますと、最初は十五万円の現金を持っていくように、それから後の募集になり
まして十万円というふうに書いてございますが、我々も今調べておるのでありますが
なんて、募集要項に書いてあるから我々は関知もしなきゃ知らないみたいな答弁をし
たこともありますよ。募集要領にちゃんと十五万持っていけと書いているんですよ、
募集要領に。
 まあ、こんなことだというのを分かっていてください。
 次、行きます。
 まだ外務省の責任幾らでもあるんです。移住協定を結んでいないという大失態を演
じているでしょう。最終案文までできていますよ、移住協定は。なぜ結ばなかったん
ですか。

_政府参考人(鹿取克章君)
先生御承知のとおり、ドミニカ移住につきましては、昭和三十一年三月二十七日付け
のメルカード書簡、これに基づいて移住を開始いたしました。当時、その段階では移
住協定を結んでいないことは先生の御指摘のとおりです。

_尾辻秀久君
三月二十七日の問題は慌てなくても後でゆっくり聞くから、先に、なぜ募集、いや、
移住協定を最終案文まで作りながら結ばなかったのかという質問をしているんです。


_政府参考人(鹿取克章君)
当時、政府はドミニカ移住が開始された後にドミニカ政府との間で移住協定の締結の
件の検討を進めました。今御指摘のとおり、案文もできております。
 ただし、その後、ドミニカの政変等、ドミニカにおける諸事情のために最終的には
協定締結に至らなかったと、こういうことでございます。

_尾辻秀久君
諸事情とは何ですか。

_政府参考人(鹿取克章君)
当初のドミニカの事情でございまして、国内の政治的安定性が損なわれ、また最終的
には、当時、移住を非常に積極的に推進したトルヒーリョ大統領も暗殺されたと、そ
ういう事情がございます。
_尾辻秀久君
うそ言っちゃいけない。あなた方が単に焦って急いだだけでしょう。
 昭和三十一年三月、ドミニカに、在ドミニカ吉田大使から重光外務大臣に書簡が来
ている。何と書いていますか。細目の点で若干の不満はあっても、大局的見地により
これをのんで、ひたすら実施の方を推進することといたしたくと。要するにひたすら
実施したいと思っていたんですよ、あなたたちは。だから無理やり急いで協定もない
のにやったんでしょう、認めなさい。

_政府参考人(鹿取克章君)
当時、政府としてドミニカ移住を是非成功させたいと、できるだけ速やかに成功させ
たいと、そういう気持ちがあったことは事実であると思います。

_尾辻秀久君
この問題もあなた方の大失態なんです。
 これはアルベルト・E・デスベラデルという、駐日大使をした、ドミニカの駐日大
使をした、しかも五年間日本の大使をしたキャリア外交官がいますよ。この人が何と
言っているか。日本国側が急速に事を進める余り、移民の送り出しと入植のペースが
うまく合っていなかったのは明らかであった。日本政府官僚はその場限りの対応で過
失を犯してしまった。日本外交政策の悔やまれる過ちであり、国家主権間外交術を知
る者にとって理解し難いことである。ここまで決め付けていますよ。日本外務省は恥
を知れと言いたい。
 そこで、さっきの話に行きましょう。
 あなた方は協定結ばなかったから交換公文で済ましたと、こう言っていますね。そ
して、その交換公文が三十一年の三月二十七日、これで交換公文だと言っている。こ
れはこれでいいんですね、もう一回答えてください。

_政府参考人(鹿取克章君)
ドミニカ移住の内容が固まりましたのは、三月二十七日の交換公文でございます。

_尾辻秀久君
じゃ、全部読んだら時間掛かるから、そのメルカード農務大臣発吉田公使あて書簡、
第二フレーズのところを読んでください。

_政府参考人(鹿取克章君)
「本大臣と閣下及び過日当国を訪問された日本使節団各員との意見交換に基づき、両
国政府間の取極及び日本人移住者定着のための基準は、本書簡に対する返簡との交換
によって確定されるものとするが、その内容とする約定及び相互条件はこれを下記の
如く要約される。」。
以上でございます。

_尾辻秀久君
本書簡に対する返簡との交換によって確定されるって書いてあるじゃない。まだ返簡
はしてないじゃない。何でこれで確定するんですか。

_政府参考人(鹿取克章君)
ドミニカ移住につきましては、三月二十七日のメルカード書簡に至るまでの間、日本
とドミニカで協議、また折衝いたしました。実質的には三月の初めに内容はおおむね
固まっております。その確認が参りましたのが三月二十七日でございますので、日本
側としてはこれをもってドミニカの大枠は定まったと、こういうことで理解いたしま
した。
 御指摘のとおり、返簡を出しましたのは四月二十四日でございます。

_尾辻秀久君
それが確定の日じゃないですか。返簡で確定すると書いているのに、何で三月二十七
日で確定したと言うんですか。もう一回説明してください。

_政府参考人(鹿取克章君)
ドミニカ移住の問題につきましては、数か月にわたりドミニカ政府と折衝しておりま
す。今申し上げましたように、内容的には三月十二日に固まりました。その後、三月
二十七日にメルカード大臣から書簡が参ったわけでございます。その段階で日本側と
しては、日本側の要望していた点が基本的に定まっているので、そこで日本とドミニ
カとの間の合意が確認されたと、こう理解したわけでございます。

_尾辻秀久君
極めてそれも苦しい。きっちり書簡を返した時点で確定するとしているんだから、そ
の日にしなきゃいかぬでしょう。
 それで、聞きますよ、その間、あなた方はどうしようかということを検討していま
せんか。その返事をどうしようかということを自分たちの内部で討議していません
か。

_政府参考人(鹿取克章君)
申し訳ありません。その点については、今手元にちょっと資料を持ち合わせておりま
せん。

_尾辻秀久君
四月十日、吉田公使から重光大臣にあてた電報がある。引っ張り出して読んでみてく
ださい。

_政府参考人(鹿取克章君)
申し訳ございません。今手元にちょっと持ち合わせておりません。

_尾辻秀久君
これはまあ、これを示してまで通告していないから、ないと言われればまあ少しは許
してあげるけれども、このぐらいのものは分かっているんだから用意してください
よ。
 何と書いているか。いろいろ書いて、今の件ですよ、右に同意をせる旨を回答して
差し支えないか折り返し御回電ありたいと言っているんですよ。こんなことまで協議
しているんですよ、その後、四月の十日に。
 これ見せるから、事実認めるかどうか調べてください。ちょっと来てください。こ
れ見てあなたは何と答えるか。(資料提示)

_政府参考人(鹿取克章君)
今御指摘のは外務省の電報でございます。

_尾辻秀久君
で、何と書いてある。

_政府参考人(鹿取克章君)
今、先生が一ポツお読み、読まれました。二ポツの方は、右交換公文により両国政府
の合意成立したものとなし、今後の移住者に関しては、当分の間、右公文を引用しつ
つ、その都度簡単な公文を交換することとし、適当な時期を見計らって・・・・・・


_尾辻秀久君
その前、その前。あなた、都合のいいところ読むなよ。その前何と書いてあるか。

_政府参考人(鹿取克章君)
一ポツは、まず本省より、三月二十七日、農相来簡に対し、我が方よりコンファーミ
ングレットを出すつもりであるが、これはちょっと、済みません、読めません、ドミ
ニカ外務省を経由する要、する要なきやとただしたところ、農相は、政府首脳部にて
話合い尽きおる、尽きおるにつき、直接自分あてにもらいたしと答えた。ついては、
本省より、前記来簡を受領したこと、及び右に同意せる旨を回答して差し支えないか
折り返し回電ありたいと。

_尾辻秀久君
見てごらんなさいよ。書いてあるじゃない。まだその時点でよろしいと回答していい
かって聞いてきているじゃない。あなたなんか内部で議論しているんだよ。
 もうね、だんだん腹立ってくるから、もうこの問題、もうここでいいよ、もう。あ
なたとやっていると長生きできなくなる。
 ただね、外務省、まだまだ大罪を犯しているんです。一番私は外務省犯した大罪の
中でひどいと思うのは、事前調査が余りにもずさん。これは、さっきからあなた方は
戦前との比較しているけれども、これはあなたなんか本当にひどいと思うけれども、
しゃあしゃあと昭和三十七年二月の衆議院の内閣委員会ではこう言っているよ。戦前
の移民が棄民であったこと、棄てる民ですよ、戦前の移民が棄民であった、棄てる民
であったことは、そう言われても致し方がないと思うのであります。もう戦前の移民
なんて棄民だったというのを認めているんですよ、あなた方は。まあその神経たるや
すごいものだと思うんだけれども。
 それで、私が言いたいのは、その棄民であった戦前の移民でも、例えばアマゾンの
事前調査、こんだけの事前調査作っていますよ、事前調査を作っている。(資料提
示)比べて、ドミニカの事前調査はこれ。ページ数十五ページ。これとこれ比べてく
ださいよ。あなたなんか、こんなひどいことで送ったんだよ、人間を。正に地獄に
送ったんだ。
この要した日数の違い、答えてください。

_政府参考人(鹿取克章君)
外務省の、外務省の調査、事前調査ですが、昭和三十五年、これは一か月ぐらいにわ
たり数か所、五か所を巡っておりますし、また首都にもおりますので、一か所に当
たった日数というのはかなり限られたものだったと思います。
 また、昭和三十七年においても調査をしておりますけれども、一地域については二
日ないし三日調査したと、調査したものと考えております。

_尾辻秀久君
こっちは二年掛けて調査したんです。あなた方が棄民と言っている移民でも二年掛け
て調査して送ったんですよ。一か月、十五ページで送ったのがドミニカなんですよ。

 しかも、ここに何と書いているか。調査団は、限られた時日内にできるだけ多くの
地域を調査せんと試みたが、まず第一に逢着した、出くわした難問は、資料の欠乏と
いうことであった、実地踏査に当たって利用し得た地図でも四十万分の一というのが
最大のもので、四十万分の一の地図が最大だったと言っているんですよ。それで、地
形、面積等も地図だけでははっきりせず、勢いド国政府の説明そのままのまざるを得
なかったわけで、この点、正確を期し難い、正確でもないと言っているんですよ、わ
ずか十五ページの調査は。それであなたなんか送ったんですよ。
 しかも私は、あなたなんかを許せないのは、これ、もう今日は許せないことが多い
んだけれども、平成四年二月に、平成四年二月、そう昔じゃないですよ、我々参議院
の外務委員会で、久保田先生がこの報告書を出せと言った、出せと言った。何と答え
たか。要するに、二国間の、二国間の微妙なことが書いてあるから、これ出せません
と、こう答えているんですよ。この報告書、十五ページの報告書を久保田先生に出せ
と言われて、二国間の微妙なことが書いてあるので出せませんと答えている。この十
五ページのどこに二国間の微妙なことが書いてあるか示してください。

_政府参考人(鹿取克章君)
今先生御指摘のは、吉岡当時の調査団長の報告であると思います。これはちょうど十
五ページにわたります。この報告書は今は公表されております。

_委員長(片山虎之助君)
答弁に、正確に答えなさいよ。

_政府参考人(鹿取克章君)
また、今、先生がどういう点が二国間で機微な問題があり得るかということを御指摘
になりましたけれども、当時我々は、トルヒーリョ将軍、トルヒーリョ元帥が日本の
ドミニカ移住に、を非常に後押ししていただいたところでございますが、多少こうい
うトルヒーリョ大統領に対する評価、そういうものは入っております。

_尾辻秀久君
もう一回聞きますが、それが公開できない微妙な二国間の関係が記述されているとい
うことですか。

_政府参考人(鹿取克章君)
その後、我々の方でこの文書を検討して公表した次第でございます。

_尾辻秀久君
自分たちの都合の悪いことが書いてあるから公開しなかったんですよ。それで、検討
して公開したみたいなこと言わぬでください。これは、外交文書の公開の期日が来た
から公開しただけじゃないですか。いい加減なことを言わぬでくださいよ。もう一回
答えてください。

_政府参考人(鹿取克章君)
これは外交文書の公開の一環として公開いたしました。

_尾辻秀久君
もう皆さんもお笑いになるけれども、怒りが頂点に達すると噴き出したくなるんだけ
れども、正にその状態でね。今答えたことともう違うことを答えるじゃない。もう、
委員会を侮辱しないでくださいよ。外務省、本当にこれは、しょっちゅうこれやる
じゃない。もう一回、先ほどの答弁誤りでしたと言ってよ。

_副大臣(阿部正俊君)
まあ、お答えになるかどうか分かりませんけれども、当時議論された情報の取扱いの
物の考え方とそれから最近の考え方というのは大分違うんではないかというふうな気
がいたします。当時とは、先ほど言いましたように、三十年代初めに行われた移住と
いうのがうまくいかなかったということを前提にいたしまして、三十六年にもう一
度、言わばやり直しというようなことで三つの、帰国それから南米移住、それからド
ミニカへの残留ということを、三つの方針をもう一回意思確認いたしまして、それぞ
れについて所要の施策を取ったというふうな時期に論議された背景がございまして、
率直にそういったふうなことでの評価というものが語られて、そのときの状況でござ
いますし、しかも、微妙なといいましょうか、何が微妙だということを言われまして
もなかなか言いにくいところありますけれども、全般的に言いまして、やはり当時は
外交文書といいますと何となく秘だというふうな雰囲気が非常に強かった 時期では
なかったのかなと、こんなふうに思います。
 そういう意味で、現在の時点に立ち返ってみれば、必ずしも秘というふうに扱わな
きゃならなかったのかどうなのかということについては、私は十分これからの反省材
料として考えるべき問題ではないかと、こんなふうに思います。

_尾辻秀久君
日ごろの仲間が出てきて答えられるとこれ以上嫌みも言えなくなるから、先に行きま
す。だけれども、移住部長、本当にあなたはひきょうだ。
 今の答弁にもありましたね。今度は三十六年に仕切り直すんです。そのときに調査
に行っている。
 その報告書は今日持ってきていますね。この報告書のナンバー十一、十一ページ目
を二行目の後ろから読んでください。

_政府参考人(鹿取克章君)
今の先生の御指摘のは、昭和三十六年の池田、当時のドミニカ支部長の報告でござい
ますね。

_尾辻秀久君
その二行目の「小職」というところから。

_政府参考人(鹿取克章君)
小職、先年視察したブラジル、パラグアイ、ボリビア、アルゼンチンなどの日本人移
住地や青森、岩手、山梨、宮崎各県下の戦後の開拓地などと比較して、諸種の悪条件
がこれほど重なっている移住地はほかにちょっと思い当たらぬぐらいであって、同行
の飯島事務官も同様の所感を述べられていた。もちろん、同行の移住者たちに対して
はかかる所感は述べなかったが、内心彼らもよく今日まで頑張ったものであると感じ
ざるを得なかった。

_尾辻秀久君
そのとおりでしょう。正にあなた方はこんなひどいことをやったんだというのは認識
しておいてくださいよ。移住地をずうっと見てきた人が、こんなひどいところは初め
て見た、よくぞここまで頑張ったものだという報告書を上げているんですよ。この事
実はちゃんと知っておいてくださいよ。
 そして、まあこの報告書は良心的な報告書だから、もう読むとますます腹が立って
くる。じゃ、十二ページ、十二ページの後ろの方、「然るに」というところから読ん
でみてください。

_委員長(片山虎之助君)
鹿取部長。
早くやれよ。勉強してきなさいよ、あなた。

_政府参考人(鹿取克章君)
然るに、然るに、この地の自然条件について少し考えてみれば、ネイバのあるバルコ
県はドミニカの小学校用地図にても明記されているごとく、年間雨量五百ミリ以下で
ドミニカにおける最高の乾燥地帯である。

_尾辻秀久君
もう、いい。
 あなた方が入植させたのはドミニカの最高の乾燥地帯に入れたと書いているじゃな
い。小学校の教科書にも書いてあると書いている。こんなことやったんだよね。
 じゃ、どんなひどいところに入れたか、もう少し明らかにしますよ。最初に入植さ
せられたダハボン、どんなところですか。

_政府参考人(鹿取克章君)
ダハボンにつきましては、土地の状況でございますけれども、土地は、埴土又は埴土
壌、石灰分に富む。浸水対策、かんがい施設の設備が必要。この地区は十万タレアの
面積に約二百戸の入植が可能とされているが、浸水地帯、耕作不適地もあり、利用可
能地は一万タレア、さらに四十戸が適当、等でございます。

_尾辻秀久君
私が草の根無償援助をここにしたからどんなところだって聞いたら、あなた方は全然
違う答えを持ってくるんです。質問によって適当な答えをするからそうなんだ。草の
根無償をしたからどんなところだと言うと、ひどいところだって書かないと草の根無
償したことにならぬものだから、何と言って書いてきたか。
 ドミニカ共和国の中で最も貧しい地域として位置付けられている北西部にあるダハ
ボン市は、国境地帯であること、就職の機会がないことなどの条件が相まって、売春
や麻薬の密売の横行する土地である、こう私のところへ持ってきたんだよ。こんなと
ころにあなたなんか平気で入植させたんだよ。
じゃ、アグアネグラはどんな土地ですか。

_政府参考人(鹿取克章君)
アグアネグラでございますが、入植当時は余り手入れがされていなかったこともあ
り、既存耕地は余り良好とは言えなかったが、傾斜地が多いものの土質自体は優良で
あったと、こういうことでございます。

_尾辻秀久君
土質自体は優良であったって、まああなたよく言うよ。本当にまああなたの感覚をも
う疑うけれども、まあもうここでその見解始めていてもしゃあないからね。あなた方
がまた私に持ってきた、どんな土地だったかという説明を読みますよ。
 南西部ハイチ国境に近い日本人移住者が最初に入植した土地の一つであるが、ドミ
ニカ共和国では貧困地帯に属し、開発の後れている土地である。要するに、そんなと
ころなんです。
 私がまず問題にしたいのは、見事に国境にだあっと並べられている。入植させられ
たんです、国境にずっと。この理由を述べてください。

_政府参考人(鹿取克章君)
当時、ドミニカは国の開発を進めておりましたが、国境地帯についてはまだ未開の地
が多かったので、国境地帯を中心に移民を推進したと、そういうことでございます。


_尾辻秀久君
だから、向こうにしてみれば、人間の盾地に日本人入植者を国境に並べたんじゃない
ですか。それをあなた方は知っていてやったでしょう。知らなかったんですか、答え
てくださいよ。

_政府参考人(鹿取克章君)
当時、吉岡団長の報告書も引用の、引用がありましたけれども、当時、国境地帯に日
本人移民が期待されていたのは、正に国境地帯の開発、それに日本の優秀な移民を、
移民の方々に入っていただきたいと、こういうドミニカ政府の考慮があったものと理
解しております。

_尾辻秀久君
私が聞いているのは、人間の盾にされたんですか、されなかったんですかということ
を聞いているんです。

_政府参考人(鹿取克章君)
人間の盾ということは、私どもの理解には一切ございません。

_尾辻秀久君
それでは、昭和三十三年十月、小長谷大使、当時の、が藤山愛一郎当時の外務大臣に
出した、これは文章だな、これの七ページ、最初の方に何と書いてあるか読んでくだ
さい。

_政府参考人(鹿取克章君)
申し訳ございません。今ちょっと手元に資料がございません。

_尾辻秀久君
あなた方は、まあ大体都合が悪くなるとすぐなくなるんだ。私が代わりに読みます
よ。もう肝心なところだけ読む。「一九四八年のドミニカ移民法の第二章に「国境地
帯移住」が規定されている。」、「本邦移住者も、右のアイデアによって導入された
ものと思考される。」。
大使がちゃんと報告しているじゃない。これ違うんですか、どうですか。

_政府参考人(鹿取克章君)
申し訳ございませんが、今の資料そのものは手元にございませんが、当時、日本の移
住者の最初の移住が国境地帯に行われたことは御指摘のとおりです。ただし、国境地
帯だけではなくて、コンスタンサ、ダハボン等国境から離れたところにも日本の移住
が行われました。

_尾辻秀久君
そういうことを聞いているわけじゃないでしょう。人間の盾にされるということを承
知の上で送ったでしょうと聞いているんですよ。

_政府参考人(鹿取克章君)
人間の盾であるということは承知しておりません。

_尾辻秀久君
まあ、口が裂けてもそれは言えぬでしょうね。あなたの立場は分かる。しかし、公開
された文書によって、外務省が知っていたことだけは明白だということを言っておき
ましょう。
 そこで、今の話じゃないですけれども、移住者の皆さんが入植されたところに行っ
てくださいよ。阿部副大臣はさすがに立派だと思うけれども、行っていただいた。涙
が出ますよ。本当に涙が出る。あそこへ行って涙が出なかったら人間じゃないと思
う。
 ドベルヘ、塩の砂漠ですよ。大臣は、あそこに塩があるかないかが裁判の争点だか
らと言って、この前変な答弁しましたけれども、一遍行ってみてくださいよ。それ
で、あそこに塩がないと大臣が言ったら、もう私は大臣は人間じゃないと思う。
 ネイバは石ころだらけですよ。石の山ですよ。もう掘っても掘っても石なんです
よ。入植した人たちが必死になって、その石を何とかしようと思って掘って山にした
石の山が一杯あって、あれを見ると本当に涙出ますよ。だけれども、まだ下も石だっ
たんですよ。
 このドベルヘについて、去年十月二日、今言ったように大臣に質問しました。大臣
の答えは、「今の時点では承知しておりませんけれども、調べて報告をさしていただ
きたいと思います。」と答えていただきました。今日に至るまで報告がありません。
なぜですか。

_国務大臣(川口順子君)
これにつきましては、その後阿部副大臣に現地に飛んでいただきました。阿部副大臣
がいろいろな、ヘリコプターで視察をしていただいて、そういった状況について話を
聞いております。そういった点について、もちろん御質問をいただいたらお答えをす
るということで考えておりました。

_尾辻秀久君
報告すると言ったものは、私に大臣が報告なさるのが人の道じゃありませんか。私は
そう思います。大臣は人の__もう副大臣、いいです。大臣は人の道に反したことをな
さったとあえて申し上げておきます。いいです、いいです。

_委員長(片山虎之助君)
答弁さしたらいいじゃないですか、答弁さしたらいいじゃない。川口外務大臣、川口
外務大臣、何で報告しなかったかということだよ。

_国務大臣(川口順子君)
予算委員会の場で御報告をするというふうに考えておりました。

_委員長(片山虎之助君)
そんな報告あるか。

_尾辻秀久君
正にそのとおりで、十月二日から今日まで何日たっていますか。それで今日私から報
告がないと言われて、予算委員会で報告するつもりでしたなんて、そんなふざけた答
弁ないですよ。

_委員長(片山虎之助君)
もう一遍やれ、川口外務大臣、川口外務大臣。

_国務大臣(川口順子君)
阿部副大臣に飛んでいただいて調べていただきましたので、阿部副大臣から御報告を
させていただきます。

_副大臣(阿部正俊君)
直接お目に掛かる機会が作れなかったことをおわび申し上げますが、私の印象といい
ましょうか、技術者でございませんので、当時に返っての調査はできませんですけれ
ども、ネイバにつきましてもドベルヘにつきましても行ってまいりました。
 その感想的なことを申し上げますと、これはネイバについては石が大変多いという
土地であるということは事実でございます。それから、ドベルヘにつきましては塩、
塩分が含まれておるという土地がありました。ただ、この土地については、必ずしも
果たしてそこが入植予定地だったのかどうなのかということは、必ずしもはっきり確
認できませんでございました。ただ、両者とも、両地とも、私の、昔、私も農家の子
供でございますので、それから言いますと、相当やはり、そのままの土地で食物がた
わわに実るというふうな土地ではないなという感じは持ちました。現に、両地とも、
ネイバにつきましてもドベルヘにつきましても、現在入植者はゼロでございますとい
うことでございますので、相当条件はいいものではなかったということは確かではな
いかな、こんな感じを持ちました。
以上でございます。

_尾辻秀久君
仲間内だから褒めるわけじゃないですが、この中で良心的な答弁しているのは阿部副
大臣一人じゃないですか。あなたはいい加減過ぎますよ。
 大臣、あのとき私が質問したのは、ちゃんと現物見せて、例えばドベルヘの土地に
塩分があるとの点を強調せられることは移住者に不安を抱かしめるおそれあり。この
辺、移住者に対し本省担当官において要領よく御説明なるよう特にお願いすると書い
ているのを指摘して、こんなひどいことをあなた方はやったんでしょうと聞いたんで
すよ。その答え、まだないじゃないですか。

_国務大臣(川口順子君)
まず、このネイバ、ドベルジェの両地区について、そのときに先生がお引きになられ
たようなそういう表現というのも確かにそこにあるわけですけれども、またその文章
の違うところを見ますと、例えば、今時視察の結果を総合するに、ネイバ、ドベル
ジェ両地区とも概して良好なりとの印象を得た。上述のごとく、地質、水量、気候等
については横田支部長より報告あるはずであるが、これを、要するに諸般の条件はダ
ハボン地区と大同小異であって優劣を論ずることは至難であるということも書いてご
ざいまして、そういうおっしゃったようなことは書いてありますが、そういう総合的
な判断としては今申し上げたようなことがあるわけでございます。
 いずれにしても、この点、二〇〇〇年から訴訟がありまして、正に国の責任をめ
ぐってこれは訴訟が行われているわけでございます。我々としては、政府はこれにつ
いては責任がないという立場から司法の場で議論をさせていただいているわけでござ
います。係争中のことでございますので、いろいろ委員のお立場その他十分によく分
かっておりますけれども、この場でそういったことが、判断が妥当であったかどうか
ということを議論させていただくというのは適切ではないというふうに思っておりま
す。
 ただ、いろいろ、この前予算委員会で委員から御質問があって以降、私も、阿部副
大臣に行っていただいたり、そのお話を伺ったり、それからそれなりにいろいろな話
も聞いたわけでございます。それで、確かにいろいろな、大分、もう四十年を超える
昔の話に始まったことでございますので、いろんな事情がその当時 あった。その結
果として、何人か日本にお帰りになられた方もいらっしゃいますし、昭和三十六年の
時点で閣議決定をして、そういった措置を取るという事態もあったわけでございまし
て、一方で非常に現地に行かれて成功していらっしゃる方もいらっしゃいますし、他
方で不幸にしてそういうことではなかったという方もいらっしゃいますし、そのいら
した方々、成功なさった方も失敗なさった方も、当時のその状況での暮らし、異郷で
の暮らし、これは大変なものがあったというふうに私も思っております。
 そういった方の本当に御苦労というのは大変なことであると思いますけれども、そ
れはそういった認識を持ち、かつ、その方々、それぞれの方は、成功なさろうと思っ
て行かれた中にその志を達せられなかった方がいらっしゃるということについては本
当に私はお気の毒だと思いますけれども、それは司法の場で別途争 われているとい
うことでございますので、ここについて、委員は国に責任があるというお立場で議論
を展開をしていらっしゃるということでございますけれども、国としては別な立場で
今司法の場で議論をさせていただいておりますので、そういったことにつきましては
国の立場を司法の場で主張をさせていただきたいということであるわけです。
 それから、いろいろな話あるいは報告等を聞いて一つ私が思いますことは、大変
に、三十六年の、阿部副大臣のお言葉で言えばリセットの後、その後うまくいった方
もいらっしゃるわけでして、ただ、不幸なと私が思いますのは、ドミニカという国に
あって仲良くみんなで暮らしていき、そして日本とドミニカの友好の懸け橋になって
いただきたい、行かれた方々が今その訴訟ということをめぐって二つに分かれている
ということが私は非常に不幸な状況であるということ、いうふうに思うわけでござい
ます。
 それで、国として、これは大変に難しい問題でもあるこの今の状況をどうやってい
くかということは大変に難しい問題であるというふうに私は認識をしておりますが、
やらなければいけないことというのは、やはり今後その日本とドミニカの関係を考え
ていきますときに、この現地で分かれている日系人の社会、これをやはり一つにまと
めて、日本と、この方々がせっかく行かれているわけですから、日本とドミニカの懸
け橋になっていただくような、その皆さんが一緒に仲良く暮らしていけるような、そ
ういうようなことにしていかなければいけないということであると私は思っておりま
す。
 それで、そのためにどうしたら国としていいかと。訴訟は訴訟といたしまして、そ
れとは、政策の話として今後どのようにそれを、仲良くしていただくために国として
働き掛けることができるかということは現地の大使も今一生懸命にやっておりますけ
れども、このことに関心をお持ちの諸先生方にも私としては是非そういった角度から
いろいろお知恵もいただきたいと思っておりますし、御協力もいただきたいというふ
うに思っております。
 いろいろな問題はたくさんあるわけでございまして、訴訟の場での議論は議論、そ
して、今大事なことは、今いる人たちがいろいろまだ苦労を重ねているとしたら、そ
の方々に何が国としてしてさしあげられるか。そして、何よりも大事なことは、協調
して一緒に仲良く日系人の社会を作っていく、これができないということは非常に不
幸であって、それをどのようにしたらいいか、是非諸先生の御協力もいただきたいと
私としては思っております。

_尾辻秀久君
非常に強調した、現地の日系人社会が二つに割れている、これは明らかに現地大使館
がやった仕業ですよ。そして、それに草の根無償を使ったんですよ。このことは日を
変えてしっかりまたやりますから、証明しますから、どんなに草の根無償むちゃく
ちゃやったか。資料全部ある。今から一時間でもやり直せますよ、ここにもある。だ
けれども、これは日を改める。だから、今みたいな説明はしない方がいい。
 それから、それからさっきはそこまで言わなかったけれども、国境に並べたために
どんなひどい目に遭ったか。その辺に囚人の開拓地があったんですよ。女性は強姦事
件に巻き込まれ、殺人事件に巻き込まれた人もいる。それに対して、昔のことだから
とか、今裁判で争っているから、よく言いますね、あなたは。本当にさっき言ったよ
うに、大臣は、何というか、こっちの言い方によっては怒られそうだから言いません
けれども、何かですよ。
 で、外務省何やっているか。さっき、二十七日のことでも、なぜ二十七日にこだ
わったかというと、二十九日に募集を始めたから二十七日に終わっていないと都合が
悪いから、あれ言っているんですよ。それで言っているんですよ。
 そしたらね、私は、裁判もね、裁判の話したから、私も裁判を傍聴していますよ。
この二十七日にしないと都合が悪いんでしょう、二十九日に募集を始めたからと聞か
れて、何と言って答えたか。そんなのの後先どうでもいいでしょうと言って法廷で答
えていますよ。外務省というのはそんな仕事をするところですか。募集を始める前
に、募集を始める、まだ何にも決まっていないうちに募集を始める役所なんですか。
もう一回聞きます。

_国務大臣(川口順子君)
当時の事実関係に関することですので、鹿取領事移住部長からお答えをさせたいと思
います。

_政府参考人(鹿取克章君)
私どもの記録では、当時、三月二十九日に募集要項を海協連に、募集要領を海協連に
渡しまして、四月から正式に募集を開始したと、こういう記録が残っております。

_尾辻秀久君
その事実関係聞いているんじゃないんだ。そんなことの後先はどうでもいいだろうと
答えたことに対して、外務省というのはそういう仕事をするところかを聞いているん
です。

_政府参考人(鹿取克章君)
申し訳ございませんが、後先どうでもいいだろうという発言については、私、承知し
ておりません。

_尾辻秀久君
発言した人がそこいるよ、聞いてくださいよ。後ろにいるんだよ。後ろにいるから聞
いてくださいと言っているんだよ、発言した人が。だから、事実確認してよ。

_政府参考人(鹿取克章君)
申し訳ありませんが、今確認できません。

_尾辻秀久君
後ろにいるのがなぜ確認できないんだ。

_委員長(片山虎之助君)
確認しなさい。
手を挙げろ、出たいなら。

_政府参考人(鹿取克章君)
そのような発言はなかったと。今の段階では確認できておりません。

_尾辻秀久君
じゃ、ちょっと止めてください。私、議事録持っているんで、ちょっと議事録示すか
ら、委員長、止めてください。

_委員長(片山虎之助君)
時間止めろ。
速記も止めてくれ。
〔速記中止〕

_委員長(片山虎之助君)
速記を起こしてください。
再開します。

_政府参考人(鹿取克章君)
今、当時の記録を確認中でございます。

_尾辻秀久君
言った本人がいるのを、むちゃくちゃな話です。
 じゃ、最後に一問します。
 こういう答弁をしたことがあるんです。ドミニカ政府は三百タレアを上げますとい
うことを確約した文書がございます。これは外務省に残っております。どういう文章
か、その文書の箇所を読んでください。

_委員長(片山虎之助君)
早く。

_政府参考人(鹿取克章君)
このダハボンの移住に先立ちまして、日本とドミニカ政府の間でいろいろと折衝がご
ざいました。幾つかの会談の記録がございますが、今私の手元にあるのはメルカード
書簡でございまして、そこでは三百タレアまでの土地と、こういう表現になっており
ます。

_尾辻秀久君
違うんだよ。
 そういうことをいろいろ言われて、苦し紛れに何と言ったかというと、確約した文
書がございます、これは外務省に残っておりますと言って、持ってこいと言ったら、
持ってきた文書を私は持っているんだよ。あなた方が持ってきた文書を私はここへ
持っているのよ。これが何で読み上げられないの。

_政府参考人(鹿取克章君)
私の方の手元にある一つの記録でございますけれども、これについては、日本人移住
者一世帯に一律三百タレアの土地配分を要求したところ、トルヒーリョ元帥との会談
で受け入れられたと、こういう表現が一つございます。

_尾辻秀久君
あなた方が持ってきたやつを読みますよ。
 ゆえに三百タレアまではもらえるという可能性は残しておきたいと答えたのに対
し、農相は、向こうの人でしょうよ、本当に耕すなら三百タレア与えることはやぶさ
かでない。次に、耕地しない森林地域は移住者圏の共有にしておくのも一案と思うと
述べた。
 確約した文書があるといったら、普通は向こうの人が書いて署名した文書を確約し
た文書というんですよ。あなた方が持ってきたのは、向こうから報告が来た、そんな
ことを、それも、こうしたいですねと言ったら、いいですねと言ったんですという報
告を持ってきて、これが確約した文書ですと。
 日本外交というのはこんなことをやっているんですか。

_政府参考人(鹿取克章君)
このドミニカのダハボンへの移住につきましては、三百タレアの土地の供与をめぐっ
て何回か折衝がございました。先ほど私が引用しましたのも、トルヒーリョ元帥との
会談の一つの記録でございまして、その中でも三百タレアという表現がございます。


_尾辻秀久君
だから、確約した文書というのは、向こうの人が書いて署名したのを確約した文書と
いうんでしょう、普通。それを今度持ってきてください。
 今日はこれで終わります。

_政府参考人(鹿取克章君)
今申し上げましたように、三百タレアの土地をめぐっては、日本政府とドミニカ政府
で何回かいろいろ協議がございまして、その協議の経緯をまた御説明に上がりたいと
思います。

_委員長(片山虎之助君)
関連質疑を許します。舛添要一君。

_舛添要一君
舛添要一です。
 総理、それから官房長官、今の尾辻先生と役所のやり取りを聞いてどう思われます
か。あきれた顔して聞いている。
 それで、私の感想をまず一つ言います。
 やっぱり彼らの先輩がやったことであれ、国でやったことで誤った政策だったら、
訴訟中であったって政治的リーダーシップを発揮してしかるべき対応をちゃんとや
る、補償する、謝罪する、そういうことがなければ駄目です。坂口大臣、ハンセン病
のときにやりましたね、同じことを。それで非常に評価が上がったわけですよ、政府
の。どうですか。

_内閣総理大臣(小泉純一郎君)
過去のこととはいえ、外務省として多々反省すべきことがあったと。今後、このよう
な不手際を認め、移住者に対してどのような対応ができるか。また、ドミニカとの間
にどのような友好関係を維持発展させていくことができるか。そういう中でしかるべ
き対応を考えたいと思います。尾辻秀久君 御配慮いただきましたし、お許しいただ
きましたので、さっきの後先の話だけは事実関係を確認しておきたいと思います。確
認できましたか。

_政府参考人(鹿取克章君)
九月二十二日の記録が届きました。その中で、当時、募集要項とそれからメルカード
書簡、具体的にはメルカード書簡の合意内容、どちらが先であるかという観点から議
論がございました。
 そこで、ちょっと長いんですけれども、政府側の方からちょっと読ませていただき
ます。
 陳述書によると、あなたは後先になったということが日本政府がだましたというこ
とを考えるようになった一つの原因ですよと。もう一つは、三百タレアと募集要項に
は書いてあったけど、三百タレアまでと実際なっていたと、この二つが原因だという
ふうに言っているんですよね。それは覚えていますか。これで、答えがはい。第一点
目の後先のことをとらえて聞いているんですけれども。後先になったとしても、それ
は別にその後で募集どおりの基本合意だったとすれば問題ないんじゃないんですか。
もし内容が違えばまた問題ですけれども。ここは政府側でございます。
 原告側は、それはいかがなものでしょうか。それは、そういった日本政府のずさん
なやり方ということが、実際そのときの、その後の我々との交渉、あるいは土地の配
分、かんがい水の施設等にもずっとつながってくるわけですから。それは、結果が同
じであればどちらが先でもよかったんじゃないのかというのはいかがなものでしょう
かという記録がございます。

_尾辻秀久君
ですから、後先どうでもいいじゃないかと言っているじゃないですか。言ったという
ことを確認しますか。

_政府参考人(鹿取克章君)
政府側の方が、第一点目の後先のことをとらえて聞いているんですけれども、後先に
なったとしても、それは別にその後で募集要項どおりの基本合意だったとすれば問題
ないんじゃないですか、もし内容が違えばまた問題ですけれどもという質問をいたし
ました。これに対して原告側の答えが、先ほど申し上げたところでもございますが、
最後に原告側の答えとして、結果が同じであればどちらが先でもよかったんじゃない
のかというのはいかがなものでしょうかと、こういうふうに記録がなっております。


_尾辻秀久君
だから、問題ないでしょうと言ったんですよ。そこが問題でしょうと指摘されたら、
問題じゃないんじゃないですかって、これ一回だけじゃないんですよ、その前も言っ
ているんですよ。二回言っていますよ。分かっているでしょう。
 だから、これは仕切り直しでやりますよ、もう二分しかないから。
 ただ、状況だけを説明しておくと、さっきの二十七日の話なんですよ。二十七日に
合意ができていないのを合意ができたできたってなぜ言っているかというと、二十九
日に募集を始めたからなんですよ。三月の二十九日に募集を始めてしまったんです
よ。そして、もっと言うと、四月の二十日に募集締切りやったんですよ。こんなむ
ちゃな話がありますか。三月二十九日、しかも、さっきの募集要領を海協連に渡した
んですよ。それから海協連は募集要項に直して各都道府県に行って募集をしてなんて
とてつもない作業をしたはずなのに、なぜか四月の二十日で締め切っちゃった。だか
ら、もうつじつまが合わないから、三月の二十七日に基本合意ができたと言わないと
もうどうしようもないから苦し紛れのさっきの説明をするんですよ。あれ間違いなん
です、明らかに。
 そこで言われているのは、そんなに募集を始めたときにまだちゃんと約束できてい
なかったでしょうって、そこを責め立てられて、後先どっちでもいいじゃないです
か、その募集したときに言ったことと後で基本合意で約束したことが一緒だったんだ
からいいじゃないですかと言っているんですよ。これは明らかにおかしい。
 それで、もう一つ言わせていただくと、自分で二回も言った人間が後ろに座ってい
て忘れるはずないですよ。こんな動かぬ証拠を突き付けられるまでに、言ったって言
わないなんというのは。こんなひきょうな話はない。
 これは仕切り直しでやります。

_委員長(片山虎之助君)
以上で尾辻秀久君の質疑は終了いたしました。(拍手)
『移民と二重国籍」(55)ミクシィ講座

『ドミニカ移民訴訟の研究』

皆様に 山田晴通先生の永年の御研究の結晶を
ご紹介致します、『拓殖、移住政策』の研究をする
上での現在ではこれを抜くレポートは無いと断言いた
します。
貴重な御研究に頭が下がると同時に、感謝と尊敬
を致します。是非ともパラグワイやアルゼンチンなど、
また、ブラジルやボリビアなどとのドミニカ移住が比較
考査でき、関連的な分析を理解して、こめられた
貴重な記録として読み解き下さい。

移住資料の総大勢を研究する上での、なくてはならない
資料の名前です。ご自分が研究するテーマを見て探してください。


研究の道具箱:山田晴通

『移住研究』掲載論文一覧
対象地域による索引

--------------------------------------------------------------------------------

 『移住研究』に掲載された論文等を、そこで取り上げられた地域によって分類した
索引です。あり得べき誤謬の指摘など、お気づきの点は、東京経済大学山田研究室ま
で、お知らせ下さい。 --------------------------------------------------------------------------------


///『移住研究』掲載論文一覧(刊行順目次)///執筆者名による索引(50音順)

///一般///...///旧「満州」///ロシア///フィリピン///

///アメリカ合衆国(ハワイを含む)///カナダ///

///中央・南アメリカ全般///
///メキシコ///グアテマラ///パナマ///西インド諸島///
///エクアドル///ペルー///ボリビア///
///ブラジル///アルゼンチン///パラグアイ///

///オーストラリア///その他のオセアニア///

一般 廣岡 謙二   (01)移住研究創刊に当たって 押本 直正   (01)統計からみた戦後海外移住の傾向 太田 新生   (02)海外発展的民族性の意味するもの 湯川 修介   (02)移住希望者の傾向分析 白石 健次   (03)移住地の経済効果指数について 押本 直正   (03)海外移住百年史年表に添えて 末次 輝雄   (04)海外移住のわが国への経済的寄与に関する一考察 巌崎 他人   (05)わが国の移住の将来 東京都事務所  (05)最近の移住希望者の傾向 押本 直正   (05)移住関係文献解題目録 上園 義房   (06)青年移住希望者の傾向 永田 良三   (07)海外移住の一考察 巌崎 他人   (07)労働力不足と海外移住−海外移住の効果− 稲垣 実夫   (08)高等学校における海外教育のあり方 石井 陽一   (08)南北問題の盲点 石川 友紀   (08)沖縄中学生の海外移住に対する意識度 今雪 史郎   (08)日本歴史の移民たち 調査室     (08)移住関係文献解題目録(II) 中谷 静雄・小池 芳一
        (10)埼玉県送出移住民の動態 鈴木 俊    (11)海外移住の動機の変化に関する研究 神戸支部    (11)兵庫県における昭和48年度
           新規面接海外移住相談者調査報告 企画課     (11)ヨーロッパ諸国の移住統計 平田 秀雄   (12)海外移住についての一つの考え方 津浦 悦男   (12)海外移住雑感 川崎 愛作   (13)滋賀県海外移住史抄 黒田 公男   (15)今は昔 −移住基地神戸− 玉城 美五郎  (16)沖縄海外移住関係記録 押本 直正   (17)西半球の日本人 押本 直正   (18)移民会社と船会社 伊藤 一男   (19)日系社会の分析と展望 津浦 悦男   (19)海外移住と民族的視点 川崎 愛作   (19)滋賀県海外移住史資料II 栄田 剛    (19)海外移住者のアイデンティティ考 T.K.イシ  (20)戦後の日本人の米国移住 移民の経済社会学 仁科 雅夫   (20)・こしょう・の需給事情 移住計画調査部(小倉武一・岩瀬義郎・中根千枝)
        (22)海外移住事業評価調査ミッション報告 黒田 公男   (22)時移り、、海外移住もまた・・・・ 魚住 哲郎   (23)バニラの栽培法 移住事業部   (23)海外開発青年の第1回募集結果について 伊藤 一男   (25)海外移住の流れ考 佃  芳郎   (25)日本語をめぐる雑念 石川 友紀   (25)移民を通してみた近代沖縄研究 木村 健二   (26)戦前期日本移民学の軌跡 橋本 貞夫   (26)日本語学校における授業法の研究 小野 昭    (29)海外余暇滞在と国際移住 吉田 惠子   (29)東日本における明治期出移民の実態 佐々木 敏二  (29)日本移民学会の発足と今後の課題 栗原 智恵子  (30)日系人の心理 佐々木 敏二  (30)日本移民学会第2回大会を終えて 平間 正治   (33)一農業技術者の半生を変えた戦後の海外移住業務ニは

旧「満州」 後藤 連一   (14)拓植の軌跡 −満蒙開拓青少年義勇軍は生きている−

ロシア イゴール・サヴェリエフ
        (31)帝政ロシアにおける日本人移民

フィリピン 黒柳 俊之   (18)フィリピンにおける邦人移民

アメリカ合衆国(ハワイを含む) 松下 弘    (16)カリフォルニア州排日史概説 安藤 龍夫   (16)カリフォルニア州の農業概況 今井 輝子   (17)近代日本最初の集団海外移住とその波紋 森山 アラン 武雄
        (20)日本の移民会社とハワイ(1894〜1908年) 今井 輝子・村川 庸子
        (22)カリフォルニア州サリナスにおける日系人 篠田 左多江  (22)下妻孝悌:第2次日米交換船帝亜丸船中日記について 藤本 一美   (23)米国移民法改正の動向とヒスパニクス問題 小塩 和人   (25)『暗い過去』から『輝かしい現在』へ 粂井 輝子   (30)1930年代の帰米運動 白水 繁彦   (30)ハワイ日系二世の戦争協力 山田 千香子  (31)コミュニティ組織から見たポートランド日系人社会 東  栄一郎  (32)黎明期の在米日本人労働者 押本 直正   (33)豪州米と米国米のルーツ −高須賀穣と西原清東の功績−

カナダ 田中 健夫   (05)カナダ日本人移住史 今津 武    (05)カナダ移住史を通じて移住を論ず 内山 正熊   (07)カナダ本邦移民制限史の一断面 川路 国三   (08)カナダにおける移住者の国際結婚 林  直嗣   (19)カナダの労働・雇用事情 新保 満    (20)カナダの日系漁者悲史 新保 満    (24)カナダの日系紙と日系社会 大木 早苗   (24)カナダでの日本語学校十年の実践 竹内 克一   (24)カナダ移住者の教育 中島 和子   (25)日系高校生の日本語力 江口 静子   (26)カエデの国に生きる戦後の移住者たち 大河内 南穂子 (27)バンクーバー日系女性の会10年の歩み 鹿毛 達雄   (27)補償問題の解決と日系カナダ人 権並 恒治   (28)日系カナダ人史料コレクション 江口 静子   (29)トロント周辺に住む日系シニアの現状と
           戦後移住者の老後問題の考察 野呂 博子   (30)カナダにおける継承語としての日本語教育 西浜 久計   (30)カナダ移民の父 工野儀兵衛

中央・南アメリカ全般 石井 陽一   (01)EECとラテン・アメリカ 石井 陽一   (02)経済統合と国際移住 石井 陽一   (04)移住地の営農と米国市場 滝沢 荘二   (05)円・ペソ・グァラニー・クルゼーロ 大熊 雄一   (05)「営農資金追加送金」に関する若干の分析 白石 健次   (06)農業移住 −その意義と目的− 大城戸 宗男  (06)中南米における邦人集団移住地の皮膚疾患の統計的観察 赤坂 忠次   (10)日本−南米東岸航路 移住者輸送史 奥村 孝夫   (12)いわゆる農協理論と南米の日系農協 山縣 正安   (13)中南米の草地と飼料作物 農牧課     (13)南米における国際協力事業団の農業試験場 西俣 昭男   (15)アジア系移住者がラテン・アメリカ諸国に
           与えている文化的影響 移住第1業務部長
        (15)試験研究について 栄田 剛    (19)移住地農業生産の展開過程 仁科 雅夫   (19)導入作物の選定 黒田 公男   (25)幻の海外移住信用組合 星川 和男   (29)海外開発青年 −その実情と展望− 黒田 公男   (31)南米移民船の事故・事件簿 長野 正    (32)中南米における日本語教育の課題

メキシコ 松本 征吾   (11)グァナファト −メキシコ人との10月− 国本 伊代   (14)メキシコ革命と日本人移民 川路 賢一郎  (14)メキシコ拓殖に賭けた青春 川路 賢一郎  (21)照井亮次郎書簡集 上野 久    (22)メキシコ殖民の断章 −南メキシコ榎本殖民地− 古子 弘    (28)南メキシコに見る日本移民の源流とその事績 古子 弘    (29)日本、メキシコの相互理解は深まったか 古子 弘    (30)国際結婚に関する一考察 赤木 妙子・柳田 利夫
        (31)渡辺忠二宛書翰を通して見たメキシコ日系社会の諸側面

グアテマラ 多田 功    (25)中米に没した一日本人 −屋須弘平、その光と影−

パナマ 大塚 真琴   (22)パナマ日本人移住史 大塚 真琴   (24)パナマ日本人移住史(2)

西インド諸島 永田 晃    (09)ドミニカ移住者の概況 石川 友紀   (20)西インド仏領ガードループ島における
           日本人契約移民(1894〜1900)について 移住計画調査課 (24)ドミニカ共和国の日系人

エクアドル 柴田 真知子  (26)古川拓殖株式会社 −ダバオからエクアドルへ−

ペルー 棚原 健次   (17)移民の心理
             −アルゼンチンとペルーの沖縄系移民について− アメリア・モリモト・ハヤシ
        (18)ペルーの日系人 二神 恭一   (23)ペルーとボリヴィアにおける労働者の自主管理、参加

ボリビア 有働 勇    (01)サンファン移住地の治安問題 代表部     (04)ボリビア国経済事情 小野 基雄   (06)アンデスを越えた人々−ボリビア日本人の先駆者− 押本 直正   (07)ボリビアの沖縄移住地 マリオ 平岡  (08)ボリビアの農地改革と熱帯低地移植民 戸水 康二   (09)ボリビア国オキナワ移住地の綿作 大森 茂    (10)サンファン診療所1年半の記録 小嶋 進    (11)リーバ・パラセ,メノニタ植民地視察記 平間 正治   (12)ボリヴィアにおけるマカダミアナッツ試作の現況と,
        今後の普及上の改善課題について 上原 盛毅   (18)サンタ・クルス地方の近代化 神谷 利明   (19)ボリヴィア サンファン移住地の保健衛生状況 川路 賢一郎  (19)アマゾン上流に日本人を訪ねて
             −ボリヴィア国ベニ州、パンド州紀行− 国本 伊代   (21)ボリビア国サンファン移住地 国本 伊代   (22)日系ボリビア人の生活と意識 二神 恭一   (23)ペルーとボリヴィアにおける労働者の自主管理、参加 瀬尾 幸・井上 ホルヘ・玉城 清雄
        (23)ボリビア日本人移住地における集団検診 ラパス日本人会書記広報部
        (24)羅巴斯日本人会 幸地 広・瀬尾 幸
        (27)オキナワ移住地の健康保険制度について 小池 和明   (28)南米移住地における畜産経営改善方策 瀬尾 幸・井上 和雄・翁長 武志
        (28)オキナワ診療所におけるボリヴィア人の疾病構造 大塚 眞琴   (29)新垣庸英とボリヴィア逃亡移民 今泉 七郎   (30)ボリビア・日系移住地の営農展開 神谷 利明   (30)サンタクルース日系人学童の消化管寄生虫疾患の変動 清水 利恭・仲里 京美・比嘉 喜美子・ODALIS NOGALES ROJAS
        (31)ボリヴィアにおける出産と育児についての一考察 清水 利恭・長屋 敏子・仲里 京美
        (32)ボリヴィア日系コロニアの出産と育児 安保 英勇・大橋 英寿・マリー フクモト
        (33)南米ボリヴィアのオキナワ移住地と周辺住民の保健行動

ブラジル 白井 丈夫   (01)伯国の労働者保障制度の概況 藤原 史生   (01)ブラジルの技術移住 末次 輝雄   (01)ブラジルの医療制度 佳山 良正   (02)ブラジル、アルゼンチン日系農家の食生活 寺田 愼一   (03)Amazonia地域の農業に“草”の利用を 長尾 武雄   (03)移民再会第一船の記録 代表部     (03)伯国における2/3法について 上園 義房   (04)就学中に移住した子弟の現状 ベレーン支部  (04)SUMAD(アマゾニヤ開発庁)について 代表部     (04)伯国農務省調査試験機関について 代表部     (04)伯国における荷物の通関に関する規則 長尾 武雄   (06)昭和初期の海外移植民事業 坪井 一郎   (06)ブラジルの土壌型と土壌図 代表部     (06)ブラジルにおける植民事業の沿革と農地改革の現状 ジャンジーラ・藤村
        (07)ブラジルにおける日系村落社会の構造とその展開過程 荒川 勝彦   (07)グアタパラ移住地青少年の物の見方、考え方 奥田 隆男   (07)アマゾン地域戦後移住者の転出・定着状況 山本 正    (07)ブラジルの会計制度 サン・パウロ支部
        (07)グァタパラ移住地の概況 平間 正治   (08)ブラジル東北部開発の展望 長尾 武雄   (08)アマゾン開拓の先駆者たち 押本 直正   (08)ある明治人の生涯 −山県勇三郎に関する研究ノート(1)−

石井 陽一   (09)ブラジルの農業と日本の農業 笹野 暉樹・梶 典之
        (09)アマゾン地域開発計画 大谷 晃    (09)ブラジル移住再開の経緯 長尾 武雄   (09)水野龍とコロニア・アルボラーダ 太田 亮一   (09)ブラジル概観 ハロルド D.シムス(洌子 シムス・訳)
        (10)戦後の日本人のブラジル移住 奥村 孝夫   (11)ブラジルにおける農業開発の一例 長尾 武雄   (11)ブラジルの外国移民二分制限問題 寺田 愼一   (11)健康な胡椒栽培に寄せて 斉藤 広志   (12)ブラジルにおける日本人の同化について 黒田 公男   (12)アマゾン・ジュートにかけた青春 斉藤 良夫   (12)ブラジルにおける土地代・労働賃金
           及び請負サービス料の動向について 小野 昭    (13)ブラジルの日系中小企業 −その経営と意見− 白石 健次   (13)ブラジル農業開発について サンパウロ支部 (13)南ブラジルにおける青年農業移住者の独立過程での
           歩合、借地農業の現状 大浜 伸三   (13)ブラジル北東部における入植地造成のプロセス 林  丈一   (14)略説・アマゾンの農業 栄田 剛    (14)トメアスー農業の動向概観 一木 直智   (14)ブラジルにおける工業
           特に工作機械の現況及び今後の技術移住について 平野 重利   (15)南大河州におけるドイツ系コロニアの歴史 平野 重利   (16)テーラ・ダ・ガウシャの移住史 サン・パウロ支部
        (16)パラナ州南部における日本人移住の概況 蒲生 郁男   (16)協定入植地の現状と今後の方向 ポルト・アレグレ支部
        (16)ポルト・アレグレ支部管内在住邦人
           および日系人の現況記録 黒田 公男   (17)ある大正移民 田辺 忠雄   (17)バルゼア・アレグレ移住地の山口県人 寺田 愼一   (17)Amazoniaにおける地力増進対策について 須田 実    (17)ブラジル国移住手続き関係情報 岸  靖夫   (18)アマゾン、モンテ・アレグレの
           日本人による拓植活動 鏑木 功    (18)日語学校児童生徒の意識について 福島 新吾   (20)ブラジル移民の先達の死 黒田 公男   (21)神戸移民収容所ノート 長岡 正雄   (21)アマゾン流域における適正農法に関する考察 上村 昌司   (21)アマゾンにおける営農指導について クリストファー ライクル(今津 武・訳)
        (22)ブラジル向け日本人政府援助移住の歴史と民族誌学 黒田 公男   (23)梅谷光貞とブラジル 安井 公一   (23)南米における花き産業の近代化 クリストファー ライクル(今津 武・訳)
        (23)ブラジル向け日本人政府援助移住の歴史と民族誌学(続) 黒田 公男   (24)バルガス大統領のアミーゴ 黒田 公男   (27)源平の古戦場に陽は落ちる 槫松 四郎   (27)ペルナンブコ州日系移民史 野口 敬子   (27)上塚司と日本高等拓殖學校 鈴木 路子・北原 隆史・長瀬 小夜
        (28)熱帯雨林気候アマゾン地域の
           小児の発育と環境に関する現地調査 永田 高志   (28)ブラジル日系人の言語生活 森  幸一   (28)移民と二世
             −二人の日系社会科学者のライフ・ヒストリー研究序説
− ライクル クリストファー A
        (29)国際移住の理論と概念 −日伯移住の人間関係− 森  幸一   (29)ブラジルからの日系人『出稼ぎ』の推移 小林 惠壽   (30)ブラジル移住家族3代の意識調査 森  幸一   (30)アマゾン地域からの日系人出稼ぎ現象 野口 敬子   (30)上塚司と日本高等拓殖學校(完結篇) 森  幸一   (31)日系集団地にとって「出稼ぎ」のもつ意味 木村 恵美子  (31)日系老人ホーム「憩の園」の現況とその社会的背景 川添 浩正   (32)一時代を風靡した工業移住者たち 山中 啓子・エウニセ イシカワ コガ
        (33)日系ブラジル人の日本流入の継続と移動の社会化 カスタニャール日伯文化協会
        (33)日系人の教育意識(日本語教育・ブラジル公教育)
           についての一考察 中村 四郎   (33)松原移住地の概況

アルゼンチン 佳山 良正   (02)ブラジル、アルゼンチン日系農家の食生活 篠崎 俊英   (09)アルゼンチン国メンドサ州における蔬菜栽培 ブエノス・アイレス支部
        (13)アルゼンチン国 リオ・ネグロ下流渓谷
           開発地域調査報告について 棚原 健次   (17)移民の心理
             −アルゼンチンとペルーの沖縄系移民について− 筒井 信弘   (18)アルゼンティン移住概要 安井 公一   (23)南米における花き産業の近代化 長谷川 耕二郎 (24)アルゼンチンへの日本の有望果樹苗の導入 関口 伸治   (29)日亜学院父兄意識調査 市村 和久 ラリー
        (31)アルゼンチンにおける日本語の現状 安藤 保彦   (33)アルゼンティンにおける日本語学校の経営問題と
           その解決方策について 中山 昭三   (33)「日本語力だめし大会」の実践とその考察

パラグアイ 廉野 潔    (02)パラグァイ国の小麦生産計画 永田 良三   (03)日本(語)教育に対する一考察 石橋 隆介   (06)山村における海外移住の啓発 アスンシオン支部
        (07)ラ・コルメナ移住地現況 C.H.ガーディナー(押本 俊明・訳)
        (08)日本人とパラグアイ 木戸 一栄   (09)パラグァイの日系農家 青山 千秋   (15)「アマンバイ移住者呼び寄せの父」
           ジョンソンとジョンソン耕地 笹野 暉樹   (15)CAICISAの現状と今後の展望 大畠 幸夫   (16)南部パラグァイ農林業開発計画と
           移住事業との関連について 大塚 真琴   (20)はるかなるパラナ河よ私を招け 尾崎 薫    (24)パラグアイにおける大豆・小麦作の現状と
           栽培技術改善の指標 青山 千秋   (32)パラグァイにおける大豆・小麦の生産と日系農家の歩み 水野 正行   (33)パラグァイ日系老人の内面状況と福祉の課題

オーストラリア デイビッド C.S.シソンズ([訳者不明])
        (10)1871〜1946年のオーストラリアの日本人 オーストラリアン・インフォメーション・サービス(今津 武・訳)
        (11)オーストラリアの移住者受入れ 押本 直正   (11)タースデー物語
             −オーストラリアで活躍した日本人− 外務省移住課  (15)豪州移住調査報告概要 加茂 富士郎  (15)豪州移住調査見聞録 久原 ■司   (15)トレス海峡における真珠貝漁業と日本人の遺跡 D.C.S.シソンズ(押本 直正・訳)
        (16)ある移民の一族 押本 直正   (19)日豪親善に貢献した日本移民 黒柳 俊之   (20)オーストラリア移住事情 伊川 公司   (20)オーストラリアの教育事情 成田 弘成   (26)オーストラリアのアジア移民論争 成田 弘成   (27)オーストラリアにおける1980年代の日本人移民 杉原 充志   (32)オーストラリアの帰化政策と在豪日本人永住者 岡崎 一浩   (33)オーストラリア移民史抄 押本 直正   (33)豪州米と米国米のルーツ −高須賀穣と西原清東の功績−

その他のオセアニア 石川 友紀   (14)フイジー諸島における
           日本人契約移民(1894〜1895)について 小川 平    (18)平松新八小伝 −南太平洋で活躍した男−
『移民と二重国籍」(56)ミクシィ講座

『ドミニカ移民訴訟の研究』

 ドミニカ移民訴訟において政府の関連する記録と
 現実に起きた諸問題が他の南米諸国に移住した
 現地の諸問題と比べて、余りの劣悪な環境を与えた
 日本国政府の対応、その反省と、補償を見なく
 てはならないと思うのであります。
 
 現在においては、前、小泉首相より、お詫びの声明文が
 出され、見舞金の支給が、国から移住者に支払はれた。
 
 過去の悲惨な移住の歴史を見詰めて、考えて、比較して
 皆様の良識ある判断で、この問題を見てください。

<外交文書>ドミニカ移民政策の誤り認める記述 (12/12)

毎日新聞ニュース速報より。

今回の公開文書には、1956年から59年までに249家族が渡航、生活苦から、数年後に大部分が集団帰国した中米・ドミニカ共和国への移民政策の関連文書も含まれ、
その具体的経緯が判明した。この問題では7月に移住者47家族が「事前に約束された優良農地の無償提供が受けられず、過酷な生活を強いられた」と主張し、国に損害賠償を求め提訴している。
国は政情不安などドミニカ共和国側の事情を失敗の原因に挙げてきたが、公開文書には事前調査の不十分さなど政策上の誤りを認める記述があった。


同国への移住は外務省や農林省が現地を調査したうえで、外務省傘下の日本海外協会連合会(海協連、現国際協力事業団)が希望者を募集、56年7月から入植が始まった。しかし、入植地が岩石地帯だったことやかんがい施設の不備などから、政府は移民の集団帰国を決定した。

集団帰国問題発生当時の61年5月に海協連現地支部が作成した「秘」と「取扱注意」の印が付けられた文書は、「過去の報告者等の立場を考慮して(控えめに)表現した」と断ったうえで、他の南米諸国や国内開拓地と比較。「悪条件がこれ程重なっている移住地は他に一寸(ちょっと)思い当たらぬ。同行した外務省事務官も同様の所感を述べた」と原告移民側の主張を裏付ける記述があった。

また、同年末に現地大使館から送られてきた極秘文書も、移住前の事前調査報告について「楽観的にすぎたきらいはある」と、政府側の見通しの甘さを認める内容になっていた。

原告移民側の西田研志弁護士は「これまで外務省が『存在を確認できない』と言ってきた文書がたくさんあり、国が否認してきたことの多くが覆った」と話している。
一方、同省領事移住政策課は「見解は訴訟の過程で明らかにする」と話している。
『移民と二重国籍」(57)ミクシィ講座

『ドミニカ移民訴訟の研究』

『過去を見、現在を考え、未来を予測する賢者の思考』

と言います。これから日本が海外に伸びて行く為に、是非
とも日本政府が行った行為、官僚が企画、立案して実行した
行為を検証して、その基礎とされん事をお願い致します。

これは外務委員会の国会速記録よりの抜粋です。
ドミニカ移民問題が質疑され、論議して答弁されています。
皆様が法廷の陪審員として、結論を下される事を願っています。

第123回国会 外務委員会 第8号
平成四年五月十二日(火曜日)
   午後一時三十分開会
    ―――――――――――――
   委員の異動
 四月二十四日
    辞任         補欠選任
     石渡 清元君     宮澤  弘君
    ―――――――――――――
  出席者は左のとおり。
    委員長         大鷹 淑子君
    理 事
                成瀬 守重君
                山岡 賢次君
                松前 達郎君
                高井 和伸君
    委 員
                岡部 三郎君
                久世 公堯君
                関口 恵造君
                原 文兵衛君
                宮澤  弘君
                久保田真苗君
                田  英夫君
                黒柳  明君
                立木  洋君
                猪木 寛至君
   国務大臣
       外 務 大 臣  渡辺美智雄君
   政府委員
       外務大臣官房領
       事移住部長    荒  義尚君
       外務省アジア局
       長        谷野作太郎君
       外務省北米局長  佐藤 行雄君
       外務省中南米局
       長        寺田 輝介君
       外務省欧亜局長  兵藤 長雄君
       外務省中近東ア
       フリカ局長    小原  武君
       外務省経済協力
       局長       川上 隆朗君
       外務省条約局長  柳井 俊二君
       外務省国際連合
       局長       丹波  實君
   事務局側
       常任委員会専門
       員        辻  啓明君
   説明員
       防衛施設庁施設
       部連絡調整官   吉田 嚴彦君
    ―――――――――――――
  本日の会議に付した案件
○国際情勢等に関する調査
 (ドミニカ移住問題に関する件)
 (国連通常兵器移転登録制度に関する件)
 (北方領土問題に関する件)
 (国連平和維持活動(PKO)問題に関する件
 )
 (在比米軍撤退と日米安保体制に関する件)
 (アフガニスタン及びユーゴスラビア情勢に関
 する件)
 (国連環境開発会議に関する件)
○所得に対する租税及びある種の他の租税に関す
 る二重課税の回避及び脱税の防止のための日本
 国とルクセンブルグ大公国との間の条約の締結
 について承認を求めるの件(内閣提出、衆議院
 送付)
○所得に対する租税に関する二重課税の回避及び
 脱税の防止のための日本国とノールウェー王国
 との間の条約の締結について承認を求めるの件
 (内閣提出、衆議院送付)
○所得に対する租税に関する二重課税の回避のだ
 めの日本国政府とオランダ王国政府との間の条
 約を改正する議定書の締結について承認を求め
 るの件(内閣提出、衆議院送付)
    ―――――――――――――
○委員長(大鷹淑子君) ただいまから外務委員会を開会いたします。
 まず、委員の異動について御報告いたします。
 去る四月二十四日、石渡清元君が委員を辞任され、その補欠として宮澤弘君が選任
されました。
    ―――――――――――――
○委員長(大鷹淑子君) 国際情勢等に関する調査を議題とし、質疑を行います。
 質疑のある方は順次御発言願います。
○久保田真苗君 私、二月二十七日のこの委員会で取り上げましたドミニカ共和国へ
の日本移住民の問題につきましてそのときにいろいろとお願いをいたしました。その
後、JICAの移住事業部移住投融資室長さんが現地出張をなさったり、外務省とし
ていろいろ御尽力いただいていることを御報告いただいております。そこで、きょう
はそれらの確認なども含めまして若干の御質問をしたいと思います。
 
前回お願いしました昭和三十年九月の事前調査団の吉岡報告ですけれども、大変いろ
いろな御心配がございまして読ませていただくということで最近拝見だけさせていた
だいたわけでございます。これを読みましたところが何となくわかるような気がいた
しまして、これで当時両方の政府の間で移民協定とか移住契約とかそういった明文化
した公文の交換はなかったと政府側はお答えになっていらっしゃるわけですけれど
も、本当になかったのだろうなということを推測するわけです。
 
移住契約は結局結ばれなかったということなのですけれども、その経緯をもう一度お
話しいただきたいと思います。
○政府委員(荒義尚君) お答えいたします。
 まず順番としまして移住協定の経緯でございますけれども、私どもとしましては、
当然ドミニカヘの移住ということになりますと協定が要るということで先方政府とい
ろいろ折衝したわけでございます。しかしながら、これは主として先方政府の事情で
ございますけれども、協議が調いませんで、そのかわり昭和三十一年の三月に先方の


務大臣から我が方の公使に対してドミニカ政府としては国の政策として日本の移住を
受け入れるという意向を正式に通報してまいりました。これをもちまして我が方とし
ては協定にかわるものとして国の意向が確認されたということで、協定自体は締結さ
れなかったということでございます。
 
他方、先生お尋ねの移住契約というのは個々の移住者が移住されるについての契約の
ことかと存じますけれども、当時日本から中南米に参りました移住者は基本的に独立
の農家といいますか自営開拓農としてそれぞれの国に行かれたということでございま
して、自営開拓農につきましては個々の移住契約というものはドミニカに限らず締結
されておりません。

○久保田真苗君 それで、いろいろそういったものを読んでみますと、同時にスペイ
ンから移住した農民につきましてはこれが相手国政府と個人的に契約をしているとい
うこともわかりましたし、日本の移民の場合は個人としてもそういうことをやらな
かったし、政府としても正式のものはやらなかったし、JICAの前身である海協連
もやらなかった。
 
つまりは移住のためのスタートを切ったそのときにトルヒーヨ大統領の言葉を頼って
契約を避けたということになると思うのですが、後々それが
たたりまして大統領の暗殺というような政治状況の中でいろいろなものが御破算に
なっていくという、そういう災難を移住民が受けたということは私はどうしても認め
るざるを得ないと思いますけれども、いかがでございますか。

○政府委員(荒義尚君) お言葉を返すようでございますけれども、私ども当時のト
ルヒーヨ元帥の意向を金科玉条といいますかそれだけに頼って協定の締結を避けだと
いうことは、先ほども御答弁申し上げたように、ございません。
 確かに我が国これは独特の事情かもしれませんけれども、ドミニカに限らずブラジ
ル、アルゼンチンその他に移住された自営開拓農の方につきましては契約というもの
は当時もやっておらないわけでございまして、ドミニカだけの特殊な事情ということ
ではございません。

○久保田真苗君 個人のものはともかくとしまして、政府が正式に協定を結ばずに出
したということは確かなのでございますよね。それがやっぱり後々いろいろな問題で
差しさわりが出ているというふうに思うわけです。今、個人の契約は自営農としてや
るということにおいては契約が結ばれるのかもしれないけれども、このときの事情と
しては日本の移民はコロニア法の適用を受けるということが政府にはわかっていたわ
けでございます。それを移住募集に当たって移住者には知らせなかったということが
あると思います。隠していたと言ってよろしいのではないかと思うのです。
 
確かにこの前の部長の御答弁ではドミニカの法令に従うべしということが手引に書い
てあるとおっしゃいますが、一般的にドミニカの法令に従うということとこのコロニ
ア法の適用を自分自身が受けるのだということとは大きな違いがあると思います。
 
コロニア法は、この前もう詳しく申し上げましたので繰り返そうとは思いませんけれ
ども、これは国営集団農場に収容されるということでございまして、当然自営農では
ないわけでございます。そして、自由がなかった場合が多いということでございま
す。自営農と思って行った人たちが、そうではない国営集団農場の何といいますか、
一種の失業対策、貧民対策、そういったものの対象となってここでいろいろな命令を
受けながらやらなければならなかったということがショックになっていると思いま
す。
 
ただ、コロニア法の中には、八年なりの月日の後、農地の所有権が取得できるという
一項があったはずでございますけれども、結局政治情勢の変化とかそういったことな
のでしょうか、それが実行されないというそういう結果を招来しているわけでござい
ます。つまりは知らしむべからずよらしむべしという方針に乗っていったとしか思わ
れないのですけれども、またこのよらしむべしというところがこれも十分には行われ
なかったのではないか。そのとさの状況をサマライズしてみるとそのような状況で
あったと私は思いますが、この点についてどうですか。

○政府委員(荒義尚君) 順番にお話し申し上げますけれども、先般も御指摘申し上
げまし一たように、移民の方々に対してはドミニカの法令が適用になるということは
募集要綱にも明記しまして説明会等でもお話ししておるというわけでございまして、
その結果当然のこととしてコロニア法は適用になるわけでございます。
 
ただし、一点だけ御指摘申し上げたいのは、日本からドミニカに行かれた移民の方々
はこれはあくまで自営開拓農でございまして、例えば確かに作物の栽培につき指示を
受けたことはございますけれども、それ以外に何か強制的な義務を課されたという実
情は当時ございませんでした。繰り返しますけれども、雇用農ということではござい
ません。

○久保田真苗君 私がこの前お伺いしました質問の中でも聞いたのですが、入植者の
人が述べていることをもう一回繰り返さなきゃなりませんですね。
 
そこに書いてあることは、入植してまず第一に驚いたのは、募集要綱は自営開拓農で
あったことに対して植民地は国営農場であり入植者はコロノで、国内の土地のない農
民及び失業者を保護するための国営設備であった。私ども先進国の優秀な農業者を利
用して自国の原始農業開発のため体裁よく受け入れたこともわかっ

た。コロニアは周囲に鉄条網をめぐらし入り口に事務所及び倉庫を持ち、管理官以下
数名の役人がけん銃を所持し馬に乗り、私どもの作業を毎日監督し、あらゆる命令、
すなわちコロニアル法を守らねばならぬ奴隷のごとき感じだった。こういうふうに
言っている方もあるわけでございますね。
 
でございますから、そういう事実はなかったとおっしゃるけれども、こういう本も
残っているわけでして、やっぱり私は当時皆さんがコロニア法の適用を受けるものだ
ということを知っていたとは到底思われないのでございます。ですから、これから申
し上げるもろもろのことにつきまして、ひとついろいろな意味から外務省のそれなり
の対処をお願いしたい、こう思います。
 
それで、まず地権の問題なのですが、地権の問題は大分解決していただいたように思
います。この前、昭和六十年には十三件あったものが二月現在では六件が残っている
という状態だというふうに言われましたですが、現在どうなのか、そして今後の見通
しはどうなのかということを伺いたいと思います。

○政府委員(荒義尚君) 地権問題でございますけれども、二月に御答弁申し上げた
ときの状況、ただいま御指摘の世帯数にしまして六世帯、それと耕地面積の割合でこ
れまで解決したのは八五%を超えておりますのでおおむね未解決は一五%でございま
すが、その状況は残念ながらきょうの現在件数では同じでございます。ただし、その
ときもお話ししましたように、私どもとしては、地権問題の解決というのは営農基盤
の安定という意味で大変重要な問題だという認識で出先公館を通じまして先方政府に
働きかけております。
 
それで、見通しということになるわけでございますが、きょうはしかとは申し上げら
れませんけれども、若干解決の方向が出てきた件数がきょう現在一件出ております。

 そういうことでまだ努力をすべきところ多いわけでございますが、今後とも最大限
側面的に働きかけをやっていきたいと思っております。

○久保田真苗君 それから国有地が三百タレアというつもりでいたのが非常に少ない
割り当てを受けて、そして自分の営農基盤をつくるためにその後必死の思いで民有地
を買っていった方もあるわけですね。残った方は非常に少なかったけれども、そうい
う方は努力をしてそうした。ところが、この民有地についても地権の問題が依然とし
て解決されないものがあるわけです。
 
私は、国有地については当初からのことでございますしぜひとも外務省に最大限の御
尽力をお願いしたいと思いますけれども、この民有地につきましてもそういういきさ
つから考えますとやはり同じレベルでの援助をぜひともお願いしたいなと思うのでご
ざいます。この点はいかがでございましょうか。

○政府委員(荒義尚君) 御指摘のように、民有地を取得された方で地権問題が未解
決の方もおられることは我々も承知しております。もちろん民有地を自主的に自己の
責任で獲得されたということで先般来の他の未解決の問題とは根本的に違いますけれ
ども、しかしながら先生も御指摘のように、同じく移民の方々に関係する問題だとい
うことで私どもも民有地についても同じように政府サイドで働きかけていきたいとい
うふうに考えております。

○久保田真苗君 部長言われますように、農業者にとって営農基盤というのはもうこ
れが死活問題でございますので、くどいようですが、外務省が当時の問題をここ何年
かでぜひ解決していただくように最大の御努力をお願いしたい。そして、外務省も現
地の大使館も国際協力事業団も移民の皆さんと一緒になってこの問題を解決していた
だきたい、こう思いますが、いかがですか。

○政府委員(荒義尚君) 私どもも問題の重要性を
十分認識しておりまして、今後とも最大限の支援のための努力を行っていきたいと
思っております。

○久保田真苗君 次は投融資の問題です。
 移住民に対する投融資の現状はどうなっているか、あるいは今後の見通し、特に当
事者の希望をどうくみ上げていくのかということについて御説明をお願いいたしま
す。

○政府委員(荒義尚君) まず移住者に対する投融資の現状でございますけれども、
平成三年度末の実績では貸付件数が百三十五件、貸付残高が三億八千万強でございま
す。
 それから見通してございますけれども、先生御承知のように、昨年の九月に投融資
制度の改善を図りまして、そういうこともございますので今後につきましては従前に
比し貸付申請希望者の増加が見込まれるというふうに私ども思っております。現に
きょう現在になりますけれども、平成四年度貸付申請案件としまして既に十七件の申
し込みを受けております。
 
それから融資についての移住者の方々の希望をどう吸い上げているかというお尋ねで
ございますけれども、昨年九月の制度改正につきましては現地のJICA事務所を通
じまして各種広報に力を入れておりまして、皆様方は制度の実情については十分御承
知だと思います。

○久保田真苗君 その広報の問題ですが、JICAあるいは大使館は日系人の組織を
頼りにそこを通じてやらせるということが多いかと思うのです。ただ、このドミニカ
の場合は実際には残留した方たちが非常に少なくて、それも一部は農地を転々しある
いは離農した方も多い。そして、非常に少ない日本の人が散在しているという形なの
で必ずしもそのような形で広報あるいは外務省のお出しになるこういったものが徹底
しないうらみがあると思うのですが、何かいい方法はないものでしょうか。

○政府委員(荒義尚君) 確かに先生御指摘のように、現在ドミニカにおられる移住
者の方の居住地及び職業は必ずしもかつての入植地に限らない、また職業も農業はむ
しろ少数派になっております。したがいまして、私どもとしても広報を今後どうすべ
きか現在いろいろ考えておるところでございまして、一般論になりますけれども、今
後よりよい広報のあり方について引き続き研究したいというふうに考えております。


○久保田真苗君 ぜひいろいろな情報が行き届くようにお願いしたいと思います。
 次に、奨学金の要望でございますけれども、離農した方がいろいろな町へ入ってい
らっしゃる、そうするとその方たちのお子さん、お孫さんの問題があるのですが、こ
の方たちが離農した以上はやはりその社会で職業を身につけるということは非常に大
事になってまいるわけでございます。
 
いただいた資料で拝見いたしますと、既に学校を出た人たちのうち約一六%は小学校
中退といったような状態でございます。また、小中学校及び中退者を含めてそのレベ
ルの教育の方がほぼ半分近いという状態でございます。日本の状況から見ますと、高
校進学率が九割五分あるいはそれを上回るほどになっている状況から見ますと非常に
教育の上のおくれが目立つように思いますし、今後その社会で一定の地位なりそれか
らまたまともな生活なりを得ていく上から、教育を奨励するということは先方に要望
のある限り最も大切なことじゃないかと思います。
 
それで、奨学金の要望が少ないというお話を伺いましたけれども、これは一体どうい
う理由なのでしょうか。

○政府委員(荒義尚君) 若干経緯をまず申し上げますけれども、私どもも移住者の
子女の教育問題の重要性はっとに認識しておるところでございまして、昭和三十八年
度以降最初は無償の奨学金給付制度というものをやっておりました。しかしその後、
いろいろな事情がございます。例えば移住者の方々もそこそこに生活基盤ができてこ
られたということ、それから我が方の国内事情もございまして、財政制度等もござい
まして昭和五十一年度以降につきましては無償の奨学金制度は残念ながら廃止いたし
まして、自後、貸付制度ということに切り変わったわけでございます。
 
問題は財源でございまして、当初から我々として原資はJICAの方から出資という
ことで外貨で出した、ただし御案内のように、貸し付けは現地通貨でございますけれ
ども、インフレというようなことがありまして、回収金が入ってくるのですが目減り
するということで原資が大変少なくなっております。現在数十万円のレベルまで落ち
てきておるということが一つの原因としてございます。
 
それから個々の移住者の方々の方の事情でございますけれども、これについては正直
申しましてそこら辺についてどういうお考えか、御要望があるのか必ずしもつまびら
かにはしておりませんが、奨学金の申し入れの件数が非常に少なくなっているという
ことは事実でございまして、この辺も含めまして現地の要望を今、調査しておるとい
う状況でございます。

○久保田真苗君 年に三〇%ないし五〇%のインフレなのですね。これは南米などの
累積債務の個人版になっているのじゃないかというふうに思われるのですが、ペソが
目減りしてしまうことについて何かいい知恵はないものなのでしょうかね。
 
例えばドル建てペソ払いになっていまして、それは円建てよりはましかもしれません
が、ドル建てペソ払いではこのすごいインフレによるペソの下落でもって借りても返
済が困難と思われるのですね。例えばペソ建ての更生資金融資、こういうものの使い
道の枠を広げるとか貸付限度額も大幅に増額するとか、そういったことができたら大
変いいのじゃないか。そうでないと実際にはこれは使えない奨学金になってしまいま
すので、何とかその辺お知恵を出していただけないものでしょうか。

○政府委員(荒義尚君) 確かに奨学金制度及び投融資制度の共通の問題でございま
して、そういう高率のインフレ国でこういうファンドをどう運用するか。確かに利用
者のサイドを考えますと、例えば一ドル一ペソとかにしておけばインフレもございま
すので利用者の方は大変便利だということですが、他方、国の財政のサイドから見ま
すと、そういうことになると幾ら国の税金をつぎ込んでも足りぬということで大変な
ジレンマがございまして、現在のところ有効な抜本的な解決方法というのは見出せな
いという一般的な事情がございます。
 
他方、ただし現在の制度、例えば更生資金につきましてはそういう基本的な構造的な
問題ございますが、なるたけ貸付枠を原資の許す限り拡大したいということで今後と
もやっていきたい。例えば昨年九月にはその更生資金につきましても枠を一〇〇%拡
大するということで現在運用しておる次第でございます。

○久保田真苗君 とりあえずはその枠を拡大するなりなんなりでできるだけ現地の要
望を受け入れていただくように御尽力をお願いいたします。
 それから次に、今、調査をしていただいていると伺いましたが、この前御報告いた
だきましたときに全移住者に対してアンケートをお出しになったと伺いましたです
ね。まだ最終集約まではいっていないとは思いますけれども、どんな目的でどんなこ
とをお調べになって最終的にはそれをどう生かすおつもりなのか、いっその結果がわ
かるのか、そんなことをお聞かせいただけますでしょうか。

○政府委員(荒義尚君) 御指摘のアンケートでございますけれども、実施時期はこ
の四月でございまして、対象は在ドミニカの移住関係者の全世帯おおむね二百世帯を
超えております。
 
調査項目はいろいろございますけれども、就学状況、職業、それから例の地権の取得
状況につきましてもこれは国有民有両方含めましてもう一度事実をしっかりと把握し
たいということで項目に入れております。それからいろいろ移住者の方々の要望につ
きましてこの際総括的に網羅的にもう一度個々に聞いてみたいということで、要望事
項もアンケートの中に入れでございます。
 
現在回収中でございますけれども、我々としては何とか五月中には全体を取りまとめ
て調査の取りまとめを行いたいと思っております。それをもとにしまして、今後特に
ドミニカの移住者の方の施策をどうやっていくかということをそれをベースにいろい
ろ我々として検討していきたい、いろいろ有益な示唆が得られるのじゃないかと期待
しております。

○久保田真苗君 私も期待しております。
 ところで、前回の委員会で売部長は御自身も、JICAの方はおいでになりました
けれども、御自身もドミニカヘ行ってそして理解を深めたいという、そういう御発言
をいただいておりますけれども、その御計画はございますでしょうか。

○政府委員(荒義尚君) 先般お答え申し上げましたように、私としましてもぜひ事
情の許す限り早急に現地に赴きまして現地の事情を把握したいと考えておりまして、
まだ時期を特定するまでには至っておりませんが、可能であればことしじゅうには何
とかという気持ちでおります。

○久保田真苗君 できるだけ近い機会にどうぞよろしくお願いします。
 それからおいでになりましたときにはいろいろ相互理解を深めていただきたいと思
うのでございますけれども、一つ現地の方にひっかかっていることは、昭和三十六年
には移住した約八割の方が帰国するかまたは南米へ再移住されたわけですね。外務省
としてはそのときをもってこの問題は、そういった帰国、再移住に援護をしたのだか
らこのときで問題は解決している、したがって後は外務省とは関係がないのだという
ような御発言が間々あったらしいのですね。それが大変何といいますか、そのよって
来るところの原因までいきますと憤激を買うというようなことになっていると言わざ
るを得ませんのです。
 
それで、外務省としてはあるいは事業団としては、今現在もそのようなもう昭和三十
六年で縁は切れたのだというお気持ちなのかどうか、もしそうでなければどういうお
気持ちなのか、その辺をぜひお聞かせいただきたいと思います。

○政府委員(荒義尚君) 私どもは、御指摘は昭和三十六年の閣議決定のことを御念
頭に置かれてと思いますけれども、私どもとしてはそれでもってすべて終わった、も
う関係ないということは毛頭ございません。それが証拠にといいますか、それ以降も
私どもは引き続き可能な範囲で誠意をもってドミニカの移住者の方々のための援護事
業ということは続けておるわけでございまして、再三お答えしましたように、今後と
もなるたけきめ細かく親身になってそういう要望にこたえるよう施策の充実を図って
いきたい、そういう気持ちでおるわけでございます。

○久保田真苗君 ドミニカ移民についてはこのぐらいにしておきますけれども、最後
に一つ渡辺外務大臣に申し上げたいと思います。
 私、ドミニカ移民についてやってきたのですが、ドミニカに限らず多くの中南米諸
国への移民についていろいろな問題を抱えている人が多いと聞いております。私も
行ったときにはできるだけそういう方にお会いしておるわけでございますけれども、
問題は複雑多岐になっておりまして、現地大使館、領事館の対応も、御苦労は多いの
だけれども、そしてお忙しい中さぞ大変なことだろうとは思いますけれども、ぜひ親
身に応接していただきたいものだと思います。
 
いろいろお忙しい中ですけれども、これは日本がかつて国策として送り出したという
その結果でございまして、日本の方、日系の方、そういった方たちが現地で非常に有
益な仕事もし生活もするということが非常に大事だと思います。同時に要望にこたえ
得る制度が充実しないと実は何もしてあげられないわけでございまして、ひとつ風通
しのいい親身な応対と、もう一つは制度の確立についてこれからお知恵を絞っていた
だきたい、このことをお願いして、大臣の御所感など承りたいと思います。

○国務大臣(渡辺美智雄君) ドミニカのことは私はつまびらかでございませんが、
中南米等に移住された方々が非常な御苦労をなさっているということはよく承知をい
たしております。したがいまして、できるだけ移住者の方々に対して在外の公館は親
切に相談に乗ってやるように督励をしてまいりたいと存じます。
 
ただ、非常に最近はナショナリズムといいますかそういう空気が強くて、例えばブラ
ジル等におきましてもかつては移住会社ですか、そういうようなものがあって、日本
からの移民に対しては直接的にそれに融資をしたりいろいろ面倒を見ておったのでご
ざいますが、そのことについて今ブラジルの中から批判が出まして、ブラジルに来た
以上はブラジルの人である、したがって日本人にだけそういうような援助をするとい
うことは好ましくない、そういうふうな

余裕金があるならばブラジル政府に直接貸してくれ、ブラジル政府は公平にブラジル
国民に対して融資をすると、こういうようなことなどもありまして、ブラジルのあの
灌木地帯の開発等の問題についても、実際はもう日系人に応援したいという気持ちが
あってもそれは日系人というわけにいかない、そこに入植するブラジル人だというよ
うなことで、余り日系人は恩恵を受けなかったという実例も実はあるのです。
 
ここらの兼ね合いが非常に難しいのですね。直接こちらが余り手出しをすると内政干
渉だ、こう言われますし、手を出して見てやらないと我々移住者に対して日本は冷た
いじゃないか、こういうことに受け取られることが多い。したがって、できるだけそ
の国の法律規則に従う中でどれだけ親切にやれるかという問題になってくるわけであ
ります。
 したがいまして、今後ともいろいろな事情等を勘案いたしまして、移住者に対して
は親切にひとつ対応するというように計らってまいりたいと考えます。

○久保田真苗君 親切がまずスタートなのですけれども、今、大臣がブラジルの問題
おっしゃいました。私はきょうはブラジルのことを論ずる用意はございませんのです
けれども、大きな違いはブラジルは非常に歴史のある移住先だということなのです。
ドミニカは戦後でして、それも日本が非常に困っていたころの昭和三十一年のそれも


小規模な移民でございまして、どうしても人の頭から忘れられてしまうというその中
で、今また昭和三十一年の話は古い話ですけれども、実は去年から大分それがこのよ
うに新聞にも雑誌にも報道されております。ということは、これは古くて新しい問題
で、人の心の中から発足のときのあの苦しさ、あの不合理だという怒り、それが消え
ていない証拠だと私は思っております。
 
昨日の新聞にも現地をお調べになった調査団の報告書がまとまったというお話がござ
います。これによって皆さんのいろいろな苦情がさらに出てくるかもわからない。し
かし私は、今おっしゃったような集団帰国段階でこの問題は解決済みという外務省の
態度がもう続いていないということですから大変結構なので、ぜひこういった現地の
方々とのお話し合いをしていただければ幸いだと、この際お願いしておきます。あり
がとうございました。

○国務大臣(渡辺美智雄君) 承知いたしました。
『移民と二重国籍」(58)ミクシィ講座

『ドミニカ移民訴訟の研究』

これは外務委員会の国会速記録よりの抜粋です。 ドミニカ移民問題が質疑され、論議して答弁されています。 鹿児島県よりの漁業移民の件も論議されている項目があります。

この国会答弁の中にパラグワイのフラム移住地との比較と緒問題
の比較が質疑されている、貴重な速記録です、
皆様が法廷の陪審員として、結論を下される事を願っています。

いつも長文ですみません、頑張って読んで下さい。


038回国会 外務委員会 第18号
昭和三十六年五月三十日(火曜日)
   午前十時四十四分開会
  ―――――――――――――
出席者は左の通り。
   委員長     木内 四郎君
   理事
           青柳 秀夫君
           井上 清一君
           鹿島守之助君
           森 元治郎君
   委員
           草葉 隆圓君
           笹森 順造君
           杉原 荒太君
           苫米地英俊君
           永野  護君
           野村吉三郎君
           加藤シヅエ君
           羽生 三七君
           石田 次男君
           佐藤 尚武君
  政府委員
   外務政務次官  津島 文治君
   外務省移住局長 高木 廣一君
   郵政省貯金局長 大塚  茂君
  事務局側
   常任委員会専門
   員       結城司郎次君
  説明員
   外務省経済局次
   長       高野 藤吉君
   外務省条約局外
   務参事官    東郷 文彦君
○委員長(木内四郎君) 速記を始めて。

○石田次男君 五月の二十三日の日経紙ですが、ドミニカへ五年前に行った漁業移民
のうち、三家族が帰ってくるという記事が出ているわけですよ。これについて、移民
から引き揚げまでの経過を簡単に教えてもらいたいと思います。

○政府委員(高木廣一君) この漁業家族は、五家族だったと承知しております。鹿
児島県からの家族でございまして、最初参りますときは、漁船は少なくとも三十トン
以上の船でなければいけないというふうに言われていたにかかわらず、実際一トン程
度の簡単な船を持って行った。これがまあ最初のつまずきのもとであったようでござ
います。それで、一トンでは、あそこで漁業はなかなかしにくいということと、その
後、御承知の通り、カリビア

海の政情が非常に悪くなりまして、ドミニカの海軍が、ある程度漁業についての、こ
とに沿海の、沿岸における漁業の制限をし出したということで、漁業を続けていけな
くなった。そのために、二家族は農業の方に転向いたしましたが、あとの三家族は、
どうしても農業の方には転向できないということでございまして、いろいろ工夫をい
たしましたが、どうもこれ以上ここに置く方法がないということで、やむを得ず三家
族につきましては国援法を適用いたしまして、近く帰すことになった次第でございま
す。

○石田次男君 この移民は、外務省の方であっせんして出たのですか。

○政府委員(高木廣一君) その通りでございます。

○石田次男君 これは、あっせんするときに、現地の方へ日本側としてだれか専門家
が行って調査したんでしょうかね。

○政府委員(高木廣一君) 調査いたしました。

○石田次男君 その調査の報告は、大体どういうふうになっておりましたか。

○政府委員(高木廣一君) 実は、ここに今持ち合わしておりませんので、調べまし
て、もし何でしたら、先生の方にお届けいたします。

○石田次男君 さっきちょっと経過を聞いたんですが、この漁業移民が失敗したの
は、カリブ海での国際情勢が悪くなったところに原因があるのか、それとも、初めか
ら無理だったのか、どっちなんですか。

○政府委員(高木廣一君) 根本的には、一トンの船を持って行ったということに無
理があったようでございます。最小限度三十トン以上の船を持って行かなければなら
ないのに、そうして移住会社はこの漁船について融資しているのですが、実際、簡単
にこの一トンの船で出したというところに原因があったと思います。

○石田次男君 最初行くときに、三十トンの船がなければ漁業が成り立たぬ、そう
言ってあったということですが、実際には一トンの船を持って行ってしまったわけで
すね。これは、出発のときに、一トンで行くということは、外務省の方でわかったの
じゃないですか。

○政府委員(高木廣一君) ちょっと正確なところは今ここで申し上げられません
が、実は、きょうはネイバ地方のことをお聞きになるということでございましたの
で、陸のことばかり調べてきて、申しわけございませんが、正確なところをさらに確
実に御返事したいと思いますが……。

○石田次男君 実はこの船の問題が、帰ってくるということについての相当の原因に
なっておりますからね。やはり行くときに一トンの船で行ってしまった、その辺の事
情を知っていかせてやったのでしたら、外務省の方にも、何か指導上の手落ちがある
ような気がしたのですがね。まあ、資料を今持っていないというのですとやむを得ま
せんが、あとで一つ出して下さい。
 それで、現地からの帰国の請願は、いつごろどこへ出たのですか。

○政府委員(高木廣一君) 帰国の請願は、今の陸のネイバ地区でございます。そう
してドミニカの移住は、実は、ごく簡単に申しますと、他の地区と非常に違った扱い
でございまして、ドミニカ政府で住宅を建て、家具、什器まで支給し、そうして国有
地を整備いたしまして、すぐ耕作できる形にして移住者に渡す。

○石田次男君 今質問しているのは漁業移民の方です。これですと、「三家族の引き
取りを決定」とありますがね。現地の方から帰国を嘆願していると書いてあるわけで
すよ。これは、いつごろどこへ言っていったか。

○政府委員(高木廣一君) これは、現地で大使館の方に申請がございまして、去年
の秋ごろから、われわれはこの事情を聞いておったのであります。

○石田次男君 三十五年の秋ですか。

○政府委員(高木廣一君) 三十五年の十月ごろであります。

○石田次男君 この人たちは、さんざん失敗したのですから、帰って来る旅費は持っ
ていないはずですが、これはどういうふうになりましょうか。

○政府委員(高木廣一君) いわゆる国援法というものがございまして、原則的に
は、本人の家族か、その他が支払う、これは、支払わぬ場合には国が支払うという形
で、こういう万一の場合の困窮移住者を――移住者に限りませんが、在外邦人を日本
へ帰す予算がついているのでございます。ごくわずかでございますが、各地域それぞ
れついておりまして、それで帰すということにいたしております。

○石田次男君 そうすると、外務省の方で予算を出そうという腹ですか。

○政府委員(高木廣一君) これは毎年ついております。中南米地方に幾ら、北米に
幾ら、ヨーロッパに幾ら、こういうふうに、ごくわずかでございますが、ついておる
のであります。現在のところ、われわれの移住局関係では、三十五、六名ぐらいの予
算がついております。

○石田次男君 三十五、六名ですか、一年間に。三十六年度分のその関係の予算も、
やっぱりこんな程度ですか。
○政府委員(高木廣一君) 大体その程度でございます。ちょっと今、正確な数字を
持っておりませんが……。
○石田次男君 これは、近々に帰ってくると思いますが、帰国したあとの保護対策と
いうようなものはお持ちでしょうか。
○政府委員(高木廣一君) これは、まず今のところ帰すことが精一ぱいで、それか
ら先は、県が連絡しております。それがめんどうを見るわけであります。

○石田次男君 やはり相当の決意を持って行った人たちが失敗して帰ってくるわけで
すから、よくよくだと思うんです。で、こういう場合に、帰ってきた場合の保護対策
なんかはっきりしていないと、あとに悪影響が残ると思うんですが、その点いかがで
すか。
○政府委員(高木廣一君) 仰せの通りでございます。従って、帰国さすということ
を決定いたしますには、十分検討して、どうしてもほかに方法がないし、続けて置け
ないという場合に帰国さすことに決定しております。

○石田次男君 この三家族の人たち、いつごろ帰ってきますか。

○政府委員(高木廣一君) ちょっと正確にわかりませんが、実は、ドミニカは、御
承知の通り、普通の船が寄りません。大阪商船は寄りませんので、ドミニカからパナ
マまで行きまして、パナマから乗りかえて帰ってきますから、今その手続をしておる
と思いますが、一、二カ月かかると思います。

○石田次男君 一、二カ月ね。実は、この漁業移民だけじゃなくって、農業移民の方
にも問題が出ているわけですね。それで、ドミニカ移民の全体的な状況を簡単に説明
していただきたいと思います。

○政府委員(高木廣一君) ドミニカ移住は、昭和三十一年三月に両国の交換公文で
送りまして、五回にわたって実施されたので、現在二百九十七家族、千四百六十五名
おります。そしてこの移住は、ドミニカ政府で住宅、各什器、国有地を整備して提供
する。それから、第一回の収穫があるまでの生活補給金を支払う。これは、月にアメ
リカドルで六十ドルぐらいでございますが、こういういい条件で募集されたわけでご
ざいます。その後補給金の方は、第一回収穫があるまでということでございますが、
ずっと続けてもらっておりました。ただ、最近になりまして、ドミニカのカリブ海に
おける国情というものが非常に不利になりました関係上、国防費その他に

相当国の予算が逼迫して、二年ぐらい前に入った人には、まだ続けて補給金を出して
おるようですが、その以前のものの一部には、補給金を続けて出さないことになりま
した。それで、このドミニカの移住地は、非常に小さい土地を、大体五町から二十町
ぐらいの土地を支給することになっているのですが、実際は、ドミニカ政府では、全
部耕したらそこのを一ぱいやるので、初めからそれだけやるのではなくて、耕した力
によって伸ばしていってやると、こういうような話し合いでございましたが、実際
は、この約束の半分ぐらいの土地しかもらっておらないという実情のようでございま
す。それから、この地区が七地区に分かれておりまして、こまかく分かれている点
が、な

かなか世話をしにくいところでございます。しかしながら、その中でも、一番大きな
移住地区でございますハラバコア地区とかコンスタンサー地区というのは、営農が非
常に順調にいっておりまして、入植者の中には、すでに自家用車、トラックを持って
おる者もある。あるいは近親呼び寄せをやっている人もある。つい最近も、近親呼び
寄せが来ております。ただ、昨年――ことしになってからですか、やかましく帰国を
集団で申し入れましたネイバ地区というのと、それから、ドベルヘーという地区が問
題がございます。ネイバ地区は、これも、最初に視察団が行きまして、農業技師も
行って、非常にいい土地だということの折紙がついておったのでございますが、割合
に石

が多い所でございまして、最初日本の移住者を入れましたときには、ドミニカの政府
で非常に力を入れまして、この近くにほとんど土民は住んでおらなかったんだと思い
ますが、水を全部日本の移住者に回すということを言っておりました。ところが、付
近の土民の方から文句が出て、その水を一部土民の方にも回してやらなければいかぬ
ということにまたなったりしまして、水の不足という問題も起こりまして、二年ほど
前に、この地区を移りたいという希望が移住者の中から起こったのでございます。そ
こで、大使館及び海外協会連合会の現地支部でドミニカ政府と話しまして、では、ほ
かの方に移そうということになりましたら、移住者の方で、いや、せっかくバナナも


え、ブドーも植えて、これからなるところだから移るのはいやだと言って、そのまま
になっておったんであります。その後、去年ごろになりまして、先申しましたドベル
ヘーというのが問題が起こりましたのですが、ネイバは何ら問題はなかったのです
が、ことしになりまして、突然、この地区は水もないし困るから、そうしてほかのこ
の地区の中で土地を移るのはいやだから、集団で帰りたいという陳情が来たのであり
ます。なお、このネイバ地区は、現地の話が二年ほど前にありましたが、その後割合
この土地はいいとみえて、日本人もほかの地区からここへ入ったのもあり、それか
ら、土民が相当この地区へ入ったということで、水をだんだんそれらに回さなければ
いかぬということで、現在では、一日四時間に水が減量せられたというような根本的
な問題も現在起こっておるのであります。

それで、ことしになりまして、このような陳情がございましたので、われわれの方と
いたしましては、現地の大使に電報いたしまして、ドミニカ政府に強く申し入れて、
この移住者の保護に強力に施策していただくことを交渉してほしい。なお、土地をか
える、あるいは国の土地でなくて私有地なんかを借りて、あるいは買って営農すると
いう方法も考えられる、そういう場合には、移住会社から融資することもあわせて考
えるというようなこともいたしたいからという指令を出しました。なお、相当現地の
方で盛んに陳情するものですから、われわれとしてもほおっておけませんので、私の
方の参事官が現在参っておりますし、その前、移住会社関係、融資関係の事務官を去
る四月の終わりから五月の初めにかけまして送りました。海外協会連合会からも人が
行っております。
 

こういうことで、現地の大使はドミニカの農林大臣と話しまして、それでは土地をか
えましょうという話になりまして、この地区で土地をかえる余地はないので、他の地
区へということになっておったのでありますが、移住者は、いや、もうドミニカ政府
はそういうことをなかなかやってくれないから、どうしても帰るんだと言ってがん
ばっているという話でございます。われわれといたしましては、日本へ帰るというこ
とは大へんなことである。もう一つは、ドミニカへ参りました移住者というものの素
質が相当問題なんでございます。さっきも申しましたように、この地区は、非常

に有利な、月給取りのような、遊んでいても暮らせるような移住である。実際ある移
住者の一部では、補助金をもらって働かないでいた、現地人を補助金を出して働かし
たというようなこともあって、ドミニカ政府から文句を言われたこともあるぐらいで
ございます。そういうような非常にいい所であるということで、農業に経験のない百
姓が行ったり、あるいは、ドミニカに行ったら、ドミニカからアメリカに行きたいと
いうような人もあり、あまり勤労意欲のない人が行っておるというようなこともござ
いまして、これは必ずしも全部でございません。むしろ全体はまじめな人であります
が、そういう人もあるものですから、ただ彼らがわがままを言うままをそのまま聞く
わけにはいかないから、できるだけ現地にとどまってもらうように説得工作をしたい
ということで、現在それに努力している次第であります。
 
それで、ネイバ地区は、まだ結束して帰ると春っておるのでありますが、さっき申し
ましたドベルヘー地区は、これは、十家族帰りたいというものがありましたが、八家
族は、ドミニカ政府のあっせんで他の地区に移ることになりましたが、二家族だけが
まだ残っております。もう一つ、これはダバホンという地区がありまして、この地区
は非常にいい地区でありますが、この中に、一人だけ、非常に勤労意欲がなくて奥さ
んが全然働かないので、一人だけ

でやっているため、案外いい土地でありますが、帰りたいという人があります。ネイ
バ地区は、一家族だけ、おれは最後までがんばるのだと言って、帰るのをがえんじな
い家族がおるわけであります。こういう状態でありまして、われわれとしても、日本
へ移住者を帰すということは、うまくいっておる他の地区に対してもいろいろ動揺を
与えますし、また、南米の他の移住地区にも非常な影響を与えるのでありまして、慎
重を期して、できる限り初志を貫徹するように指導したい、こう思っておる次第であ
ります。

○石田次男君 そのネイバ地区に関係するのですけれども、四月二十五日に、佐久間
清次という人があめりか丸で帰って来ておりますね。それは御承知でしょう。実は、
この人は、横浜へ着いてから、海外局の寮みたいな所へ入れられていたと思います。
横浜市の中区本町通ですよ。県庁のそばの……。ここの三階の七号室にいたのです
ね。で、向こうに移住している人の血縁の人が会いに行ったら、そういう人はおらぬ
と言って断わらたというのですが、これはどういうわけでしょうか。

○政府委員(高木廣一君) ちょっとそれはわかりませんが、本人は自費帰国をした
いという申請がございまして、われわれの方としては本人は渡航費を貸し付けてあり
ますから、返すという誓約書を取りまして帰って来られたのであります。そうして帰
られて、私の所にもお見えになりました。そうして自分は日本に帰るのが本旨でなく
て、どうしても海外へ行きたいのであるが、ドミニカではよくないから、自分はブラ
ジルあたりへ行きたいから、何と

かしてほしいということで、実際家財道具を整理して、家族はみな故郷におらないわ
けですから、われわれとしても、ブラジルあたりへ行った方がいいだろうということ
で、あっせん所に特別に入れてもらうようにお世話を願ったのであります。ただ、
あっせん所で、家族に会わせないとか、親戚に会わせないとか、そういうことはあり
得ないと思うので、あるいは本人がいやで避けておられるか、何かほかの事情じゃな
いかというふうに思います。

○石田次男君 結局は、結論としては会っているんですよ。というのは、向こうへ行
くときにやはりそこに入っていたもんですから、会いに行った人は中の事情をよく
知っているんです。で、断わられたから、そんなわけはないのだと、ずいぶん押し問
答をしたというのですよ。結局それでもいない、いないで突っ張られて、しょうがな
いから、夜、裏門から入っていって会ってきたというのです。これは私、会っている
んです。それは、四月の二十八日ころです。それから、この佐久間という人が、やは
り四月の二十八、九日あたりじゃないかと思うのですがね、やはり向こうへ行ってい
る人の親戚の家へ泊まってきたら、どこへ泊まってきたのだといって、えらくおこら
れたと言っていま

したがね。もう一つ、将来の移民に差しつかえるから、ドミニカの問題はあまり表ざ
たにはしないでくれと言われたというのです。こういうところを見ると、どうも何か
不穏なものを感ずるのですがね。これは、実際私、この佐久間さんに会って聞くこと
にしていたんですけれども、ちょうどうちの母がなくなりましてね。それで、私が会
えなくて、別の人に会ってもらって、テープをとってあるんです、向こうの内情も。
それが、今の説明とずいぶん違うのです。そうして、こうして帰ってきたのを、あっ
ちにもこっちにも会わせない算段をして、表ざたにしないでくれなんて言われている
んじゃ、われわれとして納得できかねる点があるのですが、それ一つ、御存じなかっ
たら、調べてもらいたいと思う。
○政府委員(高木廣一君) よく調べて、御返事いたしたいと思いますが、私の了解
する限りにおいては、そういうことをやっているはずではなくして、むしろ本人の便
宜のためにあそこに、そういう人の入る所じゃないわけですけれども、入れてやると
いうことでありますし、なお、このドミニカの問題は、われわれも決して簡単に考え
ているわけじゃありません。これは、根本的には、移住地が他の南米のブラジルとか
パラグワイのような大きな将来性

があるというよりも、非常に小じんまりとした所で、非常に待遇はいいけれども、わ
れわれの海外の移住の精神から言うと、あまりに月給取り的な移住であるというとこ
ろに問題があると思います。また、ドミニカの国際政情というものが非常に悪いの
で、これが移住者を非常に強く動揺さしているんだと思いますので、こういう点を十
分あわせて考えまして、最善の策を講じたい。場合によれば、他の地域へ移すことも
考えなければいかぬというふうに思っておりますし、いましばらく実情を見ましてか
ら措置したいと思います。

○石田次男君 今の問題点は、会わせまいとしている点を言っているわけですよ。実
際親戚なんかへ行って一どこへ行ったのかと、おこられたということは、私がはっき
り知っております。泊まってきたらおこられているんです。それから、この問題は移
民に影響するから、あんまりあちこちへ言わんでくれなんて言われているんですね。
その点について聞きたいというのです。あとで調べて、文書か何かで返事ををほしい
と思うのですがね。

○政府委員(高木廣一君) そのようにいたしたいと思います。

○石田次男君 それから、佐久間さんのことですがね。パナマまで飛行機で来て、パ
ナマから船で来ているんです。さっきも言ってありましたが、船がはっきりしないも
んですから、えらく滞在したらしいのですね。それで、すっかり金がなくなって、大
使館から借金をしてきたといっておりましたが、これはその通りでしょうか。

○政府委員(高木廣一君) これは、正確に存じませんが、本人はそういうことを
言っておられました。しかし、本人はまだ相当お金を持っておられるようなふうに聞
いておりました。千何百ドルか何か持っておるような話をしておりました。
○石田次男君 この金は、大使館で正式に貸したもんですか。個人的に貸したもんで
すか。きのう調べたところでは、公式じゃないのじゃないか、その報告は来ておらぬ
という話でした。

○政府委員(高木廣一君) そういう報告は来ておりませんから、わかりません。パ
ナマでは、そういうような貸す金はございませんから、公式でないと思います。
○石田次男君 大使館から借りてきたいというのは、あなたの方にもそう言っており
ましたか。
○政府委員(高木廣一君) そういう報告も存じません。
○石田次男君 それで、その佐久間さんは、最近どこへ行っているか、わからなく
なったんですがね。どこにいるか、わかりませんか。
○政府委員(高木廣一君) これは、われわれが監禁しているような印象を与えるの
ですけれども、そういうことはございませんで、本人が御希望になりましたので、収
容所の方へお世話したつもりでおるんですけれども、私も調べてみます。そういう監
禁するようなことはできないわけでございます。それから、面会も拒むということも
おかしいことでございます。よく事情を調べてお話ししたいと思います。

○石田次男君 わかり次第文書を下さい。
 それから、佐久間さんは、初めからブラジルへ行きたい希望を持っていて、向こう
にいたときにもそれを出したそうですよ。大使館では取りあってくれない。それで、
にせの診断書を作って帰国してきたというんですね。こっちへ来てから相当話も進ん
で、ブラジル行きは大体通ったとか言っておりましたが、何せ五月の初句の話ですか
ら、あれからだいぶ日もたっております。はっきりきまったかどうか、確認していな
いんですが、その点を聞きたい。

○政府委員(高木廣一君) 今おっしゃったように、移住者の中には、あそこを踏み
台にして、また、あそこまで行けばどこへでも行けるという関係で、南米を志した
り、あるいは北米を志したりする人が相当あるわけであります。あの土地が相当悪い
とか何とかいうことではなく、ねらいはブラジルである。これは、ほかの移住地でも
そういうことがございまして、われわれとしては、そういう点で選考を厳密にしなけ
ればいかぬわけでございます。この方もそういうことであると、私は、実は今初めて
聞いたんですが、本人は、ドミニカが悪いから、やむを得ず南米に行くようなことを
言っておりましたが、あるいは、初めからそういうつもりでおったか、あるいは、あ
そこがいけなかったということで戻ってきたのかもしれません。

○石田次男君 こっちへ帰ってから、佐久間さんはブラジル行きの申請は出したんで
すね。
○政府委員(高木廣一君) 出しているようであります。ブラジルの方は、御承知の
通り、家族呼び寄せがございますから、それで、話があれば行けるわけであります。

○石田次男君 それはきまりましたか。
○政府委員(高木廣一君) まだきまったという報告は聞いておりません。海外協会
があっせんしていることは聞いております。
○石田次男君 少し、向こうの国情なんかの話になると、あまり速記録に載せぬ方が
いいのじゃないかと思うような点もあるわけですがね。
○委員長(木内四郎君) ちょっと速記をとめて。
  〔速記中止〕
○委員長(木内四郎君) 速記をつけて。
○石田次男君 実は、今向こうに飯島事務官が行っているわけですね。中間報告なん
か来ているのじゃないかという予想のもとにきょう聞いたのですが、全然中間報告も
来ておりませんか。
○政府委員(高木廣一君) まだ来ておりません。ただ、飯島事務官が今行っており
ますが、私の方の参事官が明日か、あるいは六月早々に帰ってくる予定でございま
す。従って、それが帰りましたら、詳しい事情をよく聞きたいと思います。
○石田次男君 私これをお伺いしているのは、実は、あまり細部にわたっていろいろ
向こうの事情まで聞くと、現地の方に悪影響が来はせぬかという懸念もあるわけで
す。それで、どの程度まで質問しようかと思って、こっちも実は困っているのです
が、しかし、飯島事務官が行ってからしばらくになるんでしょう。

○政府委員(高木廣一君) これは、一月滞在さすことにして、まだ一月過ぎておら
ないわけです。私の方の参事官が十日ばかり行って、今月末か来月早々に帰ってくる
と思います。

○石田次男君 もう一月もたっているのですから、中間報告が来てもよさそうなもの
ですね。とにかく結論的に申し上げますが、水を遮断されてしまって、一カ月に八十
四時間の給水だそうです。そうすると、一日三時間足らずですからね。あそこは、百
四十日も雨が降らぬという土地ですから、そういうことになったら何もできないこと
ははっきりしています。現に写真なんかもありますけれども、これは土地というより
川原ですね。参考のために一部

上げていいですよ。これはちょっとひどいんだ、これを見ると。一部上げておきま
しょう。こっちから相当営農機械なんか持って行ったのに、全然役に立たず、つるは
しであぜを作るというのですから、推して知るべしだと思うのです。そういう事情も
初めからわかってたんじゃないかと思うんですね。現に中田技官とかいう人が、移住
の前に現地を調査していますね。

○政府委員(高木廣一君) 農林省の中田技官です。
○石田次男君 そのときの報告はどうでしたか。
○政府委員(高木廣一君) これについては、移住適地で、いい土地であるという報
告が来ております。
○石田次男君 冗談じゃないです。これですよ。これでいいとは言えないでしょう。
これは、その調査した人の責任問題になりはしませんか。
○政府委員(高木廣一君) 今のその土地は、配分土地の三分の一ぐらい使えない所
があるそうです。それがきっとそれだろうと思います。
○石田次男君 それで、現在その人たちは、畑が全然だめになってしまって、青バナ
ナ山を毎日煮て食っているんです。それから、政府の方から毎日一人当たり一合五勺
の牛乳の配給があるそうです。ですから、政府としては割合に紳士的だし、割合に待
遇しているつもりらしいですね、で、水を切られてから全然何もできませんから、売
り食いをしてしまって、売り食いする物もなくなって、餓死寸前になっているので
す。だからこれは、帰国させるとか移住させるとかということも必要でしょうけれど
も、早急に日常生活だけでも助ける必要がありませんか。
○政府委員(高木廣一君) その問題の急迫性を実は帰った者から十分聞きたいと
思って、ほんとうに言う通りなのかどうかも聞く必要があろうと思っております。

○石田次男君 それから、この人たちの希望は、帰って来たいということですが、外
務省の方としては、国内移住ないしはブラジルへ行く、そっちの方へ勧めているよう
ですけれども、もしこの人たちがどうしても帰国したいという意思を翻さないという
場合、どうなりますか。

○政府委員(高木廣一君) これは、実はわれわれは一番努力して実現したいと思う
のは、ドミニカにおける換地であります。土地をかえることであります。それがどう
してもだめな場合は、他の地域への転出であるとか、どうしてもだめな場合は、日本
へ帰さなければいかぬわけでありますが、これは、さっき申しましたように、国援法
のこの援助の法律による予算が限定されておりますから、現在のところは、かつかつ
でございますし、それから、ネイ

バ地区だけが帰すなんということで、ほかの方でも、不満な連中は、ほかに移住した
いとかいう人があれば、これは同意をいたしますが、われわれといたしましては、予
算の点もございますけれども、慎重を期して、せっかく移住ということで向こうへ
渡ったのですから、移住者がその移住地において所期の目的が達成できるように、あ
らゆる努力をしたい。ドミニカは狭いけれども、ドミニカ政府の協力というものがあ
れば、ほかの適地にかえることは十分できるわけであります。そういう点は強力に指
導をしたいと、こう思っております。

○石田次男君 どうしても帰国の意思を翻さない場合のことを聞いているのです。憲
法でも、居住、移転及び職業選択の自由ははっきりしているのですから、この点もあ
りますし、現地の人が、どうしても帰国したい、国内移住もブラジルもいやだ、そう
いうふうに強硬に突っぱる場合は、帰国させるよりほかにないと思うのですが、その
点いかがですか。
○政府委員(高木廣一君) その通りでございます。ただ、それは金の方の手配をせ
ねばいかぬと思います。

○石田次男君 それじゃ、このネイバ地区の問題は、きょうはこれで切り上げておき
ますけれども、実は、去年ブラジルへ行ったときに、サンパウロからしばらく離れた
所に東山農場というのがありますね。そこへ視察に行ったんです。ちょうどその視察
に行ったときに、パラグァイのフラム地区に行った人たちが来ていたんですよ。その
人たちの様子を見て、びっくりしました。名刺をもらってきたのでありますけれど
も、パラグァイのフラム移住地のサンタロサ農業協同組合長、それから専務理事と
か、こういう人たちなんですね。それから、日本大学の教授で、海協

連の農事試験場長の正木という人、合計四名でしたがね。みな紳士なんですけれど
も、その服装たるや、ワイシャツまでがぼろぼろなんです。ずいぶんひどいんですな
と言ったのですけれども、とにかく飛行機でわざわざパラグァイからサンパウロまで
視察に来ているくらいですから、相当な人たちだと思うのですが、その服装が見られ
ない。ワイシャツの端までがぼろぼろなんですね。その人たちが訴えていましたが、
パラグァイのフラム移住地は、土

地がずいぶんいいというのです。作物はよくできるそうですが、いかんせん、どこに
も売れないというわけなんです。ですから、現金収入が全然ない。それで、恥ずかし
いけれどもこんな格好なんだということなんですけれども、こういう点を見ますと、
移住関係は、向こうへやっただけで、あとあまり自後の調査や援助なんかもしていな
いと思うのですが、その点どうでしょう。

○政府委員(高木廣一君) その点は非常に事実に反すると思いますけれども、服装
はみんなお百姓さんですし、町で見れば非常にきたない。彼らはそれを意識しないわ
けであります。

○石田次男君 お百姓さんじゃないんです。日大の教授です。
○政府委員(高木廣一君) それは移住者じゃないわけです。移住者じゃなくて、研
究に行かれたか、現地に視察に行かれたか、そういう方でございます。そして今の、
あそこで作った物が売れないということ、これは……。

○石田次男君 移住者だと、はっきり本人が言っていましたがね、四名とも。

○政府委員(高木廣一君) 日大の方はちょっとわかりませんが、ほかの方は移住者
です。組合の、農協の専務理事とか、そういう方でございます。彼らが去年サンパウ
ロに行かれたのも聞いております。それは、現在パラグァイで作ります大豆を日本に
輸出することになっております。今後も輸入いたします。ところが、先生らは、近い
ブラジル、サンパウロに売っては高く売れないからということで、何とか日本よりも
高く売れるようにということを目当てに行かれたのであります。しかしこれが、パラ
グァイでも物が売れないから、サンパウロに販路を探しに来たのだ

と、こういうふうに伝えられておるのですが、おととしから、パラグァイの大豆は日
本に売ることにしているのです。御承知のように、パラグァイは人口の少ない所で、
日本人がどんどん作りますれば、いずれ国内市場は無理で、海外に輸出しなければい
けない。実際パラグァイでできましたトウモロコシあたりは、二、三年前は、外人商
社を通じてアルゼンチンに売られたり、あと、それが回り回って日本にまで売られて
きているのであります。ですから、農協と日本の方と直通であればもっと有利であろ
うということで、大豆の生産を本格的にやり、日本への輸出も

始めておりまして、去年も入りました。ことしも入ることになっております。そうい
うような実情でございます。売れる物がないからだめだということは、非常に無理で
ありまして、たとえばアルゼンチンのごときも、人口に比して非常に小麦とか牛肉と
いうものが多くて、どうしても海外にはけ口を探さなければいかぬわけでありまし
て、同じような問題でございます。パラグァイの移住者が貧弱というととですが、最
近ごらんになって帰ってこられた方々は、パラグァイの移住地はすばらしいというこ
とで、感心して帰ってこられているのです。服装はお百姓さんですし、ほとんど日本
人だけが移住地におるだけでございますから、一向かまわないから、サンパウロあた
りに来ても、きちんとした格好で来ないのだと思うのであります。金がないから買え
ないというのではないと思います。

○石田次男君 まあ移住局長の話と、山脇さんと河野さんとが現地で話したこととだ
いぶ違うのですね。本人たちに言わせると、移民じゃなくて、これは棄民だと言っ
て、だいぶ憤慨しているんでんすよ。

○政府委員(高木廣一君) 去年の初めか、おととし、今の山脇さんが日本においで
になりまして、周知の方でございますので、高知へ来て、パラグァイの移住は非常に
うまくいっているからということで、後続部隊を集めにおいでになりまして、それに
よって相当また続いて行っていると思います。従って、山脇さんがパラグァイの移住
が悪いと言われたということは、ちょっと信じられないことであります。

○石田次男君 これは水かけ論になりますから、この程度でやめておきますが、政府
次官に一つ。政府次官ないし外務大臣は、今のこのドミニカの問題、聞いております
か。
○政府委員(津島文治君) 深く承っておりません。
○石田次男君 相当事情がひどいようですから、早急にお調べになって、何らかの措
置をお講じになってはいかがですか。
○政府委員(津島文治君) 十分研究をして、措置をいたしたいと思います。
○石田次男君 では、きょうはこれでやめておきます。
○委員長(木内四郎君) 本日は、これにて散会いたします。
   午後零時十二分散会
『移民と二重国籍」(59)ミクシィ講座

『ドミニカ移民訴訟の研究』

参考書籍の紹介
初期のボリビア移住の真実を知る人が書いた本です、
現在はドミニカ移住裁判の原告側を支援して、続け
ていられる著者です。
戦後の初期の移住の経過と真実と真相を知る上で
貴重な一冊です。
是非ともお近くの図書館などで探して読んで下さい。
 

衝撃の一冊!!戦後、南米移民の真相を明らかに

『外務省が消した日本人』、  
日本の移民史は「棄民史」、「ぺてん史」ともいわれてきた。多くの移住者たちが、 日本政府や関係機関によって犠牲を強いられてきた。しかも、その実態は徹底して隠 蔽されてきた。

戦後、南米に送られた移民は、戦前移民よりもっと悪質であった、ともいわれる。元玉川大学教授で移民研究家の第一人者である著者は、「自国民をこのような(悪)条件の下に移住させた国の政府というものは、世界の如何なる国の政府 よりも無知にして非情な政府である」と言い切る。
 
国土狭小、人口過剰な国・日本は、アジア有数の移民送出国だった。1945年、戦争に破れ、海外から約630万人に及ぶ帰還兵・引揚者が帰国。食糧は極度に不足し失業者があふれ、高まる国民の不満解消のためにも、政府は海外移民の必要に迫られていた。
 
1951年、日本は国交回復。1952年、政府による計画移民がブラジル・アマゾン移民から始まった。実務は外務省外郭団体「日本海外協会連合会」(通称「海協連」、現・国際協力事業団)によった。
 
著者は1954年、海協連の職員となったが、この団体は寄付金横領など腐敗しきっていた。内部改革に取りかかった著者だったが、サンフランシスコ支部へ急に転勤を命ぜられた。
 
アメリカへの日本人短期出稼者の受入れに功績のあった日系二世に、外務省から報奨金(機密費)が支払われらわれると、出張してきた移住局第一課長は、その金を狙い借金を強要した。

後年、この課長は大使の要職を歴任。移住局第二課長が紹介したサ ンフランシスコ支部派遣職員は、支度金と旅費を持ち逃げしたが横領は不問だった。
また外務省事務次官、駐米大使となる大物官僚の実弟は、海協連の総務課長の職につき昼間から酒にひたっていた。海協連は、政治家と官僚が、問題人物を送り込むゴミ捨て場のようだった。
 
著者は1958年、海協連ではなはだ評判の悪いボリビア支部長を命ぜられる。待っていたのは、「お前らはみんな月給泥棒だ!インチキやろうだ!」という移住者の罵声だった。ろくに調査もしない土地にいれられた国策の犠牲者だった。予算も機材もな い最悪の状況下で、政府や海協連の無責任さと戦いながら移住者と生死を共にし開拓に取組んだ。
 
3年間ボリビア勤務を終え帰国した1962年、東京ではドミニカ移民の集団帰国が大問題になっていた。政府の違約により自己資金を使い果たして無一文での帰国だった。
そんな帰国者らに政府は平然と嘘をついていた。政府役人は、彼らを一日も早く故郷に帰してしまい、真相と責任をうやむやにしようと画策し、だましていたのだ。

1963年、海協連から「海外移住事業団」へと変わる直前、著者は退任させられた。
評者がサンファン移住地を訪ねたとき、その中心部に著者の功績をたたえる像が建っていた。
 
著者はのドミニカ移民裁判で、真相を隠蔽する被告(外務省)に対し、原告(移住者)の支援を続けた。

またこの書は、外務省の腐敗の実態も明らかにする貴重な証言でもある。

(若槻泰雄著、毎日新聞社刊、定価1800円+税 ISBNコード4-620-31531-1 C0036)
『移民と二重国籍」(60)ミクシィ講座

『ドミニカ移民訴訟の研究』

衆議院議員・中村哲治(なかむら・てつじ)氏のメルマガ
からです、是非目を通して国会と言う場からのドミニカ移住
問題の視線を感じて下さい。


■メールマガジン「国会からの手紙」購読登録・バックナンバー

227号 228号 229号

□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
「国会からの手紙」                             
    2005/07/12
               第228号:ドミニカ移民問題

□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

このところ、郵政民営化というメジャーな問題ばかり取り上げていましたが、
今日は、マイナーだけど重要な問題の一つである「ドミニカ移民問題」につい
てお話をしようと思います。


◇ ドミニカ移民問題と「棄民政策」

 ドミニカ移民問題は、当時の「国策」であった移民政策によってドミニカ共
和国に送られた人たちが、約束された分の土地を与えられず、また、与えられ
た土地も塩だらけ石だらけで耕作に適さず、募集要領とは全く違う生活を強い
られたという問題です。

ある者は亡くなり、ある者は日本に帰り、ある者は非常に苦労をしてドミニカ
に留まりました。

移民といえば、何となく日本では食べていけないから移住した人というイメー
ジを持たれることが多いのですが、そうではありません。ドミニカに移住した
人たちは、厳しい選考を受けた優秀で資金的にも豊かな農業者たちでした。政
府が示した募集要領を見て応募し、大規模農業を夢見て日本にある自分の財産
を処分して移って行ったのです。

私も、昨年(2004年)1月にドミニカ共和国を訪問して、当事者の皆様からお
話をうかがってきました。日本の移民政策は、「棄民政策」と呼ばれることが
あります。その表現が大げさでも何でもないと分かりました。

 戦後の人口爆発期に、少しでも人口を減らすため、1952年から日本政府は
「国策」として海外に日本人を送り出して行きました。今の日本からは容易に
想像できませんが、戦後の日本という国はそういう状態でした。

ドミニカ共和国への移民も、1956年〜1959年、今から46年前〜49年前になされ
ました。後に述べますが、この問題については、当事者の皆様から2000年に訴
訟が起こされています。その訴訟も、賠償という経済的な理由よりも、国家か
ら捨てられた人たちの尊厳の回復という意味合いが強いものだと思います。

 日本が移民を送り出した国というのは、南米を中心とする厳しい条件の国で
した。移民は、通常、貧しい国が豊かな国に対して送り出すものです。しかし、
日本ではその逆のことがなされました。例えば、ドミニカ共和国の場合には、
日本国憲法という自由主義の憲法を持つ国から、トルヒーリョ元帥が統治する
自由のない独裁国家に送られてしまったわけです。

なぜ、文明国の国民が、途上国の未開の地に送られなければならなかったのか、
その政策的な総括はなされていません。

 移民政策の詳しい解説としては、当時、海外協会連合会(現JICA)の職
員として移民政策に関わってこられた、若槻泰雄(わかつき・やすお)さんの
書かれた本が良いと思います。若槻さんは、今年81歳です。残りの人生を考
えたときにこれだけは後世に伝えたいと4年前に体験談を記されました。特に、
今の学生さんに読んでいただきたい本です。

若槻泰雄「外務省が消した日本人 南米移民の半世紀」
(毎日新聞社・2001年・本体1800円 ISBN4-620-31531-1)


◇ ドミニカ移民訴訟と「議懇」

 昨日(7月11日(月))10時から「ドミニカ移民訴訟」の第21回口頭弁
論が、東京地方裁判所第703号法廷で開かれました。裁判長の整理により、
次回(10月17日10時から)の口頭弁論で結審することが決まりました。

2000年7月18日からはじまったドミニカ移民訴訟も、おそらく、来年3月に
判決が出ると思われます。5年以上もかかってしまいました。

 私がかかわりをはじめたのは、2003年7月3日にドミニカ移民訴訟を支援す
る「ドミニカ共和国への日本人移住者問題解決を進める国会議員懇談会」(以
下、「ドミニカ議懇」)が結成された時からです。懇意にしている川内博史
(かわうち・ひろし)衆議院議員(九州比例・鹿児島1区)から声をかけてい
ただきました。

通常、議員連盟(議連)や議員懇談会(議懇)は、政治的影響力の強い人が会
長になり、実質的な舞台回しを担当するのは事務局長という役割分担になって
います。川内さんは、この議懇の事務局長として、他の議員に声をおかけにな
っていたわけです。

 その日の午後、16時30分からはドミニカ議懇の総会も行われました。

議懇の会長は、尾辻秀久(おつじ・ひでひさ)参議院議員。現在は、厚生労働
大臣をなさっています。通常、大臣になると、各種団体や会の会長職は辞任ま
たは役職停止するのが決まりです。

しかし、尾辻大臣の強い御希望により、この議懇の会長だけは大臣になられて
も続けられています。尾辻大臣は、「もし内閣からこの会長職について何か言
われたら、(大臣の)辞表を提出してこの会長に留まります。」とおっしゃっ
ていました。

 尾辻大臣は、昨年3月の参議院予算委員会で、当時は与党の筆頭理事として、
小泉総理にこの問題について質問をしました。小泉総理は、「過去のこととは
いえ、外務省として多々反省すべきことがあったと。今後、このような不手際
を認め、移住者に対してどのような対応ができるか。」と答弁なさっています。

議事録を読んでいただければ、尾辻議員の並々ならぬ執念が感じられます。
http://www.otsuji.gr.jp/new/new040310.htm
(関連質問)
http://www.otsuji.gr.jp/new/new040324.htm


◇ 「官僚国家」ニッポン

 この国は、「官僚国家」です。一人ひとりの官僚さんたちはいい人もいっぱ
いいらっしゃいますが、組織として機能すると、政治の言うことも全く聞かな
い組織になってしまいます。

小泉総理が、「過去のこととはいえ、外務省として多々反省すべきことがあっ
た」と答弁していても、後日の委員会では、法的責任を認めたものではないと
答弁する。このようなことが、まかり通ってしまうのです。

このような国のかたちを変えて行くためには、政治家が与野党を超えて非常に
強い思いを持って努力し続けるしかありません。

参議院には、与党でもこのような質問をする人がいる。
私が、一院制論者から二院制論者に変わった理由でもあります。

 ドミニカ移民問題は、私たち日本人一人ひとりに「国とは何だろう。国民は
国から守られているのか。」という質問を投げかけています。一人でも多くの
国民の皆様が、この問題から見える「この国の国家としての欠陥」に気づいて
いただければ、幸いです。


□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
このメールマガジンの全文の転載・再配布を歓迎いたします。事前の承認は必
要ありません。また、読者の皆様から寄せていただいたメールは、事前の告知
なく掲載させていただく場合がございます。掲載を望まれない場合は、その旨
をご明記願います。よろしくお願いいたします。
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
新規登録・解除・バックナンバーは、こちらから。
http://kokkai.org/
「国会からの手紙」は、「まぐまぐ」さんからお届けしています。
http://www.mag2.com/
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
「国会からの手紙」第228号(発行部数:2434部) 2005/07/12
 発行人:てつ /衆議院議員・中村哲治(なかむら・てつじ)
http://tetsu-chan.com/
mailto:mag2@tetsu-chan.com
(このアドレスへのメールは、てつ本人のみが見ます)
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
ご意見・ご感想お待ちしてます!
『移民と二重国籍」(61)ミクシィ講座

『ドミニカ移民訴訟の研究』

2006年5月 東京地方裁判所でドミニカ移民訴訟判決。国の責任は認定
されるが、移民事業の実施から20年以上が経過しており国家賠償法
に基づく賠償請求権は消滅したとの判断により原告請求を全て棄却。

これにより、『国家の犯罪』が闇に消されてしまった。

怨念を抱いて自殺(10名が命を絶った)したり、栄養不良の生活から
命をちじめた人達の恨みはこれからどうして晴らす事が出来るか?

これが国家のなす事かーー!

当時のドミニカ移民政策に携わった政府役人の責任ですが、責任を
取らなければならない彼等は、多額の退職金と年金を貰って優雅
に暮らしているでしょう。役人はいかなる政策的ミスを犯しても、
一切責任を取ることはないのか・・!

国民の公僕としての誇りも品格も無く、彼等が『棄民どもめがー!』と
ツバするごとく破棄する過去の過ちを、我々良心ある人間は許しては
成らない。


もう一度、簡素に要約された訴訟の案件 の条項が記載さ
れていますホームページの紹介を持ちまして、ドミニカ移民
の訴訟の根幹と本質をご理解下されば幸いと思います。

社会派ドキュメンタリー番組の紹介より。 2004.12.30 「そこに楽園は無かった」ドミニカ移民苦闘の半世紀: (FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品)  2000年7月18日東京地裁 ドミニカ移民訴訟第一次提訴  昭和29年(1954年)ドミニカ移民の募集 「カリブの楽園ドミニカ共和国」(日経新聞) 「ほくほくの条件」(朝日新聞)

敗戦後の日本、外地から600万人が引き上げ。失業者が溢れていた。 こうした人口の急増に対して国が打ち出したのが移民政策。 南米(ブラジル、ボリビア、パラグアイ)を中心に年間一万人が海を渡る。 ドミニカ移民船アフリカ丸が横浜港を出航(1957年) 「300タレア(18ha)無償譲渡」夢のような話に全国から希望者が殺到 選抜の結果249家族1319人がカリブの楽園へ向かう。 過剰な農村人口を抱えていた鹿児島からは約280人(全体の五分の一) ハイチとの国境に近い七つの入植地。首都サントドミンゴから西へ200km。

 掘っても掘っても石ばかり、とても農地とは思えない荒涼とした荒地 石と石の間にわずかな土を見つけては苗を植え付けていったという。 視察に来た外務省職員には、 「3、4年経てば石も肥料になる」と言われたという。 石の小山は今も当時のまま 別の入植地では塩が地表を覆っていた。

 <日本政府が示したドミニカ移民第一次募集要領> ・「一世帯当たり300タレア(18ha)の土地が無償譲渡」 ・「入植予定地は中程度の肥沃度」と記されていた。

 <移住地の実態> ・与えられた土地は実際の三分の一以下 ・石や塩の不毛の荒地 ・所有権は無く、耕作権のみ

 国境沿いの入植地には、同時に囚人までもが送り込まれ、 まるで収容所のような生活は、国の役人に24時間監視され続けた。 そんな入植地を移住者達は、「地獄の一丁目」と名付けた。

 自殺した日本人移民が眠る墓地(ドミニカ移民の自殺者は10人)

 ドミニカ共和国外務省:移住に関する当時の外交文書 募集開始3ヵ月前(1955年11月) 入植予定地を調査した日本外務省がドミニカ政府に送った文書 ・入植地の深刻な水不足を指摘  「灌漑施設の拡張を要求」 募集開始2ヵ月前(1956年2月2日) ・「灌漑施設を早急に整備することは不可能」 ・「日本人移民の受け入れは延期すべき」

 このドミニカ政府の動きに、日本外務省は移民計画を頓挫させない為に、 移住開始の直前一ヵ月前になって公使を直接ドミニカに派遣し、 これまでの要求を撤回。

募集開始1ヵ月前(1956年2月21日) 「乾燥地帯ではあるが、日本人移民にとって栽培は容易に可能」

 ドミニカ側が約束したのは、「最大で300タレアまで」 最初から全員に300タレアを配分するという両国の取り決めは存在しなかった。 日本側の資料には土地の所有権がないことも明記されており、 外務省は移民に無償譲渡などあり得ないことも事前に知っていた。

「日本政府は入植地の劣悪な状況を知っていたはずだ」(ドミニカ元駐日大使) 彼は、国内の余剰人口を海外に送り出したい日本政府の考えに、 ドミニカの独裁者トルヒーヨ大統領のある思惑が重なっていたと分析する。 「トルヒーヨはハイチ人の侵入を防ぐため、国境沿いに日本人移民を送り、  ”人の壁”を造ろうとしていた」 「日本政府の行った移住計画は間違いなく失敗。日本人移民を悲劇に  追いやったのだ」(ドミニカ元駐日大使アルベルト・デスブラデル氏)

 当時、ドミニカは国境紛争の度に隣国ハイチからの侵入者に悩ましていた。 そこで目を付けたのが日本人移民。国境沿いに日本人を入植させることで ハイチからの侵入者を防ごうと考えていた。 日本人移民は人間の盾にされたのである。

 原告団が最近、入手した「移住民と日本政府高官との対談記録」 中田弘平農業技官:移住募集開始後、現地調査を行った人物 中田弘平著「中南米紀行」:「土が深くて優秀なのに驚く」 「調査を充分にやったと私も言えません」 「私も大それた事をやったもんです」

 ドミニカ移民集団帰国(1961年)  トルヒーヨ大統領暗殺で政局が混乱したことを理由に、 移民達を帰国またはブラジルなど他国に転住させることで事態の収拾を図る。 8割以上の家族がドミニカを去る。 外務省はこの時、移民達に旅費を支給したことでドミニカ問題は解決したとの 見解を示した。 ドミニカ残留者:47家族276人 ドミニカに残った人のほとんどは、農業を離れ、転職・外国への出稼ぎで生計 日本大使館が強力に残留を働きかけ、ある条件を提示したからだ。 「残留される方には、最初日本政府が示した条件を満たします」 「運営資金等協力します」 しかしまたしても空手形に終わった。

 JICA融資問題 現地通貨ペソが暴落した分だけ返済額が増える。 1ドル=1ペソの時、借りた資金は、現在:1ドル=45ペソと45倍。 (ペソで貸付、ドル建てで返済)

 1998年10月 衆議院外務委員会 「本年7月、ドミニカ共和国政府より日本人移住者に対し750haの土地を  無償譲渡の用意があるとの発表がありました」 「土地は耕作地としての適性に加え、首都圏に近いことから付加価値は高い」 粘土状の赤土で、水路も無かった。現地の農民が放牧を行うだけの荒地だった。 所有権も存在しなかった。 三度目の嘘。 これが引き金となり、移住者達はこれまでの長い沈黙を破って、 国を提訴することを決意。

 2000年10月ドミニカ移民訴訟第一回口頭弁論 国側は、斡旋しただけ。手続きを行ったのは日本海外協会連合会(現JICA)、 募集内容と違う点はドミニカ政府の問題

 裁判の最大の争点は、移民政策が国策かどうかという点。 裁判は長期化、平均年齢が80歳を超える移民一世達は次々と亡くなっていった。

 2004年2月、ドミニカ移民訴訟第17回口頭弁論 日本海外協会連合会(現JICA)元職員若槻泰雄氏は、 「日本の移住政策は国策以外の何者でもない」と初めて訴える。 「斡旋ではなく、契約の当事者」 「要するに予算を獲得する為、予算を減らさない為、組織を拡大する為、  組織の縮小を防ぐ為に移民を送った」 「こういう役人は自分の為には、国家・国民を犠牲にしても恥じない。  ドミニカは典型的な例」

 最近見つかった外交電信に「国策」の文字がはっきりと記されていた。

 2004年3月、参議院予算委員会:小泉首相 「過去のこととはいえ、外務省として多々反省すべきことがあった」 「今後、このような”不手際”を認め、移住者にどのような対応ができるか  考えたい」

 戦後の移民史上最悪のケースとまで言われるドミニカ移民問題。

 2004年5月20日 進行協議会 「首相の発言は法的なものではなく、和解の意思はない」との見解を示す。

 参議院予算委員会:川口外務大臣 「政府としては責任はないという立場から司法の場で議論」

 2004年7月 第18回口頭弁論 現地調査を行った外務省元職員林屋栄吉氏出廷 「国の移住政策の正当性を主張」

移民一世達の平均年齢は80歳以上、
既にその三分の一が無念の想いを残し他界。

なむあみだぶつ
『移民と二重国籍」(62)ミクシィ講座

『ドミニカ移民訴訟の研究』

  どこに正義があるのか・・!!

 坂井貴司氏著作
 転送・転載歓迎。
 
エルネストさん[latino:6150,6151]が伝えた通り、ドミニカ 共和国移民訴訟は、原告の敗訴となりました。
 
 私はこれを6月7日付の「西日本新聞」夕刊で知りました。
 
 仕事が終わった後、いつもの通りポストを開けて夕刊を見てみると 一面トップ
に「ドミニカ移民が敗訴」という大きな見出しが載っていました。
 
 私はこの見出しを見て心の中で叫びました。
 
 「どこに正義があるのか!」
 
と。

 今もそうだと思いますけれども、ドミニカ共和国がどこにあるのか 知らない日
本人はたくさんいると思います。せいぜい、コロンブスが「発見し た」島、野球
ファンならばサミー・ソーサの出身国、ラテン音楽ファンならばジョ ニー・パチ
ェーコが生まれメレンゲの国、ぐらいでしょうか。
 
 マスメディアが発達し、インターネットで手軽に外国の情報が得ら れる現在の
日本でも、ドミニカ共和国に関する正確な知識を持っている人は少な いと思いま
す。
 
 ましてや今から約50年前ならばどうでしょうか。
 
 「カリブの楽園」、「一年中作物が収穫できる肥沃な大地」、 「300タレア
(18ha)の土地がタダでもらえる」
 
 この宣伝を、日本国政府の外務省が新聞やラジオ、雑誌、ニュース 映画などで
大々的に行ったら、人々はどう思ったのでしょうか。国が宣伝しまし た。嘘だと
誰が思うでしょうか。18ヘクタールの土地が無料で手に入るという 夢のような
約束に心を動かされない人がいるでしょうか。
 
 農村から都市から、そして閉山し廃墟と化した炭坑から249家族 1319人
がドミニカ共和国へ移住しました。
 
 「国が言うのだから間違いない。がんばれば広い農園を持つことが できる。豊
かな生活を送ることができる」
 
とほぼ移民団のほぼすべてが、夢と希望を抱いて横浜港を出港し、太 平洋を横断
して、パナマ運河を越え、ドミニカ共和国に到着しました。そして山 を越え長い
時間をかけて入植地に着きました。

 到着して移住者たちは呆然としました。入植地の一つダハボンは、 水のない荒
れ地でした。ドベルヘーは、塩が吹き出す沙漠状の荒野でした。岩が 露出する急
斜面もありました。ネイバは土が見えない石ころだらけの荒野もで す。農業が不
可能な土地ばかりでした。しかも、その入植地はみなハイチとの国境 付近にある
ところでした。
 
 そして、18ヘクタールの土地の無償譲渡も、実は6ヘクタールの 耕作権でし
かないことを初めて知りました。
 
 移住者たちはそこで自分たちが騙されたことに気づきました。
 
 「そんなバカな!国が、政府が嘘を言うなんて・・・」
 
 しかし、移民を送り出した外務省は涼しい顔で言い放ちました。
 
 「自分の意志で移住したのでしょう。大和魂を発揮して開拓しなさ い。石も3
年たてば肥料になります」
 
と。 
 
 ドミニカ共和国への日本人移民団が出発した1957年当時の日本 は、現在と
は比べものにならないほど貧しい国でした。高度経済成長が始まる前 で、農村や
都市には行き場のない失業者が数多くいました。石炭から石油への 「エネルギー
革命」で炭坑が閉山され、失業した炭鉱労働者の困窮が大きな問題に もなってい
ました。
 
 これらに加え、敗戦直後の第一次ベビーブームで生まれた多くの子 どもたちや、
太平洋戦争の敗北により、朝鮮半島や台湾、中国、東南アジア、南太 平洋諸島か
ら日本に逃れた600万人に及ぶ引き揚げ者の存在も、政府の頭を悩 ませていま
した。
 
 少子化が問題になっている今とは正反対に、当時は人口過剰に苦し んでいまし
た。
 
 このままでは社会不安が起こり治安上の問題になる。行き場のない 者たちを移
民として外国に送りだそう、と政府は移民送り出しをその解決策とし て推し進め
ていました。ドミニカ共和国移民もその一つでした。それは強引に進 められまし
た。
 
 広大な未開拓地が広がるブラジル、アルゼンチン、ボリビア、パラ グアイとは
違い、ドミニカ共和国は人口密度の高い島国です。ラテンアメリカ・ カリブ海諸
国の中で一番早くスペインの植民地となったために開発がすすみ、未 開拓の土地
はもうありませんでした。移民を受け入れるどころか、ドミニカ人の 外国移住が
起こっていました。ニューヨークやマイアミにはドミニカ人の町がで きはじめて
いました。
 
 (やがて彼らは、同じ頃アメリカに渡ってきたプエルトリコ人や キューバ人と
ともにサルサを生み出します)
 
 そんふうですから、ドミニカ共和国側は日本人移民受け入れに難色 を示しまし
た。それでも外務省は受け入れをしつこく要請しました。そして、こ の国の支配
者ラファエル・トルヒーヨ大統領に直談判しました。
 
 トルヒーヨ大統領はガルシーア=マルケスの小説『独裁者の秋』の モデルとな
った暴君タイプの独裁者でした。1930年、不正選挙により軍部の トップから
大統領になってから31年間、同国の政治・経済・司法を支配しまし た。反対派
を徹底的に弾圧し、ドミニカ共和国の砂糖,コーヒー,ビール,タバ コ産業を一
手に支配、耕地の3分の一を私有しました。貯めた資産は10億ドル とも言われ
ています。また首都サントドミンゴ市を、自分の名前であるトルヒー ヨ市と改め
させました。
 
 「ドミニカ(サント・ドミンゴ)年表」
 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/chronology/carib/ dominica.htm
より。

 この暴君に、日本人移民の受け入れを外務省の官僚は懇願しまし た。トルヒー
ヨ大統領は、日本人移民をハイチ国境地帯に入植させれば「人間の 盾」になると
考え、受け入れを受諾しました。
 
 ドミニカ共和国とハイチは衝突を繰り返してきました。
 
 1937年、ドミニカ共和国の米国系サトウキビ農場でハイチ人出 稼ぎ労働者
がストライキを起こしました。これをきっかけにトルヒーヨ大統領は 「ハイチ人
皆殺し」を命令し、約2万人のハイチ人を虐殺しました。

 そのハイチの攻撃から身を守るために、日本人移民を盾に使おうと トルヒーヨ
大統領は考えたのです。
 
 独裁者の血塗られた手が、移民受け入れの協定文書にサインをした 時、249
家族1319人の悲劇が始まりました。
 
 日本人移民たちは、荒れ地を相手に絶望的な開拓を始めました。
 
 片道徒歩3時間をかけて山を越え水を汲んでは田畑にまきました。 土が出るま
でひたすら石を拾い上げて積み上げました。転げ落ちそうな急斜面の 岩のくぼみ
にあるわずかな土に陸稲を植え付けました。
 
 この悪夢のような「開拓」に全てを捧げた移民たちは、いまさら帰 国は出来な
いと思っていました。移民たちの多くが家族や親戚、友人・知人に反 対を押し切
って移民募集に応じたからです。外務省はそこにつけ込んだのです。
 
 移民たちがカリブの灼熱の太陽の下、心の中で血の涙を流しながら 苦闘してい
た頃、この移住を担当した外務省の官僚たちは次々に栄転していきま した。移民
送り出しに成功したためです。
 
 そして、飢えと貧困、借金で限界に達した移民たちは移住地を離 れ、四散しま
した。
  
 1961年にトルヒーヨ大統領が暗殺され、その息子が莫大な資産 を持ってス
ペインに逃げ出すと、民衆の怒りが爆発し、内戦状態に突入しまし た。これを押
さえるためにアメリカ軍が介入し、ドミニカ共和国は大混乱に陥りま した。この
中で、土地を返せ、襲撃された日本人移民もいました。入植地の中に トルヒーヨ
大統領がドミニカ人農民から強奪した土地があったからです。
 
 この内乱により、日本人移民の8割が同国を出国し、他のラテンア メリカ諸国
に再移住したり、日本に帰国しました。それでも47家族276人が 残留しまし
た。日本大使館が「約束通り土地は譲渡されます」・「資金援助もし ます」と説
得したからです。しかし、これも嘘でした。なにも実行されませんで した。移民
たちは放置され忘れ去られました。
 
 「この50年間の苦しみはなんだったのか。このままでは死んでも 死にきれな
い。日本政府は私たちを欺いた。このことを認めてほしい」
 
と、移民たちは2000年に東京地方裁判所で訴訟を起こしました。 その判決が
6月7日に下されました。その内容は、国の責任を認めながらも、移 住から20
年以上経過しているため賠償請求権は消滅した、というものです。私 の目から見
て不当な判決です。当然原告は上訴しました。

 このドミニカ移民訴訟をテーマにしたドキュメンタリー番組
 『そこに楽園は無かった〜ドミニカ移民 苦闘の半世紀〜』
(鹿児島テレビ放送)
http://www.fujitv.co.jp/b_hp/fnsaward/13th/04-317.html

に出演した移住者、福槌さんの姿を思い出しました。希望を抱いてダ ハボンに入
植、苦闘の末わずかな田んぼを切り開いた老人です。骨と皮ばかりに やせこけた
姿でした。全身にこの開拓の苦しみが刻み込まれた体を震わせながら 「祖国を裁
判で訴えることはしたくはない。だが、他に方法がなかったんだ。そ のことをわ
かってくれ」と涙を流して訴訟に参加した姿が強烈でした。福槌さん はそれから
まもなく粗末なベッドの上で死亡しました。それは日本政府から捨て られた棄民
の姿でした。

 このドミニカ移民裁判は長期化することが予想されます。最高裁ま で行くかも
しれません。そうなれば、平均年齢80歳を越えた移民一世の人々が 生きている
間の保障と謝罪はないことを意味します。これは人道問題です。そし て口が裂け
ても自己責任云々を言うことはできません。移民たちは騙されたこと が明らかで
す。

 正義が求められています。
 
坂井貴司
『移民と二重国籍」(63)ミクシィ講座

『ドミニカ移民訴訟の研究』 最終回

皆様、今回を持ちまして、『ドミニカ移民訴訟の研究』を
終了致します。最後に簡素に要約された訴訟の案件
の条項が記載されていますホームページの紹介を持ち
ましてドミニカ移民の訴訟の根幹と本質をご理解下さ
れば幸いと思います。

長い間、面白くもない長編の投稿を我慢下さいまして
感謝致します。政治の影に飲み込まれた移住者のため
、また1964年にドミニカから再移住してこられた現実を
パラグワイで見て居ましたので、私が元気な時に一度、
書き残して置きたいと資料を集めたしだいです。

次回は年金問題を取り上げて、研究テーマと考えて居ます。
 

社会派ドキュメンタリー番組の紹介より。
2004.12.30
「そこに楽園は無かった」ドミニカ移民苦闘の半世紀:
(FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品)
 2000年7月18日東京地裁 ドミニカ移民訴訟第一次提訴
 昭和29年(1954年)ドミニカ移民の募集
「カリブの楽園ドミニカ共和国」(日経新聞)
「ほくほくの条件」(朝日新聞)

敗戦後の日本、外地から600万人が引き上げ。失業者が溢れていた。
こうした人口の急増に対して国が打ち出したのが移民政策。
南米(ブラジル、ボリビア、パラグアイ)を中心に年間一万人が海を渡る。
ドミニカ移民船アフリカ丸が横浜港を出航(1957年)
「300タレア(18ha)無償譲渡」夢のような話に全国から希望者が殺到
選抜の結果249家族1319人がカリブの楽園へ向かう。
過剰な農村人口を抱えていた鹿児島からは約280人(全体の五分の一)
ハイチとの国境に近い七つの入植地。首都サントドミンゴから西へ200km。

 掘っても掘っても石ばかり、とても農地とは思えない荒涼とした荒地
石と石の間にわずかな土を見つけては苗を植え付けていったという。
視察に来た外務省職員には、
「3、4年経てば石も肥料になる」と言われたという。
石の小山は今も当時のまま
別の入植地では塩が地表を覆っていた。

 <日本政府が示したドミニカ移民第一次募集要領>
・「一世帯当たり300タレア(18ha)の土地が無償譲渡」
・「入植予定地は中程度の肥沃度」と記されていた。

 <移住地の実態>
・与えられた土地は実際の三分の一以下
・石や塩の不毛の荒地
・所有権は無く、耕作権のみ

 国境沿いの入植地には、同時に囚人までもが送り込まれ、
まるで収容所のような生活は、国の役人に24時間監視され続けた。
そんな入植地を移住者達は、「地獄の一丁目」と名付けた。

 自殺した日本人移民が眠る墓地(ドミニカ移民の自殺者は10人)

 ドミニカ共和国外務省:移住に関する当時の外交文書
募集開始3ヵ月前(1955年11月)
入植予定地を調査した日本外務省がドミニカ政府に送った文書
・入植地の深刻な水不足を指摘
 「灌漑施設の拡張を要求」
募集開始2ヵ月前(1956年2月2日)
・「灌漑施設を早急に整備することは不可能」
・「日本人移民の受け入れは延期すべき」

 このドミニカ政府の動きに、日本外務省は移民計画を頓挫させない為に、
移住開始の直前一ヵ月前になって公使を直接ドミニカに派遣し、
これまでの要求を撤回。

募集開始1ヵ月前(1956年2月21日)
「乾燥地帯ではあるが、日本人移民にとって栽培は容易に可能」

 ドミニカ側が約束したのは、「最大で300タレアまで」
最初から全員に300タレアを配分するという両国の取り決めは存在しなかった。
日本側の資料には土地の所有権がないことも明記されており、
外務省は移民に無償譲渡などあり得ないことも事前に知っていた。

「日本政府は入植地の劣悪な状況を知っていたはずだ」(ドミニカ元駐日大使)
彼は、国内の余剰人口を海外に送り出したい日本政府の考えに、
ドミニカの独裁者トルヒーヨ大統領のある思惑が重なっていたと分析する。
「トルヒーヨはハイチ人の侵入を防ぐため、国境沿いに日本人移民を送り、
 ”人の壁”を造ろうとしていた」
「日本政府の行った移住計画は間違いなく失敗。日本人移民を悲劇に
 追いやったのだ」(ドミニカ元駐日大使アルベルト・デスブラデル氏)

 当時、ドミニカは国境紛争の度に隣国ハイチからの侵入者に悩ましていた。
そこで目を付けたのが日本人移民。国境沿いに日本人を入植させることで
ハイチからの侵入者を防ごうと考えていた。
日本人移民は人間の盾にされたのである。

 原告団が最近、入手した「移住民と日本政府高官との対談記録」
中田弘平農業技官:移住募集開始後、現地調査を行った人物
中田弘平著「中南米紀行」:「土が深くて優秀なのに驚く」
「調査を充分にやったと私も言えません」
「私も大それた事をやったもんです」

 ドミニカ移民集団帰国(1961年)
 トルヒーヨ大統領暗殺で政局が混乱したことを理由に、
移民達を帰国またはブラジルなど他国に転住させることで事態の収拾を図る。
8割以上の家族がドミニカを去る。
外務省はこの時、移民達に旅費を支給したことでドミニカ問題は解決したとの
見解を示した。
ドミニカ残留者:47家族276人
ドミニカに残った人のほとんどは、農業を離れ、転職・外国への出稼ぎで生計
日本大使館が強力に残留を働きかけ、ある条件を提示したからだ。
「残留される方には、最初日本政府が示した条件を満たします」
「運営資金等協力します」
しかしまたしても空手形に終わった。

 JICA融資問題
現地通貨ペソが暴落した分だけ返済額が増える。
1ドル=1ペソの時、借りた資金は、現在:1ドル=45ペソと45倍。
(ペソで貸付、ドル建てで返済)

 1998年10月 衆議院外務委員会
「本年7月、ドミニカ共和国政府より日本人移住者に対し750haの土地を
 無償譲渡の用意があるとの発表がありました」
「土地は耕作地としての適性に加え、首都圏に近いことから付加価値は高い」
粘土状の赤土で、水路も無かった。現地の農民が放牧を行うだけの荒地だった。
所有権も存在しなかった。
三度目の嘘。
これが引き金となり、移住者達はこれまでの長い沈黙を破って、
国を提訴することを決意。

 2000年10月ドミニカ移民訴訟第一回口頭弁論
国側は、斡旋しただけ。手続きを行ったのは日本海外協会連合会(現JICA)、
募集内容と違う点はドミニカ政府の問題

 裁判の最大の争点は、移民政策が国策かどうかという点。
裁判は長期化、平均年齢が80歳を超える移民一世達は次々と亡くなっていった。

 2004年2月、ドミニカ移民訴訟第17回口頭弁論
日本海外協会連合会(現JICA)元職員若槻泰雄氏は、
「日本の移住政策は国策以外の何者でもない」と初めて訴える。
「斡旋ではなく、契約の当事者」
「要するに予算を獲得する為、予算を減らさない為、組織を拡大する為、
 組織の縮小を防ぐ為に移民を送った」
「こういう役人は自分の為には、国家・国民を犠牲にしても恥じない。
 ドミニカは典型的な例」

 最近見つかった外交電信に「国策」の文字がはっきりと記されていた。

 2004年3月、参議院予算委員会:小泉首相
「過去のこととはいえ、外務省として多々反省すべきことがあった」
「今後、このような”不手際”を認め、移住者にどのような対応ができるか
 考えたい」

 戦後の移民史上最悪のケースとまで言われるドミニカ移民問題。

 2004年5月20日 進行協議会
「首相の発言は法的なものではなく、和解の意思はない」との見解を示す。

 参議院予算委員会:川口外務大臣
「政府としては責任はないという立場から司法の場で議論」

 2004年7月 第18回口頭弁論
現地調査を行った外務省元職員林屋栄吉氏出廷
「国の移住政策の正当性を主張」

移民一世達の平均年齢は80歳以上、既にその三分の一が無念の想いを残し他界。

最後に前、小泉首相の下で、ドミニカ移住者に補償が認められ
閣議を経て支給された事は、一篇の声明文としての謝罪文
でしたが、いくらかの癒しとなったと感じます。

しかし、過去の政府と、官僚と、その関係団体が行った
『国家の犯罪』は決して忘れてはいけません。

ログインすると、残り25件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

海外に住む☆JAPANESE 更新情報

海外に住む☆JAPANESEのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング