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ルネ・デカルトコミュの打破するべきパラダイム・・・デカルト的合理主義(批判的合理主義)

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世界史的な大変化が起きつつあることを、「四つのパラダイム崩壊」としてすでに述べてある。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=805734662&owner_id=99747
しかし、すぐにも打破されるべきでありながら、未だに人々の心に巣食っているパラダイムがある。
これこそが人類を破局の際に導きながら、人々に原因だと気づかれていないパラダイムである。
それが、デカルト的合理主義(批判的合理主義)だ。

デカルト的合理主義は、無意識でいる私たちに次のようにささやく。
「どんなすばらしく思える考え方もまずは疑ってかかりなさい。あなたの尊敬している人の言葉を疑いなさい。あなたの敬愛してやまない両親の言うことを疑いなさい。あなたの恩師の言ったことを疑いなさい。疑えば疑うほど、あなたは間違った考えを持たずに済む。疑わなければ、あなたの頭は間違いだらけでいっぱいになる。あらゆる事に疑り深くなりなさい。そして、あなたが正しいと思うことだけ、頭に残していきなさい。」

このささやきは、自分のことを他人より知的に見せたがる人であればあるほど、効果的に響く。
こうして、人のいうことにはまずケチをつけたがり、独りよがりで自分勝手な考え方をする人間が大量にできあがっていく。
彼らは自分の疑り深さが正しいと信じて疑わない。
何事にも疑ってかかるのは、合理的精神の持ち主なら当然のこと、と考え、疑り深い自分をちょっと高級な考え方の持ち主だとうぬぼれるのである。

そして、今、とてつもない人間が生まれつつある。
「なんで人を殺してはいけないんだ?」
殺人戒さえ、疑い、否定する「批判的精神」の塊が日本全土に続出しつつある。
そして、実際に殺人を犯した後でさえ、自分が悪いことをしたのかどうか分からなくなってしまっている。
「あいも変わらず、人を殺してはいけないと信じ込んでいる一般の人たち」のことを、「疑うべき事を信じ込んでいる、哀れな愚か者」と、肩をすくめて、笑うのだ。

子どもの世界も大きく変化している。
社会にテレビが蔓延し、子どもと親との対話が失われて、家族全員がテレビ画面を眺めるようになった結果、子どもから「ことば」が失われているにもかかわらず、「テレビが普及したのは時代の流れ。テレビのない時代の方がよかったというのは決めつけ。」と忠告を否定し、新しい時代の流れの方が正しいと考える。
子どもは携帯ゲーム、親は携帯電話をポチポチ。同じレストランのテーブルを囲みながら、家族全員がバラバラの状態でも、「時代の流れ。便利な道具がなかった古い時代の方がよかったと決めつけるのは、固定観念」と懸念の声を否定し、新しい時代の流れに従う方が正しいと主張する。
古いものを否定し、新しいものに流されることをよしとする。
これがデカルト的合理主義に毒された結果であることに、気づいている人はほとんどいない。

昔のものの方が何でもよい、という訳ではもちろんない。
だが、「知恵」の中には、長い人生をかけてでしか発見できないものがある。
あるいは、何世代もの格闘の中でようやく得られるような知恵もある。
そうして、人類が長い時間をかけて獲得してきた知恵が、ぽっと出の、ちょっとした思いつきから生まれた新製品ごときで弊履の如く捨てられてしまうことは、あまりにもガサツだといえる。

古いものを平気で全否定し、新しいものを安易に肯定する。
そんな「合理主義」を生んだのが、デカルトなのである。
そんなことにも無自覚で、無意識に正しいと信じ込んでいる人が多すぎる。
その無反省が、日本をここまで追いつめてしまったのだとも言える。

そういう意味で、デカルトとは恐るべき人物である。
デカルト以後の世界中の人々の考え方を根底から変えてしまった恐るべき破壊力があるにもかかわらず、それと気づかせない。
デカルト的合理主義の静かなる浸透力。
果たして、デカルトとは、どういう人物だったのだろうか?

デカルトは、その代表的著作「方法序説」で、リュクールゴスという人物を紹介している。
リュクールゴスとは、古代ギリシャのスパルタ(ラケダイモーン)で活躍したといわれる伝説的な宰相である。
それまでにあったスパルタの過去の伝統をすべて否定し、リュクールゴス自身が考え、創始した社会制度をスパルタ市民に強制し、その結果、スパルタはアテネ(アテーナイ)に並ぶ強国となった、という伝説が残っている。
デカルトは、偉人リュクールゴスに見習って、過去のものをすべてなぎ倒せ、と勧める。
過去のガラクタはブルドーザーで根こそぎに否定してしまえ。
サラ地にしてしまった方が、新しい壮麗な都市を建設するには好都合だ。
それと同じように、過去の知識をすべて否定してしまってから、新たに知識を一から組み上げ直した方が、立派で正しい思想を持つことができる、と主張したのである。

デカルトの勧める「方法」は、次の2つの原理にまとめることができる。
1.既成概念をいったん全否定せよ。
2.正しいと思われる概念で、思想を再構築せよ。

今まで信じてきたもの、愛してきたものもいったん否定せよ。そうすれば、間違いをすべて一掃できる。一掃した後に、正しい考えだけで再構築すれば、すばらしく美しい知の殿堂が完成する、と主張したのだ。

デカルト後の思想家達は、「デカルトのススメ」に感動した。
たとえば、啓蒙運動の巨頭、ディドロは、「古い考え」の代表格であるキリスト教を否定する道具として、デカルト的合理主義を利用した。
宗教は麻薬、迷信。キリスト教の言うことは全部疑ってかかれ。宗教のくびきから自由になったとき、人類は正しい考えを持つことができるのだ、と。

・・・それからわずか300年ちょっとの時間の間に、デカルト的合理主義は世界中の宗教に致命的な打撃を与えた。
多くの宗教が、慎ましく生きることを勧めているのに、世界中の人々が物欲を満たすために血眼になるようになった。
舶来ものをありがたがる傾向の強かった日本では、西洋合理主義を金科玉条のように信じ込み、今や、殺人戒さえ疑ってかかるようになってしまった。
宗教を否定するに留まらず、人類が存続するための根幹まで、否定してかかるようになっている。

「すべてをいったん疑え」・・・この方法で、本当に、間違った考え方をすべて追い出し、正しい考えを持つことができるのだろうか?
結論は、否。

ポル・ポトはその一例である。
過去のカンボジアの伝統を一切否定し、「皆が農民になれば理想の国家ができる」と、自分の考えを正しいと信じ込み、逆らう人々を大量虐殺して、自分の理想を実現しようとした。
カンボジア国民の命をブルドーザーで根こそぎにし、新天地を切り開こうとしたのだ。
デカルトが言及した、リュクールゴスのように。

中国文化大革命もその一例である。
中国伝統の思想やその他の思想を全否定し、毛沢東思想だけを唯一絶対の正しい思想として、人々に信じ込ませようとした。
中国の数千年の知恵を、ブルドーザーで根こそぎにし、毛沢東思想で新天地を開こうとしたのだ。
デカルトが紹介した、リュクールゴスのように。

デカルト的合理主義に毒された人々は、自分がとことん疑い尽くした、と考えている。
だが、自分の好みに合う考え方は、甘い評価をする。
このため、「疑い尽くした人」とうぬぼれる人ほど、自分の好みにあった考え方を正しいと信じ込み、固執するようになるのだ。

過去のあらゆる考えより、自分の考えこそが正しいと考える「リュクールゴスの亡霊」たち。
過去を全否定し、自分が理想とする楽土を建設しようとする夢想にとりつかれ、結果、多くの惨禍をもたらしている。
彼らは、デカルト的合理主義の「副作用」に全く無自覚である。

デカルト的合理主義は副作用が強すぎる。
このパラダイムは打破されなければならないのだが、あまりに無自覚であるために、打破される気配すらない。
このままでは、日本はいつまでも「リュクールゴスの亡霊」たち(他人の考えを否定し、自分の思い通りの世界を実現しようという傲慢さにとりつかれた人々)に苦しめられ続けることだろう。

「他人を見下す若者たち」(速水敏彦著)は、デカルトが生んだと言ってよい。
私たちは、デカルトの催眠術にかかっていることに、もういい加減自覚しなければならない。

そうでなければ、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という殺人戒を取り戻すことさえできずに、社会が壊れ続けていくことだろう。

コメント(71)

ランボー貿易さん

ランボーさんは私の文章を全く理解していませんね(笑)。私の述べたことをちゃんと読んでください。もう何度も繰り返していますが、デカルトの正確な理解について述べているわけではありません。ご指摘のことくらい承知しているとすでに述べていますよ。
このトピで指摘したいのは、デカルトの正確な理解ではなく、デカルトがどう誤解され、その誤解がどのように深刻な被害をもたらしているかを述べているのです。

なお、デカルト自身は慎重にも回避していますが、やはり、その「後継者」は、デカルトの哲学に触れると、「全否定したくなる魅力」にとりつかれてしまいます。
ディドロはその典型でしょう。

アダム・スミスが「神の手」ばかり取り上げられ、市場主義経済の旗頭のように誤解されているように、デカルトの哲学も「全否定」が浸透していると見るべきでしょう。
そのあたりは、佐伯啓思氏の「現代社会論」をご覧ください。

私は、デカルトの正確な理解より、デカルトが後世にもたらした惨劇の方に関心があります。
この惨劇は、今も続いているどころか、さらに深刻になっています。
それを食い止めることを考えたい。
それが、このトピックの目的です。
デカルトの正確な理解で喜んでいてもなんにもなりませんから。
誤解とか蔓延してなくない?

一部のインテリが言ってるだけでしょ。メディアの情報に流されすぎじゃない?一部の犯罪者を取り上げてデカルト出すのはどうかと思うよ。4つのパラダイムの崩壊?そんなパラダイムを信じている馬鹿でこの日本は成り立っていたの?
ランボー貿易さん

?何を言っているのか意味がよく分かりませんが?
28の書き込みのところだけ取り上げて全体の意見と考えるのは、
「一部の犯罪者を取り上げてデカルト出すのはどうかと思うよ。」とご自身がおっしゃっているのですから、吐いた唾が自分に返ってくるようなものですよ。
批判をするときは、少なくとも相手の意見をよく読み、総体的に充分精査してお願い致します。

それと、あなたは私よりずいぶんお若いようです。
そうでなくてもあなたとは初対面ですから、ずいぶん失礼に当たりますよ。
ネット上でも、最低限の礼をとりなさい。
あなたの品性がそれでは、知性も疑われてしまいますよ。
馬鹿すぎて読むに値しない。

デカルトの誤認が今の惨劇を用いた?意味分かんない。結びつけすぎだよ。

インテリ気取りがムカつくの、馬鹿には礼儀もいらない
ランボー貿易さん

ハハハ。
日本人の劣化もここまで来ましたか。
日本人は今や、世界でもっとも礼儀知らずの国民になりましたね。
ルース・ベネティクトが「菊と刀」で描いたような、「恥の文化」は消えてしまいましたか・・・。

ランボーさんのご意見は、このトピックのテーマに実によく沿っています。
どうか書き込みを削除されないように。よい事例です。
37ダルマさん

どうとんちんかんなのか、説明できないですか。
まあ、聞く気がないのなら結構です。
ダルマさんの書き込みもこのトピックには好適な事例です。
削除されませんよう。
お前みたいな奴が刺されれゃいいんじゃね!

近代合理主義とかそんなの関係ねぇ

理由ない
40:ランボーさん 

>お前みたいな奴が刺されれゃいいんじゃね!

この言葉だけで充分犯罪に相当しますよ。
もし私に何かあったら、犯罪をそそのかした疑いがこれでかけられます。
ご注意めされい。
 とゆうか、トピ主自身を含めて誰もトピ主のお喋りの検証なんか出来っこないんだから議論になるわけが無く、とゆうことは反応としては否か応か、無反応しかなくなるよね。で、現状がそれ、みたいな。
 それにしても他人の名前をよく引き合いに出すよなあ。これをまともに相手するとなると、拠出した著作すべてを検める作業が必要になるんだが、そこまでやろうという気にはなんないよね。引き合いに出す意義もわからんし。なにより、トピ主自身の考えに興味が持てない。

 まあ、なんにせよ、「君はわたしの文章を理解していないからちゃんと読みなさい」で終わっちゃダメだよねえ。これじゃ会話にならない。「君の誤解はここの解釈の違いではないかな?」という摺り合わせがないと。それもしないでひたすら自説開陳。それじゃ相手にされないって。

 とゆうわけで、トピごと削除に一票。
おおにょさん

そうりさん、未悠さん、せり☆Seriさんのご意見は、議論を前に進めることができて建設的ですが、その他の方は「デカルトを正確に読め」という的はずれなご批判ばかりです。
デカルトがどう誤解され、その誤解がどれだけ大きな惨禍を呼んでいるか、ということがこのトピックの主題です。

なお、私は、批判が的はずれだと言ってはいますが、阿呆だとは言ったことはありません。
ご注意ください。
ほのさん

このトピックは「デカルトそのもの」というより、「デカルト周辺」ですから、デカルトしか読まずに批判することの方が、ずいぶん度胸があるといえます(笑)。
たくさん読めとはいいませんから、一冊読んでみてはいかが。

すでに紹介済みですが、
「現代社会論」佐伯啓思、講談社学術文庫

批判的合理主義については、この本が一番適当でしょう。
批判的合理主義が相対主義やポストモダニズム、脱構築などにつながっていくことなどを指摘しているのも、この本です。
トピ主さんは知識が豊富ですごいですね
もう一冊、紹介するとすれば、オルテガの「現代の課題」です。
 #オルテガ著作集1、白水社

少し引用してみましょう。
「いったい、デカルトの物理的思想や哲学思想の究極の核心はなんであったか。それは、「純粋知性」によって構成されない理念や信念はすべて疑わしいものである、したがってとるに足らぬものであるという宣言であった。」(p.202)

「デカルトは、理性の構成物に対する熱狂からして、人間にとって自然な展望を全く逆転させるに至った。我々が自分の目で見、自分の手で触れ、自分の耳で聞く直接の世界、そうした明白な世界は、質的なものから成っている・・・色彩や抵抗力や音響等々から成っている。これがそこに人間がいつも生きてきた、また生きてゆくであろうところの世界である。ところが理性はそうした質的なものを取り扱う能力がない。色は思推され得ない、定義されえない。色は見られなければならない。ある色について語ろうとすれば、我々は実際にそれに接し、出会うより他ない。換言すれば、色というものは非合理iracionalである。」(p.203)

「英雄的な大胆さをもってデカルトは、真の世界は量的であり、幾何学的であると決定した。他の世界、すなわち暗示と魅力に満ち満ちて我々を取り巻いている直接経験の質的世界は、その視覚を奪われ、かなり幻覚的なものと見なされた。」(p.203)

「このデカルトの逆説(パラドックス)が近代物理学の基礎になっている。われわれは近代物理学の考え方の中で育てられてきた。だから今日、それが大変不自然であることに気づくのも、またデカルト以前の状態に戻すのも、非常に骨が折れるわけである。」(p.203)

「デカルトの物理学と哲学とは新しい精神状態の最初の表明であった。この精神は一世紀後には、人間生活のあらゆる形式に広がり、サロンにおいても市場においても法廷においても支配的な力を持つようになった。この精神状態の相貌を一点に収斂すれば、「近代」に特有の感性が取り出される・・・すなわち、あらゆる自発的なものと直接的なものに対する疑心と軽蔑、そして、あらゆる合理的構成に対する熱狂。」(p.204)
オルテガ著作集1、白水社
より、せっかくですのでもう少し引用を続けます。

「さて、デカルト的人間は純粋な知的完全性という一つの特に対してしか感受性を持たない。自余のものに対してはすべてつんぼでありめくらである(本文ママ)。だからして彼にとって、以前のものも現在のものもともに何ら尊敬するに値しないのである。それどころか、理性の見地からすれば、過去も現在も犯罪の様相を帯びている。したがって彼は増大する犯罪を絶滅し、かの正確な社会組織の建設を速やかに推し進めるよう説き立てる。純粋知性によって建設される理想の未来が過去および現在に取って代わるべきなのである・・・これがすなわち、革命を生み出す精神に他ならない。政治に適用された唯理主義は革命主義なのである。」(p.205)

「彼らは過去および現在の無効を発令したばかりでなく、さらに「すべての」政治機関がどう制定さるべきなのかの方法まで発令して、未来の歴史まで抹殺した。今日の我々には、このような態度は余りにも傲慢に思われる。のみならず、狭小であり、粗野であると思われる。」(p.205)

「世界は、我々の目にはもっと複雑なもの、もっと広大なものとしてうつる。歴史は、人間的生は、数学の教科書のように原理によって支配することはできないし、また支配される「べき」ではないと我々は思うようになってきている。」(p.205)

「皇子(プリンス)を断頭台に送っておいて、皇子に代えるに原理(プリンシプル)をもってするのは不条理である。原理もまた皇子と同様、生を絶対的支配のもとにおいている。だからこういうことはあるべきではない・・・すなわち、理性を守って生を滅ぼす合理主義的絶対主義も、生を守って理性を捨てる相対主義もあるべきことではない。
 今日始まりつつある時代の感性は、このジレンマを回避することにその特徴がある。われわれは、上野に領域のいずれにも満足して居住するわけにはいかないのである。」(p.206)

オルテガのこの最後の主張が、このトピックの主題でもあります。

52:修正

「一つの特」->「一つの徳」
「上野に領域」->「上の二領域」
50:ダルマペンギンDMKさん

>私個人としては啓蒙された部分が大きいのですがshinさんのコメントを見る限り、歓迎しかねます。

もし私の意見が粗暴に見えたのなら、申し訳ないです。
ただ、一方で、「デカルトを読め」と裁ち切り型の粗暴なコメントに対し、「目には目を、歯には歯を」式で応じてしまったわけです。
「デカルトの本にはそんな風に書いていないが、どうしてこんな主張をするのか?」という尋ね方だったら、私も建設的にお答えできたでしょうね。

>だったら打破すべきなのはデカルトオリジナルではないのでは。このトピのタイトルは変更すべきではないのですか?

タイトルでデカルト「的」としているのは、デカルトそのものではないことを意味しています。一応、配慮済みのつもりです。
よく、マルクス大好きな方が、「マルクスとマルクス主義は違う!」といわれます。
デカルトと「デカルト的」は、すでにズレが生じているとお考えください。

>あと私の名前を勝手にダルマにしないで下さい。

それは失礼しました。

ただし、このあとはいただけません。
相手を失礼呼ばわりするのは、相手に注意を促してなお同じことを繰り返すか、さらにひどいことをする場合です。

>にも関わらず名前を勝手に改変し平然としているというおおよそ年端のいったよい大人とは思えない行為、とんだ失礼でしょう。あなたの知性が知れますね。

まだ一度も注意を促していないのに、いきなりここまで言ってしまってはいけません。フライングです。
日本だけでなく、世界においても、これでは礼にもとります。
私が名前を短くしたのは失礼しましたが、悪意あってのことではないのですから、それをむやみに悪く言うのは、それも失礼というものです。
踏み込んでよい線と、ダメな線。
それはわきまえましょう。
50:ダルマペンギンDMKさん

>デカルトの思想が伝播した今、多くの人が懐疑という言葉に魅せられ、本来の方法的懐疑から掛け離れた形式で使用された懐疑が我々の自然法を砕き始めている、ということですよね?

はい、その通りです。

>だったら打破すべきなのはデカルトオリジナルではないのでは。

やはり、「デカルト的合理主義」のもとになる方法的懐疑は、「真似してはいけない」と思います。
確かに、デカルトは、方法的懐疑を実践した後、注意すべきことを述べています。
しかし、注意事項が面倒くさがられ、あるいはそれさえ「懐疑」され、方法的懐疑だけが実践されかねません。
まるで、注意通りの処方なら問題がないのに、それを無視して大量摂取してしまえば依存症になってしまう、リタリンのように。

リタリンそのものは多動症に効果があるなど、それ自体は悪ではない薬品ですが、注意事項通りの服用がなされないことがあまりに多くて、処方そのものが制限されたことは有名です。
デカルトの方法的懐疑もしかり。
デカルトが述べた注意事項をしっかり守ればよさそうなものですが、守らないで「方法的懐疑」を麻薬として大量服用してしまう人が多い。
そのことを、このトピックでは批判しているわけです。

方法的懐疑を実践してしまうと、オルテガが指摘するように(書き込み51,52)、「合理的なものに対する熱狂」にとりつかれやすくなり、目にするもの、手に触れるものの「実感」をウソっぽく感じるようになる恐れがあります。
生の実感を失ってしまう恐れがあるわけです。

このため、私は「ガリレオ的合理主義(科学的合理主義)」へ移行し、「デカルト的合理主義(批判的合理主義)」を見習うことはもうやめにした方がよい、と提案しています。

「ガリレオ的合理主義」は、次の二つの原則をもっています。
1.特に問題がない部分は、従来通りの考え方を正しいと考え、むやみに疑わない。
2.何か問題が生じれば、その問題を包括できるような新しい考え方に修正することをいとわない。たとえ、根元的な問いかけになっても。

このような「科学的合理主義」に、方法的懐疑から換えれば、オルテガが指摘した直接的体験、人間的生を破壊せずに、合理的な知を積み上げることを可能にすると考えています。
>27・28

長大なレスを頂きましたが、問題を取り違えているので無意味です。

「殺した相手の身内に報復されるからやめといたほうがよい」と言うのは【理由】の話であって、(現に殺人をやったりやらなかったりする)個人の内的【動機】の話ではないわけです。

そもそも、相手が天涯孤独なら安心して殺せるという話ですし、あるいは一族もろともブッ殺してやれば何も心配ない、という話です。

ですから、ここでは【論理】を問題にしているわけです。私は「理由の一つ」と言ったはずです。

何であれ理由があるということは、「理由を問うこと」は正しい、ということでしょう。これはお認めいただいたということですね?









>57 Hiroさん

>批判的合理主義というと、カール・ポパーの言ったものを考えてしまう

そーだよねえ、確かに。
ただここでは学説やパラダイムよりぴかぴか(新しい)国語ぴかぴか(新しい)のもんだいをきっちりすれば良いんじゃないでしょうか。

「批判することを通じて合理的であろうとすること」に反対するということは、「無批判で非合理的であることを賞賛する」ことだよね。
それを実際やるとしたら浪花節や体育会の論理でしょう。

親や教師や先輩や「指導者」のいうことを鵜呑みにして何も疑わず、例えば「正義を行っている」というキラキラした瞳のまんまで「敵」を殺す。そんなやつはいくらだっているでしょう、世界には。



Hiroさん

プロフィールを拝見しました。あなたは本物の学究であられるようです。失礼しました。

・現代の危機
・「人を殺してはいけない理由」
・デカルト
という三題噺は、プロの哲学者も論じていて、流行っているとも言えそうです。私が読んで納得出来たのは河野哲也という人のものです。
◎「<心>はからだの外にある」NHKブックス
この本の序章にあります。機会があったらご覧ください。心の哲学に関する話題を扱っています。

>61 (自由主義的)保守主義 or 共同体論者(コミュニタリアン)

私もそう思います。これも流行りなんじゃないでしょうか。これらは20世紀社会主義やグローバリズムへの反動から出てくるわけで、バイメタルというか、まさにリアクションでしかないところが問題なのではないでしょうか。
私的自己の実体視から集団の実体視に単に移ってるだけでしょう。



>63 Hiroさん

素人の放言に対して懇切な御意見、ありがとうございました。
河野先生本人と討論されたことがあるとのことで驚きました。氏の倫理学説に対して批判的な見解をお持ちのようですが、むしろその方に興味津々です。一般人はある説とその批判の両方に接することはなかなかむずかしく、その意味でも「批判」ということはたいへん重要だと思います。

私はもともと心理卒で、認知や人工知能方面からデカルトに関心を持ってます。

トピ主氏の問題意識は大雑把な方向性としては共有することが多いと感じます。

ここ数日多忙であんまりログインできないんですが、いずれまたゆっくり。
>63 Hiroさん

私は筑紫の番組が出所だと知りませんでした(笑

>河野さんは相互行為による道徳性を根拠に 「人を殺してはいけない理由」を説明していますが、これもあまり説得的と思えませんでした。(ごく簡単にいえば、相互性をも否定する殺人志望者に対しては有効ではないし、多くの殺人者は、相互性を意識することなく殺しているように思われるからです。 しかし、この筋で行くと、道徳的不可知論に陥る可能性は大きいですが。)

これちょっと勘違いされてないかと思うんですが。

この話で問題になるのは殺人者ではなくて、殺人しない堅気の人々なのではないでしょうか。筑紫も青年も殺人者ではないわけですから。
つまり、「我々が殺人を避ける理由って何だろう」と堅気の人同士が話している。そこで理由が見つからないとすると、堅気であることには根拠が無いのだという話になっちゃうでしょう。

実際問題困る話ではある。教師は子供に殺人はいけないって教えられなくなるかもしれないし。だからあれほどスキャンダルになったわけで。
つまり、世の堅気たちを動揺させたことが問題だったわけですよ。

一方、殺しを実際やっちゃう人間ていうのは理非なんてものはぶっとんでいるわけですから。
身勝手な独自の論理を持っているか、完全犯罪を狙ってるか、あるいは自己破滅で死刑になりたいと思ってるか。やりかたはいろいろだけども。

つまり、抑止力自体の問題ではなくて(それは刑罰で十分機能している)、規範の合理性の問題だと思う。ShinさんもHiroさんもそれを混同してないでしょうか。




>> Hiroさん

「人を殺してはいけない理由」に関して,基本的に私と似たような考え方だとお見受けしました.
私のは私のプロフィールにリンクがありますので,よければご覧下さい.
コメントを残していって下さると,非常にうれしいです.


それにしても,「人を殺してはいけない」ことに疑問を持つということと懐疑主義が,やっぱりうまく結び付きません.「疑う」というキーワードは共通しますが,かといって根っこは違う気がします.疑うという行為は様々な考察の手助けとなりますから,とある何かに疑いを持つということは自然なことです.やり過ぎなほど疑い,全てを虚に貶めるような懐疑主義とは異なると思います.
>デカルト的合理主義は副作用が強すぎる。
>このパラダイムは打破されなければならないのだが、あまりに無自覚であるために、打破される気配すらない。

私はむしろ、他人の言うことに何の疑いも持たずにただ受け入れるだけの人のほうがよっぽど多く、そのため、マスコミに躍らされる世の中になってしまっていると思います。

トピ主さんがおっしゃるように、疑うことで完璧に正しい考えを持つことはできないかもしれないけれど、疑うということは、「慎重に多角的に考える」ことでもあると思います。

疑ってみなければ、真実を掘り下げることも、間違いを正すこともできず、進展は何も無いと思います。

それに、トピ主さん自体、デカルト的合理主義を「疑った」意見を述べられているのではありませんか?
トピ主さんの場合は「自分の好みにあった考え方を正しいと信じ込み、固執」しているのとは違うんでしょうか??

デカルト的合理主義なるものも、トピ主さんが認めているように、多くの人に支持されてきたんですよね?
それをトピ主さんは否定している。

それって、、どうなんでしょう。。

私には、「トピ主さんが思う正しいこと」を押し付けているように見えますが。。
トップの文章ではデカルトの思考法が自分勝手な輩をのさばらせ、社会秩序さえも破壊しようとしているという切り口で書かれていますが、それはあくまでもデカルトの間違った解釈・誤解による副産物としてせいぜい言えるに過ぎないことなのではないでしょうか。
デカルトは確かなことを基礎づけるために既成観念を持ち出すことなく、自分に与えられている表象から当の自分も確かめられ、何よりそれは同じように各人において確かめうることだという至上命題と手続きを宣明したのであって、自分の欲望をのさばらせてよいとか、自分の欲望に馴染みのある先入観を思考に忍び込ませてもよいなどとは言っていないのだから。
cogitareは、何でも疑うというだけの思惟ではなく、表象する者の前に引き立てられた表象が確実に確かなものでなければ保持すべき保証を与えないという内実を持つものだということに注意しないと、疑いたい時には疑い、認めたい時には認めるという単なる恣意主義と簡単にすり替えられてしまう。

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