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80年代のモトクロスを語れ!コミュの菅原義広

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今月の2月4日に元国際A級ライダーの菅原義広がトレーニング中に倒れ、亡くなりました。

1984 国際B級125ccクラス・チャンピオン
    国際B級250ccクラス・ランキング2位

心臓の2本の血管にステントを入れており、普通の生活をする分にはまったく問題ないのだが、おそらく無理したために倒れた。
亡くなる1週間前にもKDXでモトクロスコースを走ってる際に気を失ってました。

最近、心臓が悪くテストドライバーの仕事を少し外されていたのだが、11月にステントを入れたことにより徐々に今までの仕事に戻りつつあった
だが空腹時血糖値が高いのを気にして、次の会社の健康診断でまた引っかかりさらに元の仕事に戻るのが遅くなるのをおそれて無理した模様

53歳でした。

コメント(5)

グリーン時代からガッツある姿勢は若い後輩達のお手本でした
残念です
ご冥福お祈りいたしますお願い
菅原選手に初めて会ったのは、私が高校生のころの
長野の「信更サーキット」でした。
当時、東希和ライダースといえば、カワサキ系のトップチームでした。
79年頃は、カワサキに乗ってるライダーは少なく、ノービスでは菅原選手と中込選手だけでした。
いつも物静かで、ウェアに着替えるとガッツ溢れる走りは見事でした。

所用があって、東京に行ったとき、東希和モータースに寄りました。
夕方だったので、2階で飯を食ってた菅原選手が、口をモグモグしながら降りてきました^^
当時の菅原選手は22歳位だと思います。
東希和モータースで、住み込みで働きながらレースをしていた頃だと思います。
そこから、数年後にはB級チャンプ、国際A級に昇格。
まさに努力と根性の人です。

83年の鈴鹿のB級125で、私が9位走行中に、追い上げて来た菅原選手にプッシュされました。
最後まで菅原選手をブロックして前に出さなかった事は、当時私の自慢でした。

菅原選手 また一緒に走りましょう!今度はもう少し背中が見える位置で走れるように頑張ります。

スガチャンさん あなたのお父さんは本当に尊敬に値する方でした。
スガチャンさんがレースに出るときは、応援に伺います。
80年代、自分が四国にいたときに、
よく中深迫選手、長沼選手、花田選手を連れて
松山や香川の四国選手権にエントリーしてくれてました。

直接の親交はありませんでしたが、
四国にはA級ライダーが少なかったので、
身近なA級として素晴らしい走りに憧れたものです。

あの頃、A級に上がるのは超狭き門。
彗星のように現れる若き天才もひしめく中、
努力とガッツでチャンピオン獲得された方という印象でしたので、
自分も頑張ろうと思ったものです。


早すぎるご逝去残念です。
心からお悔やみ申しあげます。
一つの時代を築いてきた「スター」の方達が若くして空の星になるの
は辛いですよね。

私と年齢が近いとなおさらです。

フォトの鈴鹿サーキットモトクロス場の今はありません。

ご冥福をお祈りいたします。

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