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半可通のための経済学講座コミュの「合理性」の概念は、消えつつありますか?

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はじめまして。
昔経済学をかじっていたものです(学部が経済だった程度です)。

経済学も私が学んでたころとは随分進化して、合理的個人の概念を疑うところまできたようですね。
行動経済学では、人の行動のパターンを実際の人の行動から導くアプローチをとっているようです。
そこでは合理性を限定合理性という形である程度維持しようとする向きもあるようですが、そもそも人は合理的なんでしょうか?あるいは、合理的かどうか問うことに意味はあるのでしょうか?

「行動経済学」という新書では、「世の中を観察した結果、人はこういう満足を求めるようだ、ところで、人には限定合理性がある、だから他でもこのような満足を求めるはずだ」という論理が展開されているようにみえます。
しかし、これは「世の中を観察した結果、人はこういう満足を求めるようだ、だから、他でもこのような満足を求めるということにしておこう」というロジックで十分ではないかと思います。

つまり、「合理性」の概念は、行動経済学では葬るべきだと思います。

と、行動経済学でノーベル賞を受賞したカーネマンも言っているように思うんですが(「われわれの仕事を、人間の非合理性を証明したのだとする言い方は、直ちに拒否している。ヒューリスティクスとバイアスの研究は、合理性という非現実的な観念を否定しているだけだ」)、「行動経済学」の新書を書いた方は「合理性」という概念を使って人を捉えることを止めてないようです。

(日本の?)行動経済学の研究でも、合理性という概念は消えつつありますか?

コメント(30)

行動経済学には詳しくないですが、以前から疑問に思っていたのですが、その人がどういう行動をとろうが、その人にとっては「合理的」と考える、「合理的経済人」の考え方自体が、もとから「合理的」ではないような気がしていました。
「合理的経済人」の概念は、ミクロ経済学と不可分なんだと気付きました。
だから、合理性の概念が嫌ならば、ミクロ経済学を葬るモデルが必要ですね。
経済心理学http://psychological-jp.com/analysis2/p5.html、という分析手法を見ていると、既に人間の欲求に基づく経済活動と、理論経済学から生まれた”合理的経済人”のモデルは、田中様のご指摘のとおりミクロ経済学も過去のモデルと呼べるかもしれません。
 新しい経済概念がなければ”時代”を合理的に解釈するのは難しいのかもしれません。
すでに、そういうものを求める人々が多いということであれば。
 ここで、気にかかるのは『誰が、求めているか?』ということになるのですが。
 個人的には、既存の経済理論も その後の経済学発展の比較検討のためにも、あながち否定することもない様に思えます。
 経済理論とは、別にどちらが劣っているとか優れているという意味のものではなく、より実体経済を的確に分析できて、言い当てているかで、脈絡が繋がっているのが 経済学の本旨と捉えます。
 ごく一部分の、ローカルな経済現象のみを取り上げて、あたかもそれこそが真実であると言ったような断定や希望的観測に基づく予測を立てるのは、経済学の本来の目的ではなく、経済学の名を借りた利己的な理論誘導に過ぎないと思います。
 とはいえ、すでにメソッドとして経済学らしきものが濫用されている感は否めないですけどね。
 説得力が欲しい場合、「単なる思いつき」に 学術的的価値や社会的な裏づけを必要とするのも、一種の 知識信仰のようなものかもしれないですね。
 合理性の概念が消えてるとしたら、恣意的解釈に基づく取捨選択を行った場合だと思います。
 つまり、合理、非合理というより 受け止める人にとって”好き”か”嫌いか”で無意識のうちに、選り分けてるような印象を受けます。面白いですね。
高校の物理などで「ただし、滑車の重さは0とする」とか、「電線の抵抗は0とする」といった前提付きの問題が結構あった記憶があります。同じように、経済学においても「合理的な経済人」というのも、理論を理解していく上での、お約束として、有用な概念ではないかとと思うのですが。

「合理的経済人」を想定した、理論を現実に当てはめると、矛盾点がある、ということが明らかになってきていますので、もっと高度な経済学を扱う上では、そこをどう処理するかという話は当然重要だとおもいますが。
合理性の概念が「消える」は言い過ぎだったかもしれませんね。
他の学問で似たようなことが起きたときの傾向から言えば、合理的個人の前提はミクロ経済学を乗り越えたモデルにおいて、特殊理論になるんじゃないかと思います。
経済学は効率を問題にしていますが、「合理的経済人」の概念では社会は効率的に動きません。

財やサービスには多くの人が原則として必要とするもの、つまり衣食住と、たった一人が欲しいものあるいはごく少数者が欲しいもの、例えば自分用にカスタマイズしたフェラーリとかがあります。(あと良く例を出しますが、変な金持ちが必要とする10億円の自己の金の彫像とか・・・)

多くの人が必要とするものとごく少数者が必要とするもの、それを同列に置いて「合理的経済人」が活動するところが、実際我々が日常で使用する用語「合理的」とは異なると思います。

また、個人のレベルで言えば、家族が飢え死にしてもパチンコが好きでそればかりやっている亭主は「合理的経済人」です。

「合理的経済人」の概念が嫌だと、コミュでコメントしたら、以前もみなさんから猛攻を食らいました。

自分もその時点では何故「合理的経済人」がダメな概念かを明確に説明できなかったのですが、もし「経済学」が社会的効率を追求する学問であるとすれば、少なくとも限度なく、社会的に普遍的な欲望と個人だけの欲望を両方とも「合理的」と認めるのではなく、どこかで線引をしないといけないと思います。

そうでなければ今実際経済で起こっている問題。つまり、「変な金持ちが必要とする10億円の自己のGOLDでできた彫像により、多くの人が飢え死にしてしまう問題」これを解決する事はできません。「合理的経済人」の概念ではこの事は合理的な結果になってしまいます。

常識で考えれれば、誰もそんな事を「合理的」とは思わないでしょう。

ここで、欲望にいい悪いという区別をすると自由主義ではなくなってしまいます。そこで、善悪と言う価値観をつけるのではなく、人間が生物と言う事を考えて、どのくらい普遍的(多くの人が共有できる欲望か?)、それとも限定的な人々の欲望か?これで線を引けばいいという事に気付きました。

前の例では、GOLDの彫像を作りたいおやじの欲求は社会的に普遍的な欲望からかけ離れている、家族が飢え死にしてもパチンコをやりたい亭主の欲望は家族の普遍的欲望からかけ離れている。だから本来の意味で非合理的になってしまうのです。

「合理的経済人」は社会効率性を追求しない、だからもっと新しい経済学上の考え方が必要であるとやっとこれを説明する事ができるようになりました。
>赤福パフェぞうさん

それは社会的効用の最大化を目指すような、社会的合理的個人みたいな人がいるというイメージでしょうか?
「合理性」という概念はいろいろ拡張された使われ方をしているようですが、それらの概念に共通する点は、「何かの最大化を目指している」ということだと思います。

ですが、人と人との関わりにおいては、人はなんとなくうまい位置にはまっていくみたいな感じで動くと思います。なので、何かを最大化する点ではない点で均衡する、という発想のモデルが欲しいと思ってます。
赤福パフェぞうさんのおっしゃる通り、個人の効用の最大化が達成される点というのは、しがらみがないとかの特殊な条件下における均衡点でしょうね。

新モデルは旧モデルの前提をとっぱらったところにあると思うんですが、そういったものを目指すトピでも作ってみましょうか?(漠然とですが、ミクロ経済学のうちとっぱらわれるべき前提とは、生産と資源に関する条件の双方が所与、ではないかなと思います)
もともと経済学の歴史的概念の中に、「個人の効用を最大化すれば、社会の効用も最大化する」という概念がありましたよね。少なくともこれは完全に間違いです。

というのは、上記の多くの人に共通する欲望と、ごくごく限定された人の効用を上昇させるだけの欲望があるという事に着目すれば一目瞭然です。

とにかく、これが前から疑問の疑問だったんです。
そこは、モデルを構築させるためには必要なのだと思っています。
たとえば地図を見るのに、google earth(精緻なモデル)を使っても、道筋はわかりづらいし、よくわからない。
それだったら google mapみたいに道=直線みたいに見た方がわかりやすい、と
そんくらいのもんなのかと
かっぱ氏の言っていることがおおむね正しいとは思うのですが、結局、非正統派の経済学のほうで、限定合理性にしろ、なんにしろ、それらを用いて、なんらかのデータとも整合性の高い、有用なモデルを構築できれば、それなりに支持されるとは思うのですが。現在のところ、そこまで行っていないということなんでしょうね。
第17回VCASIセミナー「経済理論よどこへ行く−2009年の定点観測」(神取道宏先生)
http://www.vcasi.org/node/546

ご参考までにどうぞ
そうですね、合理性の概念を批判したいなら、合理性の概念を使わないモデル(合理性の概念が使えないモデル)を作る必要がありますね。
自分も「合理的経済人」の概念を否定したいわけではないんです。

みなさんのおっしゃるように、ある程度のところまではそれで上手く行くし、ある程度のところまでは役に立つ。

新しい概念・体系を作り出す事は並大抵の事ではないとは思います。

しかし、もともと「合理的経済人」の概念自体にある種の欠点があるよという事は、常に頭の片隅に入れておきたいところだとは思います。

合理的経済人というのは、人間を人工知能の分野でいうところのソフトウェアエージェントのように単純化したモデルだと理解しています。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%95%E3%83%88%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A2%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%88

人間についての洞察を深めていくことで、現実の経済でおきているわけのわからんこととの誤差を縮めていけるような気がします。



たとえば、「パチンコのために家族を餓死させる亭主」にしても判断そのものは合理的なのかもしれない、というのが、今時の経済学解釈じゃないでしょうか。

パチンコに入れ込んでいる段階で、収入がマイナスになっているという現実認識があっても、「なんとかなる(どっかから金がはいってきて生活は可能だ」という想定本人の中にはあり、かつパチンコから得られる効用(あるいは期待効用)がおおきければ、パチンコをする、という判断自体は「合理的」でしょう。

判断は合理的だけど、前提となる現状認識に問題があるという状況です。


これって、「情報の非対称」の問題じゃないでしょうか。そう考えれば、行動経済学は、「合理的」自体を否定しているのではなく、「完全情報」の現実性を否定している、と考えられます。

「パチンコのために家族を餓死させる亭主」は旧来の「合理的経済人」の概念であれば「合理的」と考えていいと思います。

結婚後にパチンコに入れ込む人もいるので、結婚しなかったとは言えないと思います。効用関数が変化したと考えればいいのではないでしょうか?

経済学は極端に変な効用関数を持った人をもとから想定していないようですね。数学的に考えるのなら、数の範囲に例外はないので、極端な例も考慮に入れていかなければならないのではないでしょうか?

数学を使いながら、常識的な範囲しか想定していないとやはり理論には不完全さが付きまといます。こう言った微妙な理論的な不完全さが、経済学が考える世界と実際の世界のずれとなって表れてくるのではないでしょうか?

「理的経済人」はあまりいい概念ではないかもしれないという議論と、実は人間は「合理的経済人」ではなかったという議論はまた別物ですね。

「合理的」という言葉が使われているのに、日常の合理的とかけ離れているところがまた議論をややこしくする・・・。
[1]
>19

たしかに・・・。

私の知人で、変な健康器具の体験コーナーを巡ったり、買いあさったりすることが趣味のひとがいます。私の目からみると明らかに有害と思われる装置であっても、嬉々として利用することが奇異に思えるのですが、彼らは彼らなりにもっとも合理的と思われる選択肢を選んでいるのですよね。

誰もが物理や化学を学んだことがあるわけではなく四則演算ができるわけでもないですから。
経済に関してズブの素人で最近このコミュに参加し、勉強させてもらっています。
単純に疑問に思ったことを質問させていただきたいのですが、経済学でいう「合理性」とは純粋に金銭的に最大の利益を得る事をいうのではないでしょうか?
金の肖像やパチンコやりたいという衝動は単なる個人の感情論だと感じるのですが、自らの感情を満たすことも経済学の言う合理性に含まれるのでしょうか?
行動経済学で言う「人の非合理性」は、市場に参画する人たちの中で皆がみな最終的な合理的数値を算出できるほど賢くなく、そういった者がいる事により市場全体に影響を及ぼすという解釈なのですが…

ごめんなさい。
上の行動経済学の非合理性については私なりの解釈です…
「合理性」というのは、「何かを最大化するように振舞う」ということだと思います。
行動経済学での人は、何かの最大化を目指しているっぽいんだけど最大化しないところで行動をやめているようにみえるので、「限定合理性」という言葉を当ててるんだと思います。
無能の人さんへ、

実は、「合理的経済人」の概念を理解すること自体が、結構難しいです。
行動経済学を理解する為には、もしかしたら、まずこの「合理的経済人」自体の事を理解するステップに戻った方がいいかもしれません。

「合理的経済人」については

自分の基準で(自分の考える効用で)損得を考えていいとか、
今までの損得を考えずに、現時点でリセットして損得を考えるとか、

一定の定義が存在します。

解り易くは、経済学の初歩的な本を読んでいただいた方がいいかもしれません。

で、結論から言うと「合理的経済人」は日常でいう我々の合理性からはかけ離れているので、ここだけは注意しておかないといけません。


行動経済学の方はむしろ経済心理学の様な学問です。
行動経済学ではよく、以下の様な例えがでてきます。

2000円のものが5割引きで1000円になっているとみんな買いに走るが、10000円が1割引で9000円になっていると、それほど魅力がない。同じ1000円の特なのに消費者の行動に差がでる。

このたとえだけで行くと、2000円のものが5割引きで1000円になっていると買いに行くけど、10000円が1割引で9000円になっていると買いに行かない人も、効用と言う観点で行くと「合理的経済人」に入る様な気がします。

ここがまた、ややこしくて、
「合理的経済人」が経済学上で適切な理論を導くかという話と、
行動経済学で実証心理学的に証明している人間の非合理性とはまた微妙にテーマの違う話の様な気がします。

自分も勉強中なので、間違えがあったら他の方にご指摘をお願いしたいです。
>23 トーメンさん
>効用最大化=金銭から得る利益の最大化とは限らない

多分ここが私の勘違いしていたところなんですね…
経済学でいう利益とは金銭的なものだと考えていました。
そうではないとすれば純粋に「利益=自己満足度」と捉えてもいいのでしょうか?

>25 赤福さん
>合理的経済人を理解する

完全に本の受け売りですが、合理的経済人とは1.超合理的である 2.超自制的である 3.超利己的である
と学びました。

>今までの損得を考えず

これはサンクコストの事でしょうか?
これについてはゲーム理論と行動経済学とでは解釈が違うように感じたのですが、興味深いところです。

>合理的経済人〜人間の非合理性とは
>微妙にテーマの違う話

ですので、非合理的な人間の行動は合理的経済に影響を及ぼすという話なのではないでしょうか?
無能の人さん、

>合理的経済人を理解する

>完全に本の受け売りですが、
>合理的経済人とは1.超合理的である 2.超自制的である 3.超利己的である
>と学びました。

これは内容が解らないので何とも言えませんが、どちらかというと「合理的経済人」について批判的に始めからかかれた本なのではないでしょうか?

今までの損得を考えずというのはサンクコストの事でいいんですが、
「合理的経済人」については従来の経済学の教科書などにもどってよく理解しておいて方がいいと思います。

行動経済学については自分もまだ途中なので、もう少し勉強してみます。
>赤福さん

合理的経済人については勉強が必要ですね…
今読んでいる本「行動経済学入門」は合理的経済人自体は否定していないです。ただ合理的経済人は特殊であり一般的ではないような印象を受けました。
また、これまで言われてきた経済学に於ける合理性の矛盾を何やら難しい数式で表していますが、その内容はとても「入門」とは思えないくらい難しい内容の数式で理解するのが困難でした。

現時点で疑問なのが、限定合理性の人が市場に介入することにより、本来合理的であるはずの市場が形成できないのであれば、「合理的な市場」とは所詮卓上論でしかないのではないか?と思うのです。
無能の人さんへ、

ちょっと、経済学から離れてしまうんですが、今塩野七生氏のローマのシリーズを読んでいて、その中に面白いことが書いてあるんです。

古代人は「結局人間は放っておけば駄目になる。」と考えていたというんです。

それで、駄目にならないために、ユダヤ人は宗教を考え出し、ギリシア人は哲学を考え出し、ローマ人は法を考え出した。

と書かれているんです。これはもっともらしく思えるんです。

ところが、経済学は「みんなが欲望に忠実にやればすべて上手く行く。」って言うんですよね。これはとても魅力的な言葉なんです。

そして、ある意味これはキリスト教に支配されていた中世からの脱却という意味にもとれる。

この流れで考えると、古代人が頑張って人間がまっとうになるために考え出した方法を経済学が打ち壊したととる事もできる。(実際には法は働いているかもしれないけれど。)

人間の常識的に考えれば、「人間が好きかってやったら上手く行く。」って考える方がむしろ異常な考え方です。だから、出発点が間違っていたんじゃないかと思います。

ところが、当然経済学を学んでいる人ならわかるとおり、「好き勝手やったらある程度効率が良い。」というのも事実。そこで、もともと不合理なものを「合理性」で片づけようとした。その産物が「合理的経済人」なんじゃないかなぁ・・・?と思います。

だから、自分も市場は大雑把にみるとある程度合理的だけど、本当は好き勝手やったら最先端の合理性は追求できないんじゃないか??と常に考えています。

そう言う意味でどうやら新しい理論が必要らしい。
そう言う意味で人間をもう一回正直に観察し始めたのが、行動経済学なのかなぁなんて思ったりして?

これはある意味「中世の反動」からの脱却なのではないだろうか・・・?


何かの本に

合理性=強欲

って書いてあったよ。

たぶん副島隆彦だったと思う。

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